毛長川流域古墳文化について
●毛長川の位置

鳩ヶ谷市東南の川口市安行慈林との境付近に端を発し、川口市、草加市と東京都足立区の間で都県境となって、足立区内にて綾瀬川に注ぐ。

都市部の小河川の典型で、水質汚染が酷かったが、環境意識の高まりを反映してか近年は若干改善傾向にある。かつては鰻や鯉、鮒等の川魚が沢山採れた為、毛長川沿いには川魚料理屋が多い。また、昔は大平洋から利根川を遡ってきたスズキが、見沼代用水経由で毛長川にもやってきていたとの事。

鉄道網から外れており、陸の孤島と化しているのが毛長川流域諸地域に共通した悩みである。

■毛長川と旧入間川

古墳時代における毛長川(旧入間川)の推定流路
約6000年前の縄文海進時、東京湾は栃木県の平野部まで達していた事が分かっております。
毛長川流域も大宮台地に連なる鳩ヶ谷支台南縁の間際迄海でしたので、鳩ヶ谷市及び川口市の一部を除いてまだ海底に没していた事になります。その後、気候の寒冷化により、次第に海岸線は南下して行きましたが、弥生時代初期にはまだ東京都及び埼玉県南部の低地は遠浅の海の底でした。従って、縄文〜弥生中期の遺跡は鳩ヶ谷支台上に見られるのみで、低地部に人の生活の痕跡が認められるようになるのは、弥生中期以降になります。

現在毛長川は川口市の安行慈林に端を発し、鳩ヶ谷市境を下り、川口市江戸袋付近から草加市にかけて、東京都足立区との境をなして東へ流れ、綾瀬川(江戸時代の河川改修以前の荒川流路の一つ)に注ぐ小河川ですが、かつてこの川筋を入間川が流れていた頃はかなりの大河でした。足立区の伊興遺跡付近では当時400m程度の河道があった事が分かっております。
古墳時代の入間川は利根川水系の主流であり、埼玉県の熊谷市近傍から東松山市近傍へ南下し、川越市付近から、さいたま市の旧大宮市西部、旧浦和市の大久保、文蔵地区を通って川口市の芝、鳩ヶ谷市の辻、里地区に至り、三ツ和を経た後に現在の毛長川に沿って流れ、足立区の千住付近で東京湾に注いでいたと考えられています。

旧入間川は両岸に自然堤防を発達させ、これら低地部に沖積平野を形成して行き、古墳時代になると足立区北部迄はほぼ陸地化したと考えられております。
草加市西地総田、東地総田、足立区舎人、伊興、花畑等の遺跡は弥生時代終末期〜古墳時代初期にかけてほぼ時を同じくして出現しており、古墳時代に入って、低地部の陸地化に伴い、人々がこの自然堤防上に生活圏を拡大していった様子を伺い知る事ができます。

また、当時は主要河川の多くが足立区付近で東京湾に注いでいた為、この付近は東京湾から関東平野内陸へ至る水上交通の要衝として重要な場であったと思われます。
毛長川左岸の草加市西地総田遺跡からは、海岸波打ち際に生息する穿孔貝の巣穴痕泥岩が出土しており、毛長川流域のかなり近く迄入江が迫っていた事を証明しております。 このような地理的要因から、畿内勢力の東国進出において、この地は橋頭堡の役割を担ったと思われます。
西東海地方に多く出土するS字甕は関東においてはまずこのような海岸部において出土するようになり、時代が下るにつれ、内陸部からも出土する傾向がある事から、毛長川流域の古墳文化の成立において、鳩ヶ谷支台上からの進出と併せて、畿内及び東海地方からの人の移入が重要な役割を果たしたのではないかと考えられております。

旧入間川河口にほど近い足立区の伊興地区には、早くから「津」(港)が設けられていたと見られており、当時の集落跡である伊興遺跡からは舟材の他、舟の模型をはじめとする水に関する祭祀に用いられたと思われる様々な遺物が出土しております。
このように当時の毛長川流域は在地勢力が逸早く畿内政権の支配下に入った事により、畿内中央と関東とを結ぶ水上交易路の中継基地として、関東における先進地帯として発展していったと考えられます。

