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『ふたりきりの戦争

ヘルマン・シュルツ作
渡辺 広佐訳
徳間書店
2006年9月
B6判 / 230p
本体1400円

《裁く》という結論をもたず戦争を描く
北村夕香



 裁くという視点を抜きに戦争を語ることができるのだろうか? この物語を読んで最初に感じた感想から、私は抜け出せずにいる。
 戦争を扱った文学を読む時、知らず知らずにジャーナリズム的な観点を期待しているのかもしれない。例えば、葬り去られようとした真実、曲げられた過去、被害者の怒り、加害の事実を描く。裁かれるのは、人間の欲望と弱さ、そして、国家、歴史であり、大人の欺瞞であり、主義であり思想であった。また、一度裁いたその時代を裁くという視点もある。
 戦争を知らない我々の世代にとって、戦争を扱った物語は、常に、裁かれる物語であった。知らないことを知らされる。罪として、罰として、日常では封印されている扉を開き、国家としての先祖が、人類としての先祖が、犯した過ちを、胸に刻む作業であった。
 もちろん、そのことに対して、異論があるわけではない。我々は、裁くべき事実を知らなくてはならないのだ。
 それでは、裁かれない戦争を、そこに生きた人間を、どうとらえるのか? 漠然と胸に残るこの重みをどう考えればよいのか?
 第二次世界大戦末期のドイツ。戦争に行った兄は捕虜に、ナチスに逆らった父は捕らえられ、母は行方不明になる。ひとりぼっちになったエンヒェンは農家に預けられ、ロシア人労働者のセルゲイと出会う。ドイツ敗戦の気配が強くなる中、外国人労働者が強制連行されることを知ったエンヒェンは、セルゲイとともに逃亡することを決意する。
 裏切り、善意、悪意、欲望、偽善。剥き出しの人間にさらされながら、二人は生き抜く。身を守らねばならない極限の状況の中でも最終的な人間性だけは失わない。
 約束したわけでなく、二人で行動することによって生まれたルールのようなヒューマニズムは、どんな状況にあっても、人とつながることが根底にあれば、他者にさえ、失わない何かを持てるのだと物語は語ってくる。
 悪の存在は、明確な姿で読者の前に姿を現さない。裁かれない事実が、淡々と横たわる。次から次へと起こる事件や思いに、少し痺れた様な疲労感が残る。その麻痺したような感情が、怖いと思わせられる。
 戦争の描き方は、新しい局面を迎えているのかもしれない。これを、被害も加害も超越した歴史物語として描く戦争文学の始まりだと、論じたり感じたりするのは、あまりに性急な結論だろう。しかし、その兆しが見えることも念頭に置かなければならない。この描き方が歴史物語としての戦争に通じているのは確かなのだ。定着し形式化すれば、過ぎ去った時代として楽しむような、他人事の物語が、同じ顔をして書店に並ぶ危険性がある。そのことを回避する選球眼として、我々読者は、先人の声に耳を傾け、裁く力を養わなければならない。悪が何かとらえる目を養い、時代の正義に流されない強い心を持たねばならない。
 この物語は、それが戦争なのだという言葉では片付けられない。読者の裁く力を鍛えようと、襲いかかってくる力強さを持っている。
 考えて裁こうとしても、裁ききれない事実。理論からはみ出してしまう人間の存在。それでも、何が正しいのか問い、考え続けなければならない。読んだ後、胸に残るのは、時代と、世界と、人間と対峙した時の、小さな自分の存在と、それでも生き、考え、前に進む自分の大きな尊厳だ。
 ジャーナリズム的な文学では、与えられた空間で相手と向き合い、導かれ、裁けたものが、この物語では日常に埋もれ、曖昧模糊となっている。その日常の中で、我々はちゃんと何が正しいか考え、実行し、裁き、許せるのだろうか。物語は、強い思考を要求する。
 この物語に耐えられる思考を、自分は日頃から鍛えているだろうか? 読後に残る、疲労感と掴みきれない不安は、そのまま自分の生き様にまでつきかえってくる気がする。

(『子どもの本棚』2007年4月号掲載)

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