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扶余・伯族高・句麗資料集

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鴨緑江を中心に外圧に耐え栄えた、扶余族の国を追跡します。
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★「漢書」「後漢書」ともに句驪とかく。のちの高句麗をいう。

★「後漢書~」句驪は別名を貊耳はくじという。

「漢書~地理誌第八下」高句麗と遼山は遼水が出ずる所にあり、西南に向かって遼に至り、遂に大遼水に入る。



==[仮説]==句麗こうりは、民族名である。句麗のうち、高句麗こうくりは、大勢力となったが、高氏の句麗という意味である。「後漢書」は高句麗以外の句麗についても説明しその別名を貊耳はくじとしている。貊耳は後に百済ひゃくさいと呼ばれた。百済くだらというのは句麗こうりからきていると思われる。=={木屋清八}==1998.02.15

稾離国、北夫餘、東夫餘

「桓檀古記~檀君世紀」檀君高烈加(47世)のとき、宗室(王族)で稾離国解慕漱は熊心山を降りて兵を起こす。須臾と密約して、白岳山に拠り天王郎と称した。須臾候箕丕を番朝鮮王とする。

「桓檀古記~高句麗国本紀」檀君解慕漱が初めて降在したのは秦王政の八年である。解慕漱の二子、高辰は稾離郡王に、高辰の孫、弗離支は沃沮候となる。弗離支は鴨緑江を過ぎて河伯の女、柳花を娶り高朱蒙を産む。

「桓檀古記~北夫餘紀、上」五加、遂に共和の政を撤して、解慕漱を檀君とし、北天(夫)餘の始祖となる。箕丕の子、箕準を番朝鮮王とする。天を白岳山の阿斯達に祭る。陳勝の乱で秦人、大いに乱れ、燕・斉・趙の民は亡んで番朝鮮に帰する者が数万口に達した。燕の慮綰、遼東の故要塞を修復し、東は貝水を限りとする。慮綰は漢に叛いて、凶奴に入り、衛満は番朝鮮に亡命した。

太子、慕漱離(二世)立つ。番朝鮮王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将のを奉じて、生郷に月支国を立てる。中馬韓という。弁辰二韓もまた国を立てる。

太子、高奚斯(三世)立つ。衛賊を南閭の城に破る。

太子、高于婁立(四世)つ。右渠の賊が入冦し大敗して海城以北五十里ことごとく手放す。
海城を破り薩水に至り、九黎河以東ことごとく降る。軍を南閭に置く。漢の劉徹、平那に入冦して右渠を滅ぼす。
東明王の高豆莫汗、兵を起こして漢冦を連破する。

弟、解夫婁立つ。東明王の高豆莫(五世)に迦葉の原に都を与える。迦葉原夫餘(または東夫餘)という

「桓檀古記~北夫餘紀、下」北夫餘は衰え、漢冦が盛んとなり、高豆莫は卒本ゾルボン(忽本)に即位し、自ら東明と号した。檀君高烈加(47世)の後という。漢冦と戦い、九黎河を渡り遼東の西安平に至る。古の稾離国の地である。裴川の漢冦を破る。解夫婁を候とし岔陵に遷す。都城に入り北夫餘と称する。

太子、高無胥(六世)立つ。子なく、岔陵の高朱蒙、即位する。これを殺そうとする者があり、烏伊オイ、摩離マリ陜父ソムブ等と共に岔陵水を渡る。

高句麗

「広開土王碑」にある鄒牟、は、朱蒙東明、「三国史記」では、中牟、「日本書紀」(天智7年)では、仲牟ちゅうむ

「三国志~魏書東夷伝」夫余伝、魏略引用、昔、北の地方に高離こうりがあった。王の侍女が東明を生んだ。弓にすぐれ、王は王権を奪われるのを恐れて追放した。やがて、夫余の領地を統一した。

年代は「三国史記」による。↓内#(+言べん)、罫$(-圭卜+厂+炎+りっとう)暇$(-日+王)

