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| ★「梁書~諸夷」(唐代) 倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。 ※ 呉(漢音ゴ、呉音グ) |
| ★「史記~呉太伯世家」(前漢代) 周の太王(古公亶父)の息子に太伯・仲擁$・季歴の3人がいた。季歴とその息子の昌は賢く聖人の資質を持っていたので、太王は跡継ぎと考えた。それを察した仲擁$と季歴は、南方の地に去り、文身断髪して後継ぎの意志のないことを示した。太伯は自ら勾呉と号し、呉の太伯と呼ばれた。昌は後の周の文王である。 ↑ 擁$(-[てへん) |
呉・越・楚データベース
中国春秋時代(BC770~BC402)の強国として、呉と越は、互いに争った。BC473年、呉は越に滅ぼされ、BC334年、越は楚に滅ぼされた。呉越の遺民は、江水以南の海岸線沿いに国を構えた。
中国戦国時代(BC403~BC221)の強国は、斉、楚、秦、燕、韓、趙、魏の七雄である。当時、済水の上流から下流にかけて、秦、韓、斉と強国が国を構えた。BC223年、楚は、秦の始皇帝に滅ぼされた。
●呉(中国春秋時代)
虞舜は益を虞(山林川沢を司る官)とした。
「江蘇省丹徒県出土(1954年)の青銅器」周の康王(第3代)は、虞侯そく$を諸侯とした。
↑ そく$(矢に類似)
虞侯は、春秋戦国時代後期に蘇州から起こる呉の祖先と見られる。
呉は、周王、季歴の兄、太伯を始祖とし、姫姓である。
「史記~呉太伯世家」周の太王(古公亶父)の息子に太伯・仲擁$・季歴の3人がいた。季歴とその息子の昌は賢く聖人の資質を持っていたので、太王は跡継ぎと考えた。それを察した仲擁$と季歴は、南方の地に去り、文身断髪して後継ぎの意志のないことを示した。太伯は自ら勾呉と号し、呉の太伯と呼ばれた。昌は後の周の文王である。
↑ 擁$(-てへん)
第19代、寿夢じゅぼう王。
「史記」、25年、寿夢じゅぼうが卒す。寿夢には四人の子があり、諸はん、余祭、余昧、季礼という。
諸はんの子、闔閭こうりょ、夫差
| B.C. | 年 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 505 | 定公5 | 越が呉を攻める。 | 左氏伝 |
| 504 | 定公6 | 呉太子夫差が楚を攻める。楚は都を若#に遷す。 | 左氏伝 |
| 496 | 定公14 | 越王允常が死去する。これを知った呉王闔閭は越を攻めるが、傷つきやがて死去する。 | 左氏伝 |
| 494 | 哀公元 | 夫差は越王勾踐を会稽に破る。 | 左氏伝 |
| 493 | 哀公2 | 呉は祭#を州来に移す。 | 左氏伝 |
| 489 | 哀公6 | 呉は陳を伐つ。楚は陳を救援する。 | 左氏伝 |
| 488 | 哀公7 | 夫差は魯と曾#で会する。 | 左氏伝 |
| 487 | 哀公8 | 呉は魯を伐つ。 | 左氏伝 |
| 486 | 哀公9 | 呉が運河「干#江」を掘り淮水と長江を連結する。 | 左氏伝 |
| 485 | 哀公10 | 呉は斉を伐つ。呉は運河干#江を利用して海から斉を伐つが敗れて引き上げる。 | 左氏伝 |
| 484 | 哀公11 | 呉は斉を破る。 | 左氏伝 |
| 482 | 哀公13 | 夫差は諸侯と黄池に会盟し、晋の定公と長を争う。越が呉を攻める。 | 左氏伝 |
| 478 | 哀公17 | 越王勾踐は呉軍を笠沢で大破する。楚は陳を滅ぼす。 | 左氏伝 |
| 475 | 哀公19 | 越王勾踐は呉を伐ち、呉を囲む。 | 左氏伝 |
| 473 | 哀公20 | 越王勾踐は呉を滅ぼし夫差を殺す。 | 左氏伝 |
↑ 若#(+おおざと])、祭#(+'くさかんむり)、曾#(+おおざと])、干#(+おおざと])
▼闔閭と夫概
夫概は、闔閭の弟。闔閭王が楚と戦っている間に自ら呉王を名乗る。闔閭王が呉国に帰り夫概を討つと、夫概は楚へ逃げた。
