色なき世界へ虹を架けよう(後)
―ハイデリヒとエドの関係性が描いたものをとつの暴走で語る―
■ハイデリヒの思い

空虚なエドを見て、ハイデリヒは何を思ったでしょうか。
彼は言いました。
「エドワードさんが、女の子に興味を持ってくれて嬉しい」と。
あんな些細なことでも、嬉しいとハイデリヒは言います。それほどまでエドの症状(?)は末期だったのですね。
だからこそ、エドの活力を取り戻すこと。それが、彼の喜びでもあったのでしょう。

彼は自分の人生が長くないことを知っていました。
自分は生きたいのに、生きられない。それなのに、生きることを自ら手放しているエドが、許せなかった……残念で仕方がなかったのだろうと思います。
だから、彼はいつしか、エドが「生きて」くれることを望むようになりました。
以前のエドのように、今を歩き、未来を見つめ、キラキラとした毎日を送ってくれることを。

そして、いつしかそれが彼の生きる目的にもなっていきました。
ハイデリヒはエドのおとぎ話を始終「信じてない」風に聞いていたのだと思いますが、本当は信じていました。
そして、彼を帰してあげたかったのです。エドを愛し、エドが愛したその場所へ。
その世界は、エドを束縛しているけど、エドが、そこで生きることができるなら、帰してあげたかった。エドに笑顔を取り戻してあげたかった。

当時のドイツ状況を思うと、彼には故郷を奪われる悲しみも、少しわかるところがあったんだと思います。(余談:今更なんだけど、ハイデリヒ君ってドイツ人?どのあたり出身なんだろう・・・両親とかは?)

そして、それだけではありません。彼は、短い一生で、何か証を残したかった。
エドとは反対に、決して「透明な存在」にはなりたくなかったのです。
だから、彼はその思いを自分が透明であることに意義を見出しているエドに、託したのです。
それは間違いなく、「エドのため」というより、ハイデリヒ、自分自身のため。
エドを帰すという目的は、同時に、己のため。自らが精一杯生きる糧でもあったのです。

そんなハイデリヒに、エドは最後まで「オレが邪魔なのか?」などと、もう、アホウとしか言えないことをのたまい、(兄さんの大ニブチン!←劇場観客心の声がハモった。確実に)ハイデリヒは、己の気持ちを言葉で伝えることになります。

それが、最期のセリフです。



「僕達は、あなたの夢の中の存在じゃないよ 僕は僕だ 確かにここにいる」



あなたは帰ることができる。きっとその世界であなたは生きるだろう。でも、この世界だって生きている。僕の存在は嘘でもなければ、透明でもない。決して。
それを

「忘れないで」

その時、ようやくエドは気づきます。
かつて自分が言った言葉が突きつけられました。
「夢の中を生きる振りをして、夢が現実に犯されるのが怖い」というのは、自分自身だったことを。
そして、その行為が、どれだけ人を、世界を傷つけたかを。

ある鋼感想サイト様がおっしゃっていました。
ただ単にエドを帰すだけの行為なら「さよならエドワードさん」という別れの言葉でよかった。だけど、ハイデリヒの言葉は「別れ」ではない。「僕は夢じゃない」「忘れないで」という「残す」言葉だ。
考えようによっては、別れる者に対して残酷だ。
この一言のせいで、エドは自分の世界に帰っても、現実世界を忘れない。この世界に未練を残す。
ともすれば、現実世界でハイデリヒに弟アルの姿を重ねていたように、今度は、弟アルにハイデリヒを重ねるだろう。
「忘れないで」と言う言葉は、この世界にいながら、ここにはいないアルを思い続けた、『エドへの最大の優しい優しい復讐』だったのではないか。
(『 』内引用。『 』内以外私的要約。引用元は個人サイトで、ご迷惑をかけるといけないので伏せます)
優しい復讐とは、言い得て妙なり。まさに、その通りだと私は思いました。

あの時、もう言葉が届かないハイデリヒの名をエドは必死に呼びました。
エドは一体ハイデリヒに何を言いたかったのでしょう。私は、なんとなく想像できるその言葉が、嬉しくなりつつ、切なさで胸がいっぱいになるのです。

さてさて、エドはハイデリヒやパパンの命を代価に、「生」を取り戻すことができます。(多分エドは後でこっそり泣いたと思う)

TVアニメの感想で書きましたが、生への応援歌を映画でも高らかに歌い上げました。
でも、TVアニメは一年という長いスパンをかけたものです。同じものを2時間という尺で描けるわけがありません。
映画は「生」を、TVアニメシリーズより、ずっとピンスポットで描きました。

