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2007.05.05,2003.04.05,2002.05.26,1998.8.25(since 1997.5.1)
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| , | ・・・下部 | |||
| [ | ・・・右部(へん) | ] | ・・・左部(つくり) | |
↑ 餘は、余に同じ。
伯済ペクチェ、百済ペクチェひゃくさい、くだら。
扶余
●北天(夫)餘
解慕漱 |
(一世) |
「桓檀古記~馬韓世家、下」檀君高烈加(47世)、遂に位を捨てて阿斯達に入る。真朝鮮と五加は政(始皇帝)に従った。 |
慕漱離 |
(二世) |
「桓檀古記~北夫餘紀、上」太子、慕漱離立つ(二世)。番朝鮮王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将の卓を奉じて、生郷に月支国を立てる。中馬韓という。弁辰二韓もまた国を立てる。 |
高奚斯 |
(三世) |
「桓檀古記~北夫餘紀、上」太子、高奚斯立つ(三世)。衛賊を南閭の城に破る。 |
高于婁 |
(四世) |
「桓檀古記~北夫餘紀、上」太子、高于婁立つ(四世)。右渠の賊が入冦し大敗して海城以北五十里ことごとく手放す。 |
高豆莫 |
(五世) |
「桓檀古記~北夫餘紀、下」北夫餘は衰え、漢冦が盛んとなり、高豆莫は卒本(忽本)に即位し、自ら東明と号した。漢冦と戦い、九黎河を渡り遼東の西安平に至る。古の稾離国の地である。裴川の漢冦を破る。解夫婁を候とし岔陵に遷す。都城に入り北夫餘と称する(高豆莫、檀君五世)。 |
高無胥 |
(六世) |
「桓檀古記~北夫餘紀、下」太子、高無胥立つ(六世)。子なく、岔陵の高朱蒙、即位する。これを殺そうとする者があり、烏伊、摩離、陜父等と共に岔陵水を渡る。 |
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高朱蒙 |
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「桓檀古記~高句麗国本紀」檀君解慕漱が初めて降在したのは秦王政の八年である。解慕漱の二子、高辰は稾離郡王に、高辰の孫、弗離支は沃沮候となる。弗離支は鴨緑江を過ぎて河伯の女、柳花を娶り高朱蒙を産む。
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●迦葉原夫餘(東夫餘)
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解夫婁 |
((一世)) |
「桓檀古記~迦葉原夫餘紀」解夫婁、(高豆莫汗=東明王の)北夫餘に制せられ迦葉原に遷ってここを岔陵とする((一世))。 |
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金蛙 |
((二世)) |
「桓檀古記~迦葉原夫餘紀」子無く、金蛙を太子に立てる((二世となる))。国人、高朱蒙を殺そうとする。高朱蒙は、淹利大水(アリナレ、鴨緑江)を渡り卒本川に新しく高句麗を開き始祖となる。(BC37~19在位) |
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帯素 |
((三世)) |
「桓檀古記~迦葉原夫餘紀」太子、帯素立つ((三世))。高句麗を侵攻するが大敗する。高句麗が来襲し上将の快由、帯素王を殺す。 |
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「桓檀古記~迦葉原夫餘紀」王弟、海頭王を殺して渇$思水の浜に渇$思国を立てる。
↑ 渇$(-さんずい)
高句麗武烈帝(大武神,18~44在位)の降武16年、都頭王、国を挙げて高句麗に降り、東夫餘候に封じられる。都頭を名付けて于台とする。渇$思の王も降ってきたので、椽那えんな部の王とし、背に絡文が有るので姓を絡氏とする。
絡氏、自立して開原(遼寧省図県の南)の西北から燕の近く、白狼谷(熱河省朝陽県の西南、晋時代に白狼城という。)に遷るが、高句麗の文咨烈帝(文咨明,491-519)の明治甲戌に椽那部に編入する。
※ 椽那えんな部は高句麗五加のうちの絶奴部。
●歳#{濊}(穢)
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(徐珂殷の時代) |
「契丹古伝~第31章」宛の徐は海を渡り殷を頼り宛難に居して地を数百千里にわたり開いて、弦牟達に昆莫城を築き、国を徐珂殷と号した。 |
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南閭峙 |
淮骨令(歳#{濊}君) |
「後漢書~東夷伝」歳#{濊}君南閭は、右渠に叛いて漢に内属した。 |
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蔚祥峙 |
淮骨令(歳#{濊}君) |
「契丹古伝~第35章」洛兎(楽浪郡と玄菟げんと郡)が出現し、南閭峙は、憤慨して自刎(自害)する。子の淮骨令蔚祥峙は、襲い遼東を破って其の守の彭吾を斬り、国を率いて、于(ここ)を潘耶と合わせたので潘耶は大きくなった。 |