| ★「史記~呉太伯」 闔閭10(505)年、夫概を攻める。夫概は破れて楚に奔走する。 |
| ★「廣韻~餘」 風俗通義によると、呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。今の百済王夫餘氏である。 |
※ 「風俗通義」、応邵・撰、後漢代
応邵の説は「漢書」の注にさかんに用いられる。
※ 「廣韻」、、宋代1007(景徳4)年
「切韻」(陸法言・他、隋代601年)をもとにして作られている。601年は百済滅亡の60年前にあたる。
●越
「史記~越王句践世家」越王句践については、その先祖は、禹の苗裔で、夏后帝少康の庶子である。会稽に封ぜられて、禹の霊を謹んで祭祀さいししつづけた。
※ 越人:華南の海岸地帯(浙江省、福建省、広東省、広西省からベトナムにかけて)の原住民。夏王の後裔と自称。竜を崇拝し、入墨をし、米・魚を常食とする海洋民族。
| B.C. | 年 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 471 | 越王勾踐は晋、斉や諸侯と徐州で会盟する。 | 史記~子貢列伝 | |
| 467 | 勾踐は死去し、越王鹿郢が即位する。 | 竹書紀年 | |
| 461 | 鹿郢は死去し、越王不寿が即位する。 | 竹書紀年 | |
| 448 | 楚は祭#を滅ぼす。 | 竹書紀年 | |
| 447 | 不寿は殺され、越王朱勾が即位する。 | 竹書紀年 | |
| 433 | 楚王粛が即位し、呂#(瀛$姓)を滅ぼす。 | 史記~楚世家 | |
| 415 | 越王朱勾は勝$を滅ぼす。 | 竹書紀年 | |
| 414 | 越王朱勾は炎#(瀛$姓)を滅ぼす。 | 竹書紀年 | |
| 385 | 楚王悼は死去する。 | 史記~孫子呉起列伝 | |
| 380 | 越王翳は都を呉の故地に遷す。 | 竹書紀年 | |
| 346 | 楚は徐州を伐つ。 | 竹書紀年 | |
| 329 | 楚王威は斉を伐つ。越王無彊は斉の求めに応じ楚を伐つ。 楚王威は越を大破し、斉を徐州で破る。 |
竹書紀年 史記~越王勾踐世家 |
| B.C. | 年 | 出来事 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 321 | 越王は魏に使者を遣わす。 | 竹書紀年 | |
| 278 | 秦は楚を陥落させる。楚は陳に遷る。 | 史記 | |
| 〃 | 楚はこれ以前に呉地の越と五度戦い三勝し、やっとこれを平定する。 | 戦国策~楚策一 | |
| 〃 | 越は瑯邪に遷る。 |
↑ 呂#(+くさ]) 勝$(-力+,したみず) 炎#(+おおざと])
| 王名 | 在位 | 出来事 |
|---|---|---|
| 允常 | B.C.496年、越王允常が死去する。 | |
| 勾踐 | B.C.494年、呉王夫差は越王勾踐を会稽に破る。 B.C.478年、越王勾踐は呉軍を笠沢で大破する。楚は陳を滅ぼす。 B.C.475年、越王勾踐は呉を伐ち、呉を囲む。 B.C.473年、越王勾踐は呉を滅ぼし夫差を殺す。 B.C.471年、越王勾踐は晋、斉や諸侯と徐州で会盟する。 | |
| 鹿郢 | B.C.467~ | B.C.467年、勾踐は死去し、越王鹿郢が即位する。 |
| 不寿 | B.C.461~ | B.C.461年、鹿郢は死去し、越王不寿が即位する。 |
| 朱勾 | B.C.447~ | B.C.415年、越王朱勾は勝$を滅ぼす。 B.C.414年、越王朱勾は炎#(瀛$姓)を滅ぼす。 |
| 翳 | B.C.380年、越王翳は都を呉の故地に遷す。 B.C.447年、不寿は殺され、越王朱勾が即位する。 | |
| 無彊 | B.C.329年、楚王威は斉を伐つ。越王無彊は斉の求めに応じ楚を伐つ。 楚王威は越を大破し、斉を徐州で破る。 |
↑ 瀛$(-さんずい)
