私は1955年以来、日本古代文化、生活及び歴史特に日本古代の墳墓の形成の問題の研究を開始しました。当時の東南アジアの文明は中国文明の影響がすべてであります。私は我国の古代文化には長江中下流域の文明が黄河文明よりも大きな影響があると考えています。私はすでに30数回中国を旅行し数々の遺跡を見て歩きました。
周口店、殷墟、半坡遺跡、馬王堆漢墓、泰山、中岳廟、普陀山、乾陵、茂陵、懿徳太子墓、永泰公主墓、始皇帝陵、兵馬傭、宋陵、明孝陵、明十三陵、李白墓、打虎亭漢墓、恐県石窟、蜜県漢墓、龍門石窟、雲崗石窟、莫高窟、麦積山石窟、西蔵王墓、ボタラ宮、デブン寺、大召寺、王昭君墓、ベセリスク千佛洞、アスターナ古墓区、河姆渡遺跡、五台山、恒山縣空寺、北石窟寺、嘉裕関魏晋墓、クチャ故城、スバシ故城、クズルガバ石窟、クムトラ石窟、キジル石窟、大連、瀋陽故宮、東陵北陵、長春、ハルビン、山海閣、秦皇島、清東陵、承徳、避暑山荘、広州、重慶、大足、楽山、峨眉山、三星堆遺跡

チベットのクンガ空港に降り立つと爽やかな清清しい空気と共に大きく広がっている空一面は、シアン色というよりもっと色の濃 い群青色を塗りつめた様であった。まるで絵具をぶっかけたようだ。こんな濃い色の空は今まで一度も見た事はない。やはりそ れだけ空気が澄んでいるせいか高度が高いせいか分からないが日本で見なれた空の色とは全く違った空に驚いた。今まで知 っている空の色は雲一つない日本晴れでも水の色の少し濃い様な、いわゆるソラ色であったが、ここで見た空の色は本当に全 く違った。クンガ空港は高度3600mでチベットを流れる大河ヤルツァンポ河川敷に造られているが、ここからラサまで約100k mあり1時間半から2時間位かかる。山又山の連続であるチベットでは町の近くに空港を造る場所がないのでこんなに遠くに造 られているのだ。ここが中国では空港から町までの距離が一番長いといわれている。蘭州の空港も町まで随分あった様に思う がこれは中国では2番目の長さだそうだ。
富士山と同じ高さにあるこの空港に立ち、あまりの気持ち良さから思わずはしゃぎ過ぎるとたちまち息苦しくなってくる。特に回 川省成都など低い所からいきなりここにやって来た人の多くは大なり小なり高山病にかかる様だ。チベットのラサに入るコース のうち外国人に許可されるコースは陸路なら青海省のゴルムドから青蔵公路で入るか、ネパールのカトマンズからヒマラヤを越 えて、途中5000mの峠を越えて入る方法と、空路なら成都・重慶とカトマンズからの方法がある。私達は「歴史を歩く会」の連 中とカトマンズからの空路をとった。というのは高度2500〜3000mからあるネパールにて3日間を過ごし、少し高原に順化してからチベットに入った方が高山病予防にいくらか役に立 つだろうと思ったからである。ネパールにいる間もチベットに入ってからも高山病には充分気を付けた。
疲れない様にゆっくり歩くとか睡眠をしっかりとる事とか全くノドが渇いていなくてもペットボトルを持ち歩き、飲めるだけの水分をずーととりつづけていた。胃が水でチャプチャプという位、 水をのみにのんだ。ボトルのラベルを見ると「カイラス」の水とありチベット最大の聖地であるカイラス山からの水の様である。真偽のほどはわからないが。ともかく高山病予防の対策は 良いといわれる事は全部する事にした。それでもチベットに入って2日目位から大なり小なり軽い頭痛や食欲不振、動悸や全身倦怠感或いはいきぎれなどの症状を訴える仲間も少しづ つ増え、ついには仲間の女性の一人が嘔吐をはじめ視力障害や意識レベルの低下などがみられる様になり、ラサの近代病院である陸軍病院に入院するはめとなった。これ以上進行 すると肺水腫、心不全などをおこし生命に危険が及んだと思うと他人事にも思えず肌寒い思いだった。同じ頃に成都からやって来た別の日本人グループの1人が30才代の若い男性だ ったそうであるが亡くなったと添乗員から聞かされた。矢張り高山病はおそろしい。女房などはホテルで食堂に行くわずか2〜30mの廊下でもフーフーいっていたが、幸い私はなんとも なく、チベットでは酒タバコはやめる様にいわれていたのにその忠告も守れずにしておったが平気だった。4000m以上にある寺にも行ったが大丈夫だった。ただ夜部屋で密かに飲んだ お酒はよくまわった様である。矢張り高山病にも弱い人、強い人があるのであろうか。