その「スポット」こそ、エドワードの「生」への扱いへの変化です。
現実から目を向ける危うさ。そして、今を生きる大切さ。映画はそれをスポットで視聴者に伝える。

なぜなら、現実のこの世界に、エドと同じような状況の人がいるから。
この世界を「夢」だと言う。活力をなくし、現実をなくし、透明な存在になっていく。
過去、エドの気持ちと、似たような趣旨を発言した有名人がいるので、ご紹介(?)。ある犯罪者です。(犯罪者にエドをかぶせてスミマセン)

■透明な存在

その事件は、当時日本を震撼させた俗名『酒鬼薔薇事件』です。
「1997年に兵庫県神戸市で発生した連続殺人事件。 (by Wikipedia)」
猟奇連続殺人です。犯人は、当時14歳の少年A。
友達の首を切断し、頭部を学校の門の上に置いたり、新聞社に声明文を送ったりと、日本史に残る規模の衝撃的事件です。

マスコミはこの事件を連日連夜報道しました。当時、私は、マスコミの嬉々とした報道を見ながら衝撃を受けている大衆のひとりでした。
わけのわからない事件、怖い事件。犯人は特異な人物、多分私の想像のつかないような。
ですが、公表された一通の声明文が、その思いを一変させました。

少年Aは声明文の中で、自分のことをこう言いました。
「ボク」は「透明な存在」である、と。

「悲しいことにボクには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。ボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう」
「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない」(ヤフるとすぐ出てきますでの、引用元はそちら参照)

「透明な存在」
この言葉を見た衝撃を私は今でも忘れません。遠い犯人だと思っていた人の心が、理解できたからです。共感、と言ったら語弊があります。
彼に同情も、共感もしません。でも、彼の言い分が、すとんと心に落ちました。

この感情は、人間いわゆる思春期に誰もが多かれ少なかれ思うことのひとつだそうです。…私にも覚えがある気がします。
それに気づいたとき、遠い犯罪者だった少年Aが、特異ではなくなりました。

少年Aにはきっと居場所がなかった。この現実に、嫌気が差していた。こんな生活認められなかった。
いつしか彼は、少しずつ夢に侵され、やがて世界が、自分が、あいまいになってしまった。
でも、本当は声を聞いてほしかった。本当は辛かった、現実のこの世界で、他者から認識されない(と感じる)ことは。それは、なんという絶望的な孤独感であろう。

この辺りはガンガンの生んだ傑作のひとつである(でも未完のまま完全連載終了)「刻の大地」シリーズが、とても鮮やかにかつ美しく描いているので必見です。
あるキャラクターが言います。
「俺様は人々を砂のように感じていた お前と会う以前多くの人間とすれ違うたびそう感じていたようだ でも今は(旅をしていろんな人と出会い)みんな生きている…そう感じた そして今まで思ったことがなかった 今この瞬間瞬間俺は歴史の上にいることを 歴史の先端部分を確かに歩んで…自分が存在していると思えるようになった」(抜粋)

エドは幸せです。自分から透明を望んでいるのに、周りが必死になって、色をつけてくれていました。
ハイデリヒや、ホーエンパパンなど、あそこまで尽くしてくれる人はなかなかいません。
特にハイデリヒの人のよさは偉大です。少年Aのように、「その人」として認識されていなかったのに、よく面倒を見たと感心しきりです。
よい家族、友人・知人に恵まれる、周囲の環境というのも、その人の努力と才能のうちだと私は思っています。自分ではどうしようもない、というところを踏まえても。
原作エドもアニメエドも、その能力は人より頭ふたつくらい飛び出ています。それはエド特有の「天才的」な部分です。
でも、凡人にだって、多かれ少なかれ、必ず闇から抜け出すチャンスが用意されているはずだと私は信じています。
少年Aはただ、チャンスを逃してしまっただけじゃないかな・・・

でも、それは逆に言うと、誰にでも闇に陥る可能性があるということです。

私は、ここに映画鋼のトリックを見ます。
エドが闇に取り込まれそうになったのは、かなり特殊な、現実からは考えられないファンタジーならではの理由からです。
でも、その実、それは誰にでも訪れる可能性がある。

