古代
仁徳天皇の代(313-399),田鳥足尼(たどりのすくね)都怒国造に任命される
田鳥足尼は、紀の臣の祖である紀角宿禰(きのつぬのすくね)の一族。Link 山口大学考古学・地理学オンラインミュージアム
新南陽市竹島古墳や下松市宮の尾古墳などがこの一族のものと考えられている。
これらの古墳が孤島と砂州にあることとその副葬品から、埋葬者が瀬戸内海の海運により畿内とつながりを持っていたことが伺われる。
大化の改新(645)により都濃郡が設置される
郡下には以下の五つの郷があった
- 久米郷:徳山市東部から下松市にまたがった地域で、久米部の人々が多く住んでいたと考えられる
- 都濃郷:徳山市北部の須々万の盆地あたりで、郡の中心部だったと考えられる.
- 富田郷:新南陽市東部の富田川流域
- 生野郷:いくのやと読む.下松市北部の花岡、生野屋、久保、米川あたり.山陽路の駅家を兼ねた.
- 平野郷:新南陽市西部の平野、福川から、徳山市西部の夜市、湯野あたり.山陽路の駅家を兼ねた.
荘園の発達東川を挟んで遠石庄と野上庄の二つの荘園があった
遠石庄は石清水八幡宮に寄進されたもので、遠石八幡宮はこの関係により建てられたらしい
野上庄は現徳山市街地にあたるが、詳しいことは不明
中世
源平の争い(1184-85):
壇の浦の戦いの前日に、源義経の水軍が集結したらしい。寿永3年(1184)一ノ谷の戦いの後、源氏は範頼を大将とし山陽道を攻め入った。児島での合戦で勝利し順調に安芸まで進んだが、周防では土豪の抵抗が強く遠石荘で侵攻を阻まれた。範頼は豊後へ渡り彦島の平氏を背後から脅かし、周防には三浦義澄が残った。
翌年元暦2年(1185)、第二陣として派遣された源義経は、四国屋島で平家を奇襲、1ヶ月後の3/21日に大島の津にて第一陣の三浦義澄と合流し、3/24日の壇の浦で平家を殲滅した。(吾妻鏡による)
大島の津の場所は特定されないが、徳山湾東部の大島半島の陸繋砂州(櫛ヶ浜)にあったとする説が有力である。
ここでは、大内一族と思われる船所政利等が義経に船を献上した。熊野、豊後臼杵、長門串崎の水軍等の船を合わせて500艘以上の船が集結したと思われる。
上は当事の海岸線の予想図、右側が徳山湾、左が笠戸湾。砂州左側の入り江は現在埋まっている。遠石荘は砂州の右下側にあり、この周辺に三浦義澄の軍団が居留していたと思われる。
現在の写真は村井喜右衛門のページ
周防国が東大寺の料国となる(1186)平氏により焼き払われた東大寺の再興のため、後白河法王は周防国を造営領国とし僧の重源に国務を任せた。 都濃郡では、切山保、末武保、富田保、平野保、戸田令保がこれに属した。東大寺については奈良教育大のページへ
しかし、大内氏をはじめとして内藤、鷲頭、末武等の地元豪族の勢力が強く国務は意のままにならなかった。
南北朝の動乱で、大内弘世が周防を統一(正平7,1352)
延元元年(1336)足利尊氏により大内氏の棟梁として鷲頭長弘が周防守護に任命されるが、
嫡流大内弘世は南朝方の守護となり鷲頭庄(現下松市)を攻め長弘を滅ぼした。これを機に弘世は長門に進出、厚東氏を滅ぼし(1357)防長両国を掌握した。
都濃郡には新たに一族の陶(すえ)氏が入り(館は富岡)、野上庄はその庶流野上氏の領地となった。
陶隆房、大内義隆を討つ(1551)来年のNHK大河ドラマ「毛利元就」では、陶隆房(晴賢)に陣内孝則が扮した。
- 天文12年(1543):出雲の尼子攻め失敗以来、大内義隆は主戦派の陶隆房らを退け文治派を登用
このため大内家臣団内の関係が急速に悪化- 天文19年(1550):陶隆房は領地富田若山城(新南陽市)に退き、合戦準備を開始
- 天文20年(1551.8):陶隆房ら山口の大内館を襲う。落ち延びた大内義隆は長門大寧寺で自害する。
- 天文21年(1552.2)陶隆房らは、大友家から大内家と血縁のある晴英を迎え大内家を継がせる。
陶隆房は名前を晴賢に変える。
陶氏、毛利元就に敗れる。(1555)
毛利元就の詳しい情報は中国NBCのページへ
