1 はじめに
「国際交流」この言葉をまず聞いてみなさんはどのようなイメージをうかべられるだろか?例えば今流行しているインターネットもその手段の1つであるといえるだろう。そんな事を考えると今や「国際交流」は私達の生活において切っても切れない関係にあるといえるだろう。そんなある日、私にも「国際交流」のチャンスが巡ってきた。「第11回日本青少年親善訪問団」の引率の話が突然私の元へと来たのである。自分に果たしてそのような大役を勤めることができるのだろうかと不安はあったものの、忘れかけた英会話をとりもどすのにもいい機会と考え、この企画に参加する決心をした。
その企画「第11回日本青少年親善訪問団」とは、1975年より始まり以後2年に1度の間隔で日豪相互交流を行っている今年で25年の長い歴史をもつ団体である。今回参加した生徒は高校生12名、大学生1名の女生徒13名であった。偶然、全員女生徒であったが、大変明るく、初めての海外生活や、自分の英語能力に不安を感じていた子もいたが、出発の日をとても楽しみにしているようだった。その生徒らとともに、私は、「私達が今できる真の国際交流とはなんであろうか。」と、いう事をオーストラリアで経験したことをもとに考えていきたいと思う。
2 現地にて
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木
金
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日 | 福岡空港発 シドニーへ
シドニー着
(ホストファミリーと自由行動)
( 同上 )
(カリンバ高校訪問、文化交流)
(シドニー史跡巡り)
シドニー発、クーマ
(クーマロータリークラブ歓迎会)
(姉妹都市市長表敬訪問)
クーマ発、キャンベラ
(ホストファミリーと自由行動) | 8/10
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火
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木
金
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日
月
火
水
| (学校訪問、文化紹介)
(学校訪問、文化交流)
(学校訪問)
キャンベラ発、シドニー
(学校訪問、文化交流)
(ホストファミリーと自由行動)
( 同上 )
(学校訪問)
(カリンバ高校さよならパーテイ)
シドニー発
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以上が、私達のオーストラリアでの日程である。大都市であるシドニーとキャンベラ、それからさらに西南に位置する(地図参照)クーマ市の3都市を私達は訪問した。次より、それぞれの都市での生徒の交流の様子をまとめてみた。
(1) シドニーにて
日程から、わかるように私達は、シドニーにて記念すべきオーストラリアの第一歩を踏みしめ、またここで、最後の一歩を残してきた地である。到着した日は見る物すべてに感動であった。まず気候。日本は夏まっさかり。しかし、空港に降り立ってすぐ、冷たい風が私達を迎えてくれた。急いで、スーツケースの中からコートを取り出す生徒達。次の感動というと、物語に出てくるような美しい景色、そして見る物、聞くものすべてが英語である事であった。迎えに来てくれたバスの運転手の明るいあいさつにとまどう生徒もいれば、"Hi!" と明るく返事をする生徒の姿も。そんな中私は、バスの運転手の話すオーストラリア英語にとまどいをかくさずにはいれなかった。まず、彼らが言った "Baggage(荷物)"。学生の頃「バゲッジ」と発音するように習った。しかし、彼らは「ベイッゲッジ」と言っている。不安が私をよぎった。このままホームステイできるだろうか。
・カリンバ高校での交流
カリンバ高校は、訪問団が長く交流している高校で、日本の中学校と高校が合体した形の学校であった。カリンバ高校には、日本語のクラスが3クラスあり、それぞれの教室には、相撲のパンフレットや着物の掲示物、壁には力士のペイント、ひらがなの一覧表など日本の教室顔負けの教室設営をしてあった。外国語は中学1年生で3言語平行して学習し、2年生からは各自その中から専攻するといったようなシステムであった。中でも、日本語は近年オーストラリアと日本の経済関係が非常に親密であるため、就職の際に役立つから人気があるとのことだった。
