「望み得ないのになお望む」
創世記 12章1−3節
ローマの信徒への手紙 4章18−25節
(2004年9月5日 主日礼拝説教)
1、ロマ書4章はアブラハムの信仰を語ってきた。アブラハムは古代人で、その生活は私たちから見れば随分不便不自由非科学的である。しかし、アブラハムが直面した悩み、そして貫いた神との交わりの生活は決して古代人の無知と言えない。
彼は子どもを授かるとの約束の言葉を聞いたとき、「百才の男に子供が生まれるだろうか。90才のサラに子供が産めるだろうか」と言って、心の中で笑った。妻サラも約束の言葉を天幕の中で立ち聞きし、ひそかに笑った。ある人は彼らの笑いを「理性の抗議と心の不安」と言う。彼らの笑いは現代人が神の約束とか神への信頼と聞いたときに浮かべる薄ら笑いと同じである。それだけに、このようなことを乗り越えて、いよいよ神の約束を堅く信じていったアブラハムの信仰とはどのような信仰であろうか。
2、アブラハムの信仰は「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」とここでは言い表されている。冷たい現実をしっかりと見つめて、そこに望みのないことを承知した上で、望みを持つ信仰である。「希望するすべもなかったとき」と聞いて誰もが思い当たることがある。戦争体験とか、重い病気、また苦しい人間関係や仕事など言うにいわれぬ苦痛が人間生活に襲ってきて、私たちから希望を奪い去る。そればかりではない。聖書がこのことで特に指摘しているのは人間の罪である。罪に捕らわれていることこそ希望するすべもない状態、望みが息絶えた状態である。
私たちは罪からの救いを、老年のアブラハムとサラに子どもが生まれるよりも、難しいことであると本当に悟っているだろうか。
3、アブラハムを望みへと導かれたのは、無から有を呼び出し、死んでいる者に命を与える方であった。それは主イエスが甦られたことこそ一切の望みの鍵であるということだ。何もないところからこの世界が造られたこと、百才の老人夫婦に星の数ほどの子孫が約束されたこと、救いからまったく遠い罪人が義とされること、どれも主イエスの死からの復活に土台がある。
ところが、私たちの理性は「死人の復活」には抵抗し抗議しあざ笑う。そのように復活を信じようとしない私たちというのは神に対しては死んだも同然と言うことになるのではないか。そうであっても、自分が神に対して死んでいることを本気で受けとめることが実は大切である。そこに思い至るとき神の救いの約束を私たちは猛烈に求め必要とすることになる。

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「世界を受け継ぐ信仰 」
創世記 17章1−6節
ローマの信徒への手紙 4章13−17節
(2004年8月29日 主日礼拝説教)
1、イエス・キリストを信じる信仰によってだけ人は救われることを、ロマ書は何としても伝えたいのである。そのために、パウロはいろいろと語っているのだが、一番効果的なのは先祖アブラハムの場合を語ることであった。というのは、アブラハムはイスラエルの族長であるばかりでなく信仰の父と慕われていたからである。信仰の父アブラハムの場合も、律法によるのではなく信仰に基づいて救われ、神の約束を受けていたと証明することが一番と考えたのである。
2、アブラハムが信仰の父と呼ばれているのはどうしてだろう。彼の信仰の全体が立派であったということだろうか。創世記17章では神が「あなたを父とする」と言われている。ロマ書4章はこれを「(神が)定めた」と特別な言葉を用い、神の一方的な召しと決定であると言う。17節は「アブラハムは信じ、その御前で私たちの父となったのです」と述べている。「その御前で」とは、「神から見て」とも訳せる。神からご覧になってアブラハムは信仰の父である。私たち人間から見てアブラハムはまさに信仰の父だ、父らしい、父にしようということではない。アブラハムは神の恵みによって信仰の父に定められたと受けとめたのである。
3、アブラハムの信仰は徹底して神の恵みにゆだねる信仰であった。今はまだ約束の段階で実現していないけれど、約束をどこまでも信じることで神の恵みを知るというような信仰であった。神はアブラハムに「彼やその子孫に世界を受け継がせる」と約束された。これは信仰による平和と命の継承を約束されたのである。アブラハムはそのことを信じた。そして、神の恵みにふさわしく応答する努力を生涯重ねた。
4、信仰生活では常に主語は神である。その神は「死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神」である。私たちは今自分が救われていることを思うとき、存在していない者を呼び出して存在させたもう神に生かされていると大げさでなく言うことが出来るのではないだろうか。神を認めず、神を知らない時、私たちは自己の真の造り主を知らず、自分の本当の故郷を知らなかった。それは浮き草根無し草のようなもので、存在しているとは言えなかった。十字架と復活の主キリストはこのような者に命を注ぎ出し、命を分け与え、天の故郷を目指して今の時を一歩一歩確実に歩む道を備えて下さったのである。
私たちは自分がもともと自分のものだと主張できるものは何もない。しかもそのような者に神はアブラハムと共に「世界を受け継ぐ者となる」と本当に思いがけない約束をしてくださった。信仰者は人一倍この世界が神の喜びたもうところにする責任がある
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「不信仰者を義とする神 」
創世記 15章5−6節
ローマの信徒への手紙 4章1−12節
(2004年8月15日 主日礼拝説教)