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(東部都尉の時代) |
「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」東沃沮の条、前漢の武帝は元封2(BC109)年に古朝鮮を征伐し衛満の孫の右渠の領地を分割して四郡を設置した。その一つの玄菟郡は高句麗の夷貊部族に攻撃され行政機関を高句麗の外、西北の方向に移し、楽浪郡に委託された。楽浪郡の管轄する領域が広大となったので前漢は、単単大嶺の東部を分割して東部都尉を設置した。統治機構は不耐城に置かれた。 |
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(不耐歳#候の時代) |
「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」東沃沮の条、後漢の光武帝は建武6(30)年、郡に所属する都尉を廃止し 、各民族の長師や渠帥を県候に任官し、不耐、華麗、沃沮は候国とみなされた。 |
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(不耐歳#{濊}王の時代) |
「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」歳#の条、後漢末期に歳#は高句麗に従属した。魏の斉王芳の正始6(245)年、楽浪郡太守劉茂と帯方郡太守弓遵は高句麗に従属していた単単山脈東部の不耐歳#候を降服させた。 |
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「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」弁辰の条、国、鉄を産出し、韓・歳#{濊}・倭、皆従いてこれを取る。 |
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百済・扶余、遼東の東・高麗の隣の時代
| ★「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」夫余の条 夫余は長城の北、玄菟郡を去って千里に在る。南は高句麗、東は邑婁、西は鮮卑に接している。北は弱水を境とする。 |
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★「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」夫余の条 |
※ 弱水は西遼河か松花江のどちらか?。鮮卑との位置関係が問題になる。
| ★「宋書」百済伝 百済国は、もと高麗とともに遼東の東千里にあった。その後、高麗は遼東を侵略し、百済は遼西を侵略した。百済の治する所は晋平郡晋平縣という。 |
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★「梁書」百済伝 その国は、もと句麗と遼東の東にった。晋の世に、句麗はすでに遼東を侵略した。百済もまた、遼西と晋平の二郡の地を占拠して、自ら百済郡を置いた。 |
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★「通典」 晋の時に、句麗はすでに遼東を侵略した。百済もまた、遼西と晋平の二郡の地を占拠した。 |
百済は、もと高麗(句麗)とともに遼東の東千里にあった。遼東は、現、遼寧省遼陽近辺だから、その東千里は吉林省南部にあたる。夫余は、吉林省あたりにあったと考えられる。
その後とは西晋(265-316)東晋の時代である。
●扶余
| ★「周書」百済伝 百済の先は、蓋し馬韓の属国で、夫余の別種である。仇台は、帯方の地に百済を建国した。 |
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★「隋書」百済伝 東明の後、仇台グデという人がいて、仁・信に篤く、始めて国を帯方の故地に建てた。漢の遼東太守の公孫度(190~204年)は、娘を妻にさせた。 |
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★「三国志魏書」公孫度伝、 公孫度(190~204年) |
仇台は公孫度の保護を得ていた。魏の明帝の命により、司馬懿は公孫度の孫の公孫淵を滅ぼした。公孫淵が滅亡し、帯方郡が魏の支配下にはいるとともに百済は南に移動したと考えられる。
「漢書」王莽は、AD9年、漢を倒し新を建てると四方に使節をだし、高句麗と扶余に印綬を与えた。 AD12年、新の王莽は匈奴の討伐に高句麗候の出兵を要求するが、陶$とうはこれを拒否した。王莽は高句麗を討ち、下句麗候と呼んだ。 | ||
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「後漢書~光武帝」光武帝の建武25(AD.49)年、夫余王は使いを遣わして奉献した。 「後漢書」第4代、和帝(88-105)の元興元(105)年春、高句麗は遼東郡に侵入し六県を攻略した。 第6代、安帝(106-125)の元初5(118)年、歳#{濊}貊とともに玄菟郡を侵攻し華麗かれい城を攻めた。 建光元(121)年の秋、馬韓・歳#貊の数千騎を率い玄菟郡を包囲した。扶余王は尉仇台を派遣し二万余人を率いてこれを討った。 建光元年(121)年、高句麗王の宮(太祖, 53-146)が死し、 翌年、(子?の)遂成すいせい(次大146-165)は、みずから玄菟郡に服属した。 ↑ 歳#(+[さんずい) |