■古墳群の発達
畿内からの人、文物が逸早く届けられるという地理的環境により、毛長川流域では早くから古墳の築造が行われました。川口市峯の高稲荷古墳(前方後円墳)が最も古く且つ大規模で、4世紀後半から5世紀前半の築造と推定されており、毛長川流域の古墳群の主墳と看做されております。
6世紀中頃になると、首長クラスのみならず、配下のムラの有力者クラスも古墳を築造するだけの力を貯え、7世紀前半にかけてこの一帯に数多くの円墳を築くようになりました。これにより、毛長川流域に一大古墳群が形成されるようになったのです。

これらの内、現存するのは4基、消滅したものの存在が知られているものを含めても30基程度ですが、この地域には古墳に因むと思われる地名が多く見受けられるので、実際はもっと多くの古墳が存在していたものと思われます。
地名とその由来は次の通りです。

●草加市
 谷 塚:湿地を意味するヤ+塚。或いは「沢山」を意味する「八(ヤ)」+塚のいずれか。
 苗 塚:町内に存在した苗塚に由来する。
 富貴塚:谷塚の小名で、やはり存在した同名の塚に由来する。

●足立区
 竹之塚:「高い塚」の転訛か、墳丘に竹が茂っている様子に由来すると思われる。

こうした地名からも伺えるように、毛長川流域の古墳群の存在は古くから知られており、江戸時代後期に徳川幕府によって編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』等の江戸期の文献において、既に幾つかの古墳に関する記事が見受けられます。
明治時代に入ると、これらの古墳にも学術的な感心が向けられるようになり、『東京人類学雑誌』等の考古学関連の学会誌にその内容や分布についての報告が掲載されるようになります。例えば、明治33年に発行された東京帝国大学の『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』には、毛長川流域及びその周辺の古墳として、次のような記載が見られます(『新編武蔵風土記稿』『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』は国会図書館サイト中の「近代デジタルライブラリ」にて全文を閲覧できます)。

所在地 種類 報告者
南足立郡伊興村 古墳 八木奘三郎報
同郡大谷口村 古墳 地学協会雑誌報
北足立郡鳩ヶ谷在仙元祠及近傍 古墳 蒔田鎗次郎報
同郡神根村大字道合 古墳 同人
同郡新郷村大字峰 古墳 地学協会雑誌報
同郡新郷村大字赤井 古墳 同上
同郡新郷村大字大竹 古墳 同上
同郡神根村大字西新井宿 古墳 同上

これらの古墳について簡単に解説しますと、南足立郡伊興村の古墳は、現足立区伊興の白旗塚周辺の古墳(B群。白旗塚、擂鉢塚、甲塚等)、伊興氷川神社周辺の古墳(C群。金塚、船山塚、聖塚等)の内のいずれかだと思われますが、詳細は不明です。
次の同郡大谷口村とあるのは、恐らく大谷田の誤記で、足立区大谷田の大谷田古墳と呼ばれているもののことでしょう。
北足立郡鳩ヶ谷在仙元祠及近傍は、鳩ヶ谷市坂下町に存在した前方後円墳の仙元祠古墳(消滅)。同郡神根村大字道合の古墳は、1956年刊行の『埼玉縣史』(旧県史)で前方後円墳とされているもので、川口市北部・大字道合の台地上に存在したとされてます(消滅)。次の同郡新郷村大字峰は、同じく前方後円墳で川口市大字峯の高稲荷古墳(消滅)。赤井のものは川口市大字赤井字台の赤井台古墳(消滅)を指すと思われます。
大字大竹の古墳は現在その詳細は不明となっていますが、『新編武蔵風土記稿』で大竹の飛地にあったとされる苗塚のことか、宮脇1・2号墳の近くに所在した未知の古墳ではないかと思われます。
最後の同郡神根村大字西新井宿の古墳とは、道合のものと同様に旧県史にて前方後円墳とされているもので、道合の東南、鳩ヶ谷北部の川口市西新井宿の台地上に存在したようです(消滅)。
尚、『埼玉縣史』(埼玉県 1956)の北足立郡古墳所在地名表には毛長川流域とその近傍の古墳として、次の古墳が記載されております。

