部屋の換気をしようと窓を開けると、涼やかな秋の夜風と共に祭囃子の音が聞こえてきた。
「・・・へえ。今日は祭りがあるんだ・・。」
一人暮らしが長くなると、どうも独り言が多くなるらしい。
ミニコンポの音を止め、暫しの間その音色に耳を澄ませる。
なぜ、祭囃子の音は、こうも懐古心を煽るのだろうか。
過ぎ去りし日々の記憶が、胸の奥に小さな痛みを生む。
それは思い出の内容ではなく、過ぎ去った時間そのものに対する感情だった。
手で掬い取った水が指の間から零れるのを見つめるように。
手を離した風船が、青い空へと吸い込まれていくのを見つめるように。
取り戻す事の出来ない流れてしまった時を感じ、切ない寂廟感に包まれる。
「・・・まいったな。」
どうも、いつになく感傷的になっているらしい。
それはバイト帰りの疲労の所為かもしれないし、秋の夜風の所為かも知れない。
ともかく、このまま遠く響く祭囃子を聞いているだけでは済まなくなり、俺は財布を手に取った。
ついさっきにシャワーを浴びたので、髪の毛が水気を含んだままだったが別に気にしない。
ただ風邪を引かないように少し厚着をして外へ出た。
安物のアパートの階段を降り、歩き出す。
部屋よりも位置が低いため遮蔽物が多く、祭囃子の音が聞こえ辛かった。
ゆっくりとした足取りで川沿いの祭り会場へと向かう。
途中からは一本道になるので、老若男女がそれぞれの足取りで一つの目的地を目指して歩いていた。
恐らくは中高生であろう少女達が浴衣を着て歩く側を子供達が走り抜ける。
綺麗な浴衣を見た女の子が自分も欲しいと駄々をこねるのを、母親がもう少し大きくなったらねと宥める。
そんな姿を見て微笑んでいるのは老夫婦だ。
最も辛い世代であっただろう彼等に、今の世はどのように写っているのだろう。
思春期に祭りを楽しむ事なんて無かったのかもしれない。
そんな風に思ってしまう。
不意にポケットに手をやり、煙草の箱を取り出す。
特に理由の無い、衝動的な・・習慣的な動作。
「・・・・・。」
手に持った煙草の箱を暫くの間見つめ元のポケットに戻す。
今日は、こんなものはいらないな。
遠くからは祭囃子が夜風に乗って流れてくる。
空を見上げれば満月が金色の輝きを濃厚な藍色の空に顕している。
何となく、この澄んだ空気を煙草の煙で汚したくなかった。
感傷的な夜には、それくらいが相応しい。

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「祭囃子」
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祭りの会場は結構な賑わいだった。
祭囃子の音はここまで近づくと五月蝿いくらいだし、あちこちで子供が元気に駆け回っている。
屋台はどれも大盛況で結構な事だが、あちこちにゴミが散らかっている。
祭りの立役者である主催者達のテントでは出来上がったオヤジ達がゲラゲラと笑っている。
走り回る子供は転んで泣き出すし、その拍子に浴衣に焼きそばをかけられた少女が悲鳴を上げる。
素晴らしい祭りだった。
俺は五分で祭りを堪能し、会場を後にした。
「・・・まあ、綺麗な世界なんて無いんだろうけどな。」
何とかそれだけを秋の夜空を見上げながら呟いた。
答えるものも無く、その声は濃紺の秋の夜空に消えていく。
一つため息を吐いた後で、俺は祭囃子をBGM散歩をする事にした。
祭りそのものは置いといて、祭囃子だけを楽しもう。
それが俺の結論だった。
川沿いの土手に立ち、辺りを見回す。
案の定、そこにはカップル達が群生していた。
満天の星空と満月、緩やかな川のせせらぎと涼しい風、祭囃子のBGM。
こんなに美味しい状況を彼等が見逃すはずは無いって事か。