| 夫台 |
167頃 |
167年、扶余王夫台、2万の軍で玄菟郡を襲ったが失敗した。 |
●百済
| 中 国 名 |
王名 | 代 | 資料 |
|---|---|---|---|
| 朱蒙チュモン | 朱蒙チュモン주몽 | ||
| 沸流プル | 朱蒙の長男。 | ||
| 温祚オンジョ BC18-AD28 |
1 | 温祚オンジョ王온조왕 朱蒙の次男。 | |
| 多婁다루 28-77 |
2 | 多婁王다루왕 「三国史記~新羅本紀」新羅の脱解7(63)年、百済多婁王は、境界を拡張して娘子谷(今の清州) に至り、蛙山城(今の忠清北道、報恩)、狗壌城(沃川)を攻めたがうち負かした。脱解10(66)年~20(76)年、百済と蛙山城をめぐる攻防があったが取り返した。 | |
| 己婁기루 77-128 |
3 | 己婁王기루왕 | |
| 蓋婁개루 128-166 |
4 | 蓋婁王개루왕 | |
| 肖古초고 166-214 |
5 | 肖古王초고왕 | |
| 仇首구주 214-234 |
6 | 仇首王구주왕 | |
| 沙伴사반 234 |
7 | 沙伴王사반왕 |
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★「晋書」東夷伝 (西晋の)武帝の時、(扶餘は)頻りに来て朝貢した。大康6(285)年になって、慕容鬼#ぼようかいのために、襲われて破られることになった。その王依廬は自殺し、子弟は走って沃沮を保った。 |
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★「桓檀古記~大国本震国本紀」 或いは、次のようにも云われている。依廬王は鮮卑の慕容鬼#に敗れ、逃れて海に入り還らなかった。子弟は、走り、北沃沮を保った。明年、子依羅が自立すると、慕容鬼#は又、国や人を侵し、掠めるので、衆数千を率いて海を越え、倭人を定めて王となる。 |
==[仮説]==この「桓檀古記~大国本震国本紀」の、「或いは、次のようにも云われている。」以下は「晋書」東夷伝に合わせて書き直したのであろう=={佃收}==
●扶余
| 簡位居 | 「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」夫余の条、嫡子無し。 | |
| 麻余 | 240-249頃 | 「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」夫余の条、諸加は、簡位居の庶子の麻余を即位させた。 副官の位居が実権をにぎり京都の洛陽に使者を派遣して貢献した。 魏の正始年間(240-249)に、毋丘倹は、玄菟郡太守王斤#おうきを夫余につかわした。 ↑ 斤#(+]頁) |
| 依廬 | ?-285 | 「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」夫余の条、麻余の子の依廬が6歳で即位した。 「桓檀古記~高句麗国本紀」依廬王は鮮卑の慕容鬼#に敗れ逃れて海に入り還らず。子弟走りて北沃祖を保つ。 ↑ 鬼#(+まだれ广) 「晋書」東夷伝、武帝(西晋,265~290在位)の時、(扶餘は)頻りに来て朝貢した。大康6(285)年になって、慕容鬼#ぼようかいのために、襲われて破られることになった。その王依廬は自殺し、子弟は走って沃沮を保った。 |
| 依羅 | 286- | 「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」明年、子依羅立つ。再び慕容鬼#に敗れ衆数千を率いて海を越え倭人を定めて王となる。 |
遼西方面に勢力を張る鮮卑族の慕容鬼#ぼようかいは、大康6(285)年、夫余を攻めて撃破し、夫余(扶余)王依廬を破る。明年、その子依羅立つが、再び慕容鬼#に敗れる。
なんと、夫余(扶余)王依羅は、286年以降に衆数千を率いて海を越え倭人を定めて王となったという。
百済、馬韓の一国の時代
| ★「梁書」百済伝 東夷に三韓国があり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓という。弁韓・辰韓は、各12国、馬韓は54国ある。大国は万余家、小国は数千家で、総て十余万戸ある。百済は、その一国である。 ★「北史」百済伝 百済の国は、蓋し馬韓の属である。 ↑ 蓋し=けだし。推量の文 ★「旧唐書」百済伝 もとまた扶余の別種である。かつて馬韓の故地であった。 ★「通典」東夷序略 百済・新羅は魏より歴代、中国にたびたび朝貢した。 ★「周書」百済伝 晋代以後、中原に使いを遣わして藩と称し、また封拝を受けた。 |
265年に魏が滅び(西)晋が中国を統一した。274年幽州の五郡を分割して平州をおいた。平州は、昌黎しょうれい・遼東・楽浪・玄菟・帯方の五郡26県16100戸を統治した。(現、遼寧省から朝鮮西北部にかけてである。)
