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2006年12月24日  クリスマス礼拝説教


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ローマの信徒への手紙 連続講解説教のページ  
                

   ローマの信徒への手紙 連続講解説教 その1(1〜4章)  
                             2004年5月2日〜2004年9月5日             

  ローマの信徒への手紙 連続講解説教 その2(5〜8章)   
                       
 2004年9月12日〜2005年2月13日

   ローマの信徒への手紙 連続講解説教 その3(9〜11章)   
                                           2005年2月20日〜2005年5月8日

  ローマの信徒への手紙 連続講解説教 その4(12〜16章)  
                             2005年5月22日〜2006年2月19日





2006年12月24日  クリスマス礼拝説教 
 
                 「栄光、神にあれ」

                             イザヤ書 11章1−10節
                            ルカ福音書 2章1−20節
1,主イエス・キリストの誕生は初めに天使によって羊飼達に告げられた。羊飼達は野宿しながら夜通し羊の群の番をしていた。羊飼は旧約聖書の時代にはイスラエルを代表する人。またイスラエルを導く神の姿を現していると尊敬され重んじられていた。イスラエルの政治或いは宗教の指導者は羊飼にたとえられていたことは聖書を読むとよく分かる。ところが、主イエスが誕生された頃には羊飼に対する尊敬は薄れむしろ卑しい仕事と見られていた。その理由の一つは、当時ユダヤがローマという外国の支配下にあり、イスラエルの古い歴史が忘れ去られていたことがある。もう一つは、その頃のユダヤ宗教が形式化していて羊飼のように羊を連れてあちこち移動する人たちは宗教共同体から外されていた。安息日には働いていけないとか何歩以上歩いてはいけないなど禁止項目が定められていたが、生きた家畜を飼う羊飼には到底守れない規則ばかりで、羊飼は信仰から離れた人たちと見られていた。 

 ところが、その羊飼を選んで天使が現れ、神のメッセージを伝えた。人間が考えることと神がお考えになることがどんなにかけ離れているかを示している。天使が近づき、主の栄光が照らしたとき羊飼は非常に恐れた。それは驚くべきことに直面した者の恐怖心もあったろうが、神への畏れ、聖なる方への畏敬の念に襲われたと言うことでもあろう。羊飼達はユダヤ教の会堂からは外されていたが、信仰から外れていたのではなかった。むしろ旧約の時代以来の神への清い心を持っていたのである。クリスマスが神の出来事であるとは、この畏れの心が私たちにも生じているかどうかということにかかっている。
 天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と呼びかけた。大きな喜びを告げるの「告げる」は、福音という言葉の動詞の形である。つまり単なる伝達ということではなく、天使は福音、神からの喜ばしい知らせを伝えようとしたのである。クリスマスは神の福音を聞く時である。

2,続いて天使は「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と語りかけた。天使はあなた方の救い主が今日お生まれになったと告げたのである。しかし、それは羊飼だけではなく民全体に与えられた喜びの知らせであったのだから、ここにいる私たちも含めてすべての者の救い主が誕生されたということである。救い主とは当時はローマ皇帝を指す称号であった。つまり支配者であり王ということである。その称号を主イエスに用いるとはイエスは王であるということである。しかし、その王はローマ皇帝とは似てもにつかない性格を持っていた。

  それを天使は、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と言い表した。天使は直接どのような性格の救い主であるかは言わないけれど、しるしとして示した。しるしとは外側に現れた証拠である。考えてみればクリスマスの沢山のしるしに私たちは囲まれている。クリスマスツリー、多くのイルミネーション、サンタクロース、数えていけばきりがないほどある。しかし、これらは全部しるしである。私たちはしるしが指し示すことを正しく見つめることによってクリスマスの意味を本当に知ることになる。しかし、どれだけの人がこれらの外的なしるしが指さしている神の出来事としてのクリスマスに目を留め心を向けているだろうか。

  「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が指さしているのは猛々しい力の支配者でないことは確かである。そのような支配は当時ローマ皇帝が身をもって現していた支配である。また、このしるしは経済的な有力者の誕生を表しているのではないことも確かである。つまり、この世が賞賛するような力とは全く縁のない王の誕生を指さしている。預言者イザヤはこの「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」が目指していること、つまりこの王の本質を次のように預言していた。
          イザヤ書 11章1〜9節
   1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
     その根からひとつの若枝が育ち
   2 その上に主の霊がとどまる。
     知恵と識別の霊
     思慮と勇気の霊
     主を知り、畏れ敬う霊。
   3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