1、古代イスラエルの人たちは信仰のことでは誰にも負けない誇りがあった。その誇りを裏付けるのは律法と割礼であった。律法を正しく守ることと割礼を受けていることが救われている証拠と信じていたのがイスラエルである。それが救いはイエス・キリストの十字架によって確立され、他のどんなものも救いにならないと言われて彼らは動揺したのである。
しかし、このことはイスラエルひとりのことだろうか。私たちの場合も同じである。私たちも主イエスだけが救い主であるとは、自分の考えや行いがどんなに立派でも自分を救うことにはならないのであって、それは誰にとっても直ちに賛成できることではない。
2、イスラエルはアブラハムを先祖と敬い、その信仰を最高の模範としていた。そこでパウロは、アブラハムの信仰がどのようなものかを語るのが一番良いと考えた。
パウロは旧約聖書をもう一度読み直したのであろう。子どもの時からアブラハムについて何度も教えられたに違いないが、キリストの十字架の救いを信じる信仰に基づいて読み直した。すると、信仰の父アブラハムについてこれまでは闇の中で見えなかったものが見えてきた。パウロによるアブラハムの再発見である。
アブラハムが90歳になったとき、神は彼を外に連れ出して天の星を示し、「あなたの子孫はこの星のようになる」と言われた。神の言葉を聞いたアブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。アブラハムはただ神が語られた言葉にだけ根拠をおいて神を信頼した。パウロはこのアブラハムに「人は信仰によってのみ救われる」という信仰の根本姿勢を発見したのである。
3、罪とは、生活の中で犯す罪悪であるとともに人間の根深いところで人間のあり方全体を定めている不安の力、支配である。救い主キリストの前に罪を認めるとは、自分の道徳的な弱点を認めること以上に、自分の全体の救いが神から来ることを認めることになる。罪を認めることは決して恥ではなく信仰による救いの第一歩になる。自分の罪を認めること自体が信仰なくては出来ないことである。
パウロはアブラハムと並んで旧約を代表するダビデの言葉(詩編32篇)を引用し、ダビデも行いによらずに神から義と認められる者の幸いを知っていた人だと言う。このように、旧約を代表するアブラハムもダビデも、不信仰者が神の前に義と認められ救われるのはただ信仰だけでよいことを体験的に示している。

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「信仰の法則 」
ルツ記 1章15−17節
ローマの信徒への手紙 3章27−31節
(2004年8月8日 主日礼拝説教)
1、今読まれた最初に、「では、人の誇りはどこにあるのか」との問いかけがある。これは、ロマ書をここまで聞いた人が思わずあげた悲鳴のような叫びと言ってよいだろう。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」と書いてきた。そして、22節には「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と厳しく指摘した。このような言葉を聞いた人の中から、それでは人間の誇り、人間の尊厳はどうなるのだとの声が挙がったのである。こんな風に言われたのでは面目丸つぶれと思ったのである。
ところが、聖書は人間が罪を犯したことを指摘するだけではない。その結果、人間は自分自身を救うことは出来なくなったと、更に追い打ちをかけるように述べている。それが24節である。「23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」人間は無力で、自分の罪を償うことが出来ない。どんなに良い行いを積んでも、人間の自己救済は不可能である。だから、神は私たちのために何の報いもお返しも求めないで、ただ神の恵みによってだけ救ってくださった。それがイエスさまの十字架である。
ところが、それに対して、いよいよ反発し、「では人の誇りはどこにあるのか」と腹を立てる人がいる。それは、人間にも自分を救う力があることをどうしても認めさせたいとの誇りに他ならない。パウロはコリントの信徒への手紙一・1章に「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探します」と書いている。ユダヤそしてギリシャ世界各地を伝道旅行して、パウロは人それぞれが様々なものに誇りを持っていることに気づいた。キリストの福音を伝道してみると、自分たちはこの点が納得しなければどうしても信じることは出来ないとか、自分たちの心を満たしてくれなければ満足できないと言う人々が大勢いた。
ユダヤ人は神から選ばれたこと、律法、割礼等を強烈に誇りとしていた。ギリシャを初め、他の国の人々も種類は違っても様々な誇りを持っていた。伝道旅行してきてパウロが痛感したのは、人間というものはたとえ貧困や苦しみ、病気のどん底にいても何か自分の誇るものを持とうとする、ということであったと思う。しかし、それを否定せず人間であれば当然のことと認めたのもパウロである。「誇り、誇る」という言葉が手紙の中に度々出てくるのも、パウロ自身が誇り高い人間であったから。
しかし、ここで問うているのはその誇りを誰に向けているかということである。自分の罪からの救いは何によって導かれ達成されるかということである。パウロにはそれはもう当然の分かり切ったことである。ここまでのところで述べてきたのは、人間は律法を行うことによっては救われない、人間の救われるのはただ神の恵みによるしかないということであった。これらは全部、人間は神に対して絶対に誇ることは出来ないという結論を語っている。だからパウロは、27節で「それ、つまり人間の誇りは取り除かれました」と書いている。つまり、神との関係で人間の誇りを問題にすることは、もう過去のことになったと言う。最も中心の神との関係で誇りとするものが一掃されてしまったのならば、他との関係でも私の誇りだ、おれの誇りだと肩ひじ張るような生活からも自由にされたことになる。