| ★「晋書」武帝紀 太康7(286)年、馬韓等11国、使いを遣わして来献する。平州設置は、馬韓、辰韓地方の朝貢を活発にした。 ★「晋書」 342年、封裕は言った。高句麗・百済・宇文・段部の人々が前燕の都(遼西の竜城)に居住して、その戸数十万である。 ★「資治通鑑」 346年条、はじめ扶余は鹿山にいた。百済に侵略されて西に移動し燕に近づいた。 |
つまり、数万戸の百済人が遼西に住んでいた。
| 中 国 名 |
王名 | 代 | 資料 |
|---|---|---|---|
| 古爾 古尓 234-286 |
8 | 古爾(古尓)こに王고이왕コイワン 260年、官僚組織として、内臣佐平(王命担当)、内頭佐平(財政担当)、内法佐平(儀式担当)、衛士佐平(衛兵担当)、朝廷佐平(司法担当)、兵官佐平(軍事担当)を置いた。 | |
| 責稽체겨 286-298 |
9 | 責稽王체겨왕 | |
| 汾西분서 298-304 |
10 | 汾西王분서왕 「三国史記~百済本紀」百済の汾西7(304)年、春、百済汾西王は、ひそかに兵を挙げ、楽浪の西県を奪い取った。冬、楽浪太守が派遣した刺客により薨去した。 | |
| 比流비류 304-344 |
11 | 比流王비류왕 | |
| 契겨 344-346 |
12 | 契王겨왕 |
※十六品
官位として、佐平ジワピョンを一品、達率タルソルを二品とし、恩率以下十六品を置いた。
楽浪を支配した時代
高句麗の第15代、美川王の313年、楽浪郡は滅亡したが、百済の第13代、近肖古王(余句)のとき、高句麗の第16代、故国原王(高劉#)を破り、楽浪郡を支配するなど東アジア世界に認められ、歴史時代に入った。
「魏書」百済の須は高句麗王の劉#を殺した。これにより楽浪近辺における百済の勢力を増大した。
「晋書」百済王、372年、楽浪太守となる。(東晋は楽浪郡を直轄とせず属国に任せることとした。)
「宋書~東夷百済国伝」百済国はもと高句麗とともに遼東郡の郡庁である襄平(
現、遼陽)の東一千里にあった。その後、高句麗は遼東郡を支配、百済は遼西郡を支配した。このとき、百済の根拠地は晋平郡晋平県である。
「梁書」百済の根拠地は、馬韓で、東晋時代に梁西、晋平の二群を領有して百済郡とした。
▼「日本書紀~神功皇后の摂政」によると
神功皇后の摂政46年(366年か?)、斯摩宿禰を卓淳国に遣わす。
卓淳国の王、末錦旱岐まきむかんきは次のように言った。
甲子の年(364年か)の七月中に百済人の久邸$くてい、弥州流みつる、莫古まくこが来ていうには、百済の王は東方に日本国があることを聞いて臣等を遣わし、道路を求めてこの土地に来た。道路を教えてもらえば我が王は必ず徳を与えるだろう。
↑ 邸$(-]おおざと)
(366年に)斯摩宿禰は、爾波移にはやと卓淳人の過古わこを伴って百済国の(近肖古)王を慰労した。
神功皇后の摂政49年(369年か?)、荒田別、鹿我別を卓淳国に派遣した。
百済は木羅釿$資もくらこんし、沙沙奴跪ささなきを派遣。両者合流して連合で新羅の支配下にあった加耶7国を平定した。
↑ 釿$(-[金)
| 比自本# | 南加羅 | 喙国 | 安羅 | 多羅 | 卓淳 | 加羅 |
※ (近)肖古王在位346-374から換算すると甲子の年は364年。神功46年は、366
年、神功49は、369年となる。
↑ 本(+火へん)
南蛮、忱彌多禮を屠ふり、百済に賜う。
「日本書紀」神功皇后の摂政51年(371年か?)、職麻那那加比跪しくまななかひこを百済に派遣、近肖古王から七枝刀と七子鏡等を賜った。
※ 辛酉の年は、301年と361と年421年にあたる。甲子の年にあたるのは364年。逆に、391年は辛卯しんぼうの年にあたる。
「広開土王陵碑文」、永楽6(396)年、軍を百済に進め、大規模な攻撃を行って百済を降伏させた。
| 中 国 名 |
王名 | 代 | 資料 |
|---|---|---|---|
| 余句 | 近肖古 (照古、 速古、 背古) 346-375 |
13 | 近肖古きんしょうこ王근초고왕、照古、速古、背古 余(餘)は百済王の姓で、後には、ずばり、扶餘とも称した。 高句麗王を殺す。(4世紀後半、朝鮮半島北中部) 高句麗の故国原王39(369)年、百済の薙城に進入したが百済の近肖古王は太子の須を派遣しこれを破った。 高句麗の故国原王41(371)年、百済と戦い戦死。 「日本書紀~神功」摂政51(371)年、千熊長彦ちくまながひこ(職麻那那加比跪しくまななかひこ)を久底$(-广、){氐}くていを副えて百済国に遣わす。摂政52(372)年、(近肖古王から)七枝刀と七子鏡等を献つる。 「晋書~簡文帝紀」東晋は、372年、鎮東将軍領楽浪太守とする。 都を慰礼城イレソンから漢山城ハンサンソン(就床現、京畿道広州、郡西部)に移す。 「日本書紀~神功」摂政55(375、乙亥)年、百済の肖古王薨す。 |
| 余須 | 近仇首 貴須 375-384 |
14 | 近仇首きんくす王근구수왕、貴須王 「日本書紀~神功」摂政56(376)年、百済の王子貴須立って王となる。 377年、北方の前秦に朝貢。 「日本書紀~神功」百済記に云わく、壬午(382)年、新羅は貴国に奉らないので、貴国は、沙至比跪を遣わし討たせるが、新羅人は美女二人を飾り津に迎え誘ったので、反して加羅を伐つ。加羅の国王、己本旱岐、児の百久至、阿主至、国沙利、伊羅麻酒、爾文$(+さんずい)至等、其の人民と百済に来たので、百済は厚遇した。 |
| 枕流 384-385 |
15 |
枕流とむる王침류왕 384年、東晋に朝貢、「使持節都督東将軍」 | |
