はじめに
「文書(資料)の声を聴く」とは、出雲大社関係文書を分析した論文に使用した名前である。現在残っている文書は様々な意味で「残された文書」である。意図して廃棄されたものもあれば、新たに作成して残されたものもある。
「残った資料から考えるしかない」が「残されなかった資料」の存在に想いをはせるかどうかで、分析の結果は変わってくる。不十分な分析しかできないが、可能な限り明らかにすべきである。
大学の卒論では「伊予国弓削島庄」をテーマにした。ちょうど、東寺百合文書の未整理分の整理・解読が進んでおり、その目録は公開されていたが、文書そのものは未公開であった。文書の公開を待って完成すればよいかもしれないが、卒論であるがゆえ時間の制約があるなかで、未公開文書の内容を予測しながら(それが公開されても分析結果が変わらないように)、卒論を作成した。
もとより、未熟なものであったが、残らなかった資料の存在を考えながら、残された資料の分析をする習慣は身についたと思う。
大学では中世史を主に学んだが、近世史のゼミにも参加した。同級生30名のうち、中世と近世の両方のゼミに参加していたのは自分を含め2人であった。中世と近世のゼミの雰囲気も大きく違っていた。中世から近世への転換期にあたる戦国期の理解も、両者では大きく異なっていた。
現在は地域の歴史を考えているが、中世と近世の依然として大きい断絶は、極めてナンセンスなことだと思う。地域の歴史を分析するために、どのような方法があるかについて、時代を超えて議論をしなければならない。地域史を考える際の郷土愛を否定はしないが、それぞれの作業が結び付けられて総合的な地域像を構成するに足るものでなければならない。