2、そこで、次にパウロはそのようになったのはどういう原理法則によったのかと問う。そして、それに対してこれまで人間の救いについて説明してきたのと同じ言葉で答えている。人間の誇ることが全くないのは、信仰の法則によるのである、という。それは、人間は律法を行うことによっては救われないということの裏返しである。行いによるのではなく、信仰によるからだ。
実は、ここで信仰の法則と言っている法則は、律法と訳されているのと同じ言葉。ノモス。パウロはこの緊張したところでかけことばをしている。勿論言葉遊びをしているわけではないが、パウロには余裕があると言って良いだろう。私たちは小さな誇りを守るために家庭で、職場で、社会の中で悪戦苦闘している。他人の悪口を言って自分を慰め、自分の誇りを何とか維持しているつもりになる場合もある。ところが、パウロはそういうことから自由になった余裕を持っている。これまでパウロが書いてきたことから言えば、律法は信仰を説明する言葉としては不釣り合い不適切。それをあえて用いる自由を今は持っていると言えるだろう。
さて、信仰の法則を大雑把に言えば、神にだけ根拠があるということである。自分には何もないが、神の大きな力を信頼しその恵みに自分を委ねてしまう。これが信仰の法則に生きることである。主イエスのたとえ話に、ある主人が旅行に出るにあたって3人の使用人を呼んで、それぞれにお金を預けた。旅から帰ってきた主人は3人を呼び、預けたお金をどのように活用したかを報告させた。すると、2人はそれを商売で2倍3倍に増やして主人に渡した。主人は大変喜んだ。ところが、3番目の使用人は預かったお金をすぐ土の中に埋めてしまった。そして預かったときのままのお金を主人に差し出した。これに対して主人は激しく怒り、銀行に預けておくことだって出来たではないかと言い、その使用人を外に追い出してしまった。この話をしたら、ある人が小さい頃から土の中に埋めておくのは安全なのにどうしてそれを怒られたのか分からなかったと言った。実は私も同じ疑問を以前持っていたことがあるから、その人が言うことがよく分かった。このたとえで、キリストは神への信頼のことを言われたのである。銀行というのも天国の銀行である。神に全部を預けるのが信仰の法則、委ねきることから出発する。これが信仰の基本法則。
3、主イエス・キリストが十字架で私たちの贖いとなって下さったことから、神の前に義とされることはそれまで考えられたこととは全く様子が変わってしまったのである。第一には、私たちは自分の救いのために神に対して誇らしく何かしゃちこ張って賞を得ようとする姿勢をとらなくても良くなった。今のありのままで、自分の弱さも無力もそのまま神に委ねきって良い。第二に、神への信仰だけが救いの道である。28節「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」。ここをルターは「信仰のみによる」と訳して、信仰を強調したことは大変有名。
ルターは次のように述べている。「神の義という言葉を私は初め嫌っていた。私はそれを神が罪人や犯罪者を罰する神の習性であると理解していた。私の良心は極度に不安であった。神の義という言葉は私に罰を与えるか、復讐する神を思わせるだけであった。私はそのような神を嫌った。そして、私は使徒パウロのこの一節において何を言おうとしているかを知りたいと思った。熱心に休みなく深く研究した。遂に神は私に哀れみを与えて下さった。私は神の義はここでは神の与える義を意味し、人間が作り出す義ではないことを悟った。信仰を持つならば人は誰でも神からの義によって生きることを理解し始めた。直ちに私は生まれ変わったように感じた。私は閉ざされた闇から天国そのものへ入ったように思った」。これがルターの「塔の体験」と呼ばれているものである。神が与える義を発見し、神にだけ根拠のある信仰のみによる救いを信じることから宗教改革が始まったのである。ここに聖書の信仰、そして私たちの信仰の原点がある。
4、パウロは、人間の生活には誇りがなくても良いと考えたのではない。むしろ人間は誇りなしには生きていけないことを誰よりも知っていたのがパウロである。厳しい迫害に出逢い、何度も死にそうな目に遭っているパウロこそ本当の誇りを真剣に求めた。そして、何を誇りとし、その誇りをどのように用いるかを深くとらえた。
コリントの信徒への手紙ニ・12章5節「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」。自分の弱さを誇るとは、普通の意味で誇ることではない。けれどもパウロは体験としてそのような誇りがあることを気付いた。7節「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました」。パウロは取り除くことを許されない肉体の刺を持っていた。それが何であるか、くる病とも眼病とも言われている。
私たちは、誰もが肉体的に或いは精神的に取り除いて欲しい刺のようなものを持っているのではないか。とげを気にしているパウロに「私の恵みはあなたに対して十分である」との答えが神から届けられた。弱さの中にこそ恵みは現れている。パウロはこれを刺を気にしている生活の中で示されて、弱さを誇る。弱いことこそ強いという信仰の不思議な逆説を知った。これによって、他の人の弱さを思いやる。キリストを誇り、自分の弱さを誇る。更には他の人と弱さを分け合うことが出来る人になった。