チベットの事は来る前に河口慧海の「チベット旅行記」を読み、又「死者の書」や原色に塗りたくられたグロテスクな、或はエロチックな仏像に代表されたラマ教などを考えて何かおどろお どろしい所と想像していたが、来て見ると全くそれは間違いでカラッとした明るい雰囲気で、青い空と強い日差し、乾燥した空気が私達を包んでくれる。たしかに寺に入ると私達がもって いる仏像とはこういうものだという観念を一切ぶち壊す様な仏像が並んでるし、燈明にバターを使っているのでその臭さが更に私達をヘキヘキさせるのであるが、群青色の空を見ている と今までもっていた考えがガラリと変っていった。高度3500mにあるラサの町の空気は確かに薄く少し歩くと胸苦しさを感じるがとても良い町である。信仰の深い人々の生活があり貧し くてもただひたすらに来世も人間に生まれ、幸せに生きる事を願っている人々の間にあると無信心の私にもそれは神々しく感じられ特に五体投地を繰り返している巡礼者を見かけるとそ の信仰の深さは深い感動を覚える。
ダライラマの宮殿政庁であったポタラ宮はラサのどこにあっても見る事が出来るほど巨大で丘の上にある。ポタラとは普陀落山の意味で観音菩薩の住む所という意味である。ラサにして もラ・神のサ・土地を意味しており町全体が信仰の地である。マニ車(中に経文を書いた紙が入っており、一回まわすと一度お経をとなえたと同じ功徳がある)を回しながら歩いている 人、なにかブツブツとなえながら歩いている人も多く、1951年中国人民解放軍がチベットに進駐し全土をおさえても、1959年ダライラマ14世がインドに亡命した後でも、人々の信仰は 少しも変る事なく続いている様だ。
ラサの中心である大昭寺やポタラ宮、ラサ郊外にあるセラ寺、デフン寺、カンデン寺或はラサから200キロ離れたヤルルン渓谷にある古都ツエタンにも行きチベットを統一独立したソンシ エン・ガムポをはじめとする歴代の吐蕃時代の王たちの墓にも行ったが、行く道端にもタルチョ(祈りの経文と書いた幡)があり群青色の空にはためき人々の生活そのものが信仰の上に 成り立っている事を深く見る事が出来る。厳しさ自然と共に生きていく為には生半可な信仰は生きて行く事も出来ないのであろう。
昔から外国人を容易に寄せ付けない所であるチベットは私達外国人には矢張り一種のあこがれの地といえよう。人々と神々とが交感しあう所、群青色の絵具を塗り重ねた様な空を持つ 所、空気がとても薄くて日差しの強い中でもサラッと乾燥した爽やかな所には是非もう一度行ってみたい。

山を越え、又山を越えて走りやっとたどり着いた集落に、まるで巨大な キノコがニョキニョキと生えている様な、全く今までに見た事も無い様 な建物があちらこちらのわずかばかりの平地や山腹に建てられてい た。ここは中国福建省の最西部である。あの有名な福建省南部の海 岸の景勝地であるアモイから丸二日、バスにゆられてやっと来る事が 出来た所である。高さ10米から20米、直径30〜50米、周囲の長さ 100〜300米もある円形の“土”をつみ上げた建物は、私たちの想像 を絶するものがある。場所によっては更に大きく、内部に400世帯18 00人も住んでいる土楼もあるときく。私どもが訪れた所は永定県高北 村の承啓楼という所で、円形土楼の代表的な建物で重要文化財の指 定もうけ、保護されている土楼であったが、この建物の外壁の直径は 73米、周囲の長さは約230米、高さ12米、土地の占有面積は537 6平方米で、全部で4重の部屋の環からなっている。内部の最上階に 立って内側をみるときれいな同心円をえがいており、まるで蜂の巣の様に各階に部屋が並んでいた。1番外側の環は4階建てで、各階に72の部屋がある。2番目の環は2階建てで1・ 2階とも40部屋、3番目は1階建てで32部屋がある。4番目の環の中につまり同心円の中心には円形の祠堂がある。土楼全体で合計400部屋、階段は4、井戸が3つあり円の環は 同一同心上にあって、まるく回転し続けている韻律感に満ちている。ここの住人は全部、江という姓の人たちで約600人が住んでいるという。 