| 説教のページ |
| 2004年3月〜 | |||
| 「キリストの死と私たちの救い」 | イザヤ書53章1−9節 | ローマの信徒への手紙5章1−11節 | |
| 「キリストは復活したもう」 | イザヤ書40章28−31節 | マタイによる福音書28章1−10節 | イースター |
| 「わたしを愛するか」 | 申命記33章29節 | ヨハネによる福音書21章15−19節 | |
| 「聖霊は散らし、集める」 | 創世記11章1ー9節 | 使徒言行録2章1ー13節 | ペンテコステ |
| 「世の光キリスト 」 | 創世記1章1−5節 | ヨハネによる福音書9章1−7節 | 伝道礼拝 (6月13日) |
| 「すべてを信じ、すべてを望む」 | 創世記 24章62−67節 | コリントの信徒への手紙一 13章4−7節 | 伝道礼拝 (11月21日) |
| 「馬小屋の王キリスト」 | ルカによる福音書 2章1−20節 | クリスマスイブ礼拝 (12月24日) |
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| 「沖に漕ぎ出そう」 | イザヤ書 40章28−31節 |
ルカによる福音書 5章1−11節 |
新年礼拝 (2005年1月2日) |
2004年1〜2月 説教集
2003年10月〜12月 説教集
(2005年1月2日 新年礼拝説教要旨) |
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(2004年11月21日 伝道礼拝説教) 1,今読んだ聖書2箇所のうち、新約聖書の方のコリント一・13章は「愛の賛歌」と呼ばれてきた。愛についてこれ以上ないほどに美しく深い言葉が語られている。この章から影響を受けた芸術家や小説家が多い。また、この愛の賛歌は教会で行なわれる結婚式で読まれることも多い。今朝の説教題「すべてを信じ、すべてを望む」はこの中から取った。主語は愛。つまり、愛は「すべてを信じ、すべてを望む」と書いてあるのだが、どういうことだろう。よく愛は盲目といわれるが、そういう風に誰かを愛する人は何でも信じてしまうし、何でも希望的に見るということだろうか。それはある意味で理想的な結婚である。しかし、誰もが知っているようにどんな結婚もそのようには進まない。初めの盲目は疑いに変わり、失望が増してくる。 |
創世記 1章1−5節 ヨハネによる福音書 9章1−7節 (2004年6月13日 伝道礼拝説教) |
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(2004年5月30日 聖霊降臨日礼拝説教) 1、今日はペンテコステ礼拝を私たちは全世界の教会と共に守っている。ペンテコステとは、ギリシャ語で50を意味する。主キリストが十字架で死に復活された日から数えて50日目で、この日主がかねて約束していた聖霊がくだり、弟子達を豊かな賜物で満たしたのである。 そのため、この日は聖霊降臨日と呼ばれることになった。弟子たちに降った聖霊は、彼らが人々の前で神の救いのすばらしさを語らせる原動力となったのである。人々は弟子達の語るキリストの十字架と復活の福音を聞くと、50日前に主イエスを十字架で苦しめたことを思い起こし、「私たちはどうしたらよいのですか」と弟子たちに尋ねた。これに対して、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と弟子たちは勧めた。こうしてその日大勢の人が洗礼を受けて仲間に加わり、教えと祈りに熱心な教会が誕生した。 教会には一年間に特に大切な信仰の節目とも呼べる3つの礼拝がある。一つはクリスマスである。もう一つは受難節を通って迎えるイースター復活祭。そして第三はペンテコステ、聖霊降臨日である。カトリック教会もプロテスタント教会も、全世界の教会はこれを教会の3大祝祭日として大切にしている。 クリスマスは父なる神が御子を遣わし,私たちを救うために同じ人間となって誕生された日である。イースターは、救い主キリストが私たちを罪から救うために犠牲となって贖いの十字架で死なれ、その死から生き返って私たちに永遠の命を約束してくださった。すると、イエス・キリストの救いはクリスマスと受難節、イースターによって完全に明らかにされたのだから、特にペンテコステを祝う必要がないと思われるかもしれない。 2、さて、ペンテコステの出来事を伝えている使徒言行録2章は、「突然,激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえてきて、彼らが座っていた家中に響いた」と書いている。これが聖霊の訪れた様子であるが、聖霊の働きを大変意味深く表していると思う。聖霊によってその家全体が楽器のように鳴り出し、響きだしたのである。楽器にもいろいろあるが、例えば太鼓は空洞の胴体に張られた皮を外側から叩くと音が鳴り出す。