信仰の法則というものが本当にある。それはルツのように亡き夫の母親、つまりしゅうとめにどこまでも従い、しゅうとめの悲しみも死も全部自分のものとするというような、思い切った生き方に飛び込むことを可能にする不思議な法則である。この法則のただ一つの土台は、神に対して素直に心を開くことである。人間は誰もが自分なりの原理法則を持っているかもしれないが、私たちは信仰の法則を大切にして歩むことが出来るのは幸いである。
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「神はキリストを立て給う」
詩編 130篇
ローマの信徒への手紙 3章21−26節
(2004年8月1日 主日礼拝説教要旨)
1、「これは神様がなさったことだ」と思わずにおれないことが人間の一生には一度や二度はあるのではないだろうか。人間の業とはどうしても言えない、上から天から見えない慈愛のみ手がこの事を起こして下さったと説明するしかないことがある。実は、それは神の方にもそうなさった理由があるということではないだろうか。神が行動を起こされる時は、神がお考えになって「今こそ」とお決めになった時に違いない。神が行動を起こされた出来事といえば、何よりも神が愛する独り子を救い主としてこの世に遣わしてくださったクリスマスがある。
2、ロマ書3章21節は「ところが今や」という言葉で始まっている。これは原文では小さな二つの言葉であるが、昔からこの小さな言葉の意味の大きさが注目されてきた。人間は神に逆らっているため神の怒りを受け滅びるしかないと思われた時、突然、神の救いが現されたのである。キリストがこの世界に来られたのである。神は人間の罪を見逃し長い忍耐の時を過ごして来られたが、今こそ救いの行動を起こされた。しかもまったく思いがけない方法で行動された。だからこの「今」は実に大きく深い聖なる今であって、私たちはこの救いに近づきこれを自分の救いにしないわけにはいかない。
3、神の御子キリストが救い主として立てられ、この世に誕生されたのは神が熱心に考えてお決めになったことである。この事を「神の義が現された」と書いている。神が聖であって正しい方であるのは旧約聖書も一貫して語ってきた。しかし今はまったく新しい仕方で神の義が現されたのである。
それは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされのです」と書いてある。贖いには代価の意味がある。私たちを罪の奴隷から買い戻すために、神は神の子を代価として支払われた。十字架である。このようにして律法を守ることもできず、神に逆らうしかなかった私たちを救い、キリストに従い仕える者にしてくださったのである。私たちは深い感謝をささげずにはおれない。
4、心の深いところで救いを願う切実な思いは人間誰にでも共通にある。その思いを受けとめ、神が今ご用意してくださった真の神のもとに立ち返る道を私たちは共に進みたい。この道は、歩むことを願う者は老若男女誰でも歩むことが出来る。その道は狭いが、踏み外さない限り神にまで達している。
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「正しい者はいない」
詩編 14篇1−3節
ローマの信徒への手紙 3章9−20節
(2004年7月18日 主日礼拝説教要旨)
1、「正しい者はいない。一人もいない」。これは強烈な言葉である。聖書はどんな物語よりも暖かく慰めに満ちた書物であると、多くの人が考えている。それから見ればこの言葉はあまりにも心無い言葉に思われるのである。けれども同様の言葉が旧約聖書にもある。旧約から新約まで、聖書はこれ以上ないような慰めと暖かさを持っている一方で、これ以上ないような厳しさで人間を見ている。 この両面を、神の裁きと愛、律法と福音と言い表す人もいるが、そうなると神が二重の性格を持っているようになってしまう。神は裁きと共に愛をもって私たちと交わり、律法と共に福音を語られるのだが、それは神の救いという変わらない一つのことに私たちを導くのである。だから神は二重性格を持っているのではなく、天地創造以来私たちを救うために一筋に真実を尽くしておられる方である。
2、すると、問題は私たち人間のほうにある。私たちの方こそ二重三重性格を持っている。一見正しい人に見える、一見悟っている者のように見える、一見神を捜し求める者のように見える。しかし、神から見れば皆迷い、だれもかれも神の栄光を現すことでは役に立たない者となっている。ユダヤ人もギリシャ人も皆罪という同じ屋根の下に一緒に住んでいる。罪の力を強く感じる人とあまり感じない人があるかもしれない。罪にも大きい小さいがあるだろう。けれども、罪の下にあるということでは同じ罪の支配下にある。
3、さて、1章18節からパウロが述べてきた人間が罪について弁解の余地がないということはこれ以上語ることがないほどに語りつくされた。最後の念を押すようにパウロは旧約聖書の言葉でそのことを指摘している。それが3章10節以下に書いてある。特に13節以下には、罪を犯すものとして体の中で口と足と目を代表に取り上げている。口は災いの元ということわざがあるように、私たちは自分の口、自分の舌を制御できず多くの罪を犯してきた。次の足であるが、私たちの足は罪の体をどこにでも運ぶ。足の働きによって口や頭や手ががもたらす災いはそこらじゅうに撒き散らされる。そして、私たちの目については「彼らの目には神への怖れがない」と言われているが、心当たりのあることである。
4、こうして見ると、「正しい者はいない。一人もいない」という言葉の意味がはっきりする。他人事ではなくなる。神からご覧になって正しく神のお心にかなう人は一人もいないということを、私たちは素直に認めるしかないのである。

