|
【プロローグ】より
かすかに、木を燻すような匂いがする。風をたよりに歩いていくと、萱葺き民家の戸口に行き着いた。
囲炉裏の端で老いた女性が編みものをしている。
「あがって休んでゆきなさい」。客の気配に手を止めて、声をかけてきた。炭火に照らされた土瓶が、チン、チン、と小さな音をたてながら淡い湯気を吹いている。土間で靴を脱ぎ、ぼくは彼女の向かいに腰をおろした。
東京は猛暑まっ盛りだったが、北北東へ約七五〇キロ離れたここの朝は肌寒く、囲炉裏の温もりがありがたかった。老女は土瓶を火から降ろし、湯をポットに移した。急須に新しい茶の葉を入れ換えると、湯を静かに注ぎ、しばらく待つ。それから数度に分けて茶を湯のみに注ぎ、小さな盆にのせて僕の前に差し出した。彼女の細い腕の動きには、無駄がなかった。ぼくは礼をいって湯のみを手にとった。
「研究で来たの?」と彼女が尋ねてくる。客への対し方を測るような口調だった。ここには、そう言って訪れる客が多いのだろうか。この町で起きているダム建設問題を取材しに来たとぼくが答えると、彼女は軽く頷いて、再び手もとに視線を落とした。上座の窓から陽が差し込み、ガラスには木々の緑が映っている。
寡黙そうな人だが、間をとり過ぎないほどに、この夏の天気のことなど世間話を口にする。その間も、彼女の指先は動きを止めなかった。壁にかけられた袋には「サラニプ」という札がついている。こうして昔ながらの手仕事を見せるのが、彼女の仕事なのだろう。
しばらくすると、囲炉裏でくすぶる炭の匂いが、記憶の奥深くへとぼくを導いた。ぼんやりとした映像が浮かび、やがてはっきりと像を結んだ。
十数年前、ぼくがまだ小学生の頃の、ある日のこと。両親と出かけたドライブの途中、立ち寄った観光地に一軒の萱葺きの家があった。中は観光客で溢れかえり、木が焦げたような匂いが立ち込めていた。大人たちの足元を潜り抜けて最前列に出ると、不思議な光景が広がった。きらびやかな羽織を着た長い髭の老人や男たち、その後ろには渦巻き紋様の着物を着た女たちが並んで座っていた。手のひらを擦りあわせながら火に向かって眼を細める老人が、小さく何かを呟いた。張り詰めた空気と、囲炉裏の火から漂う煙。いく筋もの細い煙が、螺旋を描いてたち昇る。まるで老人が魔法をかけているようだ。
老人の腰に差してある刀に目がとまった。本物の刀だ! 家に帰ったらあの刀を作ろう。頭にのせている太い荒縄を編んだかぶり物も……。
父がぼくの肩を引き寄せて囁いた。「あれがアイヌの『酋長』だよ」。
「アイヌ?」。
ぼくは心の中で繰り返した。アイヌとは、もっと違う何かを指す言葉のはずだった。体操服に着替えるKの裸を指してからかうとき、ぼくたちは「アイヌ!」と叫んだ。この威厳に満ちた「酋長」も「アイヌ」なのか……?
客が入ってきた。老女が「休んでいきなさい」と声をかけると、一瞬驚いたように目を見張り、辺りを見まわして去ってゆく。ひとり客だと、たいてい同じようにする。連れがいると、客は案外いろんなことを口にする。
「アイヌの女は口のまわりに刺青するんだよね。日本人の男に変なことされないように、わざと醜くみせて……」と中年の男が連れの女性に講釈している。
「『ルイベ』ってアイヌ語だって知ってるかい、(北海道の)寿司屋でよく出る『ルイベ』だよ。アイヌは肉でも魚でも生で食うから『ルイベ』なんていう鮭の刺し身を食っている……」。女性は頷きながらも、さかんに服のしわを気にしている。
何だかまるでお化け屋敷の舞台裏から客を見ているようだった。客が去ってから、「いろんな人が来るんでしょう」とぼくは老女に聞いた。手を休め、今まで編んだ部分を一通り点検して、彼女はこう言った。
「『おばあちゃん、あんたアイヌだろう。こんな家で暮らして、冬は寒くないのかい?』と聞いてくるから、『何もだよ。そこに布団しいて寝ているんだ』と私はからかったんだ。お客さんは本気にしているからね」
しばらくすると、三十代の夫婦とその母親らしき客が入ってきた。三人は土間から上がり、ぼくの横に座った。出されたお茶でのどを潤しながら、母親が「アイヌの人たちは差別されているんでしょう。本当にお気の毒だわ」と、老女の身の上話がこの場ではふさわしいというかのように話しかけた。軽く頷いたのかどうか、老女は糸玉を手にとった。娘が「混血が進んで、純粋なアイヌの人は今はいないんでしょう、差別するなんておかしいわよね」と言って老女を見、そして母親を見た。
三人が帰ったあと、しばらく沈黙が続いた。ぼくは婦人の袖から出た腕の皮膚を一瞥し、かつての同級生Kの持っていた徴を探った。わからなかった。自分でも意外な、唐突な言葉が口をついて出た。「アイヌ語はどうですか?」
「何も、わからないから……」。とりつくしまもない返事が返ってきた。居心地のよい舞台裏から追い出されたような気がした。
|