そして、今…これは私物凄く飛躍した憶測です…、その闇に取り込まれんばかりの人が多いのではないのでしょうか。

■透明への警告

この世界を、自分を、現実と捉えられない症候群。
「死とは?」というアンケートをとれば、「人間は死んでも生き返える」と答えてしまう子がいます。
ムかついたから、衝動で人を殺す事件が多発しています。しかも犯行の時は、それがどんな結果をもたらすのか、想像していない場合が多い。10歳に満たない子どもから60,70になる大人まで「カっとなって」人を殺す。
そんな衝動的殺人事件が特に相次ぐようになったのは、ここ5,6年くらいからかな。ちょうど、鋼が連載され始めた頃から。(というのはこじ付け(^_^;))
そういえば、湾岸戦争の時だっけ。TVゲーム戦争という言葉は生まれたのは。
それまでと違う最新機器を使った戦争で、ミサイルを撃つのはモニタを見ながら、ボタンひとつ。リザちゃんは「銃は人を殺す感触が残らない」と言ったけど、それの進化版で殺す「感覚」さえないに違いないでしょう。
身近では、そんな殺しまでいかなくとも、世界と自分を隔て、まるで自分が「透明」であることを望むように、生きる人たちが増えているようです。
そう、それはまるで映画のエドのように。

24時間自分の夢に引篭もり、世間との関わりを拒絶して生きようとする。

確かに、関わらなければ、そこにいない振りをすれば、失うことも傷つくこともないです。それは、時に楽です。その気持ちは、痛いほどわかります。
でも、その行為は、結局自分や社会を破滅させる危険がある。

脚本家の會川さんは、そんな現代人にこそ伝えたかったのではないかと思います。
彼の命をかけた、あの言葉を。

「僕達は、あなたの夢の中の存在じゃないよ 僕は僕だ 確かにここにいる 忘れないで」

――忘れないで

ハイデリヒの物言いは、限りなく優しく、厳かで、まるで祈りのようでありながら、エドにとっては痛烈な刃でした。
その刃の切っ先がグサリと刺さったのは、きっと私だけではないと思うのです。
ハイデリヒの言葉が別れではなく残すための「優しい復讐」だったならば、その矛先は、105分が終われば、現実に帰る、スクリーンの前の私たちへの刃でもあったのだと思います。

■なぜ鋼だったのか

では、なぜ、會川水島達は、そのテーマを鋼でやったのか。
アニメという架空の人間、しかも劇は異世界だ錬金術だの、どう考えてもファンタジーな世界観に「現実」を説かせるこの手法。それは一見とても非効率な方法に思えます。
ですが、不思議なことに、この手法は、「鋼の錬金術師」という作品が持つ、最大の特徴で、鋼だからこそ、出来た物語だったと私は思っています。

2005年のキネマ旬報に載った、鋼の評論文がそれを指摘しています。
「残酷描写ダメー!」と一方で大人の理想的ファンタジーを与えつつ、世界の戦争や内乱、殺人事件…今の世代は、死と負の感情渦巻く世界を見ている。子ども達が「子ども向け」以外の情報も目にしている現状に、配慮も議論もされていない。そんな中、鋼世界はファンタジーの形を取りながら、リアルな内容を描いている「つまり『鋼の錬金術師』の世界は、現実性をファンタジーの基調としている。(略)目の前の人間や世界より、二次元の方を近しく感じる、現代のねじれ現象を逆手に取った、卓抜な発想である。」

ファンタジーだからこそ、届けられるものがあります。いえ、もしかしたら、逆かもしれません。
荒川弘は、「生」というテーマを描きたいために、ファンタジーの世界を、作り上げたのかもしれません。

私は、鋼最大の持ち味はそこにあると思っています。
荒川弘は、物事のわかりやすい置き換え、チロル算が秀逸です。
それが、もっとも顕著に現れるのが、物語のプロット(下地)。この場合のプロットは、「あらすじ」以前の「世界の構築」も含んでください。
私が分析する荒川弘の最も優れている点は、「プロットが上手い」という点。
私が荒川すげーと思った第一歩が、鋼のテーマと、それを伝えるプロットが素晴らしかったからです。

私が最初に鋼に引き込まれたのは、エドへの共感です。担当下村氏も、「テーマが多くの読者の共感を生んだ」と理解されていました。
他の荒川作品と比べても、鋼の錬金術師は初期設定と、それを誤読しないプロットが群を抜いて優れてい(ると思い)ます。 キネマ旬報では「しかるべくして人気を博した作品である。」と述べていますが、まさに。

(余談ですが、このキネマ旬報の馬場氏の論文は、鋼ファンなら必見です。『筆者も含め、「原作マンガよりアニメの方がよい」という意見も相当数ある。』と到底納得できない記述も間々ありますが、これほど鋼をよく読みこんだ評論文は類を見ません。未読の方は、バックナンバーを探しても読む価値があると思います)