 このように言い表されている王とは、第一に自分の感情や気分によって支配しない。冷静な洞察によって行動する。第二に貧しい者、弱いもの、小さな者、柔和なものを粗末にしない。第三に悪しきものを厳しく裁く。この三つは現実の政治には昔も今も欠けているものである。イザヤは神の霊に満たされる王、すなわちメシアの姿を描くと同時にこの世を治める者がいかにあるべきかを的確に描いた。続いて、イザヤはそこから更に飛躍するようにして述べている。
   6 狼は小羊と共に宿り
     豹は子山羊と共に伏す。
     子牛は若獅子と共に育ち
     小さい子供がそれらを導く。
   7 牛も熊も共に草をはみ
     その子らは共に伏し
     獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
   8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
     幼子は蝮の巣に手を入れる。
   9 わたしの聖なる山においては
     何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
     水が海を覆っているように
     大地は主を知る知識で満たされる。

 人と人、人と自然界、そこには主なる神を畏れることによって深い平和が打ち立てられる。これが馬小屋の王の目指すことである。それは言い換えれば、人間とこの世界を限界付けている罪と死の力を打ち破ることが、メシア・キリストの本質であることを誕生そのものが示した。罪と死の力は人と人、人と自然の間を引きさき争いを作り出す。主イエスは和解をもたらす方としてこの世に誕生した。その本質をこの世で実現するために十字架の道を選び、十字架でご自身が私たちのために犠牲となられた。それが飼い葉桶の乳飲み子のしるしが指し示していることである。

3,天使はこの大切なことを告げると天の大軍と共に神を讃美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。クリスマスの中心的なメッセージと言ってもよいよく知られた言葉である。しかし、この天使の言葉は神を讃美した言葉であることを見逃してはならない。讃美するというこの言葉には「怒りをなだめる」という意味がある。そこから宥めてほめ讃えるという意味になった。クリスマスが神を讃美するときであることは誰もが知っている。しかし、その讃美は神をなだめること、神の怒りをなだめることだとはあまり考えられていないと思う。けれども実はそこにクリスマスの大切な意味がある。御子キリストはご自身を神へのなだめの供え物としてくださった。これによって神の私たちに対する怒りは終止符を打った。その結果、私たちの神への讃美が基礎を与えられた。また、私たちの讃美は何よりもキリストへの感謝から出るものとなった。

  「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。神に栄光、地に平和とは、これ以上神とそして私たちの暮らす地上に対して相応しい言葉はないと申してよい。しかし、これを天使達の祈りの言葉、願望の言葉であると理解するならば、果たして神の出来事に即していることになるだろうか。確かに、この翻訳は「あれ」という言葉だから祈り、願望と読むことが出来る。けれども原文では願望ではなく、「いと高きところには栄光が神にある、地には平和、御心に適う人にある」と読むことも出来る。つまり、未来のことではなくすでに現在のこととなっている。

  確かに、神の御子が人となられたという神が起こされたクリスマスの出来事は、「神に栄光、地に平和」を現在のこと、現実のこととしたのである。私たちはキリストの救いがまだ来ていないかのように思う必要はないし、思ってはならないのである。キリストの救いは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」としてこの世に現れた。そして、キリストの十字架と復活によって救いは達成されたのである。主イエス・キリストという存在それ自体が神の栄光そのものである。主イエス・キリストがこの世に深く入ってこられ誕生されたこと自体が、地上の平和そのものである。私たちは相変わらず救いが現在のことではないような不安と失望とは無関係な者になったのである。

4,しかし、この天使の言葉を祈り願望としなければならないことも確かである。私たちは、そして世界の多くの人々は今年この天使の言葉をまだ実現していない祈りとして、祈りつつクリスマスを迎えているのではないか。
 今年も多くの悲しみや苦しみの声が聞こえた。イラクの国民の終わらない苦しみ、東南アジアの自然災害、そして私たちの国のここかしこからも嘆きの声が聞こえてきた。
 しかし、だからキリストの「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」の姿は無かったことだろうか。そんなことはない。クリスマスに満ち満ちている神からの和解は今も世を照らすかけがいのない平和の光である。その光を教会が掲げなかったら誰が掲げるのだろうか。教会に恵みによって結びつくことが出来た者がその光を指ささなかったら誰が真の光に気がつくだろうか。
  教会は2006年前の出来事に耳をそばだてつつ、今とこれから起こる神の栄光の出来事に目を注いでいる。今朝の礼拝で一人の姉妹が洗礼を受けたことも、その姉妹の個人的な体験と言うばかりではなく、神の栄光が今も後もこの世に現れているしるしである。