邪魔をするのも嫌なので、俺は今度は小高い丘へと向かった。
それは少し離れた所にある、朽ちかけた寺が立っている場所で、夏の夜だけ人気を集めるスポットだ。
シーズンを外れている今日なら、人は寄り付かないだろう。
遠くにみえる小高い丘に向かって俺は歩き出した。
自分でも良くやると思う。
感傷的な気分をぶち壊された所為でムキになっていたのかも知れない。
・・・今回の予想は的中した。
寺へと続く石段の近くには人影など一つも無い。
感傷的な気分で出かけた俺は今、未知の世界へ足を踏み入れる冒険家の様な趣があった。
そんな事を考えて自分が馬鹿らしくなる。
小さくため息を吐いた後、俺はその石段を登っていった。

階段を上り切ると、予想通り、無人の空間に朽ちかけた寺がぽつんとあった。 周囲に木々が林立しているので、外の景色を楽しむ事すら出来ない。
それが、今この場所に誰も訪れない理由でもあった。
せめて景色が開けていればもう少し人が集まったかもしれないが、唯一見られるのは真上の空の景色だけ。
それでもいいか、と俺は無人の境内を歩いていった。
特に理由も無く寺の周囲を一周していると、丁度寺の反対側に仄かに光る物を見た。
「・・・蛍?」
季節で言えば丁度今は蛍火舞う頃だ。
だがこの辺りでは、もう川辺ですら蛍の姿は見れなくなっていると聞いていたのだ。
無論俺がここにずっと住んでいたわけではないので、この話は受け売りなのだが。
「・・・そのうち、教えてやるか。」
俺はそう口にしながら、その茂みの中へ入っていった。
この丘は丁度円錐形のてっぺんを切り取ったような形になっていたので、緩やかな斜面になっていた。
それでも余り楽とも言えず、木々に手をかけながら降りていく。
中腹辺りまで降りると、平らな場所に出た。
反対側では丁度石段の踊り場の辺りだろうか。
「・・・凄いな・・。」
思わず俺は呟いた。
そこには多くの蛍が舞っていたからだ。
燐光を纏って舞う蛍の姿を見ながら、ゆっくりと歩く。
するとカーブの先に一人の人間の姿があった。
浴衣を着て、手には団扇を持った女性の姿。
それは夜中の廃寺の裏の土手には余りに不自然で、俺は一瞬幽霊かと思った。
突然の事に俺は足を止める。
「・・・・・・・・。」
相手も俺に気付いたのだろう。
その女性も俺の方を見て固まっている。
蛍のほかは木々の梢の上にある満月の光しかない場所で、俺達は呆然と互いを見ていた。
「・・・・・今晩は。」
辛うじて俺が言葉を紡ぐ。
何も言わずに通り過ぎるのも、踵を返すのも酷く味気無く感じたからだ。
一方その女性の方は俺の事を警戒しまくっている。
当然といえば当然か。
まあ、ダッシュで逃げられないだけマシと言える。
「・・・・今晩は。」
暫くの沈黙の後、彼女がポツリと返してきた。
それは単に無視するのが嫌だった程度の挨拶だったが、ともかく俺はホッとした。
なんだか空気が固く感じられる。
恐らくそれは相手も感じている事だろう。
一人でいる時の沈黙は気にならないのに、どうして二人でいる時の沈黙はこうも重苦しいのだろうか。
そんな事を考えながら、俺は適当な会話をする。
迂闊に近寄れば悲鳴の一つでも上げられそうな雰囲気だったので5M以上離れた状態だ。
「・・・ここには、まだ蛍がいるんだな。友人にもうこの辺には蛍がいないって聞いていたんで驚いたよ。」
声の感じからして同年代かそれ以下とあたりを付けて口調を選ぶ。
喋った後で丁寧語を使えばよかったかと考え直したが遅かった。
・・・今度は返事が無かった。
ただ警戒して俺の事を見ている。
俺はため息を吐いてから、早く帰ろうと決断した。
「・・・はぁ。悪い。人がいるなんて思わなかったんだ。すぐ帰るよ。」
