2000年日本シリーズ出場を最後の花道に、ホークスの背番号6、湯上谷ヒロ志が現役引退を発表した(ヒロは「立広」)。
彼のことを気にかけ、応援してきたものとしては、「ついにこの日が来たか」という、諦めの思いがもっとも深い。
できれば、「ガメ」をもっと応援していたかった。
僕がホークス・ファンに転じたのは、ホークスの福岡への移転が契機である。僕には、かつての「南海ホークス」という球団への愛着は薄い。南海ホークスの時代、あろうことか、僕はジャイアンツ・ファンであった(ついに衝撃のカミングアウトだ――笑)。
やめた理由については、多くを語らない。語らずとも、平素からこのページを見ている人間にとっては、明らかだろう。
しかし、ファンをやめるというのは簡単なことではない。球団を嫌いにはなれても選手を嫌うのは難しい。いくら、心を閉ざそうとしても、どうしても情報は気になるし、入ってくる。何せ、相手はジャイアンツだ。毎試合地上波で放送され、スポーツ・ニュースを見れば、必ず「まずはジャイアンツ戦から」の、あのジャイアンツだ。
振った女から、えんえんラブレターが届き続けるようなものである。NFLへの傾倒が、その頃異常に激しかったのも、おそらくは、なるべく野球から目を逸らしていたいという心理がはたらいていたと思われる。
けれども、僕は、野球が好きだ。だから、いつまでも野球から目を逸らしているわけにはいかなかった。
だから、僕はパ・リーグに目をつけた。1年間、僕は、セ・リーグの情報をシャットアウトし、パ・リーグだけに注目し続けた。幸い、NFLを観るために加入したNHK−BSがあったので、ときおり、TV観戦が可能だった。
むろん、僕がもっとも重きを置いたのが、僕の出身地である九州へと移転したホークスである。僕は、これを「天啓」にしたかったのだ。
だが、一抹の不安があった。ホークスは、紛れもなく弱小球団だった。パ・リーグで、連続Bクラス記録を伸ばし続けていた球団であった。おまけに、数少ない花形選手である門田は、九州への移転を不服として、ブレーブス(現ブルーウェーブ)へと移籍してしまい(後に出戻ってきたが)、ドラフトでは1位指名選手に入団拒否される始末だった(あの平成元年ドラフトで1位枠を無駄に潰しちまったんだぜ!)。
だから、僕は1年間待った。応援する価値がある球団かどうか、僕は1年の間に見定めようとした。
そして、ホークスの選手は、僕の期待を裏切らなかった。岸川(よもや、後にジャイアンツに行こうとは。その交換要員だったのが吉田である)が、シーズン3発のサヨナラ本塁打で魅了し、佐々木は、その駿足・強肩を強烈にアピールした。
もう一人、小柄な身体をものともせず、若さと将来性と、ついでに、何とも珍しい名前を売りこんできた内野手がいた。
言うまでもなく、それが湯上谷である。
僕は、思った。「このチームは伸びる」と。確かに、完成にはほど遠かった。しかし、いい野手がいる。投手力はガタガタだが、親会社の資金力が新人発掘に繋がれば、強くなっていくと。
だから、僕はホークスを応援することにした。
ところが、僕の意に反して、ホークスは伸びなかった。木村(恵二)、若田部と、僕の予想通り、前評判の高い投手をドラフトで獲得しながら、チームの成績は低迷した。
その責が主に、移転2年目から指揮を執った田淵監督にあるのは、さほど論を待たないだろう。だが、ホークスを取り巻く環境も異様さを呈していたのは間違いない。
元木の入団拒否がトラウマになったのか、ホークスは異常なまでに年俸を高騰させた。チームが下位に低迷しているにもかかわらず、とんでもない大盤振舞を続けた。行き着いた先が、あの2億円カルテットである。
湯上谷もその奔流に呑みこまれた。確かに、中心選手として活躍し続けてはいた。だが、彼の年俸の上がりかたは、明らかに彼のプレイ技量の停滞にそぐわなかった。
そう、僕が「こいつは伸びる」と期待したほどには、湯上谷は伸びなかった。確かに、はっとするようなファインプレイもやる。思わぬ大きな一発も打つ。サヨナラ打も放った。
けれども、プレイは荒いままだった。いつまで経っても、シーズン22失策を記録したときのまま、素質だけでプレイしていた。野球への取り組みの甘さは、肝心なところでのミスにつながった。「よりによって、ここで」という場面で、彼は幾度もエラーした。タイムリ・エラー数は、相当なものであるはずだ。