| 辰斯しんし 385-392 |
16 |
辰斯しんし王진사왕 弟の辰斯が王となる。 「日本書紀」神功皇后の摂政15年、百済王枕流薨みまかり、王子阿花は年少で、叔父の辰斯が王位を奪った。 「広開土王陵碑文」辛卯しんぼうの年(永楽1年、391年)に倭が海を渡り来て百済を破った。 「日本書紀」応神3年、辰斯王が立ったが礼を失したので、紀角宿禰きのつぬのすくね・羽田矢代はたのやしろの宿禰・石川宿禰・木菟つくの宿禰らを遣わして責め立てた。 「三国史記」辰斯王8(392)年、高句麗の談徳(広開土王)は四万の兵をひきいて百済の北辺に攻め込み石見#せきけん城など十余城を陥落させ、さらに関弥かんみ城を攻め落とした。辰斯王は狗原の行宮に薨みまかった。 ※ 「三国史記」の紀年では辰斯王8(392)年は壬辰じんしん、「広開土王碑文」の紀年では広開土王元(391)年は辛卯しんぼうにあたる。 | |
| 余暉 | 阿花あか 阿辛# 392-405 |
17 | 阿花あか王、阿辛#王아신왕 「広開土王陵碑文」永楽6(396)年、軍を百済に進め、大規模な攻撃を行って百済を降伏させた。 「記紀」、応神のときに阿知吉師(阿直岐)と和邇吉師(太子王仁)を倭に派遣した。 「百済記」王子・直支を倭国に送る。 「三国史記」阿花王2(393)年、高句麗の南辺を攻撃したが引き上げた。将軍、真武。 阿花王3(394)年、高句麗と水谷城で戦い敗戦。 阿花王6(397)年、倭と友好を結び、太子・腆支を人質として送る。 「日本書紀」百済記引用、枕彌多礼とむたれ(済州島か)、見#南けんなん、支侵ししん、谷那こくな、東韓とうかんを奪われたのは、王に礼が無いからである。 「広開土王陵碑文」永楽9(399)年、百済が倭と和を結んだことに対し圧力をかけた。 |
| 余腆 | 直支 腆支 眞支 405-420 |
18 | 直支とき王、腆支てんし王전지왕、眞支王진지왕 「三国史記」阿辛#王3(394)年、腆支、太子となる。阿辛#王6(397)年、倭国の人質となる。 解氏が台頭する。解忠は、直支を国王に即位させる。 「三国史記~百済本紀」腆支王5(409)年、倭国が使者を派遣し夜明朱を百済に送る。 腆支王14(418)年、使者を倭国に派遣した。 「晋書しんじょ」安帝紀、義熙ぎき12(416)年、百済は使者を派遣したので、東晋の安帝は使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王に冊封した。 |
| 久爾辛 420-427 |
19 | 久爾辛王구이신왕 | |
| 余比 | 毘$有ひゆう 比有 427-455 |
20 | 毘$有ひゆう(比有)王비유왕 「三国史記~百済本紀」毘$有王2(428)年、倭国の使者が従者50人をつれてやってきた。 「三国史記」新羅の訥祗王39(455)年、高句麗が百済を侵したので訥祗王は百済を救援した。 |
| 余慶(司) | 蓋鹵 (近)蓋婁 455-75 |
21 | 蓋鹵(近蓋婁)王개로왕 「三国史記~百済本紀」蓋鹵王18(472)年、木茘$満致は文周を敵の手から救った。 蓋鹵王19(473)年、高句麗に辺境を犯され、北魏に出兵を乞うが、断られる。 蓋鹵王21(475)年、高句麗の長寿王は百済を攻め漢山城は落城し、蓋鹵王は捕らわれた。上佐平の文周は、新羅に救援を求めたが間に合わず、木茘$満致・祖弥桀取らと南に落ちのびた。 |
↑ 見#(+[山) ↑ 茘$(-くさかんむり)、り
※ 毘$有王没、蓋鹵王即位を三国史記は455年とするが、「百済新撰」では、429
年。
「日本書紀」雄略20年、「百済記」引用、蓋鹵王の乙卯いつぼうの年に狛こまの大軍が来て尉礼を失い、国王及び大后・王子等、皆敵の手に没すという。
※ この乙卯の年は475年にあたり「三国史記~百済本紀」に一致する。
遼西を支配した時代(一部追加改定1999.4.1,
1998.8.25, 1997.5.1)
四世紀、遼西は、慕容氏の前燕、後燕が強大であったが396年、慕容垂の死後、衰退した。
後燕の後、馮氏の北燕があったが、436年北魏に滅ぼされた。
450年代には、高句麗は南下のぎさしをみせ、百済や新羅に圧迫を加え、470年代になると百済への侵攻を強めはじめる。
当時、百済は楽浪に都していたが、遼西に遷都しようとする。
| ★「宋書」・「梁書」 百済は遼西のあたり(遼西郡・晋平郡)を割取した。 ★「魏書、百済伝」 余慶のとき、高句麗が昌勢となり、百済を侵略するようになった。 ★「魏書」 百済王余慶は、472年、北魏に遣使して臣と称した。 |
百済475~479年頃に晋平郡晋平県に遷都した。
| ★「資治通鑑」 488年、北魏は百済を侵略したが、これを撃退した。 ★「南斉書」 490年、北魏は再び百済を侵略したが、これを撃退した。 |
| 中 国 名 |
王名 | 代 | 資料 |
|---|---|---|---|
| 牟都 | 文洲 文周 475-477 |
22 | 文洲(文周)王문주왕 475年、文周は錦江クムガンのほとり、熊津城ウンジンソン(忠清南道公州)で即位した。 「三国史記~百済本紀」解仇を兵官左平に任じた。王弟(?)の昆支を内臣左平、長男の三斤を太子とした。 黒竜が熊津に表れ内臣左平の昆支が死んだ。 478年、解仇ヘグの刺客により王は殺された。 一方、「南斉書」、建元2(480)年、牟都を領東大将軍とするとある。 |