そういって浴衣を着た女性の方に歩く。石段はそっちの方が近いのだから仕方無い。
流石にあの斜面を登って行く気にはならなかった。
俺が近づいたので、相手の身体が目に見えて強ばる。
確かにそういった事件が最近目立っているけど、こうも露骨に警戒されると結構ショックだ。
若干の苛立ちを篭めて言う。
「・・・そっちに石段があるから行くだけだよ。別に取って食おうなんて思ってないぜ。」
とことんついていない。
そう思った。
視線を合わせる事も避けて歩き、彼女の側を通り過ぎる。
「・・・生まれて初めて蛍を見たのがこれか・・・。君も、危ないから早く帰れよ。」
そうため息を吐いて手をひらひらと振る。
「・・・あの。」
すると背後から声がかかった。
「ん?」
「別に、無理に帰らなくても構いませんよ。」
少し驚いて振り返る。
「・・初めて、蛍を見たんでしょう?・・・もう少し見ていけばいいじゃないですか。」
それは躊躇いがちな提案だった。
何だかその様子が一生懸命だったので、その提案を受け入れる事にする。
「・・・じゃ、そうさせて貰おうかな。」
そう言って近くの樹に寄りかかって蛍を眺める。
さっきまでの固い空気は幾分和らいでいた。
互いに無言で中を舞う蛍を見る。
浴衣姿に蛍の様子は、常世離れした美しさがあった。
まるで時を溯ったような印象さえある。
遥か昔はこんなに風情があったんだろうな。
そう思ってしまう。
近くで見ると、彼女は綺麗な顔立ちの中に少しあどけなさが残っていた。
恐らくはまだ高校生と言ったところか。
「・・・今日は祭りに来たのか?」
俺の視線は前方に向けられたままだ。
宙を舞う蛍と丘の木々、その向こうに微かにみえる明かりは祭りの会場の光だ。
それらを見ながら何となく問い掛ける。
俺の声に彼女が一度振り返ったが、俺が自分を見ていない事を知ると、顔を再び正面に向けた。
「・・・はい。」
「・・・俺と一緒だな。」
「・・・貴方は何故、ここに来たのですか?」
少し間を置いてから彼女の方から問われる。
相変わらず互いを見ない会話。
それが丁度良い距離に感じられる。
「・・・祭囃子につられて来たんだけど、どうも賑やかすぎてね。
かといって河原はアベックだらけで居場所が無くて、誰もいなそうな寺に来た。
境内を歩いていたら蛍がいたから、つい斜面を下ってここに来てしまったわけ。」
「・・・私と一緒ですね。」
「・・ってどの辺から?」
少し驚いて問い返す。流石にこんな行動を他にも取っている人間がいるとは思えなかった。
「・・・全部です。」
そう言って浴衣の裾に視線をやる。
それに倣って裾を見ると、夜露に濡れた足袋と裾が見えた。
「・・・私も、蛍を見たのは初めてだったのでつい・・。」
そう言って俯く。
「くっ・・はははっ。あ、いや、ゴメン。俺意外にそういうことする人がいるとは思わなくてさ。」
突拍子も無い事に俺は笑ってしまい、即座に謝罪する。
少しの沈黙の後、彼女が言葉を続ける。
「私もそう思っていたから、始めは誰かが追ってきたのかと・・。」
異常な警戒はそのためか。
何となく理由が解ったので、俺としても少し安心した。
「・・そうか。まぁでも、普通あんな所から人が出てくれば警戒するのは当然だからな。」
自嘲気味に軽く肩を竦めて見せる。
少し視線をこちらに向けていた彼女はそれを見て小さく微笑んだ。
「・・・で、今日は友達とかは一緒じゃないのか?」
流石に、こんな人気の無い所に女の子が一人歩きするのは危険すぎる。
「昨日、引っ越してきて。明日から学校だからまだ友達がいないんです。」
「そうか。でもまぁ、次からは親とかと来た方が良い。」
「はい。」
彼女がそう返事をしてから、俺達は再び蛍を眺めた。
耳を澄ますと、遠く響く祭囃子が微かに聞こえる。