土で出来た4階建てのマンションに一族 が肩をよせ合い、助け合い、祭りごとを行い、教育をおこない同一の言葉である客家語をしゃべり、外部からの浸入を防ぎ、生活を守って長い間生きてきた場所なのである。土楼は客家 人の集合住宅とはいえ、殆どは一族で住んでいる。すべての部屋は長方形をしており、部屋と部屋は回廊によって連なり、層ごとに階段が4ヶ所設けられている。一族の各世帯はフロ アーでなく垂直な部屋割りで住み分け、各世帯とも1階は台所、ダイニングホール、客間になっており、2階は乾燥しているため貯蔵室になり、3・4階は風通しがよく明るいため居間や 寝室になっている。一族の長老が土楼内外の生産・生活を一括して管理・手配するほか、祭祀を司り外敵から自衛の指揮をとり、隣り近所との関係を取り仕切る。土楼の1・2階には窓 はなく出入口の門が一ヵ所あるだけで、ここにも容赦なくおそいかかってきた匪賊など外敵を守る知恵が働いていた。数百人、数千人単位の大家族が世々代々一つの家に住む閉塞的 な生活環境は、客家人という特殊な一族を今もってかたくなに守っているのである。 土楼の壁は現地の土に細かい砂、石灰、もち米の飯と黒砂糖をまぜ何度もよくこねてから竹片や 木の枝で組んだ枠にそって丹念に塗り固めてつくり、壁の内側につくった仕切り壁の上に木の板を敷き、上に部屋をつくっている。こうして一層、一層と重ねて築き、外土内木の独特な 土楼がつくられているのである。土楼の内部にはブタやニワトリ、ウサギなども飼育されており、雑然とした雰囲気である。1階の柱にアメをひっかけ、幾度も引っぱってねっている人もい た。少し分けていただいたが日本のギョウセンアメの様なあじわいであった。 同心円の中心にある祠堂は一般の集会室の様に人々が集り、お茶をのみ、たのしそうに談話していた が、壁にはこの土楼より世の中に出て出世した人々の写真などが壁いっぱいにはられており、客家人は教育熱心ときいていたが、まさにそれを目のあたりにした思いがした。外来者の 寄せ書き帳がおいてあったので下手な字で「日中両国ー衣帯水之国……」云々の中国語の一文をしるしてきた。 風に強く、地震に強く、匪賊を防ぐ機能をもつ土楼は冬は温かく、夏は 涼しいと聞く。これをつくった客家人は、もともと中国黄河流域の中原より度かさなる戦乱をのがれて南にきた人達で、現在6000万人の客家の子孫が主に広東省東部、福建省西部、 江西省西南部の三角地帯に集って住んでいるという。そのほか、広西、海南、台湾、香港、四川、湖南省にも住み、東南アジアから世界各国にひろがっている。 永定県よりの帰りに、 ここも客家人の居住地である上杭県に行ったが、ここは台湾の第一人者・李登輝の故郷で「李登輝先生之故郷」と大きな看板がつくられていた。台湾と中国大陸とは表面上は対立して いる様に思えるが、ここにも同一民族だとあらためて確認した次第である。 客家人はもともと中原地域に住んでいた漢族の人々が何度も南の山間地域へ大規模な移動をしたので、土 地の先住民にとって「客」であったため客家人と呼ばれたのである。客家人とは客家語を使用し、黄河流域に歴史的血縁と地縁をもち、共同の生活様式、風俗習慣信仰と理念で結ばれ た人間集団といわれ、団結互助、和睦礼譲の精神にとんでおり、教育熱心で中国国内だけでなく世界中にちらばった客家人たちがお互いに助け合い成長してきた民族である。客家は かつては一つの時代をゆり動かし、そして現在も新しい時代を動かしている。有名な人々を列擧すると、現代では中国の改革開放をすすめたトンシャオピンや台湾の李登輝、シンガポー ルを今の様にしたリー・クアンユー(李光輝)があり、現代の世界の政治、経済は客家を抜きにしては語れない。又、大平天団革命を推し進めた洪秀金、清朝打倒の革命を指導した孫 文、或は胡輝邦、郭沫若、或はタイガーバームの胡文虎など私達が知っている人を上げれば限りないほど客家の人々には有名な人々が多く、しかも東南アジアをはじめ世界中にその 多くの子孫が住んでおり、いまだにお互いに連絡しあい、助け合い世界の政治経済を動かしつづけているのである。あの天安門事件の時、中国政府より追われた若者の多くはこの客 家の組織を通じてアメリカにフランスにと世界中に逃げられたと聞く。 アメリカの人工衛星より撮った写真から、福建省南西部の山間に円形・四角形・馬蹄の形をした建物が写っており 「秘密の核施設」とさわがれた事があったほど、特殊な形をしたこの客家の土楼を今年の春休みに見学にいき、いささかの感動を覚えたので雑文を記し、機会があればぜひ訪ねてほし いと思う。
