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『木槿の咲く庭  スンヒィとテヨルの物語

リンダ・スー・パーク著
柳田 由紀子訳
新潮社
2006年6月
四六判 / 286p
本体1800円

人間であることの意味
加藤純子



 1910年、日本軍は韓国併合で京城(いまのソウル)に朝鮮総督府を建てて以来、朝鮮の日本への同化政策を強めていった。特に1935年から1945年の十年間は「韓国にとって失われた時代」と語られるくらい、日本の朝鮮統治は厳しさを増していった。
 『木槿の咲く庭』はそんな時代を描いたフィクションである。歴史的事実を織り込みながら、朝鮮人一家の日常を十歳の少女スンヒィの視点と、そのお兄さんである十三歳のテヨルの視点。そのふたつから人びとの生きる姿を余すところなく描ききることで「人間であることの意味」を静かに、けれど鮮烈に語りかけている。
 作者は韓国系アメリカ人二世。あとがきによると、両親がまだ幼かったころの話の断片をもとにして作り上げた物語だという。物語はそういった記憶のカケラをもとにしてはいるが、フィクションとしての魅力にあふれている。物語作りや人間造形の見事さ。計算しつくされた展開。そしてその時代を生きる人々の姿。それらを誠実に語っているのだ。
 作者は日本人による理不尽さを受け止めながらも、ただそれを声高に叫ぶのではなく、人間の物語として書いている。だからこそ逆に、行間から朝鮮人の悲しさやつらさや苦しさや憎悪が、切ないほどに伝わってくるのだ。
 朝鮮人でありながら創氏改名令によって日本名に変えさせられる話や、儒教の国であることからの親子関係などが物語のなかで語られていく。兄妹の視点で交互に語られるという手法が、ひとりの視点では見えてこなかった人間の奥行きや、光と影のようなものまでを浮かび上がらせ、かがやかせている。そんなふうに物語を作るきめ細やかさ、人間を捉える誠実さが、ただ「日本人対朝鮮人」といった短絡的な構図から、ひろがりのある世界へと私たちを向き合わせてくれる。だから感動するのだ。その人間を捉える視点の確かさに。
 例えば少女の感受性が捉える父親像と、少年の正義感と潔癖さが捉える父親像についてのあたり。そのひとつをとっても、そこには感動的な展開が待っている。ここでは紹介しきれないほど魅力的なエピソードが、たくさん用意されているのだ。例えば、こんなシーンがある。日本人の憲兵に日記を燃やされてしまったスンヒィに、
父親がこう語るシーンである。
 「スンヒィ、忘れちゃいけないよ。日本人は、紙は燃やせても、言葉を焼くことはできなかったということをね」
 またもうひとつは、近所に住むひとり暮らしのアンさんというおばあさんのこと。彼女は日本語がしゃべれない。だから点呼のとき「ろく」という数字がうまくいえないのだ。そのことで憲兵からひどい仕打ちを受ける。スンヒィがそんなアンさんに数字の数え方を教えにいったときにアンさんが語るこんなシーンがある。
 「片手だけ。指五本分だけなら日本人にしたがってもいい。でも、それ以上は一本たりともダメさ」
 訳者が、アメリカの書店で平積みになっていた原作を前に日本人としてたじろいでしまった気持ちをあとがきで書いているが、確かにこの本は私たちにとって重たいテーマであることには間違いない。しかし読みすすめていくうちに登場人物の生きる切実さに思わず夢中になっている。そして気がつくと読後、爽快な心もちになっている。やわらかな風が胸のあたりをゆさぶっている。
 あれから61年。時代は韓流ブームである。韓国が、かつてないほどの距離感で私たちの身近に迫ってきている。だからこそ私たちは、あの時代の歴史を、物語を、研ぎすまされた感性で目を凝らして見つめる必要があるのかもしれない。そこから私たちはきっと、たくさんの考えるきっかけをもらうことになるに違いないと思うから。

(『子どもの本棚』2007年3月号掲載)

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