専門の歌手も歌い始めると自分の体が空洞のようになって音を内側から響かせると聞いたことがある。 その時、エルサレムにはいろいろな国から巡礼のため戻ってきていた人たちがいた。15くらいの国、もっと多かったろう。その人たちが弟子達が語る言葉を聞いて、自分の故郷の言葉で神の偉大な業が語られてるのを聞き、大変驚いたのである。つまり、弟子達一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したのである。一つの言葉、たとえば聖なる言語といわれるヘブライ語で弟子達が重々しく、僧侶の集団が一糸乱れぬ読経をするように語り出したのではない。だから、弟子達がいっせいに語る言葉は聞く者には不協和音のように聞こえたのではないだろうか。しかしそれでいて、世界のどんな国の人にもはっきりと分かる言葉として福音が伝えられたのである。こうして聖霊は、この世界の国や民族の間の様々の違いは違いとしてそのまま残しながら、その違いを超えて、キリストの永遠に変わらない福音を世界の隅々まで伝える決意をペンテコステの日明らかにしたのである。実に聖霊の偉大な決意である。 キリストの福音がエルサレムから始まり、地中海の周辺の国々からアジアへ、そしてローマからヨーロッパ、また、ギリシャから東欧ロシアへ、アフリカへ、さらに新大陸発見により南北アメリカ、そして遂に16世紀中ごろには日本にまで伝えられた。プロテスタントキリスト教の来日は19世紀中ごろであった。 3、さて、このようなペンテコステの出来事は昔から創世記11章のバベルの塔の物語と関連させてもきた。バベルの塔の物語は、先ほど読んだように、神が高い塔を作ろうとした人たちの町を破壊し、この世界の言葉を混乱させ、人々を散らし、互いの言葉が聞き分けられないようにさせた。つまり神はおごり高ぶった人間への裁きとして、言葉の混乱を与えたのである。それが創世記によれば世界に多くの言語があり、言語の違いのために交流を難しくしている理由だということになる。このような神の裁きのもとにあった世界が、ペンテコステの出来事によってようやく回復し、真の一致へと神によって導かれることになった。 確かに、言語の違いがもたらす不自由や隔ては大きいものがある。日本の英語教育もこれからは完全に異なって、私たちの世代が味わってきた不自由が吹払われる時代が来るのは素晴らしいと思う。 バベルの人々は町を快適に作った。そのために彼らは次々と新しい技術や新しい建築材料を開発し発明した。そうして見事な町を建設したのである。その時、彼らは塔を立てると共に、全地に散らされることがないようにしようと、言い合った。実はこれがバベルの本当の問題である。彼らは町の一致、住む者たちの統一を考えたのである。その象徴として高い塔を建てた。彼らは散らばらないように内側の結束を強化し、よそ者は入れないようにした。周囲から隔絶した自己閉鎖的、自己保全的、自己完結的な生活を始めた。いわば,鎖国である。 4、ペンテコステに聖霊が起こしたのは、バベルの町の回復ではない。自己閉鎖的な一体性を持つ集団を造ろうとしたのではない。それは古い集団である。パウロは「福音のためには私は何でもする。福音のためなら,異邦人には異邦人のようになる。ユダヤ人にはユダヤ人のようになる」。パウロは自分を捨てたのである。ちっぽけな自己保全には関心がなかった。すべてを新しくする福音だけがよりどころであった。 聖霊が自由に集め、自由に散らされる働きかけに従い、それにふさわしく自己形成するのが教会である。それによって教会は世界が滅びることがないようにとりなしの働きをすることができる。そのためには、教会は先ず聖霊が語らせる言葉、すなわち福音に本気で聞かねばならない。 聖霊降臨日は教会をこの本来的な一点に堅く立たせるのである。それこそ教会固有の自由である。 |
| 申命記 33章29節 ヨハネによる福音書 21章15−19節 (2004年4月25日 主日礼拝説教要旨) 1、復活の主イエスはペトロひとりに対して「あなたはわたしを愛するか」と質問されました。ペトロは漁師の仕事を捨てて主にひたすら従った人で、以前あなた達は私を誰と言うかと問われたとき、「あなたこそ神の子キリストです」と答えています。弟子の中でも兄貴格、時には弟子を代表するまとめ役でした。 2、一方、復活された主イエスもペトロの裏切りを覚えておられました。ペトロが悩み苦しんでいることも見て取られたに違いありません。その主イエスがペトロ一人にお尋ねになったのです。ペトロは最初そのお尋ねを聞いたときそれまでの胸のつかえがおりたような思いをしたに違いありません。彼は勢いよく「はい、主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えました。 3、こうして、ペトロは主の前に心からの悔い改めをもって告白する者となり新しい出発をしました。しかし、ペトロの伝道者の生涯は決して容易なものではなく苦難の伴うものでした。ペトロはくずおれたような時にも主イエスから手を差し伸べられ、泥沼の中から引き上げられました。こうして、主イエスに愛され、育てられ、神の栄光を現すためにひたすら走ったのがペトロでした。 |