中国名 王名
芻# 東明
とうめい
BC37-BC19
1 芻#すう=鄒牟すうむ。始祖。扶余の王族から出た。
「桓檀古記~高句麗国本紀」始祖朱蒙の32年、北沃祖を伐ちこれを滅ぼす。
明年、都を卒本より内#見に遷す。内#見は今の常春朱家城子である。
「漢書~王莽」芻#すう。「後漢書」陶$とう(-[こざとへん+[馬)
 ↑ 芻#(+[馬) 内#(+[言) 陶$(-[こざとへん+[馬) 
琉璃明
BC19-AD18
2
「桓檀古記~高句麗国本紀」琉璃明帝の19年、都を内#見より国内城に遷す。皇城ともいう。内に丸都山がある。
「漢書」王莽は、AD9年、漢を倒し新を建てると四方に使節をだし、高句麗と扶余に印綬を与えた。 AD12年、新の王莽は匈奴の討伐に高句麗候の出兵を要求するが、陶$とうはこれを拒否した。王莽は高句麗を討ち、下句麗候と呼んだ。
大武神
18-44
3 「桓檀古記~高句麗国本紀」大武神烈帝の20年、楽浪国を襲ってこれを滅ぼした。東鴨緑以南は我に属す。
「後漢書」建武8(31)年、後漢第1代の光武帝(AD25-57)は高句麗の王号を復した。
閔中
44-48
4
慕本
48-53
5
太祖
53-146
6 「三国史記」太祖大王、別名を国祖王といい、諱はきゅう
「後漢書」第4代、和帝(88-105)の元興元(105)年春、高句麗は遼東郡に侵入し六県を攻略した。
第6代、安帝(106-125)の元初5(118)年、歳#貊とともに玄菟郡に侵攻し華麗かれい城を攻めた。
建光元(121)年の秋、馬韓・歳#貊の数千騎を率い玄菟郡を包囲した。扶余王は尉仇台を派遣し二万余人を率いてこれを討った。
建光元年(121)年、宮が死した。
翌年、(子?の)遂成すいせいは、みずから玄菟郡に服属した。
 ↑ 歳#(+[さんずい)
遂成 次大
146-165
7 「三国史記」次大王の諱は遂成すいせい。太祖大王の同母の弟。

伯固 新大
165-179
8 「三国史記」新大王の諱は伯固はくこ。太祖大王の末弟。
「三国志魏書東夷伝」歳#伝、伯固はくこはまたしても遼東郡を侵し、西安平せいあんぺいを攻撃し帯方県令を殺し、楽浪郡太守の妻子を略奪した。玄菟郡太守の耿臨こうりんは、伯固を討伐した。伯固は、降服して遼東郡に属した。
伯固の長男、抜奇、次男、伊夷模。抜奇の子は、古雛加である駮位居。
抜奇 故国川
179-197
9
伊夷模 山上
197-227
10 山上王13(209)年、王、都を丸都に移す。(鴨緑江畔、現、吉林省集安市)
伊夷模と灌奴部の娘との子、位居
「桓檀古記~高句麗国本紀」山上帝の元年、弟、罫$須けいすを遣わし攻めて公孫度を破り玄菟・楽浪を伐って滅ぼす。遼東は悉く平ぐ。
位居 東川
227-248
11 位居いきょ
いったん呉と同盟を結ぶが、236年、呉の使い胡衛を斬る。
「三国志魏書東夷伝」高句麗伝、魏の明帝の景初2(238)年、太尉司馬宣王(司馬懿)の公孫淵を討伐したとき、援軍を送った。
正始3(242)年、西安平地区を奪い取った。
正始5(244)年、幽州刺史の毋丘倹に破れた。
「三国志魏書東夷伝」歳#伝、後漢末期、歳#は高句麗に従属した。
魏の斉王芳の正始6(245)年、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は、高句麗に従属した単単山脈東部の不耐歳#候を降服させ不耐歳#王に任命した。
中川
248-270
12
西川
270-292
13
烽上
292-300
14
乙弗利 美川
300-331
15 乙弗利いつふつり
遼東郡出兵。311年、鴨緑江河口の西安平県を落とした。そのため晋の遼東郡と楽浪郡・帯方郡の連絡路は断ち切られた。
「三国史記~高句麗本紀」美川王の12(311)年、遼東の西安平を襲い取る。
14(313)年、楽浪郡を攻撃して二千余人を捕虜とする。

