西中国地方の岸田姓


西中国地方の岸田姓分布

山口、島根、広島県での岸田姓を電話帳で数えてみると

件数別では、人口の多い広島市がトップで、次に宇部市、島根県の西端から山口県にかけて多い
順位1位2位3位4位5位6位7位8位8位10位10位
市町村名
県名
広島市
広島
宇部市
山口
福山市
広島
日原町
島根
山口市
山口
下関市
山口
益田市
島根
津和野町
島根
防府市
山口
柳井市
山口
徳山市
山口
件数7454493224212017171414

各市町村の人口を調べて、岸田密度なるものを計算すると
圧倒的に島根県日原町、次は隣の津和野町、4,5,7,8位も津和野周辺の町
 1位2位3位4位5位6位7位8位9位10位
市町村名
県名
日原町
島根
津和野町
島根
大朝町
広島
錦町
山口
鹿野町
山口
久賀町
山口
福栄村
山口
徳地町
山口
菊川町
山口
楠町
山口
岸田密度
(件/万人)
61.423.612.89.89.59.49.27.46.86.7

各市町村での件数を地図上に示すと、下の様になる。

 
西中国地方の岸田姓の分布:数字は各市町村での電話件数、赤字は密度3件/万人以上を示す

件数が多くかつ密度の高い地域に注目すると
島根県日原町(鹿足郡)と宇部市に分布の中心があるようだ。
山口県柳井市、広島県北東部あたりもちょっと気にかかる。

そのほかの地方での分布はこちら


島根県の岸田姓

 
島根県の岸田姓の密度分布(隠岐を除く):色が濃いほど高密度を示す

島根の岸田姓は96件あり、密度は1.24件/万人
ほとんどが日原町周辺にある。 石見東部、出雲、隠岐地方では全くと言っていいほどみられず、古代出雲の勢力圏には岸田姓は進出しなかったようだ。
石見出雲の境界にある多伎町で密度が高いが、ここは
大和政権の出雲進出ルート終端にあたる。

日原町周辺の岸田姓

島根県日原町を中心に、JR山口線に沿って、北へは益田市、南は津和野町を経て山口県の阿東町とその近隣にかけて、岸田姓が広がっている。
この地域は、江戸時代以前に津和野を本拠地とした吉見家の領地にあたる。

吉見の系図には、応仁の乱のころ、一族の吉見頼貞が鹿足郡枕瀬(日原町)内の岸田という場所に住み、岸田と称したとの記述がある。
枕瀬は益田へ注ぐ高津川と津和野川の合流地点にある。
日原町史は、枕瀬のやや下流側にある野口地区が岸田姓の発祥地と見ている。
とにかく、このあたりが岸田姓の発祥地のようだ。

吉見一族
源頼朝の弟範頼を祖とする鎌倉の御家人で、武蔵國比企郡吉見(現埼玉県吉見町)から出ている。
津和野の一族は、元寇のとき吉見頼行が石見國鹿足郡に派遣されたことに始まる。
鹿足郡一帯が勢力圏であったが、室町時代山口の大内家と関係により長門厚東郡、阿武郡、佐波郡徳地等にも領地を得ていた。
大内氏が滅亡後、毛利家に従い重臣となっていたが、関ヶ原の戦い後、毛利家の周防長門二カ国減封により津和野を召し上げられ長門大井(現萩市)へ移った。
しかし、元和4年に吉見広長が毛利輝元に謀反の疑いをかけられ断絶した。
その跡は、血縁関係のあった吉川広家の次男毛利就頼が吉見毛利家(熊毛郡大野:平生町) として継いだ。

山口県の岸田姓

 
山口県の岸田姓の密度分布:色が濃いほど高密度を示す

山口県の岸田姓は238件あり、密度は1.535件/万人
島根県境から瀬戸内側にしみ出すように分布している

宇部市周辺の岸田姓

山口県宇部市には岸田姓が54件あり、分布の中心は市西部の吉見地区で17件が集中している。
また、吉見地区に隣接する小野田市、厚狭郡楠町にも広がっている
吉見地区は旧長門國厚東郡に属し、地名が示す様に、関ヶ原合戦以前は津和野の吉見家の飛び地領だった。(ただし、吉見の地名はかなり古く、吉見氏の進出以前から存在したかも知れない)
おそらく、この地区の岸田一族は、吉見の一族郎等として日原や津和野から移って来たものだろう。