1990年8月、中国山西省にある仏教の霊山である五台山に参拝した。私が関係している「歴史を歩く会」の友人11名と語らって企画した旅である。10日間かけて、西安(昔の長安) より太原をへて、この3000メートル級の山々にかこまれた文珠菩薩の聖地に入ったのであるが、途中、各地の仏教寺院あるいは道観(道教の寺院)に参拝しながらの旅であった。西 安では玄奘三蔵法師ゆかりの大雁慈恩寺、太原では郊外70キロの山中にある浄土宗ゆかりの寺である玄中寺に参り、日本の仏教の源流を目のあたりにする思いだった。
中国には仏教の四大聖地・霊山として今回いった山西省の五台山、普賢菩薩の聖地である四川省の峨眉山、安徽省にある九華山(地蔵菩薩)、浙江省の普陀山(観音菩薩)があ る。約10年続いたプロ大文化革命の破壊にもかかわらず、いや、それ以上徹底的に破壊しつくした唐の会昌(845)の廃仏にもめげず、現在まで生き続け、また共産党の政権下でも 民衆の間に受け継がれている仏教の偉大さには心から感動を覚える。もっとも共産党の政権になってからの方が寺院の再建、復興に力を入れているそうであるが、観光の目玉として それらに金を入れているのかもしれないが、いずれにしても結構なことである。日本仏教の母国としての中国で、各地の寺院が次々と復興されていくのを目のあたりにするのはエセ仏 教徒の私にとっても非常に嬉しいことである。
五台山は、一名清涼山ともよばれ、五峰が聳え立ち、頂上には樹木がなく平坦だから五台と呼ばれたのであるが、ここには北魏以来、仏教の聖地として栄え多くの寺院が建てられ、最 盛期には約360の寺院があったという。現在でも100余り残っていて多くの人々の参拝がある。東台、南台、西台、北台、中台の五つの3000メートル前後の山々に囲まれたその中 心に、猫のひたいほどの小さな盆地があってここに多くの寺院が集中していて台懐鎮と呼ばれ、門前町が形成され、食堂や土産物屋、旅館がところせましと軒をならべている。ここに清 水河が流れ、標高1700メートルの高地とあいまって夏でも涼しく、避暑地として人々に喜ばれている。あちこちに中国の大企業の保養所の看板が目につく。五台山が外国人に解放さ れたのは1985年からで今でも入山には省政府の許可が必要だった。私たちの泊まった外人向きのホテル、五台山友誼賓館も最近建てられたものである。文珠菩薩の住んでいるとこ ろ、文珠菩薩に会う事のできると信じられているこの五台山は何時頃から人々の意識にのぼってきたのであろうか。五台山の中心となった大孚霊鷲寺(唐代の大華厳寺、現在は大顕 通寺)の創建が後漢の明帝の時代(58〜75)という伝説もあるが、実際は北魏の孝文帝の時代(471〜499)から本格的に寺院の建立が始まったようである。それ以来次々に寺院 がたてられ、中国仏教を代表する所となっていったのである。
それにもまして五台山が私たちに親しみと懐かしさを感じさせるのは、昔から数多くの日本の仏教僧が五台山を訪問し、そこで行われていた数々の仏教儀礼、声明、音楽、法会など そのまま日本に持って帰り、今私たちが目にし、耳にするものの多くがそれらを基礎にしていることである。唐代には天台宗の円仁がここを訪れ、有名な「入唐求法巡礼行記」を著し、帰 国後比叡山横川に住み、第三代座主として天台宗の発展のみならず、日本の仏教に大いに影響を与えた。その他、霊仙、チョウネン、成尋などの名があげられる。京都嵯峨野に釈迦 堂があるがここは五台山清涼寺という。中国の五台山清涼寺をここに移したのである。また朝鮮にも五台山があり、ここも同様である。五台山を訪れてまず初めにびっくりしたのは、日 本でよく見る寺の名前のおおくはここにあることであった。いかに日本の仏教が中国から学んだといってもこれ程多くそっくりの寺号の寺があるとは想像以上であった。南禅寺、仏光寺、 金閣寺、竹林寺、龍泉寺、観音寺、園照寺などなど。