所在地 名称 形態 出土遺物
谷塚村大字上谷塚 円墳
新郷村大字峰 瓢箪塚 前方後円墳
同 大字赤井 円墳
同 大字東本郷字見沼台 前方後円墳 直刀、曲玉
鳩ヶ谷町 仙元祠 前方後円墳 直刀、曲玉、土師
神根村大字道合 前方後円墳 直刀、曲玉
同 大字西新井宿 前方後円墳 直刀、曲玉

埼玉県域のものに限っているので、足立区伊興周辺の古墳に関する記載はありませんが、概ね『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』の記載を踏襲しており、これに草加市上谷塚の円墳と川口市東本郷の見沼台古墳(八兵衛山古墳)が追加されています。尚、上谷塚の円墳は、その所在地から、『新編武蔵風土記稿』に記されている富貴塚を指しているものと思われます。

これら毛長川流域の古墳群は西垣隆雄・鈴木敏弘氏の研究(西垣・鈴木「考古学的環境」伊興遺跡調査団『武蔵伊興遺跡』1975 掲載)において、現毛長川下流のA群、中流域右岸のB、C、D群、中流域左岸のE群、上流域のF、G群に大別されており、当サイトでもこの分類に従う事とします。この内、F、G群を新郷古墳群(鳩ヶ谷市東部〜川口市東南部。毛長川左岸)、E群を谷塚古墳群(草加市南部。毛長川左岸)、A〜D群を伊興古墳群(足立区北部。毛長川右岸)と呼んでおります。B群は現存する白旗塚古墳の名をとって「白旗塚古墳群」と称される事もあります(東京都の遺跡としての登録は「白旗塚古墳群」です)。
この内、伊興古墳群と谷塚古墳群は円墳のみ(C群の金塚古墳を方墳、伊興氷川神社を前方後円墳とする説もあるが)で構成される群集墳であり、首長墓である前方後円墳を含むものは現時点では、新郷古墳群のみとなっております。
この事から、毛長川流域は新郷古墳群を築いた首長に統率された古墳文化圏であったと考えられます。
以後ここでは、この古墳文化圏を「毛長川流域古墳文化圏」と呼ぶ事にします。

毛長川流域の古墳群を構成する古墳の特徴として、時代の新旧を問わず、主体部に石室を用いていない事が挙げられます。勿論、今後の調査によっては石室が検出される可能性は皆無ではありませんが、現時点で調査が及んでいる限りにおいては、4世紀後半〜5世紀前半の築造と見られる高稲荷古墳は当然としても、宮脇1・2号墳に代表される6世紀後半から7世紀初頭にかけての小円墳からも石室は検出されておりません。全て主体部は粘土槨乃至は粘土床を伴う木棺です。
何故この地域では石室による主体部を採用しなかったのか(少なくとも一般的ではなかったと言えるでしょう)興味の有る所です。
確かに周辺は洪積台地及び沖積平野ですから、石材に乏しいのは理解できますが、水上交易路を掌握していた勢力ですから、利根川や荒川の上流、東京湾対岸の千葉県等から石材を運ぶ事は充分に可能であったと思われます。また、畿内中央から情報が入ってくるのも比較的早かったと思われますので、竪穴式/横穴式の石室を主体とする墓制について知らなかったという事も無いでしょう。更に旧入間川を遡ったさいたま市域内の大久保古墳群、側ヶ谷戸古墳群、植水古墳群の古墳や、荒川低地を挟んだ対岸の武蔵野台地(本郷台、赤羽台)上の古墳のように、ほぼ同じ地理的環境下にありながら石室を有する古墳も存在しております。こうなりますと「敢て」石室による主体部を採用しなかったのではないかと考えたくなりますが、その真相については、今後の調査研究の進展に期待したいと思います。