年俸において過大評価され、彼は一流選手の仲間入りをしたと、自身を錯覚してしまった。彼のみならず、チーム全体がおかしかった。上がり続けるのは年俸のみで、肝心のチーム成績は、低迷したまま一向に上昇気配を見せなかった。僕は、応援する球団としてホークスを選んだことを、少しばかり後悔し始めていた。
余談だが、そんな中で、「結果を出すまでは報酬不要」と、FAながら契約金と年俸アップを拒否して移籍してきたのが工藤公康という、一人のプロフェッショナルである。どれだけ救われた思いがしたか。
そうこうしているうちに、浜名が入団し、井口が入団し、湯上谷の機会は着実に奪われていった。それでも、僕は、湯上谷が彼らに劣っている選手には見えなかった。盗塁の正確性、肩の強さ、長打力において、湯上谷は浜名を上回っていた。.250が壁になっている井口に比して、湯上谷は.300の力をしばらく維持していた。
しかし、湯上谷は彼らとの競争に敗れた。30歳あたりで、明らかに体力と俊敏性がガタ落ちしてしまった。かつて、3年連続全試合出場を果たした肉体は、故障を次々に発生させて、チーム構想から、自ら滑り落ちてしまった。
湯上谷の凋落と入れ替わるように、ホークスはまた激変の季節に入る。強引と言っていい方法で獲得し続けたアマチュア好素材選手たちがようやく開花し、かつて酷評された指揮能力を王監督が向上させ、ついに同率3位で辛うじてBクラス脱出を果たすと、翌年からは、パ・リーグを連覇してのけた(うち、一度は日本シリーズを制している)。今現在、パ・リーグ最強クラスのチームであることに異を唱えるのは、豊田泰光のごとき、病的アンチのみだろう。
皮肉にもその頃、親会社の経営は傾き、選手年俸は抑制された。湯上谷の年俸は、大きくダウンする。
昨年の更改において、湯上谷は協約いっぱいの25%減を喰らう。彼は、更改後に「本当に優勝したのかな」と語ったと伝えられている。一軍帯同はわずかとはいえ、痛む肩をかばって、自分なりに精一杯の貢献をしたという自負があったのだろう。が、しかし、冷静に外から見れば、それまでの年俸があまりにも高過ぎた……。
球団は、湯上谷に対して、初めて正当な評価を下したのである。
優勝という経験を経て、ようやく彼は、秋山や工藤の節制と鍛練の意味を知ったかもしれない。だが、それは、遅きに失した。身体能力の低下は、すでに取り返しがつかなかった。肉体は衰えるのみなのである。30歳を越えてしまってからの鍛練は、衰えを遅らせこそすれ、向上させることはできない。
「自分のイメージするプレイができなくなった」と語り、彼は引退を表明する。その言葉は僕にとっても辛い。彼の「イメージ」は、おそらくは、僕の「期待」と同じだったであろうから。
湯上谷は「弱いホークス」の象徴だった。
高卒入団ながら、すぐに活躍の場が与えられたのは、選手層の薄さの故である。
能力を向上させる機会を逸したのは、球団の拙劣な経営戦略によるものである。
強い球団であるなら、「湯上谷のような選手」が中心選手にはなりえないのだ。選手は素質だけではゲームには出られず、その力を向上させ、維持するモチベーションが常に要求される。
ホークスが強くなったとき、だから、彼はユニフォームを脱がざるをえなかった。
けれども、僕は、ガメが好きだった。低迷するチームの中で彼のプレイに一喜一憂し、逆に、強くなったチームの中に、何とか彼の活躍の場を祈り……。この10年余り、ホークスを応援してきた歴史は、そのまま湯上谷を応援してきた歴史である。
それは、僕にとってよき思い出である。チームが低迷していたことも、彼が凡プレーで僕を落胆させ続けたことも、過去となった今では、よき思い出であり、それより下には下がらない。今年の日本シリーズ第6戦、清原のゴロを間に合わない一塁へとんでもない高投をした湯上谷、あのプレイは、まさに、彼のプレイだった。
あざ笑うなら、あざ笑え。けれども、あのプレイを「最後まで湯上谷だったなあ」と深い感慨とともに呟き、思い返す人間が、少なくとも、ここに1人いる。
名残惜しさがないと言えば嘘になる。来年だって、再来年だって、この一風変わった名字とあだ名の選手を応援していたかった。王監督ではないが、「まだまだヤレると思うんだが」と言ってあげたい。
けれど、本人が引退を決めた以上、僕は、「ありがとう」の言葉で彼を送るしかない。そして、その言葉に、飾りも偽りも後悔もない。彼を応援してきたこの10年余りは、僕にとって、「よい時間」であったことは間違いないのだから。
ありがとう、ガメ。きみを応援していて、確かに楽しかった。