私達訪問団は、彼らといろんな形で文化交流を行った。そのいくつかを紹介しよう。まず、一番人気のあったのが、折り紙と書道の時間。オーストラリアの生徒と日本の生徒がそれぞれいくつかのグループに分かれ、同じ机で活動をするのだ。次々といろんな物を製作していく日本の生徒達を見て、オーストラリアの生徒は興味深そうに「これを教えて。」だとか、「あっちのグループで作っているのを教えて。」と言って、できた時はとても得意そうに見せてくれた。中でも、「鶴」「風船」「手裏剣」などは大人気であった。日本の生徒らも、折り紙を教えながらも、彼らとふれ合い、英語で会話をし、大変楽しそうであった。
また、書道の時間は、彼らの名前を漢字に当てて書いてやると、大変嬉しそうにして、自分でその字を何度も何度も練習していた。日本の生徒も、どのような漢字を当てるかで相当悩んでいたものの、とても楽しそうに自分の漢字の意味を知りたがるカリンバの生徒達に一生懸命説明をしていた。最後に全員で記念撮影をしたのはいいが後で写真をよく見ると、漢字の表裏を知らないために表裏逆で作品を持って写真に映っている生徒もいた。
一方、カリンバの生徒達も私達のために、到着した日のウェルカムパーティや、最後のフェアウェルパーテイ、また、オーストラリアの文化紹介の授業などで、いろんなオーストラリアの文化を教えてくれた。その中には、アボリジニーの楽器を日本の生徒に試させたり、アボリジニーの絵を描いたりする物もあり、日本の生徒も教科書上ではなく、たくさん生のオーストラリア文化に、触れたり、経験したりすることができた。
また、ホームステイをしてきたため、私達はそれぞれオーストラリアの家庭の文化にもたくさんふれる事ができた。学校で食べる昼食にしても、オーストラリア人はそれほどたくさん食べない。ホストマザーより、りんごとお菓子だけを持たされ、とまどっている生徒もいれば、お金をもらってきて、学校にあるカフェテリアで英語を使って昼食を購入した生徒もあり興味深いものであった。
(2) クーマにて
クーマでは、たった3日間の短い滞在であった。クーマはシドニーに比べのどかな小さな町であった。また、オーストラリアでも有名な豪雪地帯でスノーウイマウンテンといったスキー場が近くにあるとても寒い所でもあった。さらに、この町はここ2,3年ひどい干ばつで悩まされ、多くの家畜が死ぬ被害がでていた。それで、日本で預かってきた寄付金と私達からの寄付金、また、熊本の鹿本町とここクーマが姉妹都市のため、町長より預かってきたプレゼントを渡す予定であった。
ここで、私達は大きく分けて2つの交流をした。一つ目は、地元のロータリークラブ主催の市長訪問。ここでは、鹿本町長からのプレゼントである浮世絵のはいった大きなひょうたんと前に述べた寄付金を渡しこの訪問の大きな役目を果たした。もう一つは、モナロ高校との文化交流。そこでは日本の生徒が、日本舞踊や茶道、そろばんなどを披露。また、持参した浴衣をオーストラリアの高校生に着せたりして、非常に楽しい時を過ごした。モナロ高校の生徒も日本語を学習している生徒がたくさんいて、日本の文化に興味津々であり、私達が教室や廊下を通る際、日本語で「こんにちは!」と明るくあいさつしてくれた。
また、クーマでは、水力発電所や、羊の毛刈りを見学し、また、博物館では、思いもかけず、まだ、コルセットをつけていた頃の服を1つずつ、館長の奥さんが、自分の祖母のお母さんの物だと見せてくれた。それは、おしゃれに興味のある年頃の彼女らにとってはとても興味のあるもののようで1つ1つ服を見る事に、そのすばらしさに、ため息がもれていた。
(3) キャンベラにて
キャンベラもクーマと同様たった5日間の滞在であった。ここでの訪問校は、ナラバンダ高校であった。この学校は、なんと70カ国以上の国から生徒が集まっていて、彼らの母国語は50カ国語以上にもなるということだった。なるほど、どの教室をのぞいてもいろいろな肌の色や、髪の色、彼らの話しているのは全部英語ではあるが、確かに聞きづらいものも少なくない。ここでの私達の訪問内容は、日本語の選択者のための授業で、日本語での会話の練習を手伝うものであった。いろんな国出身の日本語選択の生徒達は、はにかみながら、みんなの前での日本語で自己紹介をしてくれた。
また、私は、「戦争記念館」をホストファミリーとともに訪問した。私のみならず、何人かの生徒も訪問したらしいが、ここで私は、日本がオーストリアとも第2次世界大戦中、大きな戦争を起こしていたことを知った。それまでは、恥ずかしい話、全く知らなかったのである。実際、その日は「ダーウインデイ」 として今でも平和集会や行進が行われるそうである。このことは、日本の教科書には載っていない。しかし、オーストラリアの教科書にはしっかりと記されているそうだ。私達は、こういった事実もしっかりと知らねばならないと感じた。
3 真のコミュニケーションとは?
