みなさんから寄せられた106通の手紙によって作られた本

あのとき、本当は……
封印された子どもたちの叫び

長谷川博一編

小B6判 上製 232ページ 1300円

装幀/熊澤正人  装画/須網啓子

 

本書の「はじめに」の一部をご紹介します。

はじめに 「幼な子」を解き放ちたい

 ここに一〇六篇の「手紙」を紹介しよう。
 いや、これらを「手紙」と表現するのは不適切かもしれない。魂の底から突き上がる絶叫は、それではあまりにも軽すぎる。
 絶叫の正体は、大人になったからだの中にポツンと取り残され、暗闇の中で息を殺して隠れていた子ども時代の思いの数々である。本来なら、子どものとき に、子どもの本音として、重要な誰かに気づいてもらうべきものだった。そして受け止められるべきだった。だが、その思いはとてつもなく強い見えざる力に よって抑え込まれ、気づかれるチャンスを奪われてしまったのだ。
 取り残された子どもの心は、大人へと成長するにつれて薄れていくという性質をもたない。どこからか救いの手が差し伸べられるという幸運に恵まれなけれ ば、いつまでもその人を束縛し続けるだろう。まるで、しあわせになることを自ら忌み嫌うかのように、巧妙なやり方で、不幸へ通じる門の扉をたたいてしま う。
 そしていつもこんな嘆きだけが残るのだ。
 「わたしは、なんてだめな人間なんだ」
 
 ここに紹介したどの手紙にも、それぞれの「事情」があふれている。
 幸いにして過去から自由な身にある人(読者の一部)には、これら「事情」を汲み取ってもらわねばならない。なぜなら、汲み取る側か、汲み取られる側の どちらに回るかは、単に偶然のなせるわざに過ぎないのかもしれないからだ。そう思わされる事態に私は度々遭遇する。

 「もう大人なのだから、いつまでも過去にこだわっていてはいけない」
 このような反証をする人は、本書をここで閉じ、手紙のページは開いてほしくない。そのような眼差しは棘(とげ)となり、やっと姿を現した無防備な子どもの心を鋭 く刺す。こうして傷つけられ再びあきらめの境地に至ったとき、抑え込みの力はさらに強くなり、封印する鍵をかけてしまう。そして、自ら望まない行為に暴 走してしまうかもしれない。
 多少挑発的に「事実」を書くとすれば、躍起になって反証を止めない人ほど、自らの悲しい子ども時代を闇に葬り去り、気づかないフリをしている(否認の 防衛機制がはたらいている)当事者だということだ。そうやってなんとか保っている人たちには、フリをそのまま続けてもらっていい。その人にとって、真実 は「禁断の果実」にも値する。

 だが。
 フリを続けていても、この刺激に満ちた少子社会の中で、本人の気づかないうちに幼な子の心が反撃に出る危険と裏腹であることは、伝えておかねばならな い。怒りが牙を剥くと、はけ口としてたいていは弱いものが選ばれる。最愛のわが子や社会的弱者、そして忌み嫌う自分自身に。こうやって次世代にツケ は持ち込まれる。
 そしてまた、同じように嘆くだろう。
 「わたしは、なんてだめな親なんだ」

 「問題が顕在化して気づかされる」、「気づいたときにはもう遅い」という悲劇。一番なりたくない親になっており、一番したくないことをしてしまってい る。忌まわしき自分の過去を、それを引き継いだ子どもの上にありありと見せつけられるのだ。

 手紙を投稿した女性(母親)から、しばらくして次のような「追伸」が届いた(本人の了承を得て紹介)。

――先日、見知らぬ女の子が自宅に来て、「私はあなたの息子さんと結婚していて、子どももいます。彼は、今、ある事件で逮捕されています」と話し出し、 びっくり。息が止まりそう。三年ほど音信不通だった息子は、私の次男で、中学時代から非行に走り、少年院生活をした前歴があります。もう悪いことか ら足を洗ってほしいと願っていたけど、いまだに変わっていないそうです。
 たぶん、すぐには出られないでしょう。長男は、昨年からアパートを追われてホームレスになっているし、ろくでもない子に育ってしまいました。
 私が産み育てた責任が大きいと思いつつ、どうするのがいいのか悩みます。つらい現実。経済的にはもう助けられないし、もし会っても黙って話を聴くこと しかできません。あの日以来、体調を崩して少々うつです。考え始めると深みにはまるので、なるべく考えないようにしていますけど。
 愚痴を書いてごめんなさい。子どもを大切に育てなかったツケだと思っています。――

