わが家に伝わる物


わが家には、ちょっと古い和歌の短冊が大事にしまってあります。

祖父の話では、祖父の祖父岸田彦左衛門が,参勤交代のお供の帰りに京都に寄って持ち帰ったものだそうです。
(彦左衛門の主人である徳山藩主毛利元蕃は、文久2年(1862)の江戸参勤からの帰途、萩藩主毛利慶親とともに7月から約半年も京に滞在し、朝廷に攘夷を説く活動を行っている。)


岩倉前宰相具集卿

雲毎に、見_ ぬもの色ふかく

__にそめ__なり

具見

祖父はこれを五百円札の岩倉具視のものと言っていたが、付箋には具集と書いてある。
署名は、具集の様にも見える。

文久2年当時、岩倉具視は公武合体派であったため、尊皇攘夷を主張する長州の圧力で謹慎させられていた。
従って、長州の者と接触するとは考えにくい。具集はすでにこの世にない。この短冊は、どの様な経緯で彦左衛門にわたったのだろうか?

岩倉具集:イワクラトモアイ 1778−1853(安永7−嘉永6)
従二位宰相、岩倉具視の祖父(具集−[具賢]−具慶=具視)
岩倉具視:イワクラトモミ 1825−1883(文政8−明治16)
説明省略

重胤の署名のある短冊

松霜

御園生にさか行松の深みとり

しもの花さへ枝にかかりて

重胤

付箋がないため作者が特定できないが、次の二人が考えられる。

庭田重胤:ニワタシゲタネ 1821-1873(文政4-明治6)
岩倉具視の友人(大久保利謙:岩倉具視p88、107)公家350石
文化4年(1821)8月生、参議庭田重基の子、 文久2年正月権中納言、慶応3年権大納言
鈴木重胤:スズキシゲタネ 1812-63(文化9−文久3)
国学者、文化9年淡路島の生、平田篤胤門下、後大国隆正門下 天保10年大阪で和歌を教授、後江戸に住むが、 文久3年8月江戸本所小梅の自宅で暗殺される。
*安政5年と文久2年夏に宗像大社詣の行き帰りに徳山を通っている。(徳山市史史料下巻)
従って、文久2年夏の京において長州藩一行との接触もあり得る。
*国学の研究グループ「温古会」を天保12年大阪で始めており、天保13年の紀要「嚶々筆語」に岩倉具集の序文がある(谷省吾:鈴木重胤の研究)。岩倉家との関係も深そうだ。

五辻殿

紅葉

たつた山朝きり深くつゝめとも

色にいでたる峯の■々

安仲

この歌は、付箋と署名から五辻安仲のものであろう。
文久2年安仲は元服直後の17歳であった。彦左衛門の参勤交代への随伴が5から6年に1度で文久2年が最後であったこと、さらに歌題が紅葉であることから、言い伝え通り、この短冊は長州藩の京周旋時のものと考えられる。

解読はshizuokanetの田中之博さんからいただきました。
>「紅葉 多川多山朝幾利深久川々女登毛 色耳以天多類峯能■々」
>漢字書きにして文字を充ててみましたのが、上記の「」内の釈文です。
> 下の句の最初は「色」で「色にいでたる」だと思います。「峯の■々」は、最後は文字の繰り返しで終わっていますので、判読できない部分は、読みで三文字分ですよね。
>参考までに、この一首の本歌があるかどうか調べました処、「たつた山」の紅葉を詠んだ和歌は二十一代集(古今集から新続古今和歌集)中38首ありましたが、本歌に該 当するものはありませんでしたので、全く五辻安仲の自詠だと知れます。

五辻安仲:イツツジヤスナカ 1845−1906(弘化2年〜明治39年)
弘化2年(1845)1月13日生、正二位、五辻高仲の次男、兄継仲の養子となる。200石の公家
元治元年(1864)禁門の変に長州藩士と協力したため失脚。明治3年正月許される。
後、岩倉具視の欧米訪問にも随行している。

岸田彦左衛門?

長閉くもふしの麓にこしかけて

八十字の春も詠めけるかな

徳山住八十歳中__岸田彦左衛門

和歌ではないようだが、東海道で川止めになったときに詠んだものか?
八十歳中_の意味は何だろうか?
岸田彦左衛門:キシダヒコザエモン 1830−19_(天保元年〜明治 年)
岸田家の八代目、天保元年(1830)5月周防國徳山村に生まれる
徳山毛利家に仕える13石程度の下級侍
色白で背が高く、無口な人だったらしい。

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短冊の文字が満足に読めずにおりましたが、有り難いことにSizuokaNetの田中さんよりメイルで解文をいだきました。
おかげさまで、だいぶ様子がわかってきました。
これらの短冊の謎がわかる方、また、お気づきの点があれば遠慮なく御連絡ください。

Yutaka Kishida

E-Mail: kishy@mb.infoweb.or.jp