これは1995年12月21日から23日までの3日間開催された「アジア民衆法廷」で
宣言された「判決文」の結語です。
判決文全文については緑風出版から1998年3月に刊行された
『戦争責任 過去から未来へ』を参照してください。
結語
天皇の「代替わり」の直前から敗戦五十年の一九九五年末の今日までの七年間、私たちは国家に奪われ、あるいは支配されてきた歴史――明治維新以降の近代日本の約百三十年の歴史――の事実を民衆の側に取り戻し、それを再構築し、共有し、継承し、さらに記憶していく営み――歴史の獲得――を、事実の究明と想像する力によって続けてきました。それはしかし、当初の〈マニフェスト〉で描いたとおりにはいきませんでした。
それでも、「第一次判決文」の第二部〈事実(理由)と宣言〉で明らかにしていますように、アジア・太平洋地域での日本の植民地支配、侵略戦争とそれに続く占領地支配において、私たちはいくつかの知られざる事実を発見し、獲得し、認識を深める手がかりを得ました。また、幾重にも入り組んだ装置が、民衆への加害の実相を見えざる世界に閉じ込め、複雑な騙し絵のようになっているのに気づきました。一方、アジア・太平洋地域における植民地や占領地の人びとを、軍事、政治、経済、教育、宗教、文化などの分野で支配、抑圧した当事者の加害認識の欠如に加え、事実の否定、歪曲、正当化といった「第二の罪」を前にし、暗然とせざるを得ませんでした。
私たちはこれまで、主として極東国際軍事裁判(「東京裁判」)が問わなかったアイヌ、沖縄、アジア・太平洋地域の民衆に対する侵略と支配に関わる構造、制度、事がらを中心に、「小法廷」などを通じて、歴史を獲得する作業をしてきました。しかし、植民地支配、占領地支配、さらに侵略戦争に関わる歴史には、「慰安婦問題」が表徴するように、未解明の分野・問題が海のように深く広がり、山積みされています。また、現在まで私たちが知り得た、あるいは、接近した歴史の事実も、究明、共有化、継承の作業においては、きわめて不十分と言わざるを得ません。少なくともこの二点は、「アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷」が敗戦五十一年以降(第二期)も引き続き、取り組んでいかなければならない重要な課題です。
この七年間に獲得した事実などをもとに導き出した「第一次判決文」の〈主文〉で私たちは、敗戦前と敗戦後の日本国家がアイヌや沖縄の人びと、さらにアジア・太平洋地域の民衆になした広く重い加害に対する責任の所在を明確にし、その責任を誰がどのように負わねばならないのかについての〈判断〉を示しました。敗戦後に責任を負うべき天皇をはじめ指導者はそれを回避し、民衆も支配層の責任からの「逃亡」という事態をそれほど深刻に考えず、「東京裁判」任せでやり過ごしました。そればかりか、民衆は戦前、戦中そして戦後の自らの認識や行為と真摯に対座してきたとは言えません。これらについても、私たちは〈判断〉を示しました。
「小法廷」で取り上げた分野・問題については、個々に明らかにされた事実や構造、責任の所在を明確にし、個別の〈判断〉を明らかにしました。そこではその分野・問題に関しての反省だけではなく、理不尽な行為を命じた指導者と、それを支えかつ実行した人びとが担うべき責任をも「歴史の獲得」の内に含まれると考え、未来を視野に入れた個別の「宣言」を掲げました。
敗戦から半世紀、私たちがアイヌ、沖縄、アジア・太平洋地域の人びとに負っている重要な課題の一つは、私たちが植民地支配や侵略を繰り返さないために何をするのか、です。
私たちは敗戦五十年の一九九五年末の今ここで、日本のなしたさまざまな行為による被害者を想い、先行・併走する人びとの蓄積などに教えられつつ私たちの「獲得」を重ね、敗戦後五十一年以降を視野に入れた「第一次判決文」の「結語」として、次のように提起します。
私たちは、国家の不条理な命令、指示、指導に抗し、従わず、協力しない「不服従」「抗命」の権利と義務(以下「不服従権」)が、基本的人権の一つであると、ここに宣言する。
ここでいう国家への「不服従権」は、たんに圧制への抵抗や他者に対する国家的武力行使への拒否にとどまらず、そこへ至る以前に用意されるさまざまな国家の命令等を拒む民衆の権利と義務である。すなわち私たちは、植民地獲得や侵略戦争を直接、間接に引き起こし、それに繋がると考えられる、すべての人びとに対する暴力、支配、抑圧、差別、強制、隷従、排除、分断、同化、統合沈黙といった内容を含む国家権力の意思や発動に抗する権利と義務を有する。
一九四五年八月以前にあった「大日本帝国」は、暴力的な専制国家に限りなく近く、民衆がそこから発せられる命令等に背く〈自由〉を貫くには、その対極にある〈死〉をも覚悟しなければ不可能な場合が少なくなかったのである。むろんそれは、後に続く人びとにとって希望の「水先案内人」となったが、そのような不服従は、大多数の民衆には困難で、国家の政策を変更させるような広がりと力を持つまでには至らなかった。