■鋼という鮮やかな虹

ハイデリヒの言葉がエドに届いたように、アニメ鋼が放った虹のように色とりどりのコトバが、この世界や自分を「透明」だと思う人たちに、届いたでしょうか。

ハイデリヒの命をかけた思いが。
會川・水島の願いが。荒川弘の優しさが。

「生きて、エドワードさん」
「ああ、生きる。ここでオレ達は生きていく」

ふたりの応答がまさに、この映画の主題です。
現実を受け止めるのは、時にとても辛いことです。だけど、決してそれを諦めてはいけません。ハイデリヒは命をかけて、私達にそれを教えてくれていたのです。

そして、さすがお金を払って見る映画です。劇ではハイデリヒの言う「生きる」の、一歩進んだ見解が提示されます。

「オレ達は、誰も望んでいなくても、戦争が起こった。この戦いはオレ達のせいなんだ。だからこの世界を守る。生きている限り、永遠に、世界と無関係でいることなんてできない」

これは、現実を見つめた、その先。
「世界を守る」というのはエドなりの、具体的な生き方そのもの。
これは「エドなりの」というひとつの回答です。でも、それはきっと観客ひとりひとりへ「生きる」ことを考えさせる材料になるはずです。

「いつだって選べる道は少なかった。
時に、道は一本しかなかった。
その少なかった可能性の中から自分で選んだ結果が、僕をここまで連れてきた。
だからこそ僕はその選んだ道を、選ばなくてはいけなかった道を大切にしたい」

これはFF8のセリフです。FF上、私が好きなセリフベスト3に入ります。

少し、映画鋼を彷彿とさせるので、書いてみました。
何が起ころうとも、己の責任で、受け止め、対処していくということ……
FF8や10はこのテーマをとても良く描いているので、シャンバラのテーマがお好きな人はぜひ。

そうそう、もうひとつ、生き方への具体案が語られていました。
それが、キャラクターではなく、これを描いた會川氏(達)、制作スタッフの言葉だったので、私は少し笑ってしまいました。

「ならば私は、映画を作り続けよう。絢爛たる白昼夢を。あり得べからざるもう一つの世界を」

これは間違いなくスタッフの個人的なハイデリヒへの答えだったよね。(笑)


忘れないで。

あなたがハイデリヒにそう言われたら、なんと答えるでしょうか。
「ならば私は、」に、なんと続くでしょうか。

會川氏がシナリオ本で言っています。
見てくれた人の「その後の人生に何か色が足されるような」作品にしたつもりだと。

生き方は十人十色だと言います。
透明という色は、それ自身の色が存在しません。……そう、まったくない。人も同じ。決してひとりでは生きていけない。世界と関わらずになんて、生きてはいけない。
だから、私は、アニメ鋼の錬金術師一連のプロジェクトが、一人でいい、自分を「透明な存在」だと思う人に届いたらいいと思っています。
鋼の描いた美しい虹が、どうか、あなたの心に架かっていますように。







最期、間違えた。最後・・・もしかしたら、アニメの感想をまとめて書くのはこれが最後かもしれないので、どうしても書きたいことが3点。個人的なことが一点。謝辞をお三方に。


まずは個人的なことから。
私は荒川弘のファンです、荒川弘が、そして荒川作品が、好きで好きで、応援したくてたまりません。
だけど、ここ数年の私の人生を変えたのは、荒川弘のマンガではなく、鋼のアニメでした。
アニメがなければ、私は東京上京のチャンスを逃していました。それは、たかが、日本の首都、都会に住むだけのことですが、広島ダイスキーで、めんどくさがりで、引っ込み思案な私にとっては、物凄く勇気がいった、人生一大決心くらいの、大決断。
実際、人生を一変させた出来事です。

その勇気をくれたのは、マンガ鋼ではなく、アニメ鋼の存在が大きいです。
アニメ鋼によって生まれた鋼ブーム。必死にそれに喰らいつきたい、その気持ちが、私を突き動かしてくれたのです。

その熱気によって失ったものも多かったです。なかなか就職できなかったのも、多分アニメ鋼のせい・・・(私が再就職決めたの、アニメ鋼終わった直後なんだよな。今思うと。苦笑)だとか、広島にはたくさん大事なものを棄ててきたこととか。

だけど、東京に来なければ、ずっとやってみたかった、今の職業につくこともなかったでしょう。
関東(むしろ全国?)の素敵な鋼ファン達と、知り合うこともなかったでしょう。
今私が手にしている、楽しいことのほとんどを一生知らないまま過ごすとこだったかもしれません。