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「神への畏れ」
申命記 4章9−10節
ローマの信徒への手紙 3章1−8節
(2004年7月11日 主日礼拝説教要旨)
1、ロマ書は2章の終わりまで、すべての人が神の前に弁解の余地のない罪人であることを述べてきた。どうして聖書は人間が罪人であることをこれほどに強調するのだろう。聖書は先ず暗い罪を教え、それから明るい救いを対照的に語るためこのような書き方をしているのだろうか。そうではない。聖書は私たち人間の救いが何のための救いであるかを語ろうとしている。私たちは救いについても自分本位で考え、自分の欠点を補い自分の欲望を満たすものが救いであるという位にしか考えなくなってしまうのである。
テモテ第一の手紙1:15に次の言葉がある。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。私はその罪人の中で最たる者です」。これは教会の最初から大切にされた根本的な信仰の言葉である。つまりキリストの福音は人間を罪から救うためにあるということである。
2、罪は人間社会の中に具体的に現れることが確かにある。社会の仕組みや行動が罪を表していることがある。しかし罪とその救いは、なんと言っても私たち一人ひとりの心の奥底の問題である。私たちの魂がどっちの方向を向いているかということである。私たちは自分の魂の状態に気がつき、それを何とかしなければならない。そうでないと、自分は根無し草になる。糸の切れた凧のようになってしまう。つまり、真の造り主である神から離れていることはなんと苦しいことかと気がつく。これが罪を知るということであり、同時に罪からの救いの道をもうすでに歩き出している。
3、私たちが罪のことを深く考えないのは、自分の罪を忘れてしまうからである。また生活が人間中心で、神中心に考えることから離れていることも原因である。そうなるとキリストが罪から人間を救うためにこの世に来られた尊さも分からなくなる。
主イエスは誰よりも人間の罪を直視し、罪からの救いを考えておられた。人間の罪を思うことは愛を離れることではない。逆に、人間を本気で愛するから主イエスは人間の罪と本気で取り組まれたのである。神はイスラエルに対して「地上に生きる限り、私を畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう」と(申命記4:10)呼びかけられた。私たちは互いには弱さを持っている者どうしの思いやりを大切にして、キリストの十字架を共に見つめていきたい。神を畏れる心を礼拝と教会生活から養われ、神が罪ある者に対して示されるお心を聞き続けたい。

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「神の御心と律法」
出エジプト記 20章18−21節
ローマの信徒への手紙 2章17−29節
(2004年7月4日 主日礼拝説教要旨)
1、聖書は、人間が神に創造された者としてふさわしく生きるために、どのような道を進めばよいかを教えている。ふさわしい生き方はいろいろあるが、一つだけ取り上げれば自由ということになるだろう。人間が、神との関係においても他の人との関係においても、こだわりなくのびのびと愛を持って生きることが神の御心である。ところが、私たちはこの自由を何をしてもよい自由(放縦)と誤解してしまった。神への罪も人間互いの争いや憎しみも、この自由の誤解が原因の場合が多い。これは私たち人間が神の民として生きる筋道をいつのまにか失ってしまったということである。
2、古代イスラエルは神の民にふさわしい筋道を律法から学んだ。律法の中心はモーセの十戎で(出エジプト記20章)、その冒頭には「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とある。律法を与えた神は真の自由を与えたもう方であった。人間の側から言えば、十戎を守るとは神の愛に答えることが基礎で、律法はイスラエルに神の民にふさわしく生きる筋道を与えたということになる。ところが、イスラエルは律法を自分たちの特権と考えた。律法を持っているというだけで、もう律法の生活が出来ていると考えてしまった。
しかし、律法はただ持っていればそれでよいというものではない。律法は行うという責任がある。しかも、神に対する責任であるからいい加減なことはできない。イスラエルは奴隷の家からの解放の恵みを忘れ、律法を持っていることに安住しあぐらをかいてしまったのである。それは神を深く悲しませることになった。イスラエルの律法生活が大変特殊なものであったことが分かるのである。
3、それならば、異邦人はどうなのか。彼らには律法はない。しかしパウロは彼らにも良心があると述べている。それによって、神が律法によって求めることが何であるかは分かるようになっていると言うのである。そこで、律法を持っているかいないかということは、罪を犯すことについては、全く関係がないことになるのである。神は人を律法のあるなしで分け隔てなさらず、誰の罪についても真剣に取り上げる方である。
4、罪について言われることは救いについても同様に適用されることになる。神がキリストを遣わして明らかにされた救いの道は、それを真剣に求める人であれば誰でも進み行くことの出来る筋道である。イエス・キリストはこの世に来られ、救いの道を見失って罪の中をさまよっている私たちのために十字架の犠牲となって救い出して下さったのである。この救いは律法によって示された神の御心に従う筋道の延長線であり、しかもまったく新しい平安と喜びと希望を私たちにもたらすのである。
