はじめに
本書は、二〇〇二年九月から二〇〇四年三月の一年五カ月間、沖縄の新聞『琉球新報』に寄せた毎週の連載「断ち切れ 虐待の連鎖」をもとにして作られた。新聞紙上、一つのテーマを一週から三週の間で書いたので、それに応じて本書の各章でページ数が異なっている。また、連載とは別に後半には新たな書き下ろしも数章加えた。どの章も基本的に、虐待の心理を解読しその支援のあり方を問う事例の紹介であり、大半が筆者の直接体験に基づいている。
虐待が起きている家族を支援することは難しい。副題に記したように、子どもを救い、同時に親が「虐待しない親に成長する」ことが課せられるからだ。子どもの立場に立てば親は「加害者」であり、子どもを守る上で親を敵に回すことも避けられない。親の立場になれば、ある程度の子どもの犠牲は覚悟しなくてはならないことも生じる。「子どもも、親も」という両立しがたい挑戦だが、筆者は不可能ではないと思っている。
虐待の支援を担ってきたのは、これまでは主に福祉の分野であった。しかしそれが限界にきていることは、社会を見渡せばすぐに一目瞭然だ。医学、心理学的に高度な専門性が求められ、司法も虐待の根本解決を視野に入れ、その判断をより精緻なものにしなくてはならない。残念ながら虐待支援の現状と理想の間に深い溝があることは、何度書いても書き足らないほどだ。
筆者のまなざしは、虐待の問題に悩む人々の「心」に向いている。癒しの観点からは、その人の心がどのように感じるかが勝負なのだ。その点、社会は大きな誤解をしている。
ここに、筆者が渾身でぶつかった軌跡のいくつかを書き残した。今それを振り返ると、その未熟さに恥ずかしい感すら覚えるのだが、その試行錯誤を敢えてありのまま提示することで、困難な虐待支援に社会が乗り出す一石を投じることができればと願う次第である。
虐待に対する大きな誤解の一つは、それが一部の特殊な人たちの問題であると捉えられていることと無縁ではない。その様(さま)を変えながら、隣近所にいくらでも潜んでいる。また虐待は、「鬼のような冷血な親」による営みでもない。「愛しているからこそ憎む」という究極の矛盾が生み出す悲劇の行く末である。そのことに気づかず、他人事として傍観しながら、自らが虐待の当事者(加害者、被害者)となっているケースも多い。ミイラ取りミイラになってしまうように、事情をわきまえていない人々による支援が、虐待の二次被害を生み出しているという現実もある。これらの過ちの積み重ねが次世代にツケを持ち越させ、犯罪や精神疾患、「不幸ないい人」をも量産している。
分野の垣根を越えて、すべての人が自らの姿勢をも顧みながら真実を正視し、スクラムを組まなくてはならない。虐待という「人間の尊厳」への侵害が起きている。超少子化と仮想現実の滲出という新しい社会がその土壌だ。深刻化に歯止めをかけるために一刻の猶予もない段階にきていると思う。スクラムを阻んでいるのは、「古い価値」と「新しい価値」の狭間での混沌である。
饒舌はここで止め、虐待の「心」と対峙することの凄まじさを、筆者が通り過ぎたいくつもの出会いと別れの中に垣間見てほしい。
本書で取り上げる事例は、プライバシー保護の点でギリギリのラインにある。本人の了承を得ているもの、報道や刑事裁判(公判)で公表されたものはかなり忠実に描写したが、それ以外のものでは若干の修正を加えているものがある。
その生の一部を筆者と分かち合った大切な人々に、心よりのお礼を申し上げたい。
残念ながらそのうちの何人かは、すでにこの世にはいない……。 |