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サッカースタジアム
独から恩師門下生次々
基本重視 五輪で開花
170センチに満たない立ち姿は、エネルギーにあふれていた。
5月27日、東京都文京区の日本サッカーミュージアム。
功労者をたたえる殿堂が創設され、
デットマール・クラマー(80)ら20人が表彰された。
「メキシコ五輪で銅メダル獲得後、日本を離れた。
そのあと(日本代表が)低迷したことに責任を感じていた。
ナガヌマたち教え子が日本サッカーを再建したことを誇りに思う」
この「恩師」がいなければ、
日本のサッカー界は今とは別の姿になっていたに違いない。
1960年。
日本協会会長だった野津譲[ゆずる](故人)は西ドイツへ向かった。
同じ敗戦国でも、54年のスイスW杯で優勝。
日本はアジアでくすぶり、フィリピンや香港などに負け続けていた。
4年後に東京五輪がある。有能な指導者が欲しい。
推薦を西ドイツ協会に頼んでいた。
35歳の小柄なコーチの部屋に、モットーが掲げられていた。
《目そのものは見えない。耳そのものは聞こえない。
見るのは精神であり、聞くのも精神である》
深い知性を感じた野津は招請を即断する。クラマーも快く受け入れた。
「8年間ラテン語を学んだし、ギリシャやローマの哲学も勉強していた。
日本の文化にも興味があった。
父が庭師で日本庭園の素晴らしさを知っていたからね」
その年の秋に来日。東京五輪までに4回訪れた。
日本協会の台所は苦しかった。
滞在費の何割かを各地の組織に負担してもらうため、
代表チーム指導と地方講習会をセットにした。
この全国行脚で通訳兼運転手を務めたのが岡野俊一郎(73)だ。
岡野が間近に見た指導は「基本だけ。
でも、なぜそれが必要で、どうしてそうなるかをきちんと説明した。
しかも自分でやってみせる。
正確さの違いは歴然だから、目からウロコの気分だった」。
西独へのコーチ留学を決めたのも彼が誘ってくれたからだ。
東京五輪の2年前、
クラマーは代表監督に長沼健(74)、コーチに岡野を推した。
30代に入ったばかりの若いコンビに、
メンバー構成から戦術までチーム作りの基本を教え込んだ。
広島で被爆した長沼と、東京で焼け野原を歩いた岡野。
2人は戦後47年に
復活した全国中等学校選手権の1回戦でたたかっている。
長沼の広島高等師範付属中が岡野の都立五中を5−0で下し、
勢いにのって頂点を極めた。
10代の出会いについて、長沼は語る。
「岡野とは長いつきあいになった。
彼に助けられて大任も全うできた」。
長沼が入った古河電工は、
学生が独占してきた天皇杯で実業団として初めて優勝。
その指導力を認められた。
日本は64年の東京五輪で8強入りをはたす。
攻撃陣に川淵三郎(68)がいた。
クラマーの下から、長沼、岡野、川淵と3人の協会会長が
生まれることになる。
68年のメキシコ五輪で銅メダル。
ストライカー釜本邦茂(61)は6試合で7ゴールを挙げ、
得点王をさらった。
「後悔があるとすれば、メキシコの後、肝炎にかかったこと。
ドイツのプロリーグでプレーすることが決まっていたから」。
クラマーに出会ったのは京都・山城高校時代の地方講習会だ。
それ以来の門下生である。
多くの人材を育てたクラマーは国際連盟の派遣コーチ時代を含め、
指導した国は「90以上になる」という。
今も頼まれれば腰を上げる。
名コーチのDNAは世界に広がり続ける。
(「朝日新聞」7月19日)
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この「Soccer」欄の「『日本サッカー殿堂』設置」でも紹介した、
クラマー氏。
残念ながら、私はその謦咳に接したことはない。
しかし、氏の人間的な魅力に惹かれ、
氏に関する事項(指導内容や言行録など)を集めていた。
でも、転勤を繰り返しているうちに、散逸してしまった。惜しい。
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