この東京暮らしが人生においてプラスなことなのかは、正直わかりません。でも、今の私は、これでよかったと思っています。「あー広島帰りたいわー、つかもう、土に還りたい…」と思ったことは数あれど、上京してきたことを後悔したことは一度もない(ハズ)。

私の人生を(多分)いい方向に変えてくれたアニメ鋼が私はとても愛おしいです。
もし、この先私が不幸になったとしても、それはアニメ鋼が悪いわけじゃありませんから、愛おしい気持ちが変わることはないでしょう。

アニメ鋼は、特別。私にとっては特別。
これから、ずっと特別な存在であり続けます。



そんな特別な存在を与えてくれたスタッフへ。
アニメ鋼の最後の感想はコレにしようと、いつしか決めていました。

アニメ鋼を作ってくれた皆様へ、感謝の意。

まずは、「アニメ」によって、私達鋼ファンを上から下まで振り回した最大の黒幕。脚本を手がけた會川昇氏へ。
今でも私の中では微妙に「ナデシコの」會川なイメージがあるんですが、この人実は、凄腕のシナリオライターさんですね。鋼放送時、スタッフの過去暦調べて、私の好きなアレもアレもアレもアレもあんたが描いとったんか!ということを知って愕然としました。
当時サイト内で少々つるし上げ祭りになりました(笑)
でも同時に「ああなるほど」とひどく納得。

彼の過去作品を振り返って、共通して見えてくるものが、鋼にも色濃く反映されています。
アニメ鋼は、「荒川弘の」ではなく、「水島精二の」でもなく「會川昇の」と評されることが多いです。その意味が、今では少しわかります。
アニメ鋼、私は特に原作ファンなので、不満も非難もあります。たくさんたくさん両手両足の指ではたりないくらいあります。
でも、取り扱ったテーマと、提示した結論は、とても素敵なことだったと思います。
私はこれからも會川氏に、素敵なメッセージを発信していってもらいたいと思います。
私が某イベントで勇気を出して声を張り上げた「頑張ってください。応援しています」という言葉は、決して嘘ではありません。

それから特に中心人物であった、監督の水島氏、P(兼企画)の竹田氏に感謝の意を。
會川氏を含めて、辺境個人サイトであることをいいことに、色々と誹謗暴言吐きました。その多くは今でも訂正しませんし、ここでもなんだか無駄にトゲトゲしているし、多分今後も時々ボロっと(笑)
ですが、感謝の気持ちだけは、当時からあるのです。本当です。

鋼の世界をこんなにも広げてくれてどうもありがとう、という原作ファンとしての感謝がひとつ。
「原作から独立したアニメとしては近年稀に見る高い人気を博した作品といえる。(by Wikipedia)」
私はウキのこの一文が嬉しくて仕方がありません。

アニメ鋼は荒川弘の作品ではないにしろ「鋼」が世間に認められたことはとても嬉しいのです。
ガンガンで連載されているだけでは決して獲得できなかった読者を増やしてくれたことがとても嬉しいのです。

それから、最も大事なこと。
アニメ鋼の錬金術師は、面白かった、こんな面白い話をどうもありがとう。という感謝。

原作とかけ離れたアニメだけど、私は自信を持って叫べます。
アニメ鋼は、とても面白かった。
色々あったけれど、それも含めて、満足の一言です。
これほど、視聴後に満足感を与えてくれたアニメを私は他に知りません。
いいアニメでした。

いつものように、まるで上からの物言いで感じ悪いのですが、この言い方しか思いつかないので、言わせてください。
原作側のスタッフも含める、チーム・アニメ鋼は本当によくやったと思います。



私は、アニメやマンガというものは、夢を見せるものだと思っています。
・・・夢。それは、儚く消えるもの。永遠に見続けてはいけないもの。
でも、だからこそ、人の希望や力になりうる、夢。

アニメ鋼プロジェクトは、大変上質な夢でした。
アニメ感想文の最後に、私が書くべきこと。
私は、感謝の気持ちをファンを含めたすべての関係者に向けて、どうしても書きたい。
『素晴らしい夢を見せてくれてありがとう』

どうか、皆様(私も含む)の未来に、美しい虹が架かりますように!



2007.9.24 暴走して満足なとつ拝





PS.マジこんなトコまで読んでくれてありがとう。何か色んなものに申し訳なさすぎて、ゆ、夢の世界に還りたい・・・(えー!)


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2008.5 アニメ感想書くの最後かも、とか言っておきながら、最近ようやくノーアに存在意義が見出せるようになってきた。映画公開から何年?・・・私って(汗)
ノーアから読み解く鋼のテーマもなかなかに面白いかもしれない。と思う昨今でした。いつかやりたい。