次に毛長川流域古墳群の立地上の特徴ですが、台地縁辺部に立地する新郷古墳群(F群、G群)を除く、A〜E群は、毛長川両岸に発達した集落遺構を載せる自然堤防の縁辺部か、これに隣接する未発達な自然堤防上に築造されています。この事から、生活が営まれる日常の場とは隔絶した当時日常的には利用されていなかった土地に墓域を設けようとした事が伺われます。新郷古墳群も近辺の集落遺構(三ツ和遺跡、石御堂遺跡)から距離的に離れているという点から、日常との隔絶性が伺えます。
鳩ヶ谷、川口市域内において、集落が存在する自然堤防の縁辺部や、これに隣接する自然堤防上から古墳が検出されていないのは、A〜E群の事例からすると不思議に思われますが、未調査の塚や塚跡は両市域内の自然堤防上に存在しており(「鳩ヶ谷・川口市域内のその他の古墳」参照)、これらの調査が進めば、A〜E群と同様な分布状況がこの地域にも認められるようになるかも知れません。

■毛長川流域古墳文化圏の特徴
上述の通り、毛長川流域古墳文化圏は水上交通路の掌握を通じて発展した勢力であると考えられます。この文化圏の南部には旧入間川、旧荒川、旧利根川の三大河川が河口を開いており、伊興の津を拠点として、目的地別にこれらの河川を通じて人や文物を内陸部へと送り届ける役目を担っていたものと思われます。
有名なさきたま古墳群も伊興の津より旧利根川を遡った先にあります。

さきたま古墳群を築いた首長は武蔵国最大の大首長であり、115文字の金象嵌入り鉄剣で有名な稲荷山古墳の被葬者は、その銘文から雄略天皇の杖刀人の首(じょうとうじんのおびと:親衛隊長)であったか、その指揮下にて杖刀人として仕えた地方豪族であったと見られております。
いずれにせよ、毛長川流域古墳文化圏を統率した首長はこうした中央との結びつきが強い大首長の統率下に組み込まれていたものと思われます。
このような大王家−中央豪族−地方豪族−中小豪族といった畿内政権の重層的な統治システムを機能させる為には情報、人、文物の迅速な往来が不可欠であり、当時のハイウェイとも言うべき水上交易路を統括した毛長川流域古墳文化圏は畿内政権の東国支配体制の確立において重要な役割を果たした筈です。
一例として、上述のS字甕(口の断面がS字形になる台付甕)の関東地方における出土状況が挙げられます。この土器は毛長川を含む当時の東京湾岸地域より多く出土し、時代が下ると古利根川、元荒川、入間川といった河川に沿って内陸部の遺跡からも出土するようになります。この事は畿内と関東とを結ぶ水上交易において、西東海地方の勢力が重要な役割を果たしていた事を示すと共に、武蔵国においては、これらの文物は一旦伊興の津を始めとする東京湾岸地域に集積され、その後水上交易路を使用して内陸各地に伝播されるという当時の仕組みを暗示しております。

さきたまの豪族も中央との交信にはこの水上交易路を用いた筈であり、事実、さきたま古墳群のそばの利根川には「埼玉の津」と呼ばれる港が設けられていた事が『万葉集』に詠われております。この事から、

中央→西東海→東京湾→伊興の津→埼玉の津→さきたま古墳群

というルートが存在した事が推定され、武蔵国最大の古墳群を築いた力の背景にはこうした水上交易路の存在が不可欠であったと考えられております。
畿内政権の東国における兵站拠点として水上交易路の掌握に特化した勢力であったというのが、毛長川古墳文化圏の第一の特徴であると言えるでしょう。

■毛長川流域古墳文化圏の勢力範囲

足立郡及び掘津郷の図

足立郡衙は現在のさいたま市の氷川神社近辺にあったと推察される。
掘津郷は足立郡の南端、大宮台地から伸びる鳩ヶ谷支台南縁と毛長
川の自然堤防からなる地域だったと思われる。

