人生とは?家族とは?
松岡玲子
イザベル(十五歳)には、八十二歳のコンスタンおじいちゃん、パパのお父さんがいる。パリ近郊の一軒家で一人で暮らし、近くのマンションに住む息子の家庭を、毎週水曜日の正午に訪れて、三十分を共に過ごすようになった。パパは多忙な用事や仕事を調整しておじいちゃんを迎えるが、父を愛しているのに、くり返される思い出や腰痛の愚痴に苛々してしまう。孫娘のイザベルはおじいちゃんが大すきで、楽しんで話を聞き、インスタントコーヒーをいれ、大のモーツァルト好きのおじいちゃんのためにCDをかける。
この習慣が突然、困難にぶつかった。パパに、リヨンの大学の助教授の誘いがきたのだ。念願をかなえるには、今の家から引っ越さなくてはならない。高齢のおじいちゃんは自分の家から離れたがらないし、一人置いていくのは心配だ。それにママに赤ちゃんが生まれることもわかり、引越しは避けられない。悩んだ挙句、パパが考えたのは、引越しをおじいちゃんに言わず、毎週水曜日の昼にここへ戻ってきて、今まで通りおじいちゃんを迎える、というものだった。マンションの買い手のグレー夫妻にも、これは高齢の父を動揺させないための思いやりのうそだと説得し、協力のお礼は売り値の値下げだった。イザベルには、恋が育ち始めたジョナタンがいる。彼と遠く離れる上におじいちゃんに秘密をもってしまうことで、辛くなるが、決めた以上は家族が一致団結しなければならない。時々はパパに同行しておじいちゃんに会いに行く時、ジョナタンとも会えることが、イザベルにとってはなによりの喜びだ。
ある時、二人はおじいちゃんの家を訪ねる。おじいちゃんは心から喜んだ。若いころ劇場でプロンプター(俳優に小声でせりふを教える人)をやっていたおじいちゃんの家の壁にはたくさんの俳優の写真が貼ってある。ジョナタンは演劇が大好きで、おじいちゃんと意気投合した。思いがけない成り行きだった。
水曜日に訪ねてきても、全く様子の変わったマンションでおじいちゃんは居心地が悪そうだった。ある時、パパの仕事の都合で、イザベルが一人でおじいちゃんに会いに来た。いつもパパに遮られて黙りこむおじいちゃんが、イザベルに人生の思い出を語った。リュシーおばあちゃんと恋に落ちた若い日、完璧に幸せだった二十年間の結婚生活、おばあちゃんに死なれた苦しみは今も続いていること。将来に希望を持てなくなった老いの哀しみを語る十一章は、若い孫たちの未来と老いとが光と影のように浮かびあがり、哀切だ。人生半ばに立つパパは仕事に打ちこみ、愛する人々の心に寄り添う余裕がない。が、おじいちゃんは静かにパパを受け入れている。
果てしない孤独に落ちているかに見えたおじいちゃんが、実はそうではなかったことが、十二章〜十三章で語られ物語のトーンは大きく変わる。ジョナタンはたびたびおじいちゃんを訪ねて。様々なこと、何よりイザベルへの思いを語っていた。偶然のいたずらで、「水曜日のうそ」の真相を知ったおじいちゃんの嘆きは痛ましいが、それからグレー夫妻との間に温かい友情が生まれ、おじいちゃんは心豊かな日々を送ったのだ。息子一家の気持ちに応え、うそには気づかないふりをして。おじいちゃんの何気ない言葉や行動に、イザベルは全てを知っているのでは?と疑惑を抱いていたのだ。人生の終わりにおじいちゃんは、若い恋人たちにあふれんばかりの愛情と励ましを贈っていた。登場人物がみな個性的で、人生が光からも影からも丁寧に掘り下げられている。おじいちゃんとパパの思いは、高齢の家族を持つ者はひとしお身につまされる。若い二人とおじいちゃんの、愛情のこもった心の絆も読み手の胸にしみる。
脚本家でもあった作者は、イザベルの短い独白を舞台の幕開きのように使い、劇的に物語を始めている。共感と絡んだ糸の行方、若い恋人たちの心の成長が最後に温かくほぐれる。