イザヤ書40章28−31節 マタイによる福音書28章1−10節 (2004年4月11日 イースター礼拝) 1、週の初めの日の明け方、二人の女性が墓に急いで行った。主イエスの遺体に香油を塗るためであった。ところが、墓に着いてみると墓の入り口を塞いでいた石が取りのけられ、中には主イエスの体は見当たらなかった。それどころか、天使が石の上に座っていて、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と二人に声をかけたのである。彼女たちは恐れながらも、天使の言葉に喜びを感じて、急いで弟子たちのところに知らせようと戻って行く途中、主イエスが行く手に立っていて「おはよう」と言われたのである。 2、私たちは何歳ころからそんな風に思ってきたのだろうか。作家の三浦綾子さんがあるエッセイの中に書いている話がある。おじいちゃんが死んで火葬場からの帰りのバスの中で、三浦綾子さんの姪の5才になる娘が泣きじゃくって「おじいちゃんはどこに行ったの」と聞きつづけた。お母さんの姪は困ってしまって「おじいちゃんは死んだんでしょ」と繰り返すだけであった。三浦さんは5才の娘が泣きつづけるのを見て、ああこんな5歳ばかりの幼子も「人間はどこから来てどこに行くのか」という根本的な問いを持っているのだと考える。そして、姪のようにただ当惑して「死んだのよ」と言うだけでは、この幼子は満足できない。むしろ死というものに恐れや不安を持つだけではないかと考える。死についてももっと根本的なこと、人間の根源、いのちの造り主である神に思いを向けるように幼子を育てることが大切だと、三浦綾子さんは書いていた。 3、さて、主イエスの墓に急いだ二人の女達のうち、マグダラのマリアという人について次に考えてみると、この人は以前七つの悪霊にとりつかれていたのが主によって救われたのである。七つの悪霊というのは沢山の悪霊のことである。彼女はこの世的には問題多い生活をしていた。このためにマリアは罪人と見られ、誰からも相手にされなかった。そのマリアを主イエスは救い出された。その後マリアはずっと主イエスに従ってきた。弟子達が十字架の主を見捨ててしまった時にも、マリアは離れなかった。十字架の近くに立っていた。そして主の埋葬にも立ち会った数少ない人の一人であった。 |
| イザヤ書 53章1―9節 ローマの信徒への手紙 5章1−11節 (2004年3月14日 主日礼拝説教) 1、イザヤ書53章は「主の苦難の僕の歌」と呼ばれている。旧約聖書の中でも特別に真剣な言葉として教会の中で今日まで読まれ、聞かれてきた。とりわけ今私たちが歩んでいるレント・受難節のように主イエス・キリストの十字架の死について思いを巡らすときには、どうしても読まねばならない箇所である。人間はどうして苦難に遭わねばならないのか、苦難にも意味があるのか、聖書は問い続けている。ヨブ記或いはエレミヤ書は、正しい人義人が何故苦しむのかを深く追求したことで知られている。このテーマを追求した旧約聖書の最も高い頂であるイザヤ書53章は、他の人の救いのために苦しむこと、犠牲としての苦難という新しい苦難の意義を告げ知らせた。 2、ロマ書5章の今読んだところについて、或る専門の学者はパウロにしては上出来な文章とは言えないと述べている。原文はギリシャ語である。力強いけれども秩序ある書き方をしていない。確かに非常に訳しにくい箇所だと思う。たとえば、「そればかりでなく」とか「なおさら」とか「それだけでなく」という言葉があるが、こういう言葉の使い方は非常にぎくしゃくした文章である。しかし、その学者はそうではあるけれどもここほどパウロの息吹が生き生きと聞こえてくる文章は少ないとも言う。そして、パウロがそのような書き方をした原因は5節の「神の愛」という言葉にあるのではないかと言っている。神の愛に向き合い、神の愛が確かな事実として心の隅々にまで満たされていったとき、パウロはうれしさのあまりその事実を表す適切な言葉をうまく使えなかった。 3、ところで、パウロはキリストの死が与える救いのあまりにも思いがけないことを言い表すために、面白い事を7節で述べている。正しい人というのは他の人とちょっと離れて、正しいけれども口うるさい人。こういう人は敬遠されるから、この人のために命を投げ出す人はいない。ところが善人のためには命を投げ出す者もいる。善人は自分を無にして他人のために尽くす人。あの人には頭が上がらないとか、あの人から云われたら断れない。そういう人のためには命を尽くして応援することもある。パウロという人は人間の世界ををよく見ているのである。 ![]() |