- 天文22年(1553)津和野城主吉見正頼が陶方に反抗し、津和野で籠城戦となる。
- 天文23年(1554)吉田郡山城主毛利元就が広島湾岸沿いに進出、折敷畑山戦で陶方を破る。
- 弘治元年(1555.10.1)陶の主力部隊が厳島で毛利元就の奇襲を受け壊滅。陶晴賢も自害。
- 毛利勢は周防へ侵攻、沼城(ぬまき:徳山市須々万)攻略に手間取る。
- 弘治3年(1557.3)若山城落城に続き、大内義長(晴英)は山口を退去し且山城(下関市)へ籠城。
- 弘治4年(1557.4)且山城落城、大内義長自害。防長二国が毛利の支配下に入る。
野上は杉氏の所領となる。(1555)
大内一族であった杉元相ははじめ陶晴賢に従っていたが、毛利方に恭順しその家臣となった。
その子杉元宣は若くして死ぬが(1589)、毛利輝元が彼の妻を奪い取るために暗殺したとの説がある。
彼女は毛利輝元の側室となり、萩藩主毛利秀就と徳山藩主毛利就隆を生んだ。
杉家の菩提寺は興元寺(徳山市一の井手)。写真はふるもとさんのページへ
近世
毛利輝元の次男就隆が分家して、都濃郡に三万石を得る(1617)
就隆の居館ははじめ下松に置かれた。
萩毛利家には、長府毛利、清末毛利、徳山毛利、岩国吉川の四つの支藩があった。このうち吉川家を除いた3家が幕府から萩毛利家内の大名として朱印状を受けていた。
就隆野上村に移り(1650)、この地を徳山と命名徳山の起源は不明であるが、当時城下町を縁起のいい名前(岡山、徳島等)に変えるのが流行しており、これに習ったものだろう。
萩毛利家との領地争いが原因で、徳山毛利家改易処分となる。(1716)(4年後再興)
- 萩藩領西久米村住人が松ノ木を切取ったのを、徳山藩見回り役人に見つかり斬られる(正徳5、1715.6)
- 萩藩徳山藩間の調停がうまくいかず、萩藩が支藩の処分(藩主元次隠居)を幕府に願い出る(享保1、1716.4.11)
- 幕府は直ちに、徳山藩を改易、領地を萩藩へ召し上げとする処分を通達
- 藩主元次は出羽新庄藩戸沢家へお預けとなる
- 元家老の奈名古屋里人ら藩再興運動開始
- 周防徳山百姓の名義で幕府へ嘆願書三通投書(享保4.1719.3.12)
- 幕府、徳山毛利家再興を許可(享保4.1719.3.12)
海岸部で塩田、山間部で和紙の製造が盛んになる塩の事はJT煙草と塩の博物館へ
和紙の事は須磨小学校のページ参照
藩校鳴鳳館創設(天明5,1785.1)
村井喜右衛門、長崎湾口にてオランダ沈船を引き上げる(寛政11,1799.1)
オランダ船エライザ号が前年10月暴雨風で長崎湾口で遭難し、その引き上げに失敗が続いた後の公募に応じたものである。
周防の漁師には、九州西部に長期出張の漁をするものが多くあり、櫛が浜の村井喜右衛門は長崎湾口の香焼島に拠点を構えていた。
詳細は村井喜右衛門ホームページ参照
長州藩の一員として、多くの人が維新の動乱に関わった
- 天保大一揆(1830)
- 相州外国船警備(安政2,1855)
- 長州藩の京周旋、萩、徳山藩朝廷へ攘夷を説く(文久2,1862)
- 朝廷8.18政変により攘夷派追放、七卿長州落ち、徳山上陸(文久3,1863)
- 長州藩京出兵変敗北(禁門の変)、長州藩政権は恭順派へ(元治1,1864.7.19)
- 徳山藩内訌(元治1,1864.8.9)、恭順派家老富山源次郎暗殺未遂(8.9)、主戦派七藩士処刑
- 幕府第一次長州征伐軍派遣(元治1,1864.8)
- 萩藩謝罪として三家老を徳山藩に蟄居後処刑(元治1,1864.11)
- 高杉晋作らによる主戦派のクーデター成功、政権交代(慶応1,1865.1)
- 幕府第二次長州征伐令(慶応1,1865.4)
- 幕府軍敗退(慶応2,1866.7)
- 大政奉還(慶応3,1867)
近代
廃藩置県(1869)
山陽鉄道徳山まで開通(1897)
町制施行(1899)
海軍燃料廠(現出光興産)、大阪鉄板(現日新製鋼)、徳山曹達(現トクヤマ)等の工場が設立され工業地帯となる。
市制施行(1935)
第二次大戦、1945年5月と7月にB-29による空襲を受ける