図中、水色の部分は現在の標高が2m以下の地域であり、古墳時代
当時は低湿地帯であったと思われる。

毛長川流域の古墳時代の様子については、まだまだその全容は分かっておりませんが、古墳群及び集落跡の分布からある程度その勢力範囲を推定する事は出来ると思います。
旧入間川沿いの古墳群の分布を見ると、新郷古墳群と上流のさいたま市の大久保古墳群(旧浦和市)、側ヶ谷戸古墳群(旧大宮市)との間にかなりの空白(鳩ヶ谷市西部、川口市西北部、さいたま市西南部)がある事が分かります。大久保古墳群はさいたま市西部の植水古墳群・側ヶ谷戸古墳群に連なる古墳群であり、この事から、川口市西北部〜さいたま市南西部あたりが側ヶ谷戸/大久保勢力とのバッファーゾーンであり、鳩ヶ谷市、川口市東部、草加市南部、足立区北部が大凡の勢力範囲ではなかったかと推察されます。
地形的には大宮台地南端の鳩ヶ谷支台の南縁部から、旧入間川の自然堤防及び低湿地を含む地域であると言えるでしょう。

この地域は古墳時代に続く律令時代には「掘津郷(発度郷:はっとごう)」と呼ばれており、恐らくこの掘津郷は毛長川流域古墳文化圏を受け継ぐものであると思われます。
この郷名は「鳩ヶ谷」という地名にその名残りを見る事ができます。「鳩ヶ谷」は「発度が井」(発度の井戸/涌水)の転訛と見られ、中世の鳩ヶ谷の領主は「鳩井(はとがい)/鳩谷(はとがや)」姓を名乗り、現在でも市内には「鳩貝(はとがい)」姓を名乗る方がおり、鳩ヶ谷の地名と共にかつてこの地域が「掘津郷」と呼ばれていた名残りを留めております。
また、19世紀に徳川幕府により編纂された地誌『新編武蔵風土記』には、「鳩ヶ谷」と書いても地元の人は「はとがい」と発音していた旨が記されております(しかしながら、『新編武蔵風土記』では現さいたま市の風渡野周辺を掘津郷とする説を採っています)。

鳩ヶ谷市東南部の三ツ和地区からは、毛長川流域では最大規模の古墳時代の集落跡である「三ツ和遺跡」が発見されております。
新郷古墳群には高稲荷古墳以後も八兵衛山古墳仙元祠古墳と前方後円墳が築造され続け、古墳時代を通じてこの地に首長が在住していたと思われます。これらの首長たる豪族の館は未だ検出されておりませんが、その規模から、三ツ和遺跡付近に存在した可能性が指摘されております。地理的にも主墳である高稲荷古墳迄直線距離にして2.5km と近く、また、新郷古墳群は三ツ和から見て古来より神聖な方角とされる(後に主に墓を作る方位)東北(うしとら)方面にあたり、三ツ和遺跡の集落の人々が奥津城(おくつき:墓)を作るには理に叶っていると言えるでしょう。
このように、

1.三ツ和遺跡は「首長のムラ」であった可能性が高い
2.三ツ和を含む鳩ヶ谷市の市名に律令時代の「発度郷」の名残りが見受けられる

事から、三ツ和遺跡は毛長川流域古墳文化圏を統括する中心地であり、これが律令時代にも受け継がれ、毛長川流域が「掘津(発度)郷」と呼ばれる由来となったのではないかと思われます。

■古墳群の変遷
毛長川流域の古墳群の構成は上述の通りですが、今度はその変遷を見ていきましょう。
具体的に調査された古墳はごく僅かであり、現存する出土品も本当にその古墳から出土した物なのか否か良く分からない部分もありますので、本来はまだ確かな事は言えないという状況ではありますが、現時点で収集した情報から私なりに推考してみたものを、以下に示してみたいと思います。

●毛長川流域古墳の変遷 ()内は不確定のもの。

築造時期古墳名墳丘形態
4C末〜5C初頭高稲荷古墳前方後円墳
(5C)仙元祠古墳(前方後円墳)
6C後半八兵衛山古墳(前方後円墳)
6C後半赤井台古墳、東養寺古墳、(安行小山古墳)、(苗塚古墳)、白山塚古墳、一本松古墳、(花畑浅間神社古墳)、摺鉢塚古墳、白旗塚古墳、甲塚古墳、(兜塚古墳)、(駒形塚古墳)、船山塚古墳、聖塚古墳、白幡塚古墳、(舎人氷川神社古墳)、蜻蛉古墳、(御殿屋稲荷古墳)、(加賀屋敷古墳)、(富貴塚古墳)、(庚申塚古墳)円墳
6C後半伊興氷川神社古墳(前方後円墳)
6C末金塚古墳(方墳)
6C末〜7C初頭宮脇1・2号墳、高稲荷北古墳円墳

