内田雅敏
憲法第9条の復権 沖縄・アジアの視点から
書評のページ
●「週刊新社会」より
「権利のための闘争 世界で最初に非武装を規定しながら、現実には日米安保条約と「自衛隊」というもう一つの法体系によって蹂躙され、空洞化されている日本国憲法第九条の原理を、冷戦が終結した今、沖縄とアジアの視点からもう一度捉えなおすことで憲法第九条を今度こそ現実政治の中に復権させようではないか、というのがこの書の全体を通しての著者の主張である。この主張は、本書の各所に現れているが、特に本書の冒頭に置かれた論文『憲法第九条の復権のために』の最終節『第九条の復権のために』に凝縮されている。著者はそこで、『憲法第九条を単独でなく、第一条の〈主権在民〉と、第三章第十一条以下の〈基本的人権の保障〉と総合的に論じなければならない』と指摘し、『そのことにより、〈象徴天皇制〉との対峙を回避し、戦争責任の追及に蓋をし、戦争賠償を放置し、そして沖縄に対する差別と切り捨てを容認してきたこれまでの護憲運動の怠慢さを克服しなければならない』と主張する。日本の民衆は天皇が始めた『大東亜戦争』を民衆自身の主体的な力で終結させることができなかったために、護憲運動が多くの盲点と弱点を持ち、そのために反省すべき不十分な点が多々あったことは事実だが、しかし護憲運動が『〈象徴天皇制〉との対峙を回避し、戦争責任の追及に蓋をし、戦争賠償を放置し、そして沖縄に対する差別と切り捨てを容認してきた』というのは、歴史と事実をやや単純化した性急な主張ではないか、と私は思う。なぜなら、私の体験と認識では、護憲運動は現実には、憲法第九条の明文改定をさせないだけで精一杯で、その護憲運動でさえもが消滅した今、その精一杯の力での民衆的な闘いの歴史を改めて評価すべき時ではないか、と思うからだ。しかし、そうした論議の性急さを除けば、『戦後補償問題の核心』は、植民地と侵略戦争の歴史と正面から向き合う歴史認識の問題だという主張、憲法第二章第九条を第一章、第三章とともに総合的に考えるべきだという主張、主権在民・非武装・兵的生存権を確立するためにも『権利のための闘争』を行なう義務があるという主張などに、私は全面的に賛成で、改憲が焦眉の急となっている今、時宜を得た貴重な主張・提言だ」(伊藤成彦・中央大学教授、「週刊新社会」1998年2月10日より)
●「出版ニュース」より
「本書は、花岡事件や香港軍票問題といった戦後補償請求裁判に取り組む弁護士である著者が『憲法の基本原理に立ち戻れ』という主張のもとにあちこちに書いてきた論文、活動の記録などを集大成したものである。
内容は法曹界の戦争責任から権力と自由をめぐる映画の話というように憲法第九条を題材に縦横に『第九条を復権せよ』という主張を述べている。だが、著者が最も訴えたいのは、戦争を放棄するという憲法第九条を後生大事に守るだけでなく、憲法第九条を具体化する闘争を開始しようということで、具体的にはアジアの人々から突きつけられた戦後補償請求に真摯に応えることであり、米軍基地撤去を求める沖縄県民の闘いに呼応することだという」(『出版ニュース』1998年3月中旬号より)
●「労働情報」より
「それでね浅井さん、○○はね……」と、筆者・内田さんに直接語りかけられているような錯覚に陥ったのは私だけだろうか。現実を理念から裁断することなく、彼の幅広い体験から語られている論理が読む者に共感を呼び錯覚を起こすのであろうか。『私たちは、憲法第九条によって日本人の戦争責任に封印してしまい、過去に蓋をし、そして将来の戦争に巻き込まれないための「お守り札」として憲法第九条を後生大事に守ってきた。……憲法の空洞化がその極限までおし進められ、明文改憲の足音がそこまで近づいている今こそ、憲法の基本原理に立ち戻る必要がある。』と、裏表紙にある。この想いが第一章では1.封印された日本の戦争責任を歴史的に検証し、2.沖縄の切り捨てによって「平和憲法」が成立しえた本土の戦後のありようを考え、そしてフィリピンの米海軍基地撤去後の問題点から在日米軍基地撤去のキーワードを。
第二章は「日の丸・君が代」問題と、20年前の「東アジア反日武装戦線」が訴えたかったことと現在を。そして、第三章は、映画『ニュールンベルグ裁判』『アンボンで何が裁かれたか』『大地と自由』『地下水道』『灰とダイヤモンド』の感想から裁判、民衆の連帯、運動への共感などが他の映画などにも触れながら書かれている。自分の想いを伝えようとする時、押しつけではなく相手を納得させることが必要だと思う。映画やビデオなどいろいろあるが、単に方法だけではなく語る側の人間性そのものが問われていることを改めて学ばされた本である。(『労働情報』1998年3月15日号通巻499号より)