川の名は

 

  「大石川」は「都賀川」になったのか?

 

  光吉一夫

摂津名所大絵図(天保7年)

摂津名所大絵図(寛延元年)


1.はじめに―「大石川」との出会いー 

 幼稚園入園前から小学校4年までの昭和30年代の少年時代の大半を、灘区南部の新在家中町で過ごした私にとっては、灘区は今でも懐かしさを感じさせる町である。

 最初から少し脱線するが、現在、「新在家」に「中町」はない。というのも「第2阪神国道」(正式には国道43号)の建設に伴い我が家は立ち退きとなり、「新在家中町」地域もコミュニティが崩壊し、さらに昭和41年の住居表示の統廃合で「中町」は廃止されたからである。

 話は戻る。この地域のすぐ西を一筋の川が流れている。川の名前は「大石川」という。当時は犬猫の死骸や空き瓶などが平気で捨てられており、今とは全く違う「どぶ川」であった。それでも子供はみんなはだしで川に入って、小魚とりなどをしたものである。むろんガラスのかけらで足の裏を切ったこともあった。今から思えばバイキンだらけの川でよく何ともなかったものだと思うが、それでも川遊びはずっと続けていた。空き地、酒蔵、そして「大石川」は私たち子供の絶好の遊び場であった。

 

2.「都賀川」との出会い

 市役所に就職して数年後、灘区の「都賀川を守ろう会」の会長さんに取材をする機会があった。昭和51年に「都賀川を守ろう会」を結成し、汚かった都賀川の河川浄化に大変努力されたとのこと。確かに「都賀川」は以前とは見違えるほどきれいになっていた。川床は石張りで、ごみもほとんど投げ捨てられず、夏には子供が水遊びができる。昔のどぶ川とは大違いであった。その日の取材は、会長さんの苦労話をお聞きして、無事終了した。

 しかし、職場へ戻っても何故か違和感が消えなかった。何か変だ。

「『都賀川』ってどこの川のことや?」「この川はずっと前から『大石川』やろ」「誰がいつの間に『都賀川』にしたんや?」

 こんな疑問と割り切れない気持ちを残しながらも、その時はそれ以上考えることもなく、時間が流れた。

 

3.再び灘区民となって

 昨年9月、長田区から灘区に戻ってきた。と同時に心の隅に眠っていた「都賀川」に関する疑問が頭をもたげてきた。

 大方の解説書は「都賀川」をこう解説している。すなわち、六甲山を源流とする「六甲川」と摩耶山を源流とする「杣谷川」とが阪急電車のあたりで合流し、「都賀川」となる。「都賀」の名は、現在の灘区から徳井地区を除いた地域が、中世から近世にかけて「都賀庄」と呼ばれていたことに由来する。「都賀川」は全長約1・8q、下流部は「大石川」とも呼ばれる、と行った具合だ。

 また、寛政年間に発行された摂津名所図会の「都賀川」の項目には、ただ1行「一名大石川。水源武庫の杣谷より出でて、川原・大石を歴て海に入る。」とある。西攝大観にもかなり詳細な記述があるが要旨は同様である。どう考えても「大石川」の方が分が悪いようである。

 

4.「大石川」を探して

 「都賀川」が現在の公式名称になっているなら、「大石川」の分が悪いのは当然である。それなら発想を変えて「大石川」を探してみることにした。

  まず、灘区を東西に横断する国道2号が「この川」と交差する交差点の名前は「大石川」である。また、すぐそばの阪神バスの「この川」のそばのバス停も「大石川」である。道路や交通機関に付随する表示は、公的な名称に拠ることを求められるのが通常であるにもかかわらず、「大石川」の表示を残している。これをどう理解するべきか。

  仮に、この交差点より下流の約0・9kmが「大石川」としてなじんでいるからそうなると考えてみよう。それでは上流の篠原地区では「都賀川」は定着しているのか。どうも実態はそうではないようである。例えば、昭和13年の大水害における「この川」の氾濫の状況を示した「篠原地区の災害地図」では、本文には都賀川と記載されているにもかかわらず、作成された図面には「大石川(都賀川)」と表示されている。どう考えても統一性はないようだ。

 また、古地図を調べてみると、1836年の摂津名所大絵図では「都賀川 一名大石川」と表示されているが、さらに時代を遡った1748年の摂津名所大絵図には、単に「大石川」と表示されているだけである。これも時代ごとに変化している。

  さらに、灘三か町村神戸市編入50周年記念座談会では、西郷連合自治会長(当時73歳)の西村義一氏が、都賀川改修工事について発言しているが、それは「大石川、いわゆる都賀川を云々」であって、決して「都賀川、いわゆる大石川を云々」とはなっていない。西村氏にとっては依然この川は「大石川」なのである。


「都賀川」流域図

 

5.むすび

 「この川」の名称は時代ごとに変遷してきた。思うに、地域に生活するの人々の心の奥には依然として「大石川」がしっかりと根をおろしているのではないだろうか。それがいろいろな機会に、公式の名称である「都賀川」を越えて表に出てくるのではないか。

 現在、「都賀」の名称は「この川」を除いてどこにも残っていない。これに対して「大石」の名称は区内各地域に残っている。中世から近世に灘区のほぼ全域が都賀庄に含まれていたという事実は理解できたが、そのことをもって大石川を都賀川と名づける必要がどこにあるのか、もうひとつよく理解できない。「この川」の源流の1つが大石字長峰山であり、下流が大石地区であるならば大石川と呼ぶのが自然ではないのか。

 私は、少年時代、家でも学校でも「都賀川」などという名前は使ったこともなく、聞いたこともなかった。「この川」はずっと「大石川」であった。いったい「都賀川」という名称に、地元がどれだけの愛着を持っているのだろうか。地域に密着しない建前ばかりの名称はいいかげんにしてもらいたいと思うのは私一人だけだろうか。

(参考文献) ○摂津国名所大絵図(寛延元年1748年版)○新改正攝津國名所旧跡細見大繪圖(天保7年1836年版)○攝津名所図会・西攝大観○なだ 灘三カ町村神戸市編入50周年記念行事協賛会 昭和5411月発行○灘区歴史散歩  灘区役所広報相談課 昭和515月発行○灘区の町名(改訂版)  灘区役所まちづくり推進課 平成24月発行○灘区の歴史 灘区役所まちづくり推進課 平成44月発行

RANDOM 第6号 2003.10 

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