発掘調査の結果、埴輪を持たず、比較的未発達な前方部を有していた高稲荷古墳が、この地域で最も初期に築造された古墳である事に異論は無いでしょう。
また、形象埴輪の出土が認められる八兵衛山古墳、東養寺古墳、一本松古墳、摺鉢塚古墳及びその周辺の小円墳群を6C後半に、埴輪を有さず、比較的新し目の遺物が出土した宮脇2号墳、高稲荷北古墳をこれに続く6C末〜7C初頭に位置付けるのも順当な所かと思います。
これ以外の古墳は、未調査な上、出土品に関する伝承があればマシな方という状況ですので、確かな事は何も言えませんが、直刀と勾玉のみで埴輪の出土が伝えられていない仙元祠古墳は、高稲荷古墳と八兵衛山古墳の間を繋ぐ首長墓と位置付けられるかも知れません。
伊興氷川神社古墳と金塚古墳はそれぞれ、前方後円墳、方墳とする説が正しければ、周辺の古墳の状況から見て、前者は6C代、後者は埴輪の出土が伝えられておりますので、周辺の小円墳群と同時期か、これよりやや遅い時期、具体的には埴輪が出土する円墳群と、埴輪を有さない宮脇2号墳等との間位に築造された首長墓ではないかと思われます。
特に金塚からは鎧片の出土が伝えられていますので、その可能性はより高いかも知れません。

これを前提に更に推論を進めるならば、伊興氷川神社古墳と金塚古墳は、高稲荷→仙元祠→八兵衛山と続いた新郷古墳群の前方後円墳に埋葬された首長とは異なる系列の首長墓、つまり、伊興の在地豪族乃至は中央から派遣された新たな支配者を埋葬した墓ではないかと思われます。
6〜7世紀は律令制による中央集権的な国家体制に向けて、大きく時代が転換する時期であります。
中央集権化に向けて、在地首長の勢力を削ぎ、中央政権による直接的な支配を強化する動きが見られるようになりました。

大王家→中央豪族→地方豪族→中小豪族→人民

という従来の構図から、

大王家→中央豪族→中小豪族→人民

乃至は、

大王家→中小豪族→人民

といった構図への変化です。
こうした流れの中で、中央との結び付きが強化された地方の中小豪族や人民の富裕層が新たに古墳を作る力を獲得したのだと思われ、これが群集墳の出現に繋がったのではないかと推察されます。また、これらの人々の中には在来の地方首長に対抗するような形で、新しい首長になる者も現れ、地方首長の勢力を削ぎ、中央の意向が直接届くような新しい支配体制が構築されいったと思われます。

『日本書紀』の安閑記には武蔵国造の地位を巡り、笠原直使主と同族の小杵が争うという記事があります。
小杵は隣国上毛の大豪族、上毛野小熊を頼り、使主は朝廷の支援を要請します。
結果、小杵は朝廷により誅殺され、武蔵国造の地位は使主に安堵されます。
喜んだ使主は、礼として武蔵の国の内、4郡を朝廷に献上したとあります。 この内紛は既得権益の確保を目指す在地首長層と、それを弱体化させ、直接的な影響力を拡大しようとする朝廷との新旧勢力間の紛争であると見る事ができるでしょう。結果は、武蔵国における中央の支配が強化され、逆に国造家はその権力を減衰させ、中央集権国家の構築に大きく前進する事となりました。
因みに、武蔵国造の笠原直の本拠地は足立郡の笠原(現鴻巣市笠原)であり、埼玉古墳群を築いたのはこの氏族であると見られております。
埼玉古墳群には5C末〜6C初頭の稲荷山古墳を皮切りに6C代に渡って次々と前方後円墳が築造されたのに対し、上毛国では、5C代に東国最大の太田天神山古墳を築造して以降、前方後円墳は西部の高崎や前橋の方に築造されるようになり、太田周辺で次々に築造されるような事は無くなりました。
これを、上記の争いの結果、上毛野氏の勢力が減衰・分散させられた為ではないかとする説もあります。
伊興氷川神社や金塚古墳が伝承通りの古墳終末期の首長墓であるとしたら、このような歴史の流れを端的に示す存在であると言えるのではないでしょうか?