| 文斤 三斤 477-479 |
23 | 文斤王문근왕、三斤王삼근왕、三乞王삼걸왕 「三国史記~百済本紀」文周王の長男13歳で即位。真氏を登用して解仇を討つ。 | |
| 牟大 ・ 太 |
末多 東城 479-501 |
24 | 東城王동성왕、牟大모대 昆支の子。祖父は牟都。 「三国史記~百済本紀」東城王6(484)年、高句麗が新羅を攻めたので援軍を送り母山城( 忠清北道鎮川郡)で高句麗軍を破る。 東城王15年、新羅の召#知王に依頼して、伊伐食#{飡}比知の娘を得た。 「梁書」斉の永明年間(483~493)、太を都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王に除す。天監元(502)年、太を征東将軍に進めたが、まもなく高句麗に破られ、衰弱、居を南韓の地に遷す。 |
※ 吉師、直支は王子、腆支は太子の意。
※ 「日本書紀」雄略32年(己未つちのとひつじ)、百済・文斤王、崩御。雄略天皇崩御。「三国史記」、479年(己未つちのとひつじ)三斤(文斤)王、崩御。つまり、雄略32(479)年ということ。「古事記」では、己巳つちのとみ(489年)、雄略天皇崩御。
※
熊津城ウンジンソン
忠清南道(충청남도)公州市(공주시)にあったといわれる。錦江の畔にある。
忠清南道公州市금성동선5번지일대には、武寧王陵(무령왕릉)がある。錦江が武寧王陵の周りを湾曲して流れる。
▼中国南朝、斉との交流(479-502)
百済は高句麗・北魏・南斉と対抗しつつ領土を拡大した。
「南斉書」百済伝、南斉は百済王、牟大の要望に従い、牟大の臣下の達、茂、萬をそれぞれ帯方太守、広陵太守、清河太守に仮に冊封した。
「晋書」地理誌、帯方郡は平州(現北朝鮮の鳳山郡で高句麗の勢力範囲に近接)
。広陵郡は徐州(現江蘇省淮安で南斉と北魏の境界)。清河郡は冀州(現山東省臨清で北魏の領土)。
▼飛鳥戸造氏の伝承(1998.8.25)
「新撰姓氏録」、飛鳥戸造氏には、次の3氏がある。
「新撰姓氏録~右京諸蕃条」、出自は百済国、比有王である。
「新撰姓氏録~河内国諸蕃条」、出自は百済国主、比有王の男子、昆#伎王である。
↑ 昆#(+[王)
「新撰姓氏録~河内国諸蕃条」、出自は百済国末多王の後である。
飛鳥戸造氏3氏の伝承をもとに「百済新撰」を編纂したと考えられる。これによると王系は次のようになる。(━線部分。─線部分は仮説。)
>┯20比有王━┳21蓋鹵王
│ ┃ (蓋婁、加須利君)
│ ┗━毘 支━━┳25斯麻王
│ (軍 君) ┃(嶋君、武寧王)
└22文周王━━23三斤王 ┗24末多王
(牟都、文洲王) (牟大、東城王)
==[仮説]==文周王は比有王の義理の弟である。(─線部分)=={}==
==[仮説]==文周王は蓋鹵王の母の弟である。=={}==
==[仮説]==文周王は末多王の外祖父である。=={}==
※ 「百済新撰」は日本書紀に引用されている。
「日本書紀」雄略5年、加須利君かすりのきし、注、蓋鹵王かふろおうである。・・・弟、軍君こにきし、注、毘支こんしである。
「日本書紀」雄略21年、注、文#(+[さんずい){汶}洲王は蓋鹵の母の弟である。
==倭にいた毘支こんしは、軍君こにきしとあり、「君」がつくから、第23代、文斤(三斤)王のことであろうか?。==[木屋清八]==
文周문주=文洲문주=牟都むと
蓋鹵개로かふろ=蓋婁かふろう=加須利かすり=慶けい
毘支こんし=軍こん
斯麻사마しま=嶋しま(武寧무령)
末多まつた=牟太むた=牟大모대むだい(東城동성)
文周王は娘を倭にいた毘支の妻とした。
「南斉書」、鎮東大将軍の百済王の牟大は、亡き祖父の牟都を百済王と為す。
飛鳥戸造氏の伝承では、比有王と末多王(東城王)との関係を祖父と孫とする。
「三国史記」は、
>━毘#有王━━蓋鹵王━┳文周王━━三斤王 (比有王) ┃(文洲王) ┗毘 支━━東城王━━武寧王 (末多王)(斯麻王)
とするので、「南斉書」や飛鳥戸造氏の伝承とは一致しない。これは単に王統を繋いだためである。
このことは「三国史記」での在位が、蓋鹵455-75(20)、文洲475-477(2)、文斤477-479(2)、末多479-501(22)となっていて、文洲王や文斤王の在位年数が少ないことからも推察できる。
「日本書紀」武烈4年。百済の末多王、無道で、百姓を暴虐したので、国人は共に除いて、嶋王を立てた。是を武寧王とした。百済新撰に云う、・・・諱は斯麻王という。是、毘#(+[王)支王子の子である。即ち末多王の異母兄である。毘#(+[王)支は倭に向かい、時に筑紫嶋に至り斯麻王を生む。嶋より還し送って京に至るまえに嶋で産まれた故に因って名付けられた。今、各羅の海中に主嶋がある。王の生まれた嶋である。故に百済人は号して主嶋としたという。今案ずるに、嶋王は是蓋鹵王の子である。末多王は毘#支王の子であるならば此を異母兄と曰うのは未だ詳でない。
朝鮮半島南部の時代
・6世紀前葉
「梁書」、502年以降、百済は高句麗に破れ、朝鮮半島南部に移った。
502年~521年の期間は、衰弱、遷都、再建の期間である。
| 中 国 名 |
王名 | 代 | 資料 |
|---|---|---|---|
| 余隆 |
武寧 斯麻/摩 扶余隆 501-523 |