しかし植民地獲得やそれに続く支配、そして戦争がある日突然発生したわけではない。そこには周到な道が用意され、民衆はそこをひた走った。それぞれの家庭、地域、学校、職場などあらゆる場で、「命令と服従」の関係がことを動かす支配的な力として働いた。とりわけ国家と民衆の関係においては、国家の命令は神格化された天皇を戴いていただけに絶対的な呪縛力を伴い、民衆の側にはときに服従への「快感」さえ生まれたほどであった。あるいは「強制なき命令」に対する服従の関係も出来上がった。
敗戦前の民衆は、一人ひとりの個人が、国家と正面から向き合い、立ち止まって自らの判断で意思を決定するという責任意識が希薄であった。それゆえ自己の意思を国家に委ねた大半の民衆は、国家の不条理な命令にほとんど抵抗できなかったのである。このような「命令と服従」の積み重ねの中で、日本国家は、侵略行動、植民地支配、占領地支配に際して、民衆のエネルギーを吸収し、その動員に成功した。こうして、民衆は具体的な軍事行動や支配や抑圧などに積極的に、あるいは消極的に協力し、加担し、加害者になるに至ったのである。
一人ひとりが「無力な個人」である私たちが、「過誤」を繰り返さぬという責務を果たすには、国家と民衆の関係において国家の理不尽な命令等に抗う「不服従権」の確立がどうしても必要だと考える。もちろん不服従を貫くには、民衆の一人ひとりが国家から自立し、自律していかなければならないのは言うまでもない。
不服従と言えば、アメリカの奴隷制度と対メキシコ戦争に反対したH・D・ソローがいる。あるいはインドのM・ガンジーが、そしてまたアメリカのM・L・キング牧師、イギリスのB・ラッセルらが容易に想起されよう。第一次大戦下の欧州各国での抵抗運動やアルジェリア戦争でフランス人が国家への協力を拒んだ例も、よく知られている。さらに、ヴェトナム戦争ではアメリカ民衆の徴兵拒否、脱走などの抵抗があった。アジア・太平洋戦争下の日本においても、灯台社の村本一生らの信仰や信条に基づく兵役拒否、あるいは徴兵忌避など、ごく僅かだが、国家への不服従者が存在した。ただ、私たちがここで目指す不服従は、軍事行動や直接それに連なる命令への拒否だけではなく、またそれを「強靭な個人」に担ってもらおうと意図しているのでもない。
敗戦後、私たちは「平和主義」を基調にした日本国憲法を持ち、第九条で武力と交戦権の放棄を宣言し、前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍の起こることのないやうにすることを決意し」と謳っている。しかし残念ながらこれらの「誓約」は、日本国家と民衆の植民地支配や侵略戦争に対する自覚、反省によって導かれたのではなかった。そのためもあって、私たちはこの憲法をどれだけ積極的に担おうとしてきたのかはなはだ心もとないと言わざるを得ない。すでに国家は、一九五四年に自衛隊という軍隊を創設し、憲法の「平和主義」を破壊し、その後も破壊を続け、ついには戦前の「強兵による富国」を目指した「大東亜共栄圏」構想につながる「国際貢献」の名による海外派兵を強行するに至った。これは「国家は信用できない」という近代国家の性格を再確認させたが、同時に私たちにも免責を許さない深刻な事態を引き起こしている。
国家に対する民衆の「不服従権」を、思想の自由、表現の自由、信仰の自由などの基本的人権とともに、市民的権利として確立していくには、たとえば「市民的不服従法」を制定して権利を保障する方法も将来的には考えられよう。しかし、私たちは当面法制化より、「不服従権」を民衆の中に広げ、根を張るように深く定着させ、またそれを一人ひとりが、日常生活の内で行使するという方途で確立していきたい。「無力な個人」に根ざすという道を選ぶ。それが「平和主義」の「誓約」を民衆が建て直し、自覚的に担うという意識を生み、「国家は嘘をつく」という国家からの個人の自立を強化していく力にもなるはずである。
さらに、私たちが「不服従権」を市民的権利として獲得し、それを行使すれば、国家の不条理な命令等の発動を事実上無効にしたり、発動そのものにブレーキをかける力にもなり得るに違いない。「不服従権」はまた、国境を越えて私たち民衆の普遍の権利として獲得していけば、さらなる力にもなろう。
国家に対する民衆の「不服従権」は、被害者に対して償い切れない過去を背負っている私たちがどうしても獲得しなければならない権利と義務であると確信する。
一九九五年一二月二三日
「アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷」大法廷