日本の奈良の東大寺も、もともとは大華厳寺といい、之は五台山の中心的寺院の名をもってきたものである。これから考えても今 回訪れたこの五台山は日本仏教の母なる地と考えて云いすぎではない。五台山の仏教は唐代までは漢族だけの仏教であり、中国仏教を代表するものであったが、元代になるとチベッ ト系仏教が入るようになり、清代になると清朝の帝王たちがチベット系仏教・ラマ教を尊崇したため急速にその寺院が増えていった。現在漢族の寺院すなわち青廟は99、黄廟(ラマ教 寺院)は25ある。青廟を代表するものに金閣寺、顕通寺、塔院寺、南山寺、普化寺、黄廟を代表するものに菩薩頂、ラコウ寺、観音洞などがある。また寺院の殆どは五台に囲まれた台 内にあるが、少数は台外にあり、その全部を回るには数ヶ月を要するという。私たちはそのうちの代表的な寺を駆け足で殆どまわったが、中でも感銘を受けたところは台外の南禅寺と仏 光寺である。李家庄村の高台にある南禅寺の大仏殿は唐代に造られた中国最古の木造建設物で、奈良の唐招提寺とそっくりの建物である。薄暗い殿内には中央の釈迦像の左右に 迦葉と阿難が侍立し、その両側に普賢、文珠菩薩が姿をみせている。なかでもそれらの仏教の間にある供養菩薩の豊満な姿勢や顔はまさしく唐代のものである。豆村にある仏光寺は 北魏時代に建てられ、唐代に再建されたもので、まことに古いものである。こんな田舎にこれほど規模の大きい立派な寺院があるとは想像もできない。東大殿の中には仏、菩薩、弟 子、供養菩薩など30体あまりの塑像が目もくらむばかりの華麗な姿をして立ち並んでいる。壁には多くの羅漢像があり、また唐代の壁画が描かれている。一千年以上も生き続けたこ れらのものを目のあたりにすると人間の偉大さを感じざるをえない。かって敦煌石窟で見た壁画そのものが現実の世界で見る事が出来た感激はとうてい言葉で言い表す事が出来なか った。
五台山のシンボルである白塔を見て、また五台山の中心にそそりたつ霊鷲峰の頂上にある、黄廟を代表する菩薩頂に登る。菩薩頂の建物の屋根はすべて黄色の瑠璃瓦である。黄 色は唐の時代にすでに皇室の色であり、宋代からは皇帝の住まいはすべて黄色の瑠璃瓦であった。北京の故宮の屋根もそうである様に。それがここに使われているのだ。正殿ではラ マ僧による勤行が行われていて、チベット語で書かれたお経を読誦していた。賽銭をあげ、膝をついて頭を床につける礼を繰り返したら、鐘をついてくれてお経の一節を上げてくれた。意 味もなにも分からないのだがなんだか有り難いような気になった。そして黄色い布に朱印を押したものをくれた。中国人たちも子供を連れてきて拝ませていた。文珠菩薩の知恵をわが子 にさづけたいのだろう。1人っ子政索の中国ではわが子のためにはそれこそ藁をも掴みたい気持ちなのでろう。ここからは台懐鎮の寺寺、門前町が一望の下に眺められる。わずかの間 に出来るだけ多くの寺を回ったので、頭が混乱してどこがどうだったのか記憶がさだかでないが、それでもこれだけ多くの文珠菩薩に頭をさげたのだから少しは賢くなったであろう。頭を クリクリにまるめた小僧さんの姿も見え、中国の仏教もまだまだ捨てたものでない思いもした。五台山に7日間とどまり一心に念ずれば文珠菩薩に会うことが出来るといわれているが、 わずか2泊3日ではそれも叶わず、すごすごと五台山を後にした。それでも高山植物の咲き乱れている東台の峠より、はるか下に見える台懐鎮の上に薄くたなびいている雲を見たとき、 その中に文珠菩薩がちらっと姿を見せた様な気がした。ここから下山し、断崖の中腹に吊り上げられたような懸空寺、応県の木塔に参り、大同にて華厳寺、雲崗石窟にいき北京より帰 国した。
「砂漠に日が落ちて夜となる頃、恋人は……」と誰かが歌い出した。真っ赤な火の玉の様な太陽がゴビ灘の地平線に今まさに沈まんとしていた。南に雪を頂いた5000メートル級の祁連 山脈が連なり、北にはテングリ砂漠につづく小石まじりのゴビ灘には一本の道路と鉄路以外に何もなくひしひしと迫ってくる夕闇の中ではるか遠くの地平線に沈みつつある太陽は周囲 にコロナの様な明るさを伴なってスースーと落ちていった。美しいなと声をかける人もなくただ皆息をのんでジーとその風景を見つめていた。しばらくたってだれともなく「砂漠に日が落ち て」と歌い出したのである。敦煌より嘉裕関にもどる途中出合った感動を覚える一瞬であった。