●楚
楚の先祖は、端$玉$せんぎょく帝高陽からでた。苹$び姓
↑ 端$(-立+頁、へんとつくりを逆に)、玉$(-玉+[王+頁])
[楚王統]
>高陽━称━巻章━重黎━(弟)呉回━陸終━(第六子)季連
●呉(中国三国時代)
「三国志~呉書」黄龍2(230)年、孫権は、将軍衛温えいおん、諸葛直しょかつちょくを遣わし夷洲及び亶洲を求めさせた。長老によると、亶洲は、海中にあり、秦始皇帝が方士徐福を遣わし蓬莱山と仙薬を求めさせたがこの洲に止まって帰らなかった。世代が替わって数万家となった。・・・二将軍は夷洲に行くにとどまり、翌年、二将軍は処刑された。
当時、呉の制海権は渤海からベトナムにまで5000キロに及んでいた。わざわざ二将軍と万の兵を派遣した所は、会稽の海中というより海外というべきだろう。
▼呉越と倭
「論衡」、周の成王(B.C.1115-B.C.1079)のとき、越裳えつしょうは白雉はくちを献上し、倭人は鬯草ちょうそうを貢納した。
※ 白雉はくちは白色のきじで瑞祥とされる。鬯草ちょうそうは、不老長寿の瑞草で、香草または霊芝と考えられる。
「山海経精疎」、鬯草ちょうそうは、霊芝という万年茸の一種で不老不死長生の瑞草。
「本草綱目」、霊芝は、浙江省天台県の四明山、江南省汲県の黄山、四川省巴県西方の辺境の山に生える。
姜
舜・禹の時代に姜姓の者が呂・申の地に封ぜられた。
周の王室は代々姜姓から皇后を迎えた。周の文王の時、姜姓の太公望呂尚は斉(齊、斉国)に封ぜられた。
●斉(齊)
※ 斉の名族
田でん、高こう、鮑ほう、欒らん
甌・駱
●甌
●駱
※ 濮プPuぼく
濮プPuぼくは長江流域から南にいた。
周のころ四川・貴州・雲南と百越に分布した。
戦国から漢代B.C.206-A.D.8)に夜郎国をたてた。
東晋の頃(317-420)、永昌郡(雲南の大理と哀牢山から西)に住んだ
三国時代は、蜀の南部・中部(四川省大渡河以南と雲南省貴州)にいて蜀に貢いだ。
蜀で孟荻の乱が起こると数千人が雲南の大理建寧部(いまの曲靖)や楚の雄州に避難した。
唐代、雲南には、文面入墨・赤口・黒ぺがあった。
B.C.18世紀ごろ、濮プPuぼくは商の第一代、成湯(B.C.1765-B.C.1754頃)に珠などを献じた。
B.C.12世紀頃、庸ようなどとともに周(B.C.1122-B.C.842)の武王に加担し商王紂辛(B.C.1154-B.C.1122頃在位)を伐つ戦いに参加した。
B.C.827年、周11代、宣王静(B.C.827-B.C.782)即位、楚11代、熊霜ゆうそう(B.C.827-B.C.820)即位のとき、叔堪は争って濮の地に避難した。
周の20代匡王班(B.C.612-B.C.607在位)の2(B.C.611)年、濮は麋びとともに楚を伐った。
周の24代景王貴(B.C.544-B.C.523在位)の22(B.C.523)年、楚は濮を攻め楚に隷属した。
References:
「史記」、司馬遷、前漢代
「論衡」、王充(27-?)、後漢代
「後漢書」、范曄、宋代(南朝)
「十八史略」、曽先之 、宋代(南朝)
「宋書」、沈約・編、南梁代488年
「梁書」、姚思廉・編、梁代(南朝)629年
「旧唐書」、劉句#、
「新唐書」
「漢書」、班固、後漢代
「論衡」、王充(27-?)、後漢代
「三国志」、陳寿、西晋代285年完修
「梁書」、姚思廉・編、梁代(南朝)629年
「春秋左氏伝」
「竹書紀年」
「戦国策」
中華文明の誕生、尾形勇・平勢隆郎、中央公論社~世界の歴史2、1998.5.10
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| 擁$(-[てへん) そく$(矢に類似) 若#(+おおざと]) 祭#(+'くさかんむり) 曾#(+おおざと]) 干#(+おおざと]) 呂#(+くさ]) 勝$(-,力+,したみず) 炎#(+おおざと]) 瀛$(-さんずい) 端$(-立+頁、へんとつくりを逆に) 玉$(-玉+[王+頁]) |