ここの岸田姓も津和野の吉見家との関係が深い。

県内に散在する岸田姓

他県に比べて比較的均等に分布しているが、ここでも吉見一族との関係が伺われる。
吉見家は、関ヶ原合戦後毛利家の減封と供に領地を召し上げられた上に、 毛利輝元により取り潰の処分を受けた。
この過程で、吉見の家中はほとんど浪人し、多くは帰農して旧領地にとどまったが、一部は萩の毛利本家や徳山毛利家に召し抱えられたりして、周防長門に移ったようである。(津和野町史)
山口県各地に分散する岸田姓は、後者の末裔かもしれない。
津和野の吉見一族との関連は明確ではないが、毛利家中には次のものが見られる。

岸田吉右衛門
秀吉の朝鮮出兵準備のために作られた毛利家臣団の石高地図に挙げられている。(毛利八ヶ国時代御分限帳)

岸田吉右衛門、291石3斗3升
備後国芦田郡(現広島県府中市?)で、50石2斗5升
同恵蘇郡(現広島県庄原市山内地区+口和町+比和町+高野町)で、201石3斗2升7合
周防国玖珂郡(現山口県玖珂郡+岩国市+柳井市)で、37石7斗5升7合
この人物は、関ヶ原以前に、吉見家から離れ毛利の家臣となり給領地を得ていた者と思われるが、全く別に蘇我氏との関連も考えられる。
柳井にも少し岸田姓が見られるが、関係があるのだろうか?

岸田多聞
松下村塾生、14歳のわりに生意気で煙草まで吸うので嫌われていたが、 ある日多聞の悪口を言った塾生達が松陰先生にたしなめられ、それを聞いた本人が涙を流して反省したエピソードがある。(吉田松陰日記)
岸田多聞は、松陰の祖母の妹の嫁ぎ先岸田吉右衛門(萩藩士40石)家の子であり、おそらく八ヶ国時代分限帳の吉右衛門の末裔と思われる。

岸田与三右衛門
吉田松陰の祖母は、吉右衛門家とは別の萩藩士岸田与三右衛門の娘。(吉田松陰全集)

岸田録朗
毛利家の重臣宍戸甚五郎の家来で、御楯隊の伍長、第二次長州征伐で大野口の戦いで戦死

徳山の岸田
江戸時代徳山で岸田を名乗るのは、わが家と本家にあたる家の二軒だけだったらしい。
わが家が幕末時八代目だったので、一族が徳山に移ってきたのは藩の設立(1650年)とほぼ同時と思われる。
徳山藩設立にあたり、旧毛利家臣や萩の家中の次男三男を召し抱えたと云われており、実際に、旧吉見家重臣の下瀬氏が徳山毛利家の家老(後に追放)になっているが、岸田との関係は不明。

熊毛郡田布施町には岸田の地名があり、隣の柳井市での岸田姓と関連しているかもしれない。


広島県の岸田姓

 
広島県の岸田姓の密度分布:色が濃いほど高密度を示す

広島県の岸田姓は207件あり、密度は0.722件/万人

全体的に少ないが、三次市周辺などに見られる。都市化しているものの福山市、三原市は密度が高めになっている。
密度が最も高いのは大朝町。

備後と安芸の国境線

沼田川河口から三次盆地、江の川を経て三瓶山へ向かう芸備国境線は、古代大和の政権が吉備を牽制しつつ出雲へ侵攻したルートであった。時代は蘇我氏が全盛を誇った頃で、沼田川河口には大和政権の直轄の屯倉(みやけ)がおかれ、加茂郡豊栄町には渡来人と関係が深いアスカ(安宿)の地名が残っている。前者は横見廃寺と御年代古墳の出土品から蘇我氏との関係が示されており、後者からは大和の飛鳥、河内の安宿同様に蘇我氏との繋がりが浮かんでくる。
ここでも蘇我氏系の岸田姓の存在が考えられる。
備後では、沼田川河口の他、多祢(たね)屯倉(芦品郡新市町)、膽殖(いにえ)屯倉、膽年部(いとしべ)屯倉(福山市)がおかれ、備前児島の屯倉周辺と合わせて、岸田との関係が興味深い。
また、毛利八ヶ国時代御分限帳の岸田吉右衛門が備後芦田郡と恵蘇郡に領地を持つていることから、この地域の岸田姓の一部は毛利家の転封(1603年)により防長二カ国へ移ったと考えられる。

Link:広島県立博物館


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Yutaka Kishida
E-Mail: kishy@mb.infoweb.or.jp