時折そよぐ風は木々の梢を揺らし、樹の香りがする涼しい風を送ってくる。
上空の風は強いのか、見上げた空は雲が物凄い速さで流れていた。
その雲間から見え隠れする星々と金色に輝く真円の月。
久方振りに、心が洗われるような景色を見たような気がする。
浴衣姿の近くを舞う蛍の光がまた風流だった。
「・・・浴衣に蛍か。綺麗だな。」
「・・・はい。」
緩やかに流れる時の中、偶然居合わせた名も知らぬ二人が同じ景色を見る。
どうにも可笑しな・・・のどかな時間を過ごした。

どのくらいの間そうしていただろうか。
俺はふと腕時計のライトを付け、文字盤を覗いた。
蛍光に似た薄緑色の光が闇夜に浮かぶ。
「十時か・・。そろそろ、帰った方が良いと思うぞ。親御さんも心配する。」
「・・・そう、ですね。」
少女は名残惜しそうに蛍と、満月を見てから俺の方に振り返った。
「越して来たばかりなんだろ、帰り道解るか?」
もたれ掛かっていた樹から身体を起こして、ふと気付いて問い掛ける。
「・・・少し、自信が無いです。」
思い付きだけで、夜にここまで来るのは凄いと思うが、無謀すぎる。
「祭り会場からの道は?」
「それは覚えています。」
「じゃあ、そこまで一緒に行こう。俺も帰り道だからな。」
少し迷った後で肯く。
迎えに来てもらおうにも、親御さん達もまだ地理には疎いはずだ。どの道それ以外に方法は無いだろう。
それでも初対面の男に付いてくるのだから、それなりに信頼を得られたのだと思う。
その理由には、俺が年上の人間だと言う事もあるのだろう。
兄と妹、或いは若い教師と生徒程度の年齢差が見た目ではある。
そして会話。
やはり、会話というのは互いを知る最も早い方法なのだと思う。
秋の月がそうさせたのか、蛍の優美さがそうさせたのか。
ともかく計算の無い会話が、ある程度の信頼を得る材料になったのだろう。
俺達は静かな住宅街を少しだけ距離を置いて並んで歩く。
俺なりに気を使ったつもりだが、効果は期待していなかった。
結構な時間だと思うのだが、祭りから返ってくる人達の姿が見えない。
「祭りから返ってくる人がいないな・・。」
静かな住宅街に響く足音を煩わしく感じた俺が何となくそう口にすると、隣から答えが返って来た。
「・・・十時半から、花火が上がるんです。」
「・・・そうなのか?」
「はい。」
言われてから思い出す。そういえばそんな事を聞いたような気がすると。
「もしかして、あの場所で見たかった・・とか。」
「・・・・・。」
躊躇いがちな俺の問いに、彼女は沈黙で答えた。それだけで、十分に理解する。
「・・・悪い。余計な事をしたみたいだな。」
「・・・いえ。あそこからだと、樹が邪魔になると思いますから。」
それなりに彼女も自分を納得させていたようだ。
それを聞いて少しホッとする。
「そうか。・・・!キミ、今携帯持ってる?」
「え・・はい。」
突然の問いに少し素っ頓狂な返事が返ってきた。
初めて見せた歳相応のリアクションを可愛らしく思う。
娘を一人で祭りに寄越すなら、携帯くらいは持たせているだろうという俺の予想は的中した。
「じゃあ、祭りの会場に着いたら迎えに来てもらうといい。ついでに一緒に花火を見れば楽しいと思うし。」
本人がそれなりに納得しているとはいえ、俺としては花火を見せずに帰らせるのは後味が悪い。
かといって俺が何時までもつきまとうのも迷惑だろうから、迎えに来てもらうついでに家族で花火を見てもらうように提案する。
少しの沈黙の後、彼女は微笑んで答えた。
「そうですね。荷物の整理もついた頃でしょうし、言ってみます。」
「ああ、そうするといい。」
提案が受け入れられたことが嬉しくて、俺もつい微笑む。
彼女は早速家に連絡し、祭り会場の近くで待ち合わせの連絡を取る。