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「神の正しい裁き」
イザヤ書 2章12−17節
ローマの信徒への手紙 2章1−16節
(2004年6月27日 主日礼拝説教要旨)
1、2章は「だから、すべて人を裁く者よ」という呼びかけの言葉から始まっているが、これはユダヤ人に対して呼びかけたのである。パウロは1章で異邦人の具体的な罪の姿を赤裸々に書いた。今度はユダヤ人に対して、あなた方は異邦人を裁きさげすんでいるが、実は同じ罪を犯していて、あなたがたも弁解の余地はないのだと言う。
2、ユダヤ人の問題とは何だろうか。パウロは「人を裁く者よ」という言葉にそれをこめている。「裁く」という言葉は、元々「区分する、自分を他よりも優っているとする」という意味で、ユダヤ人は異邦人から自分を区別して異邦人を見下していた。このユダヤ人の誇りの根拠は律法を持っているということにあった。
しかし、それは見当はずれもはなはだしい。パウロも同じユダヤ人であり、以前は誰よりもユダヤ人の誇りに生きていた。しかし、今は違う。神のさばきの正しさと圧倒的な力、そしてキリストの憐れみの深さを知ったのである。神のさばきの前には、人間の区別などは全く小さなことと思い知ったのがパウロである。
3、ユダヤ人の傲慢はユダヤ人だけのものではない。自己中心的な考えで生きている人、私たちも含めて、すべての人の問題である。人間は自分が偉いと思いこんで神の裁きなどは一顧だにせず傲慢になっている。しかし、人間が罰を受けないでいるのは、神の慈愛と忍耐と寛容があるからだと聖書は語っている。私たちはいつまでもつけあがっていることは出来ない。
4、パウロは福音によってこのことを知った。知ってみると、ユダヤ人が悔い改めもせず、いい気になって他人を責め裁いていることが見当はずれも甚だしい。いやむしろ気の毒に思ったのである。パウロは「あなたは、神のさばきを逃れられると思うのですか」と、ユダヤ人の、いや私たちの胸ぐらをつかんで問いかけている。パウロは神のお心が分かってきた。神がどのような方であるかが分かった。神の前には区別はない。誰も威張ることは出来ない。それは神には偏見がないからである。
もう一つパウロが福音によって分かったことがある。それは人間をユダヤ人、異邦人と区別する間違いである。人間は、善を行うか悪を行うかどちらかである。しかし、善と悪の区分は簡単なようでいて、実は難しい。それが福音の立場に立つときに、何が善で何が悪かということがだんだんと分かってくる。私たちはパウロが「不滅のものを求める」ことを善としていることを注目したい。見えないけれども真に命あるものが与えられる将来を、希望を持って待ち望むということである。信仰に生きる生活には約束に委ねるということがある。こういうところに善い生活が生まれる。
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「神の秩序」
イザヤ書 45章18−19節
ローマの信徒への手紙 1章18−32節
(2004年6月20日 主日礼拝説教要旨)
1、ローマの信徒への手紙(ロマ書)の構成は大きく次のようになる。
@1章1-17 序文、A1章18-3章20 人間の罪と悲惨について、B3章21-8章 キリストによる救い、C9-11章 イスラエルの救い、D12-15章 救われた者の生活、E16章 最後の挨拶
2、1章18節から32節には、すさまじいばかりの言葉を尽くして、人間のむなしい思い、心と体が鈍く暗くなっている様子が具体的に記されている。ローマ帝国の各地を伝道して歩いたパウロは、人間の生活が逆転し本来の自然なものを失っていることを見てきた。パウロはこれを深く悲しみ、神のかたちとして創造された人間の回復を心から願って書いている。逆転は先ず性的な面に現れている倒錯が指摘されている。それだけでなく人間生活に現れている様々な逆転と交わりの破れも指摘している。
よく罪という言葉は嫌いだとか、罪のことはもう結構だと言われる。キリスト教は好きだけど、罪のようなことはそっと脇に置いて、信仰の世界の幸せや楽しみだけを見つめさせてくれないかと言われる。気持は分からなくはない。しかし、罪はどんなに顔をそむけても人間生活の否定できない事実としてある。パウロが願っているのは単に罪について知ることではない。神との真実の関係を知ることである。逆転の生活の一番根底にある神と人間の関係の逆転に目を向け、創造の初めからこの世界に与えられた神の秩序を回復することこそパウロの願いであると共に、私たちの願いではないだろうか。
3、「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」(25節)。人間の罪とそれに対する神の怒りを語るパウロが思わず心の底から叫んだ信仰の告白である。パウロは、人間の逆転の暗闇の現実を直視しているが、しかも彼にとって真実(アーメン)とは造り主なる神以外にない。神は被造物をどこまでも御心にかけておられる。そこに造り主なる神の真実がある。したがって、人間は神を拝み神によって生きるのでなければ、本当は生きられないように元々造られている。これが神が創造に当たって定められた秩序である。
4、この箇所には「まかせられた」と二度書いてある(24、26節)。28節の「渡される」も原典では同じ言葉。いずれも主語は神であって、神が人間の思うようになすがままに放置されたという意味である。人間の方は、自分の考えにより、自由に神を捨て、思いのままに生きていると思いこんでいた。ところが、気がついてみると、そうなったのは神が私たちをこのような無秩序の生活に渡してしまわれたのであると分かった。神のみ手は決して短くはなく、今ここに及んでいることを気づかせ給うたのである。
