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『いのちの食べかた』

森 達也
理論社
2004年12月出版
123 p 20cm
定価1000円

目をそらさずよく見て「知る」、
そして考える
山口節子


 「肉」を食べるという、一見ごくふつうの人間の食行動を、深く掘り下げて考えていくと、日本の歴史の暗部で生み出された「差別」や、その元になる「穢れ」「不浄」といった意識、場所や血筋に絡みつく不条理な被差別の問題にまでたどり着く。
 「肉」はさらに深く掘り下げられ、発展しつつ、いじめ、戦争、地球の未来にまで広がりを見せていく。私たちが自分自身の中に無意識の内に封じ込めてきた「差別」意識を、一枚一枚皮を剥ぐようにして明るみに解き放っていく。すごい本なのだが、決していかめしい紋切り型の書ではない。第一章はこんなふうに始まる。

 私たちが食卓で、毎日無意識に食べているお皿にのった肉、魚は、元は生きていたもの、命ある存在だった。野菜だって、畑で芽を出し育った命だ。人間は、人間以外の生き物の命を食べて生きている存在なのだ。
 しかし、ふだん私たち人間は、そのことを忘れている。すき焼きの霜降りはおいしいとか、ステーキの焼き具合はレアがいいとか、ミディアムがいいとか言いながら平気で当たり前のように「命」を食べている。
 では、ステーキになる前の牛は、どうだったのだろう。著者は、子どもたちに大事なことを考えてもらう手立てとして、まず身近な問題から、しかも興味を持って一歩一歩読み進んでいける工夫をこらしている。ちょっとしたクイズで上手に誘われて、自分から水を飲みにやってきそうだ。
 料理される前の肉は、スーパーの棚で、パックに入れられて売られている。
 しかし、その前はどうだった?
 牛は牧場にいる。それから後、牛はどうやって食卓までやってくるのか、子どもたちは知らない。知らされていないというほうがいいかもしれない。
 「…牛や豚は、どこで、どんなふうに殺されるのだろう? だれが殺すのだろう? だれが解体するのだろう?」と著者は問いかける。そんなこと知りたくないというかもしれない。けれど、もう一度書くよ。「僕らは、毎日彼らを食べている」と。

自然の連鎖から外れてしまった人間だからこそ、「知ろう」

 この本のすごいところは、テレビでも映さない牛が殺されていく一部始終をじっとカメラを据えて、リアルタイムに描き出していることだ。
 牧場から「と場」(屠殺場)に連れられてきた牛は、最後の夜をすごし、翌朝、体を洗われ、一頭が通れるほどの細い通路に追い込まれ、先頭の牛から順番に「ノッキング」を受ける。眉間に当てられた銃口から出るのは、三センチほどの針。牛は脳震盪を起こして動かなくなる。牛は開いた鉄板を滑り落ち、下で待ち構えていた男たちが牛を取り囲み、ワイヤーで脊髄を破壊する。と同時にもう一人が首の下をナイフで切って、頚動脈から大量の血を放出させる。そのあと牛は、鎖に足をひっかけて、さかさまに吊り上げられる。牛はまだ死んでいない。心臓は動いている。次に頭が切り落とされ、足が切断される。皮が機械で剥かれ、肉塊から内臓が出され、各部位に分けられて、薄く切られ、パックに詰められてスーパーの棚に並ぶわけだ。
 およその過程を紹介したが、本書のこの部分の描写は実にリアルで具体的かつ正確だ。大人の私たちも知らない、あるいは知らされていない部分だ。
 牛に苦痛を与えない。生きたまま血を抜く。この二つの問題は、このようにして行われる。「私たちが食べる」ためにだ、と著者は繰り返す。
 武士は皮の鎧を作るために、牛の皮を剥ぐ人たちを集落から離れたところに移住させ、代々差別した。同じ人間でありながらなぜ差別されるのか。いわれのない差別意識が、私たちの内部にもないだろうか。優越意識が君たちの中にもないだろうかと、熱く問うている。

(『子どもの本棚』2005年9月号掲載)

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