春の連休を利用して歴史を歩く会の仲間21名「隴東石窟と河西回廊の旅」と題してバスの旅をした時の1シーンであった。
大阪より上海経由でその日に西安空港近くの咸陽のホテルに着いたのは、上海よりの飛行機の出発の遅れもあって夜11時頃であった。経済成長率12%といわれる最近の中国経済 発展に伴い利用者がふえ、新しい空港路の開設や増発が激増し、又今まで中国航空一本の空の足も各地に航空会社が次々に出来てきた。結果、経済的に力のある航空会社と弱い 会社によって大きな差がある様になり西安への飛行機も都合がつかなかったのであろう。この事は帰路、嘉裕関より西安までの飛行機にも如実にあらわれ、予約してあるにもかかわら ず人間と荷物が重すぎて飛べず2時間ほどモメたあげく中国の添乗員が全員降りる事でようやく離陸出来たと笑えない様な事にも表われている。
咸陽は西安の隣りの町で陜西省中部、渭河の北に面している。前4世紀中頃より都がおかれ前221年秦始皇帝が天下を統一してから全中国の都として重きをなしていた所である。こ こより今回のバス旅行がはじまった。陜西省北部、寧夏回族自治区の南部を通り甘粛省を東より西まで横断する旅である。バスは甘粛省に2台あるという東京ハトバスの払い下げの車 で、なかなか快適である。 黄色に塗られた車体にハトバスと大きく書かれた車体はどこに行っても目立つ。ただ日本の車は右ハンドルであるので右側通行の中国では運転しにくく追越 す時のために左側に助手が乗っており、その都度「車来了」など叫んでいた。
10年ほど前に火車にて蘭州から柳園をへて敦煌の莫高窟に行き、再び火車にてトルファン・ウルムチに蘭新線に乗り、之がシルクロードの旅と感激した事があったが今回のバスの旅 に比べればひどく見おとりする事を実感した。
中国三大石窟といえば莫高窟・竜門石窟・雲崗石窟があげられるがなにもそれだけが石窟寺院ではない。統計によると甘粛省だけでも省内に大小石窟群が50余りもあり、東部の隴 東地区だけとっても20余りある。それらを片っ端しから見学してはいくら時間があっても足りないのはいうまでもない。それにしてもシルクロード沿いになぜこれほど石窟群が多いのであ ろうか。長安より河西走廊をへて天山南路、或は北路をへてイスタンブール或いはローマに通じるこのシルクロードはいうまでもなく交易の路であり、莫大な利益を確保出来る道であっ た。がしかし命をかけた大変な道であった事は想像に難しくない。商人達は出発前に無事を祈って石窟を掘り仏像をつくり、帰ってくるとその仏恩に感謝して、又、石窟をつくり仏をまつ る。そんなことの繰り返しでこの道筋に数多くの石窟寺院がつくられ現代まで残っているのである。
まず隴東(西は隴山、東は子午嶺にはさまれ、平凉を中心とした地方で色々の民族の相剋をくりかえした所)の、主要な石窟である西峰にある北石窟寺を目指した。途中、1500年の 歴史をもつ彬県の大仏寺を見学し、慶陽北石窟寺に到着。このあたりは黄土高原の真中で、いたる所窯洞(ヤオトン)が見られた。かって日本のある大臣が中国は貧しいから今でも土 の中に住んでいる人がいると言って皆より顰蹙をかった事があるが、夏は涼しく冬は暖かい窯洞(ヤオトン)はこの地区では住みやすい住居なのであろう。日本では紙と木の家に住み、 中東ではレンガの家に住み蒙古ではパオに、欧州ではコンクリートの家に住むというのは、それこそ人間の知恵であってそれなりの環境に適した生き方をしているのである。それが必 ずしも貧困云々の問題だけではないだろう。しかしこのあたりを走りながら周囲を見る限り豊かな土地とは思えない。かって毛沢東が食料大増産を号令し、黄土高原にも段々畑がいた る所につくられたが、自然破壊の結果山くずれなどをおこし結局、中止されるに至ったあとがいたる所で見ることが出来る。政治を行う人々の、特にトップに立つ人の善し悪しが国の、 人々の生命をもおびやかす事になる事をつくづく考えさされた。
北京や上海、或いは広州には高層ビルがニョキニョキと建ち、日本より豪華なホテルが並び、町を歩いている人々を見ると流行の先端をゆくファッションに身をつつんだ男女が殆どであ る。高成長に裏付けられた中国沿岸地方には不況や貧困、或いは飢えなど全く無縁の事の様に思える。しかし、この黄土高原をみる限りどちらが本当の中国の姿か分からなくなってく る。