25 | 武寧王무령왕、諱・扶余隆부여융、諱・斯麻/摩(島)사마 「武寧王陵墓誌」百済斯麻王。末多の異母兄。筑紫の各羅島に児を生む。 墓誌銘に、姓は扶余、諱は隆、字(謚おくりな)も隆、百済辰朝の人と刻まれる。 523年62歳で崩じた。 「日本書記、雄略」5年461年、各羅島で斯麻が生まれる。 「百済本記」武寧王8(508)年、耽羅は、初めて朝貢する。 「梁書」普通2(521)年、都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王、余隆、藩を海外に守る。寧東大将軍百済王とする。 |
※ 「日本書記」朝鮮関係記事、地名
継体紀7(513)年から継体紀10(516)年にいたる記事は「百済本記」によっている。
朝鮮関係の記事を、継体紀6(513)年から追うと、
継体紀6(512)年、百済は、任那の4国を譲るように請うた。
| 上多#利#おこしたり{上哆唎} | 下多#利#あろしたり{下哆唎} | 娑陀さだ | 牟婁むろ |
↑ 多#(+口へん){哆}、利#(+口へん){唎}。
継体紀7(513)年、伴跛はひ国(星州)が百済の己文#を奪ったので日本に返還の審判を申し出た。
百済、新羅、安羅、伴跛を集め己文#と帯沙は百済の領有とした。
継体紀8(514)年、子呑と帯沙に城を作り日本に備えた。
継体紀9(515)年、物部連は、海軍を率いて帯沙江に向かったが襲撃され文慕羅まで逃げた。
継体紀10(516)年、百済は木協$不麻将軍を派遣し物部連を己文#{汶}に迎えた。
↑ 文#(+さんずい)
▼ 穢人今州利、他
「隅田八幡神社、人物画像鏡」(金石文)斯麻、長寿を念じて開中費直と穢人今州利、二人を遣わして、良質の白銅をとってこの鏡を作った。
「日本書紀」継体7(513)年、百済、姐弥文貴将軍、州利即爾将軍を遣わし、穂積臣押山(委の百済本紀にいう意斯移麻岐弥)に副えて、五経博士、段楊爾だんようにを貢ぐ。
「日本書紀」継体10(516)年、百済、州利即次将軍を遣わし、物部連に副えて、己文#の地を賜ることに感謝した。また、段楊爾に代えて五経博士、漢安茂こうあんもを貢ぐ。
「日本書紀」欽明紀、百済本紀にいわく、加不至費直、阿賢移那斯、佐魯麻都等
・6世紀中葉以降
| 中 国 名 |
王名 | 代 | 資料 |
|---|---|---|---|
| 余明 | 明穣${穠}めいじょう 諡、聖(聖明) 523-554 |
26 | 聖王성왕 「梁書」普通5(524)年、隆死して、その子、明を都督百済諸軍事綏東将軍とする。 「史記」聖王16(538)年、都を熊津から、泗比#サビしひ(사비)に移し南扶餘と号す。 「日本書紀~欽明紀」550年、高句麗と全面的に衝突。 「三国史記」554年、新羅との函山城の戦いで戦死。 |
| 余昌 | 威徳 554-598 |
27 | 威徳王위덕왕 驃騎大将軍、570年、北斉 「日本書紀~」欽明16(555)年、17(556)年、百済聖明王が新羅と戦い戦死したと聞き、使いとして遣わされた百済王子の恵(余昌の弟、百済第26代。)に武器と良馬を賜った。また、筑紫の軍船を率いて護衛し、勇士1,000を航路の要害に配置して守らせた。 |
|
余季 |
恵 |
28 |
恵王혜왕 |
| 余宣 | 法 599-600 |
29 | 法王법왕 |
| 余璋 | 武 600-641 |
30 | 武王무왕 |
| 義慈 641-660 |
31 | 義慈王의자왕 660年、唐の高宗は百済討伐を決断。新羅、出兵 王都、泗比#城、前王都、熊津城、陥落。 太子、扶余隆。王子豊璋(扶余豊) |
↑ 穣$(つくりは農){穠}
「日本書記」天智2(663)年、白村江の戦いで破れた百済は完全に滅び、日本は朝鮮から手を引いた。
「日本書記」天智10(671)年、佐平の沙宅紹明さたくじょうみょう(法官大輔)、鬼室集斯(学職頭ふみのつかさのかみ)、達率の許率母(五経博士)などに日本の官位を与えた。
====天智天皇は佐平や達率の百済から亡命した官僚に対し、官位をそのまま認め、律令・五経・兵法の専門家として起用した。=={姜在彦}==
※錦江
錦江굼강は、扶余付近で白馬江백마강と呼ばれ、あるいは河口付近で白村江と呼ばれていたという。扶余はこの当時、泗比#サビしひ(사비)と呼ばれた。
▼ 二二檐魯えんろと旁らの小国
百済は二二檐魯えんろを設置して百済王の子弟宗族を分封した。
「梁職貢図」邑を檐魯えんろと謂い中国の郡県に二二檐魯えんろがある。子弟宗族の為に之を分けた。旁らの小国があり、叛波・卓とく・多羅たら・前羅ぜんら・斯羅しら・止迷しめい・麻連まれん・上己文・下枕羅等之に附属する。
▼黒歯こくし常之じょうし
「三国史記~列伝」百済将軍、黒歯常之。任存城で三万の軍士を集め唐軍を迎え撃った。
「百済将軍黒歯常之墓誌」府君、諱は常之、字は桓、元は百済人であり、その先の出自は扶余氏である。黒歯に封ぜられ子孫はこれに因り以て氏となす。
※ 1929年、中国芒山(洛陽)の古墳で墓誌石出土。1986年李希泌(中国古文書収集家)は「曲石精盧蔵唐墓誌」拓本として紹介した。
※ 黒歯国
「三国史~東夷伝倭人条」倭の南に侏儒国、裸国、黒歯国がある。黒歯国は倭国から数千里で船で行くのに1年以上かかる。
●百済のなかの呉
白村江の戦い以後、日本と、新羅の関係は緊張したが、天武天皇の新羅友好政策のかげで、百済から亡命した官僚たちは、出自を中国系に求めた。
