『浄土の回復──愛媛玉串料訴訟と真宗教団』
書評(98/12/15)

──『インパクション111号』インパクト出版会より──

戦死者と、どう向きあうか

天野恵一

 読み終わって、こういう編集者の情熱の産物といえる本に、ずいぶんひさしぶりに出会ったなと思った。
「語り終えて」で著者も書いているが、本書は、井上澄夫が東京から松山に何度もかよってインタビューするという「並々ならぬ熱意」に支えられた作業によって成立しているのだ(井上の「本書の編集について」という文章も収められている)。編者のやや「偏狭でファナティック」(失礼!)な性格がプラスに機能したんだな、と率直に感心させられた。
 私同様、特定の宗教への信仰は以ていない編者が、何故、愛媛玉串料訴訟の原告団長である真宗大谷派の僧侶の主張を、一冊の本にまとめようと思ったかも、読んでみて、私なりによく理解できた。
 タイトルが予想させるような、いわゆる仏教(宗教)書くささが、その内容にはほとんどないのだ。「戦犯集団」としての真宗大谷派の歴史をたどりながら、著者は自己の内側に逃げ込むのではなく、自己を問うことが他者を問うことであり社会をとうことである「運動としての」真宗(親鸞)の必要を力説している。国家権力(「戦犯集団」を支えた「戦犯国家」)に正面から対峙する姿勢こそが、著者の宗教的信念によって、つくりだされているのだ。
 私も、キリスト教(団)の人々と、いろいろな協力関係をつくり運動をしているが、そういう人々の中によくいる、護憲派の(憲法の政教分離の原則をのみ抽象的にふりかざし、なにやら神道との宗教戦争がモチーフではないかといった気持ちにさせる)牧師さんとは、まったく違っているのだ(もちろんキリスト者にも、本書の「まえがき」的文章を書いている沖縄の西尾市郎のように、そういうタイプでない人も少なくないのだが)。
 だから、著者の主張は、自己の信仰を前提にして、非常に具体的である。何故、政治(国家)と宗教(絶対信仰)が分離されていなければならないかという事が、歴史的かつ論理的に説得的に語られている。
 そして、当然にも、著者の批判の射程は、愛媛玉串料訴訟の最高裁判決(違憲判決)の「悲宗教」というベールをかぶせられたものなら「慰霊」の式典は問題なしとする思想にまで及ぶ。政府主催の「戦没者追悼式典」や「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」での拝礼式、広島・長崎の「原爆慰霊祭」を許容することはないのだ。
「しかし、そこは、私たち真宗者からすれば、そのこと自体、『慰霊』という宗教的行為なんだから問題なんです。ああいう式典や儀式は、習俗になっていて、宗教と思われていないといわれているけれども、その実態は、日本人の固有の宗教概念にもとづいた式典・儀礼がおこなわれているということなんです」
「今回の最高裁判決は、じつは公的慰霊行事を認めています。判決文の『多数意見要旨』は『戦没者の慰霊及び遺族の慰藉ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられる』とのべているんです。これは、さまざまなかたちで、現在おこなわれている慰霊・追悼の公的儀式を、合憲・合法として追認することにほかならないばかりか『悲宗教的』というふれこみで、国立の戦没者慰霊施設を新設する道をひらいているとも読めるからです」
 著者は「霊意識」それ自体を真宗者として問題にしているのである。遺族一人一人の心に、こまかくわけ入って考えるべきだとするナイーブな著者は、また、すこぶる原則的なのだ。
 戦死者を個人的に追悼したいという、個々の人間にとってあたりまえの気持ちが、国家によって、どのように政治的に活用されてきたか。戦争に個人を狩り出し、死にいたらしめた国家を、死者に近い人々がありがたいものと感じさせる倒錯が、歴史的にどのようにつくりだされてきたのか。このことを考えれば、宗教者でない私(たち)も、「非宗教的」という国家の宗教性(慰霊・追悼儀式)を批判しうる日常的な意識(思想)こそが必要であることに気づく。
 死者と、どう向きあうのか。本書はこの間、あれこれと議論されている問題に、ユニークな真宗者が投じた貴重な一石である。

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