 この女性は、わが子の身に起きた不幸を、自分が与えた「ツケ」だと書いてきた。自分の子ども時代のわだかまりと真正面から向き合い、今の子どもとの関 係にまで洞察を深めている。このすばらしい一歩は、手紙を綴る勇気を振り絞った人たち全般に共通しているものである。見ないフリを止め、見ようとする姿 勢への積極的な転換が生じたのだ。

 日本には、親孝行を美徳とする文化が残っている。そして「目上の人を敬え」、「逆境をバネにせよ」と執拗に説く。子どもは親や教師、目上の存在を無条 件に敬わなくてはならない。だから、本書の企画で「親に本音をぶつけなさい」と声高に叫ぶ私は、「反道徳的」だとそしられるかもしれない。
 しかし私の目には、それは「道徳」の名を借りた押しつけにしか映らない。この「文化」の中にこそ、子どもの自尊心が育たない一因があるということに気 づいている大人が、日本にはどれくらいいるのだろう。

 子どもながらに親の苦労を推し量り、感謝の意を表明するといった「お話」はしばしば人々の感動を誘う。そして人々の心を浄化していることだろう。その 意義を否定するものではないが、それで人間のすべてが語れるとは思えない。人間の心は「美しきもの」ばかりではないという現実から目をそらしてほしくは ない。人間は、不完全さを残しているからこそ「生きている」といえるのだ。
 もう一つの真実、つまり反道徳的だとして抑圧される子どもの本音。苦しむ人々に、それを押し隠す方法だけを教えるのはやめてほしい。どこかに本音のや り場を残しておいてほしい。

 ある男性が、「手紙」とともに次のような思いを寄せてきた。私の「反道徳」の呼び声に接し、「幼な子」が息を力強く吹き返したようだった。

――公募の問い合わせをしてから約二カ月間、複雑な思いで過ごしました。なぜならば、「言えなかった思いを手紙」にするために、心の中に閉じ込めていた 過去を思い出し、考えることが、苦痛でしかたなかったからです。考えないようにすることで忘れたフリをして、今の生活を送ることに満足をしていたからで しょう。
 しかし、わたしの子どもはかなり被害を被っていたと思います。自分がされてきたことを、子どもにもしてしまっているから。
 これまで「父よ 母よ」など、親に対するポジティブな作品の募集は多くありましたが、親に対する怒り、寂しさ、悔しさなどを綴る手紙の募集など、な かったように思います。私にとっては、この公募のメッセージが、この種の体験に乗り出せるはじめての出会いとなりました。
 自分の心の中のトラウマと、いつかは向かい合う必要があると思っていましたので、今回、自分の思いを手紙にするチャンスをいただき、心より感謝致しま す。
 今まで誰にも打ち明けることのなかった私の心の中身です。読んでいただけるだけで、救われます。――

 わたしがこの企画を思い立ったのは、五年にわたる「虐待する親」への心理的ケア(=「親子連鎖を断つ会」)を通して、その有効性を確信したからだ。過 去を克服しながら、自分を受け入れる階段を上る。それは次世代を愛するための、遠回りだが確実な道のりなのだ。その入り口としてまず、素直に毒を吐き出 すことから始めるのである。
 なによりも、前向きにがんばろうと無益にエネルギーを消費し、がんばれない自分を責めながら徒労に終わるという悪循環から抜け出す道が開ける。真っ暗 闇の中に一筋の光が見えてくる。

 「親子連鎖を断つ会」で私と直接的にかかわることができる人は限られていた。もっと多くの人たちに、「苦しい過去と対峙した末に到達する癒し」の可能 性を知ってもらいたかった。それを、「手紙」という方法で広く実現したいと考えたのだ。
 さらに、活字として公開し、社会に広く問いかけてみたかった。願うことなら、心の闇ですら分かち合えるという体験をもつことができればすばらしい。共 感のもつ救いの力は、とても大きいはずだ。

 いみじくも先の男性が記したように、「思い出し、考えることは苦痛でしかたがない」だろう。それでも敢えてこの作業に乗り出す勇気を手に込めた人たち に、深く敬意を表したい。そう簡単に前進するものではないだろうが、少なくとも手紙の主たちは、「願い」へ通じる道のりの「入り口」には立ったのだ。

 「これが、はじめての告白です」
 こんな言葉が添えられた投稿が少なくなかった。赤の他人への手紙が「はじめて」になるとは、なんと悲しいことか。(以下略)

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