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| ■混沌のレイヤーとのたわむれ 鈴木清の写真は、自らが生まれた福島県いわき市の炭鉱の町での生い立ちを視覚的に再構成することに始まった。いわきやそのほかの炭鉱町で彼は坑夫たちやその暮らしを撮り、それをみずからの生い立ちとむすびつけて物語ったのである。この取り組みは一冊の本『流れの歌』として出版されることになる。1972年に出された彼のこの最初の本は、その古典的に見えるデザインにもかかわらず、ある明白な事実を示している。それは鈴木清が単に事実を記録する写真家であったのではなく、それをディレクトできる表現者だったということである。 (わたしと鈴木が会ったのは、1999年の春で、わたしがワンダーランド展の準備で東京をおとずれた時のこのことであった。それに先立ち元村和彦氏が鈴木のすべての写真集を事前に送ってくれていたのである。) 『流れの歌』は日本の写真におけるある重要期に現れたことになる。今日振り返って見てみると、この時期に作られた多くの写真集からもそれが見て取れる。川田喜久治『地図』(1965)、中平卓馬『来るべき言葉のために』(1970)、森山大道『写真よさようなら』(1972)とつづく時期である。アメリカやヨーロッパと同様に、何人もの日本の写真家たちが、片や「客観的な」ジャーナリスティックなイメージをたずさえ、またある者は「ロマンティックな」イメージで登場してきた。それはRobert FrankやWilliam Klein、さらにまたChrister StrömholmやEd van der Elsken、あるいはさらに古くは1930年代のMoi Verにまでたどれる動きになるかもしれない。これら前後する年代相互の影響関係には様々な推測が可能だろうが、実際に日本滞在でおとずれたことの影響を含めるかどうかを別にしても、Kleinの『東京』(1964)やVan der Elskenの『スイート・ライフ』(1966)はこのころすでに日本語版で出版されており、一定の影響が考えられるのはたしかだとおもわれる。 ところで、『地図』、『来るべき言葉のために』、『写真よさようなら』などを見ただけでも、このあらたな動きの到来は、欧米のどこよりもラディカルなかたちで日本で表出しているのだ。今日では、シネマティックで、生々しい、フルページ印刷の写真集の流通はどこでもふつうのことだが、1972年当時にはまったく異なる事情だった。これら3冊は、写真でもデザインでも、また何より重要な点は、その内容において、前世代のすべての層をなす成果を掘り起こしたうえでのあらたな位置を占めるようにみえる。それは明確に描き出せるストーリーでは(たとえ要請されても)説明できず、むしろ感情や感覚、写真家たちがその只中にあった歴史のできごとのなかなら閃光のようにはじきでてきたもののように見える。すなわち、戦争、二度の原爆投下、日本の領土への米軍のプレゼンス、そしてそれにともない強いられた従属など・・・作者たちは、もはや「客観的な」アプローチによる既成の写真を受け入れているとは思えない。そして単にそれとはことなるアプローチで、映像にみずからの見解を付与する創作をしたばかりでなく、ついには写真そのものを問うたのである。この後のほうの作業は、当時の音楽や他の映像アートなどにおける同様の運動との共鳴によりおそらくまちがいなく燃焼度を増幅させた。1940年代末の美術界におけるCobra Movementがこれのあきらかな類例で、芸術を支配階級のへの奉仕作業として否定的に捉えることにさえ至るが、これら共通にその過激すぎる視覚表現への傾斜ゆえに短命な活動におわるという典型的な経過をたどることになるのである。 鈴木の『流れの歌』は、1991年に出版された『愚者の船』をのぞくすべての他の写真集とおなじで、自費出版である。写真は陰鬱で、ときにまったく得体が知れないが、また同時に深い思いがうかがえる。そこには見せられたイメージ以上に見せ手が現れてみえる。それは明らかに共感的で深い思いの持ち主である。と同時にそこにはささやかな遊び心が覗きみられる。ひとりの炭坑夫の笑い顔の写真があるが、片方のページには吸血鬼の毒牙のように歯だけを光らせた写真を見せているかと思うと、その見開きには、同じ顔がゆっくりとくつろいで、レンズに温かみのあるやさしいまなざしをおくっている。表紙の写真もまた鈴木の今日もっとも知られた写真で、真鍮の洗面器に鈴木の妹のつけまつげが浮かんでいるものである。それを彼はある朝、妹の夜の喫茶店ウェイトレスの仕事のあとに置かれたままのかたちで見つけ、撮影したというのであった。 (『Soul and Soul』としてわれわれが知る鈴木の処女作は、日本語原タイトルは流浪・漂泊・さすらいを歌ったすなわち『流れの歌』であり、写真家たちの処女作の傑作のひとつといえ、次のような作品と共通の部類に選ばれてしかるべきだろう。すなわちRobert Doisneauの『La Banlieue de Paris』、 David Seymourの『Children of Europe』 、 Dave Heathの『A Dialogue with Solitude』 、 Roy Decaravaの『The Sweet Flypaper of Life』などである) 『流れの歌』制作過程のダミーは、鈴木家での遺作の調査のなかで存在が確認された。それは手製本で最終形よりもはるかに大きいものだった。鈴木はダミーのなかで、最終形で出版されたものに比べすこし小さい比率の本を設計した図面取りを残している。まさに本の中の本がここに見てとれる。ひとはここに、鈴木がこのあと展開することになる偉大なゲームのつつましやかな序章をうかがい見ることができよう。そしてこれがそののち次からつぎへとつづく膨大な本作りの序章でもあったのだが、そこでわれわれは、彼がそれをあらかじめ予想して成しとげていったのかどうかとはたと考えこんでしまうだろう。その真相はいかであれ、このダミーはただ偉大な美しいオブジェとして見えているのみでなく、ふりかえるにこのダミーこそ作家の創作術の基盤を示すものとして見えてくるものであり、この展覧会とこれにともなう写真集でも、その基盤に常にたいせつに見据えるべきものとしたのである。 (あるいは30年近いかどうか、陽の目をみずに来たこのダミーをどのように見つけたかをさらに詳しくもうしあげよう。忙しくすぎた過密日程の調査訪問の最後の一瞬、床から天井まで箱や書類ホルダーのつまった倉庫で、上の箱から順に見ていった最後の一番下から、突然それは姿をあらわしたのだ。洋子夫人がなにか透明のビニールにつつまれた白っぽいものに手を伸ばした。ゆっくりとやがてはっきり洋子さんは自分が見ているものが何なのか心当たりがあるというふうな顔つきになり、そしてそれを胸に押し当てながら、わたしに長い暗黙のまなざしでことの意味を教えてくれたのである。) 鈴木清は己が道をあゆんだ作家だった。たとえば森山大道のような強烈な個性をもった作風というわけでもない。それでも鈴木もまた、大世界からささいな私風景までをたやすく扱える切り換えの効く作家であった。ただ鈴木に於いては巧妙さがまさり、自分をそれほど強く押し出さなくても良いといった感じである。鈴木の本はどれもこの世の幸運といったものからとりのこされた部分に無条件ともいえる共感を表明している。彼の作品は同時に音楽、文学、哲学につながる。すべてをさまざまな分野にむすびあわせて、自分自身の真実を造りだす。それはまさにJohan van der Keukenがそのドキュメンタリーフィルムにおいてパイオニアとなった手法を彷彿とさせる。鈴木の最後の写真集となった(フランスの作家Marguerite Durasへのオマージュである1998年刊)『デュラスの領土』の表紙には、コピーで制作された写真集のダミーの図がおかれている。そのダミーの実物を開くと、そこにはまったくの混沌が現れる、層が層を織り成す幾重もの混沌と集積した断層そのものである。 Robert Frankと鈴木清は友人であった。鈴木の大量の作品群(写真プリント、コラージュ、絵画、ダミー本など)のなかにそれを示すものは、何十年にわたり、常にはっきりとしたかたちで、手紙や写真絵はがき、ちいさなポラロイド写真などのかたちでさまざまに残されていた。それらは、それ独自のストーリーを構成しており、いつの日にか語られることがあるかも知れない。そうだとしたら言えることはおそらく2000年に制作された、FrankがNova Scotiaの夕暮れの風景に一本のローソクの光に友を見立てた一枚のちいさなあのなつかしい写真でもって、話がとじられるものとなるだろう。 (Frankが鈴木にどのような影響をあたえたかというのは、当然論理的な疑問として問うことが可能である、しかしこの小さな写真が、写真とは何かという核心にある疑問にすべてをたちかえらせる、そしてそこにすべての批評を超えたこたえもまた同時にあるのだろう。) 鈴木清の作品活動はふたつのことがらにかかわる面をもっている。ひとつは、写真である。それはある意味でそれ自身のなかにそれ自身として自己の存在権を主張するいかめしい側面をもつ。