中国でも有数の貧困地区であるこの中西部は乾燥し、土地は痩せ、砂漠化が進行し、水や土壌が流失し生態環境はきわめて深刻である。都会の宴会の1卓で消費する量が貧困農 家1戸の1年間の食料に相当するという指摘もあり、貧困は社会の安定や国家の発展にきわめて不利に働くばかりでなく、又、貧困は単なる経済問題にとどまらず、社会不安の原因と なり、国家そのものをゆるがえす重大な問題であるとの認識より中国中央政府も扶貧に必死になっている。裕福な沿岸先進都市や省と貧しい内陸部を結びつけ縁組支援を行うのもこ の一環である。例えば北京と内蒙古、天津と甘粛、上海と雲南、江蘇と陝西、浙江と四川、山東と新彊、遼寧と青海、福建と寧夏等々縁組みし、支援する事を決めている。この地区を 走っていると「扶貧先扶智」「貧困者扶助活動」などの標語がよく目につく。中国は壁や掘に書かれた標語が多い「開放改革」「建設成為富強民主文明的社会主義現代的国家」「精神 文明創建活動」など目につく。それに「小康……」の字もよくみかける。まずまずの生活という意味で96年度6500万人になるという貧困者をまずまずの生活にという政府の思いがひし ひしと感じる事が出来る。アメリカやその尻馬にのった日本が中国の人権問題云々をはげしく非難しているが、13億の人々の生活の安定のために人権ばかりいうのはいかがなものか 考えさされた旅でもある。中国人の殆どが金儲けに走っている現代、それに乗遅れますますとり残されていく人々を忘れてはなるまい。
北石窟寺は幅120米、高さ20米の崖に総数295ヶ所の石窟や龕がつくられ、造像総数2250余りもあるという。なかでも165窟は幅、奥行とも約20米の巨大なもので、高さ13米 の部屋の中に高さ8米にも及ぶ仏立像が7体、脇侍菩薩が10体もあり、浮彫りの捨身飼虎図もある。ここも入場料以外写真をとるなら1000元をと要求はなはだしい。
夕闇せまる中、石窟の中央に大きな柱をもつ王母宮石窟にいそぎ、古いシルクロードの重要地点で隴東の中心地平涼に泊まる。翌日、平涼より寧夏自治区の固原に行く。固原は古 来、北方民族と漢民族の接触地帯で秦代よりここに辺境防衛の城鎮がおかれていた所である。あまり豊かそうでないこの固原に立派な博物館があり、ここに立ち寄ったが建物だけで なく内容も豊富で行ってみてびっくりいた。近郊の北周時代の古墓・李賢墓出土の文物や墓室の壁画など展示され、生前の豪華な生活がしのばれ又、ローマの金貨やペルシャの物語 を浮彫りにした鍍金銀瓶なども展示され、この地が古来東西方面を結び交通路の要衝であった事を物語っている。固原県の就学援助を行っている日中友好のグループが関西にある。
博物館を出る頃より雨がボツボツ降り出して来た。あわててバスに乗り込んだが町を歩いている人々を見ると傘をさしている人は誰一人としておらず、雨の中を悠然として歩いている。 働いている人達も普段通り働き、まるで雨など降っていない様である。にわか雨にバタバタと走る人もなく、聞いてみると年間降雨量が極めて少ないこの黄土高原では天からの恵みで 心から嬉しく雨に当たるのを喜んでいるのだそうだ。
ここから2928米の六盤山を越えて蘭州にむかった。六盤山は一名隴山ともいい、この山を中心として甘粛省を隴東、隴中、隴南地方と分けられいる。この山が有名なのは毛沢東が 紅軍を率いて1935年大長征をした時は最後の難関としてここを越えて延安へと向かったのである。しかし私達は今年四月に開通したばかりのトンネルを通って省都蘭州に向かった。 今日の予定では450キロを走る。ところが会寧より7キロ手前南坪という所でバスがパンクして、タイヤ交換に40分も浪費してしまった。それにしても日本では観光バスがパンクするなん て考えられない事である。