313年、楽浪郡、314年、帯方郡を占領して二郡は滅亡した。
高劉 故国原
331-371
16 諱は斯由。燕王は高句麗王を冊封「征東大将軍営州刺史楽浪公」とする。
故国原王39(369)年、百済の薙城に進入した。百済の近肖古王は太子の須を派遣しこれを破った。故国原王41(371) 年、百済と戦い戦死。
小獣林
371-384
17 小獣林王2(374)年、秦王符堅は、僧、仏像、経典を送る。
故国壌
348-391
18 「三国史記~高句麗本紀」故国壌王2(385)年、王は兵を出して遼東を襲う。このとき燕王のは帯方王のに命じて龍城を鎮守させていた。帯方王の佐は、司馬の赤#景を派遣し将兵を率いて救援したが、これをうち破り、遼東・玄菟を陥れて帰還した。燕の慕容農が攻めてきたので遼東・玄菟を討った。また、慕容農は范陽の龍#淵を遼東太守に任じ幽州・冀州の流民を招撫した。
 ↑ 赤#(+おおざと]) 龍#(+'まだれ广)
「晋書」、平北の慕容佐は司馬の赤#景を遣して衆を率いてこれを救援し、高句麗の敗る所となる。遼東・玄菟は遂に没した。
高安 広開土
391-412
(好太)
19 「広開土王陵碑文」、永楽えいらく5(395)年、広開土王自ら碑麗(沃沮、のちの卑#離郡)を討伐する。
 ↑ 卑#(+[こざとへん)
永楽6(396)年、軍を百済に進め、大規模な攻撃を行って百済を降伏させる。
永楽8(398)年、軍を歳#、帛慎谷はくしんこく(息慎、粛慎)に進め服属させる。
永楽9(399)年、百済が倭と和を結んだことに対し圧力をかける。
永楽10(400)年、倭人の新羅への進入に対して、新羅を救援する。
永楽14(404)年、倭が帯方に進入したので、広開土王自らこれを破る。
永楽17(407)年、軍を派遣して、新羅(?)を救援し倭軍(?)を掃討する。(欠字を推定し補っている。)
永楽20(410)年、広開土王自ら扶余城に迫り、東扶余を降伏させる。
高明 長寿
413-491
20 高明(高連#)(巨連#)
 ↑ 連#(+[王)
「桓檀古記~高句麗国本紀」長壽弘済好太烈帝は、建興と改元した。熊津江北我に属す。北燕・室韋の諸国みな入りて族にならぶ。また、新羅・寐錦・百済・於暇$羅と平壌に会す。
「宋書」東晋の義熙ぎき9(413)年、高句麗王の高連#は、東晋に朝貢し、冊封を受ける。使持節都督営州諸軍事征東将軍高句麗王楽浪公。

427年、国都を丸都(鴨緑江中流)から平壌に遷し、南下の意志を顕わにする。
「三国史記」蓋鹵王21(475)年、高句麗の長寿王は百済を攻め漢山城は落城し、蓋鹵王は捕らわれた。
高雲 文咨明
491-519
21 「桓檀古記~高句麗国本紀」文咨好太烈帝、明治と改元した。斉・魯・呉・越の地、我に属す。
高安 安臧
519-531
22
高廷 安原
531-545
23
高成 陽原
554-559
24
高湯 平原
559-590
25 「桓檀古記~高句麗国本紀」平岡上好太烈帝、大徳と改元する。
高元 嬰陽
590-618
26 「桓檀古記~高句麗国本紀」嬰陽武元好太烈帝の弘武23年、隋軍、水陸に並びて、来攻する。高句麗国石多山の人、乙支文徳はこれを追って、薩水に至り遂にこれを大破する。
高建武 栄留
618-642
27
高蔵 宝臧
642-668
28 「日本書紀」、天智7(668)年、高句麗の使節は、大津宮で高句麗危急存亡を告げた。


国内城は遼寧省臨江県の帽児山西南。丸都山は安東省輯安県の北。魏の母丘倹の「破高句麗勒功碑」がある。

 648年、唐の太宗は、高句麗遠征に失敗する。新羅は、648(真徳王2)年金春秋を長安に送り、百済の侵攻を訴えて出兵を依頼する。660年、太宗の後を継いだ高宗は、百済に出兵する。


大震国、渤海国
668年、高句麗は、唐によって滅びる。
宝蔵王の子、高徳武は、逃れて後高句麗をたてて、大震国と称した。遼によって滅ぼされ、東丹国となった。

渤海はもと粟末靺鞨である。

References:

 「桓檀古記」、桂延寿・編纂、1911年
   「~檀君世紀、~北夫餘紀、~高句麗国本紀」、
 「広開土王陵碑文」
 「三国志魏書東夷伝」
 「漢書」、班固、後漢代
 「三国史記」、金富軾きんふしょく・選(全50巻)、高麗代(1145年)

 「三国志」、陳寿、晋代
 「日本書紀」

 古代の東アジアと日本、佐伯有清、教育社、1977.10.15

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