だが、鈴木清にとってそれだけでは十分ではなかった。かれにとっては、また世界というものがその写真の生成する過程での相方(あいかた)でなければならず、彼はよりひろい文脈のなかで、その写真イメージがどのようにおこったのかをも描き出そうとしたのである。彼はそれを静かに、最小限の方法論ではじめ、そしてついに写真と写真集のおびただしい噴出として展開させた。このふたつの極のあいだに彼の生が、すべて写真に関係して、紆余曲折してよこたわっていたのであった。 彼はインドに旅しブラフマンの光と出会ったし(『ブラーマンの光』1976)、ホームレスの男と友情をむすび双子の兄弟になったことにもあったし、また旅のサーカスを追ったこともあった(『天幕の街』1982)。また『夢の走り』(1988)では大都市とそのストリート上の混沌とを写した。『流れの歌』と同様、このふたつの写真集も彼の作家活動の抜きん出た双璧といえる。これらの本の表紙はあわく明るく彩られたテクスチャーになる。『夢の走り』では、中の作品にもカラーがあらわれるが、多少控えめといったふうだ。視覚的な遊びは拡大し、5、6点のストリートの写真が二分割かそれ以上に細かい分割で、白地背景の下部に拡大されたパーフォレーションの連続する舞台に並べられ、3連続の見開きにわたって次々と展開する。見た者にはわかるだろうが、それは半世紀以上も前のMoi Verの写真集にある不均衡な連続描写を想起させる。それにつづく作品として『愚者の船』(1991)、『天地戯場』(1992)、『修羅の圏』(1994)、そして『デュラスの領土』(1998)が来る。意図的な混沌が高度にいきわたって形づくられているのが、これら後半の作品である。どのダミー制作過程からも、できあがった写真集からもこみいった複雑さの検討なされたことが見て取れる。鈴木は人生と遊び、その遊びひいては人生そのものについてのコメントを書き込んだ作品を生み出していったのである。 こういった全制作プロセス、またそれにともなう遊びもふくめ、自己洞察が欠けていたとしたら写真とはいったい何なのか? Brodovitchの『Ballet』のダミーしかり。Richard Avedonをして「すべての写真家の目にツバする」とまでいわしめたこの本はどうなっていたか? それは単にもっともわずかな光でカメラの動きでブレた目新しい写真になったことを言っているのではなく、あらゆる既存の方法論を完全に出し抜くようなすばらしい被写体への挑戦のことでもあるのだが。また深瀬昌久が自分で『鴉』のダミーを作っただろうか? 妥協のない長谷川明のデザインは傑出しているが、われわれは深瀬自身によるはるかにワイルドなダミーの幾つかが存在しても不思議にはおもわない。Ralph Eugene Meatyardの没後のAperture刊写真集が、生前自身でデザインを手がけられていたらどうなっていたか。あんなに行儀のよいおもむきでおさまっただろうか? 鈴木清ならこれら多くの疑問を理解し得ていたかもしれない。彼は孤独な道をゆき、極限まで全力を尽くす人だった。彼のことばは温かく、理解に富み、ゆたかな含蓄を示唆するものであった。たしかに、彼の多くの初期の作品は、先行の「Provoke」時代にふれて生まれたが、それは彼のみでなく、のちの石内都の『絶唱・横須賀ストーリー』(1979)でもおなじである。鈴木は家族を撮った写真をかなり限定して使った。しかし、使うときにはことの核心にかかわる部分でおこなわれた。『天幕の街』のなかに出てくる「ライフルを手にした男の前の少女」は直截に感情的反応を呼び起こすあらゆる要素を融合させたよい写真といえる。ゆえに真の古典である。彼は旅立つとき、おそらく何冊かの(未完の)ダミー本をたずさえていったにちがいない。その帰らぬ旅に何をもっていってしまったのだろうか、57歳といるおそろしい若さで? 残りのものをわれわれが目にできるように・・・素晴らしい心の財産として・・・残していってくれたことは、写真界のすばらしい宝である。 |
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| キュレーター Machiel Botman |
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| (C)2008 Machiel Botman 原文オランダ語回顧展図録テキストより。英訳「Layer Upon Layer Upon Layer」による重訳 |
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