蘭州では甘粛省の省都で黄河に沿った細長い町である。現在油田が発見され、石油・化学・製鉄などの工場が急速に発展し、蘭州の町は汚染された空気ですっぽりおおわれ、人々 の健康に大きく影響が出る様になった。そこで東の山をとり空気の流れをよくしょうと、「禺公移山」といわれる大土木工事が行われていた。歴史は繰り返すというが面白い。漢代に金城 といわれた細長い蘭州の町をすぎると、次第に祁連山脈の奥深く入りこみ祁連山脈は7条の山脈がつらなりほぼ西北から東南へと走り、その総称をいうのでるが西の方は海抜5000米 から8000米におよび、大小の氷河が3000余りあり河西走廊における人間の営みはすべてこの氷河に由来する水に依存している。
上海からつづいている国道312号線は海抜3700米の烏鞘に至る。この峠には今尚雪が残り、ヤクの放牧がなされていた。この峠よりいよいよ河西走廊がはじまるのだ。回族や蔵族 のすむドロ土のかたまりの様な部落をいくつも通り、古代シルクロードの重要拠点であった武威の町に到着。漢の武帝の時代に漢民族の勢力がのびてきて河西四郡の一つ武威郡とな った所で、五胡十六国時代には前凉・後凉・南凉の都城であった所である。だからここは凉州とよばれ、あの有名な王翰の漢詩「葡萄美酒夜光杯・欲飲琵琶馬上催……」と歌われた凉 州曲の所である。
この歴史的に古い町には近郊も含め、漢代の遺跡や明代の長城趾などの遺跡が多いがなかでも雷台の下にきずかわれていた後漢の大型磚室墓が見事である。墓室は前・中・後の 3室に分かれ、すでに盗掘されていたか尚200点以上の文物が残っており、その中でも武威市のシンボルであり中国の国際旅行年のシンボルとなった燕のような鳥を踏まえた奔馬の 像がここで発見された。この地区にはタングート族が建てた大夏(中国人は西夏とよんでいた)の遺跡も多く古来いろいろの民族の争奪の的になっていたことを物語っている。現代博物 館になっている文廟、大雲寺銅鐘楼を見学し、ここに17年も住んだといわれる鳩摩羅什の塔を見て次のオアシスの町張掖まで235キロ、砂漠の中をひた走りに走った。途中、砂漠の 中には一条の長城のなごりが見え、今は風化して小さくなっているものの延々と続く。土をかためた長城に北京郊外の八達嶺にみる見事な磚積みの長城とは一味も二味もちがった感 激をあじわった。山丹という所にも版築された長城が残っており、数軒ある食堂(ドライブイン)には笑妹飯荘、姐妹飯店などの看板を上げ美女の接待がある事を表示していたのに苦笑 した。張掖は河西回廊の中部に位置し交通の要衡で周時代には羌(キョウ)、戦国時代には月氏と烏孫の地であった。その後、匈奴が月氏を追いここを支配し、漢になると武帝がここ に張掖郡をおいて以来シルクロードにおける漢民族の拠点となった。唐代には、一時、吐蕃の支配となり唐末より五代にかけて回鶻の拠点となった。甘粛省の名称はこの張掖と酒泉 の古名である 州と粛州をあわせてつくられたのである。水が豊富で肥沃な農地がある。この町の大仏寺には身長35米の大きな釈迦涅槃佛があり、大仏殿の中に入るとその大きさに おどろかされる。路上に立つと真白な粉雪がふりそそ 様に大量の柳絮の舞に頭から身体全体がおおわれ、一時はなにが起ったのかと思ったほどである。
張掖より次のオアシス酒泉までは221キロある。今日は武威より宿泊地の嘉峪関まで461キロ走らねばならない。何もない小石まじりのコビ灘の中を国道312号線が真直ぐに通り、 南に連なる雪をいただいた祁連山脈以外見えるものはない。緑なるオアシスが見えてくるとホットする。その昔このシルクロードを馬やラクダで旅をしていた人々は今、私達が感じている 以上にホットした事だろう。本当にオアシスという言葉がぴったりする。
この酒泉は河西走廊の中では最も早く漢民族の支配下に入った所で漢代の前121年に河西4郡の最初の郡として酒泉郡がおかれた所である。隋唐以後、粛州とよばれていた。ここ は祁連山から産出する玉石を原料としてつくられた有名な夜光杯の産地である。夕闇せまる中を次のオアシス嘉峪関にいそいだ。嘉峪関は明代長城の終点で、南側の祁連山と北側 の山並みの間のわずか15キロの狭隘な峡谷地帯にあってシルクロードを守る漢民族にとって防御に最も適した場所に建てられている。「河西第一隘口」とよばれ天下雄関の額が門に かけられている。巨大な砦(トリデ)で外城・羅城・内城とあり城内の広さ2万5600uで内部に兵営・官庁・倉庫など多くの建物があった様だ。城壁の上からまわりの砂漠をみると南北 にのびる長城をみる事が出来る。