囲碁史
囲碁史への関心は、『月刊碁学』(現在は廃刊)の増刊号がきっかけであろうか。
浜田藩の竹島事件について、生徒とともに調べていたら、事件の主役松平周防守と家老岡田頼母が、囲碁と深い関わりを持っていたことを知った。それまで、竹島事件と二人の主役について書かれた書物で、この点に触れていたものはなかったので、本因坊丈和と赤星因徹の棋譜とその背景について、学園祭の「竹島事件」の展示で触れた。
そして、1998年の因島市における「日本囲碁文化展」と早稲田大学山本家文書の調査である。当初、本因坊秀策への関心から因島へ行き、山本家文書中の秀策関係史料を収集したが、その中に「岸本左一郎」を発見した。そして左一郎が、石見銀山領代官所のあった大森の出身でありながら、「大屋」出身であると誤解され、それが故に、大森で左一郎のことがほとんど知られていないことから、その発掘が必要であったと思った。
大森関係の19世紀の史料を調査した中で、左一郎の父「美濃屋」に関する史料も見つけた。地域の囲碁関係の番付をみる中で、それが地域の政治・文化史を解明する手がかりとなることも知った。当時は、学問を学ぶと同時に囲碁を学んだのである。地域の庄屋層はことごとく囲碁やその他の文化を学び、ネットワーク=講に参加していた。
左一郎の弟子岩田右一郎についても関心を持った、岩田の記念碑が松江市の白潟天満宮内に建立されたが、所在が不明とのことで、探していたところで、「迩摩町天河内満行寺」にあるとの情報を得、なぜに離れたところにとの疑問をいだきつつ訪れたところ、寺の方から、岩田の碑はないが、寺と道を隔てた小高い丘に「岸本左一郎」という人の碑ならあるといわれ、左一郎の碑と対面した。そして、松江市の宍道湖公園で、岩田の石碑も見つけた。当時、宍道湖公園は拡張工事中で、間もなく工事のため、石碑は移動のためかその根本から掘り出され、横にされたが、いつの間にか消えてしまった。そして完成した公園内に移築された気配もなかった。
出雲市多聞院に残された秀策棋譜集の閲覧については、宮本豊さん(故人)にお世話になった。その中に多数の左一郎の棋譜が含まれており、秀策棋譜集の成立に左一郎が深く関わっていたとの思いを強めた。同時に鳥取市で発見された棋譜集『囲碁手談』についても関心を持ち、鳥取県立図書館、その一部の秀策棋譜を『棋道』で解説をした関山本因坊の関係の方、さらには囲碁史研究者にも問い合わせてみたが、所在は不明で、わずかに『本因坊秀策全集』と『本因坊秀甫全集』に収録された棋譜のみが知られていた。その他に左一郎と関わりの深い地元の人々の棋譜があったことが知られているだけである。
左一郎の『活碁新評』については、伊豆在住の囲碁史研究者の方から複写をいただいたが、その後、長谷川章8段(日本棋院理事長)が、『筋と形』としてその内容を紹介・発展させた本の存在を知った。ヤフーオークションで上下2冊が出品されていたこともあったが、その時にはその価値に気づかず、後に京都府立図書館に行って内容を閲覧した。その後、MSオークションで上巻を入手したが、下巻は未だ得ていない。
左一郎の地元大森や岩田の地元安来の方が、足をいかした追求をなされることを期待している。