なすままに「まかされ、渡された」のは確かに神の怒りであるが、同時にここには神の深いお心と聖なる愛がある。そこまでして神は私たちが悔い改め、立ち返ることを願っておられるのである。
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「福音を恥としない」
イザヤ書 40章28−31節
ローマの信徒への手紙 1章16−17節
(2004年6月6日 主日礼拝説教要旨)
1、今日の箇所はこの手紙の主題と言われている。たった二節であるが、パウロはこの手紙で述べたいことをあらかじめ明らかにした。
先ず「私は福音を恥としない」と述べている。福音がパウロを確かに生かしてきたという喜びに裏打ちされた言葉である。パウロは福音に聞き従う歩みをしてきたが、福音は私を決して裏切ることはしなかったと言いたいのである。福音という言葉はこの手紙で何十回と出てくるが、この箇所で強調しているのは、福音は信じる人誰にでも救いをもたらす神の力ということである。この誰に対しても力がある、有効であることが福音の特徴であり命である。ある人には有効だが別の人はどんなに求めても信じても救われないというのでは、神の力とは言えない。
2、福音が救いをもたらす神の力であるとは、人間の力とは全く違うということである。人間が考えるようには福音はその力を表さない。福音は神の義、すなわち神の正しさを啓示している。
旧約聖書によれば神がその正しさ、聖であることを表すのは、初め、神の正しさを妨げる者たちを取り除き滅ぼす仕方で行われた。ノアの洪水がそれである。神に背く人間達を全部滅ぼし尽くされた。けれども洪水の後、神はもう二度とこのような乱暴な方法は取らないと自分に誓われたのである。しかし、その時神が言われた言葉はこうである。「人に対して大地を呪うことは二度とするまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」。したがって、神が次に神の義を現そうとされるのは、幼いときから悪い人間を根底から変えて、善いことを心に思う者にするためであることは明白である。
神の義が次に現されたのはキリストの福音によってである。福音によって表された神の義は、滅ぼすのとは正反対に人を生かす仕方で表された。「正しい者は信仰によって生きる」手続きを神はおとりになった。滅びるしかない者を反対に正しい者と認める道が神の方から造られた。
3、しかし、そのためには神の子を神ご自身が滅ぼすという方法を取られたのである。キリストは十字架のうえで、苦しい息の中から「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んでおられる。神の義を妨げる人間の罪が神の子キリストの十字架によって償われ、無効にされ、赦され、そればかりでなく罪人が自分の働きによらないで義と認められることがキリストの十字架において実現した。これが福音である。福音が啓示する神の義である
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「キリストの召し」
申命記 7章6−8節
ローマの信徒への手紙 1章1−7節
(2004年5月16日 主日礼拝説教要旨)
1、ロマ書1章1から7節の短いところでパウロは「召された」という言葉を三度も使っている。1節はパウロ自身、6と7節は、ローマの信徒のことである。召した方は神であって、神の召しに関係しているのはパウロだけでなくローマ教会の信徒も同じである。
何のために神は召すのだろう。神の召しとはそもそもどういうことだろうか。パウロは「召されて使徒となった」と述べているが、それも異邦人の使徒とされたのがパウロである。パウロは若い頃自分が生粋のユダヤ人であることを誇りと思い、そのことに生きがいを感じていた。異邦人を軽蔑し、挨拶もせず、食卓を共にしたことは一度もなかった。それが今では異邦人に福音を伝える伝道者になっている。パウロはこのことを考えると不思議でならなかったであろう。これは自分の力や能力によるのではない。異邦人の使徒とされているのは、神の恵みの召しそのものだとパウロは悟ったのである。
2、異邦人という言い方は当時のユダヤ人が他の国民を軽蔑して言い出したのである。当時の世界では、「ユダヤ人だ、異邦人だ、文明人だ、未開人だ」そんなことを言い合って、互いを蔑み差別していた。そういう小さな違いをいかにも大きなことだと今の時代も言い合っている。しかし、パウロは本当に大切な事は「イエス・キリストのもの」となっていることだと言う。
「イエス・キリストのもの」とは主キリストの救いを受けている者ということである。主イエスが十字架と復活によって私たちに与えてくださった救いがある。それは神の子が苦しんで苦しんで、遂に十字架で犠牲となって死ぬことで与えてくださった救いである。復活のキリストがもたらされた命を私たちにも分け与えてくださる救いである。こうした救いにあずかるようにキリストは私たちを召しておられる。だから、神の召しとはすべての人を招くキリストの救いへの召しである。
3、最後の7節では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」と書いてある。神の召しは神の愛と一つである。そして、愛され、召される人は聖なる者と呼ばれる。聖は、「分けられる、分離される」という意味で、キリストによって神に属し、神のご用に用いられる者となったのが私たちである。
それは個人的というよりも、礼拝を守る群れを指すことを忘れてはいけない。教会の礼拝は聖会と呼んでも間違いではない。神は私たちを礼拝に招き神の御用に当ててくださる。