| ★「日本書記~雄略紀」 百済より逃げて帰化したした人が、貴信と名のった。呉国の人という。 ★「新選姓氏録~右京諸蕃下」 上勝条、百済の人多利須須。山城国諸蕃の工造条・祝部条、呉国の人、田利須須。 ★「新選姓氏録~止美連条」 田道公、百済国に遣わされ、止美邑の呉の女を娶る。 ★「新選姓氏録~河内国諸蕃」 百済の段、呉服造。百済人、阿漏史よりいづ。 |
==[仮説]==百済滅亡後、百済の人々は先祖の出自国名を名乗ったとみられる。(1998.8.25)=={木屋}==
| ★「史記」 25年、寿夢じゅぼうが卒す。寿夢には四人の子があり、諸はん、余祭、余昧、季礼という。諸はんの子、闔閭こうりょ、夫差 ★「史記~呉太伯」 闔閭10(505)年、夫概を攻める。夫概は破れて楚に奔走する。 ★「廣韻~餘」 風俗通義によると、呉の公子の夫概は楚に奔走した。その子に国があり、夫餘を氏とした。今の百済王夫餘氏である。 ※ 夫概は、闔閭の弟。 ★「三国志魏書~烏丸鮮卑東夷伝」 夫余の条、夫余王は自らを亡命人と語る。 |
※ 呉 周の文王の伯父、太伯・仲ようは、呉に封ぜられ建国した。姫姓。第19代、寿夢じゅぼうその四人の子、諸はん、余祭、余昧、季礼、こうりょ、夫差
※ 斉 周の文王の時、姜姓の太公望呂尚は斉に封ぜられた。八主(八神)を祀る国。八主とは、天主、地主、日主、月主、陽主、陰主、四時(四季)主、兵主をいう。
兵主は軍神、蚩尤しゆう。黄帝と戦い破れた。
References:
「三国史記」、金富軾きんふしょく・選(全50巻)、高麗代(1145年)
「百済記」、、
※ 「日本書紀」神功47,62,応神8,25,雄略20(5カ所)に引用される幻の書。近肖古王から蓋鹵王までの9代(346-475)までの史書。
「百済新撰」
※ 「日本書紀」雄略2,5,武烈4,(3カ所)に引用される幻の書。蓋鹵王から武寧王までの5代(455-523)までの史書。
「百済本記」、、
※ 「日本書紀」継体3,7,9,25,欽明2,5,6,7,11,17(10カ所18項目)に引用される幻の書。武寧王から威徳王1年までの3代(501-557)までの史書。聖王16(538)年、都を熊津から、泗比#(扶余)に移すが、この地で百済は滅亡したため、史書が散逸したか?
「資治通鑑」、、
「武寧王陵墓誌」、、
「広開土王陵碑文」、、
「宋書」、沈約・編、南梁代488年
「梁書」、姚思廉・編、梁代(南朝)629年
「梁職貢図」、梁元帝蕭繹しょうえき
、542年頃
※ 梁武帝(502-549)の在位40周年を記念して武帝の第7子の元帝蕭繹(552-554)が蕃客入朝の様子を直接描いたと言われる。原本では35箇国の使臣図とその国に対する解説が添付されていたという。大半は消失し、南京博物館に所蔵されている「南京梁職貢図」は北宋煕寧10年
、1077年、の残巻の模写本である。
「史記」、司馬遷、前漢代
「三国志」、陳寿233~297、晋代
※ 現在に伝わっているものは、五世紀に裴松之はいしょうしにより校訂・注釈を施したもので、紹興本と紹煕本がある。紹興本は、南宋の紹興年間(1131~1162)に筆写されたもので、紹煕本は、紹煕年間(1190~1194)にを筆写したものをいう。
「魏書」、、
「周書」、、
「南斉書」、、
「晋書」、房玄齢(578-648)、唐代
「隋書」、、
「旧唐書」、劉句#、五代晋代946年
「北史」、、
「通典」、杜佑、唐代(801年)
※ 200巻からなる。最後の第16巻の「邊防」は、東夷、南蛮、西戎、北狄に分かれており、歴代史書に出てくる過去から初唐までの計193か国の伝が書かれている。
「百済将軍黒歯常之墓誌」、
※ 1929年、中国芒山(洛陽)の古墳で墓誌石出土。1986年李希泌(中国古文書収集家)は「曲石精盧蔵唐墓誌」拓本として紹介した。
「日本書記」、、
「隅田八幡神社、人物画像鏡」(金石文)、、
「新選姓氏録しんせんしようじろく」万多親王・他、、815(弘仁6)年
※ 畿内近辺に住む氏族1,182氏を、その始祖によって分類し、家系や由緒を記した書。神を祖先とする氏族を神別、天皇を祖先とする氏族を皇別、外国からの渡来人を祖先とする氏族を諸蕃と呼ぶ。
「翰#苑かんえん」、張楚金、唐代初め、660(顕慶8)年
↑ 翰#(+さんずい)
百済武寧王の世界~海洋大国大百済、蘇鎮轍、彩流社、2007.3.31
朝鮮儒教の二千年、姜在彦、朝日新聞社、2001.1.25
神武・崇神と初期ヤマト王権、佃收、星雲社、1999.1.20
倭人のルーツと渤海沿岸、佃收、星雲社、1998.4.10
古代朝鮮諸国と倭国、高寛敏、雄山閣出版、1997.4.20
隋唐帝国と古代朝鮮、武田幸夫・礪波護、中央公論社~世界の歴史6、1997.1.10
古代の韓と日本、坂田隆、新泉社、1996.8.31
古代朝鮮、井上秀雄、日本放送出版協会、1972.11.25
百済王統譜の一考察、日本史論叢7、古川政司、1977
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| 鬼#(+まだれ广) 邸$(-]おおざと) 歳#(+[さんずい){濊} 斤#(+]頁) 劉# 釿$(-[金) 本# 底$(-广) 文$(+[さんずい){汶} 見# 辛# 毘$([田+]比) 見#(+[山) 茘$(-'くさかんむり) 召#(+[火) 昆#(+[王) 多#(+[口){哆} 利#(+[口){唎} 文#(+[さんずい){汶} 穣$(]農) 比# 句# 翰#(+[さんずい) |