その後は何となく月を眺めながら二人で歩いた。

祭りの会場が近づき、少しずつ賑やかになって来た頃、彼女がポツリと言葉を紡いだ。
「・・・少し、不思議に思っています。」
それは言うべきかどうか迷っている、言葉を選びながらの言葉だった。
「・・・何が?」
「普通、ああいう時、その、ナンパ・されるんですけど・・。違ったから。」
まあ、確かにそうかもしれない。
俺はそう思った。隣を歩く浴衣姿の彼女は綺麗だ。恐らくはナンパされる事は日常茶飯事かもしれない。
或いは今日も、何気なく訪れた秋の祭りで、幾度もナンパをされたのかもしれない。
恐らくずっと抱えて来た質問を周囲が賑やかになり始めた今になってして来たのも、「ナンパして欲しかった?」などと誤解され突然態度を変えられても躱せるようにするためだろう。
そう思った俺は、予め自分の中にあった明確な答えを、言葉を選びながら答えた。
「・・・今日は祭りだろ。俺は祭りそのものを楽しむために来たんだ。ナンパをする気なんて元々無かったよ。祭囃子に釣られて来た・・・って言ったと思うけど、感傷的な気持ちになっていた所為もある。」
一呼吸おいて、肩を竦めながら言葉を続けた。
「・・・でも、言っておくけど、もし違う場所で違う時間に会っていたら、俺もナンパしたかもしれないぜ。」
俺の言葉に、彼女が少し驚いたように俺の方を向く。
「自分を特別良く見せる気はないし、正直言ってそれくらい綺麗だからね。
・・まあ、打算の無い夜もあるってことだよ。キミにとって満足のいく回答じゃないと思うけど、これが本音だ。」
そう言って横を向き、彼女に向かって笑って見せる。
「・・・それに今日は満足してるんだ。生まれて初めて蛍を見れたし、それを共有した相手がいたからな。・・・これ以上を望んだらバチがあたるさ。」
祭り会場に行くと、花火を見る人達の群れが河原沿いに溢れていた。
この辺りが潮時だろう。
俺はそう思って話を切り上げた。
「俺はもう行くよ。・・・今後は余り夜に人気の無い所を歩くんじゃないぜ。じゃ。」
手をひらひらと振ってその場を後にする。
途中一度も振り返らなかったのは、そうした方が良いと思ったからだ。
その後、俺は適当な場所に潜り込み、夜空に放たれる花火を眺め帰途に就いた。

今日は楽しかった。
帰り道、俺は自然にそう思えた。
偶然そこで合った人と、そこにあった素晴らしい時を共有する。
それは掛け替えの無いもののように思えた。
友人であれ、家族であれ、或いは恋人であれ。
元々接点のある人同士ではきっと得られないだろう、特殊な満足感があった。
長い人生において、一瞬だけの邂逅。
例え二度と合う事が無くても、時折思い出すのだろう。
秋の風を感じた時。
夜空に浮かぶ満月を見た時。
祭囃子が聞こえた時。
夜空を舞う蛍を見た時。
かつてそれを共に見た、名前も知らない相手のことを。
花火が終わり、祭りも終わる。
祭囃子の音は止み、静寂の帳が降りる。
再び訪れた寂廟感が、胸に小さな棘を刺す。
だが、流れた時の変わりに、俺は今日素晴らしい時間を過ごせたと。
夜空に浮かぶ満月を見ながら、俺は自然にそう思えた。
煙草を取り出し、火を付ける。
ゆっくりと紫煙で肺を満たし、細くした唇から夜空へ。
夜空に浮かぶ満月が紫煙で霞む。
だがそれは一瞬の事で、すぐに満月はその輝きを取り戻した。
感傷的な夜との決別。
数時間振りに吸った煙草に、何処か懐かしささえ感じた。
それは、この数時間が俺にとって充実したものだったという証だ。
感傷的な夜は終わり、再び日常へと戻る。
一口の煙草が、秋の夜空に感傷との決別の狼煙を上げていた。



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