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「我らの主イエス・キリスト」
イザヤ書 11章1ー5節
ローマの信徒への手紙 1章1ー7節
(2004年5月9日 主日礼拝説教要旨)
1、使徒パウロはまだ訪れたことのないローマ教会に先ず自己紹介をしている。伝道者の自己紹介は自分が信じ宣べ伝えていることを紹介するのである。パウロにとって一番大切なものは神の福音である。そこで語らねばならないのは福音の内容である。
2、神の福音は語り尽くせないほど豊かである。その豊かさは主イエスの豊かさに他ならない。パウロは「この福音は御子に関するものです」と3節に書いている。御子とは父の子、つまり御父である神の子という意味である。だから、御父と御子の永遠の豊かな交わりに関することが福音の根本である。
本来御子キリストは御父との聖なる一致、本質を同じくする神であられる。その聖なる豊かな神の交わりにある方が、御子であることを止めることなく、マリアを母として人間にお生まれになり、この世界と歴史の中を私たちと同じに生きられた。そればかりでなく苦しみを受け、恥ずべき呪いの十字架の上で死なれた。しかし、それには深い理由と目的がある。神の子の十字架の苦難と死には神の意志が働いている。それを明らかにしているのが福音である。
3、パウロは「御子に関するものです」と言った後、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ,聖なる霊によれば,死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」と書いている。キリストの人である性質と神である性質、教会の古くからの言い方をすれば「キリストの人性と神性は混合することなくしかも分離もしない」。キリストの全体像をそのままに表わそうとしたのである。
「肉によればダビデの子孫」とあるが、神に対しても人に対しても、正直で真実であろうとしたのがダビデ王である。ダビデはそれにたびたび失敗しているのも事実であるが、悔い改めによって真実であろうとした。この真実を主イエスは体現したもうた。
「聖なる霊によれば」では、主イエスの死者からの復活ということが神の子であることをいよいよ明確にしたと言われている。これは聖なる霊によればと断られているように、あくまでも神の御心に属することであって、私たちが詮索することではない。ただ、主イエスの死人からの復活が福音の要であることを素直に受けとめればよいのである。キリストの死と復活は、私たちの罪との関係において考えねば本当のことは分からない。自己の罪に深くうなだれる者を神は決して見捨てる事をなさらない。そのとき、キリストの復活の福音は必ず慰めとなり励ましとなる。

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「神の福音と使徒」
イザヤ書 52章7ー10節
ローマの信徒への手紙 1章1ー7節
(2004年5月2日 主日礼拝説教要旨)
1、私たちは礼拝によって慰めを受けたいと願う。けれども礼拝が与える慰めや励ましが本来どんなものかはあまり考えないのではないだろうか。聖書の言葉が正しく聞かれるとき、それはそのまま慰めとなり、励ましとなるのである。だがそれは決して易しいことではない。私たちは自分に都合よく読みとったり、今の時代に合わせて理解することをしてしまう。けれども、力ある永続的な慰めはただ主キリストからだけ来ることを信じ、それにふさわしい聖書の読み方を今日から始まるロマ書説教の礼拝を通して身に着けたい。
2、聖書を指輪にたとえ、ロマ書はその宝石にあたると言った人がいる。宗教改革を含めて教会の歴史の大切な場面では、必ずロマ書がもう一度真剣に読まれた。ロマ書は難解な神学書という誤解がある。むしろ順序立てて福音の真理を解き明かしているのがロマ書である。身構えるのではなく、ロマ書に身をゆだねるように聞きたい。
ロマ書を書いたのが使徒パウロである。受け取ったのはローマ教会。16章あるこの手紙の始まりは、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され,召されて使徒となったパウロから」。パウロは帝国の都ローマにある教会ををまだ知らない。他の手紙とは異なって、パウロは自分のことを注意深く紹介する必要があった。当時の教会でパウロほど誤解され反発を受けていた伝道者は他にいなかった。彼はかつては教会を迫害していたからである。この手紙で丁寧に自分自身と信仰の考え方を紹介し伝えようとしたのである。
3、先ず「キリスト・イエスの僕」と自分を言い表している。僕は「奴隷」という字である。奴隷は当時の社会では一つの社会的身分で、主人の命令に隷属する主人の所有物であった。パウロは何のはばかることなくキリストの奴隷だという。それほどにキリストのものとされ、キリストに仕えることが誇りであった。しかし考えてみると、主イエスこそ真の主の僕、神の僕としての生涯を送られたのである。そのキリストに倣ってパウロは自分をキリストの僕であると言っている。
そのパウロが神の側に立って人間に対すると、使徒ということになる。神から遣わされ、神の業に仕えるのが使徒である。使徒は第一に復活の証人である。キリストの復活は福音の中心である。使徒によるキリストの復活の証言だけが信仰に生きる者の拠り所であり,教会の信仰の基礎である。今日も全世界の教会が使徒信条を重んじ,そこに言い表されている信仰を教会の信仰としている。

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