いよいよ出発の日。空港行きのバスに乗り込む時間が来た。しかし、どの生徒も、乗り込もうとしない。ホストファミリーとの別れがつらいのだ。私達はホストファミリーに対して、日本の家族に変わらない程の、親しみを感じていた。私のみならず、生徒もそう感じていることは、毎日の彼女らの自分のホストファミリーの自慢話からよくわかっていた。その家族との別れなのである。オーストラリアの兄弟と家族と、抱き合いながら別れる生徒達・・・。バスが出発してもしばらくはみんな沈んだままであった。
私達はこうやって約3週間の訪問を無事終えた。オーストラリアで学んできたことは言い尽くせないくらいある。文化の事、英語の事、政治の事、オーストラリアから見た日本の事などなど。しかし、ここでは、最初に述べたように英語の教師の立場として真の国際交流とはいったい何なのかといった所を私が感じたままに述べたいと思う。
ホストファミリーの家に初めて訪問する日、彼女らは、とても不安そうな顔をしていた。しかし、翌日になると本当の家族のような気持ちになっていたようだった。私もそうである。それぞれに話を聞いてみると、まるで本当の家族のように扱ってもらって幸せだ。と、話していた。しかし、彼女らが学校でホストファミリーと話しているのを聞いたが、決して彼女らは英語をすらすらと話しているわけではなかった。私もそうであった。しかし、言いたいことを伝えようと、悩んだり、にこにこしたり、身振り手振りをしたり、絵を書いたりして自分の気持ちをうまく伝えていた。つまり、「気持ち・ハート」なのである。そうやっていくうちに、聞き手の方も、真剣に考えてくれ、どうにかして自分の気持ちを伝える事ができるのである。オーストラリアの学生が日本語をすらすらと話してくれたわけでもなく、日本の生徒が英語をぺらぺらと話していたわけでもなくただ、そこには「お互いを分かり合いたい。」といった強い気持ちがあるのみだった。日本舞踊も、書道も、ただ、そのものを披露し、「紹介した。」と、言うのならば確かに形式的には、文化交流である。しかし、それは、ただ、「見た。」「紹介した。」といった形でしか残らないと思う。真の交流、国際交流を深めたいのであればやはり、たとえ互いの言語が話せなくても、気持ちや身振りのみでもやって、いろんな事を少しずつでも知っていくのが大切なのではないだろうか。
また、初め私は自分自身「英語をあまりうまく話せないから、英語を人前で話すのは恥ずかしい。」といったような変なプライドをもっていた。しかし、オーストラリアで日本語を教えている先生方を見ていると、そんな変なプライドが馬鹿らしく思えてきた。オーストラリアの日本語の先生も、私達が変な英語の使い方をしているのと同様、時に変な日本語の使い方をしていた。しかし、そもそも自分の母国語でもない言語をまるで本当の母国語のように話したり使えたりできるということはそう簡単ではないのである。むしろ早くそうなりたいものではあるのだが、そうなるには、そうなる前に多くの失敗が必要であると私は考える。日本語の先生も私達にいろんな質問をしてきた。使い方、フォーマルなのかそうでないのかなど・・・。まずは、使ってみて失敗してから考える事。日本人はとかく恥ずかしがり屋であることは、国民性の1つである。しかし、今の時代、そんな変なプライドは捨てて、まずは下手でもいいから話してみること。それが大切だと心から感じた。生徒達も、初めは恥じらいもあったようだが、すぐにどんどんと自分から積極的に話していた。そういった彼女らの行動が、前に述べたホストファミリーの「ハート」に伝わって心がお互い通ったのであろう。
この訪問で、私は生徒とともにいろんな日本の文化を一人の日本人の代表として紹介してきた。また、生徒とともに私もオーストラリアには自分の家族がいると信じている。前に述べたように、今世界は一緒になっていろんな問題に立ち向かっていく時期である。そういった時代に、私は、教師として、そして日本人としてまずは、もっともっと自分にできる所からの「国際交流」を今回の訪問で考えたことを心に留めてやっていきたい。