伊興の地は中央政権の関東進出において交通の要衝として重要な役割を果たしたと思われます。前項で述べたように、埼玉古墳群を築いた勢力とも密接な関わりがあったようです。
また、伊興のムラは続く律令時代においてもこの地域の中心的な集落であり続けた事が、遺跡の調査で明らかになっており、また、付近には官衙の存在が推定されています。
従って、中央集権国家を構築するにあたり、中央政府としてはこの地の直接支配を強く望んだのではないかと思います。
伊興氷川神社や金塚古墳は、こうした状況において、伊興のムラを治める新たな首長となった在地豪族乃至は中央から派遣された人物の墓であったのかも知れません。

もし、そうであるとしたら、これらの古墳には畿内からもたらされた品や、その影響を受けた品が副葬されていた事と思います。今後、これらの古墳跡からこの種の遺物が出土するような事があれば、上記の推論を裏付ける事になるかも知れません。
一方、調査の結果、近隣のものと同種の小円墳である事が立証されれば、この推論は意味を成さなくなります。いずれにせよ、現時点では余りにも資料が乏しい状況ですので、新郷古墳群の前方後円墳被葬者との関係、中央との関係については、今後の調査の進展を注意深く見守っていく必要があると思います。

■旧入間川の記憶
「三ツ和」という地名は、小淵、中居、八幡木の三村が合併した事に基づく地名ですが、「小淵」という川に因む地名を含んでいます。現在、三ツ和南方には新芝川が流れておりますが、これは戦後掘削された芝川の放水路ですので、これが出来る前はこの地区に池や沼はありましたが、川らしい川はありませんでした。従って、この「小淵」という地名は、かつてここに旧入間川が流れていた頃の記憶を留めるものと言えるでしょう。
一方、三ツ和の北部、旧入間川河道付近には「沼田」という地名があり、入間川の流路が変わった後も、旧河道は湿地帯として残っていた事を示しているのでしょう。1948年に米軍機によって撮影された航空写真を見ると(国土地理院のHPで閲覧できます)、旧河道に沿って水田が立ち並んでおり、かつての川筋を認める事ができます。
その他、旧入間川/毛長川流域には、蓮沼(川口市)、瀬崎(草加市)、淵の宮(足立区)等の旧入間川に因むと思われる地名が今日でも散見されます。

また、古墳時代の水にまつわる祭祀の影響があるのかどうか確かではありませんが、毛長川流域では古来、水神とされてきた蛇をモチーフにした祭りも散見されます。
鳩ヶ谷の仙元祠古墳上にかつて存在していた浅間神社には御手洗池の主と呼ばれた蛇にまつわる伝説もあり、浅間神社の例祭では「じゃの口」という藁製のヘビを土産物にしていたと伝えられております。
浅間神社の祭神は木花咲耶比売命(コノハナサクヤヒメのミコト)であり、この神は皇祖邇邇岐命(ニニギのミコト)の妻であり、山の神である「大山積神」(オオヤマツミのカミ)の娘ですから、蛇=水との関係は余りありません。従ってこれらの伝説や風習は浅間神社とは別の所に由来を求めるべきかと思います。
また、新郷古墳群北方の台地上にある川口市安行原では「安行原の蛇造り」と呼ばれる藁製の大蛇を木にからませる祭りが今でも行われております。これと同種の祭りは草加市の氷川神社(草加神社)、足立区西新井の氷川神社等、この地域では広く行われいるようです。

入間川の流路が変わった後も、旧河道は池や沼の多い湿地帯として残りましたので、この地域の人々と水との密接な関わりが途絶えた訳ではありませんから、これらの風習は必ずしも古墳時代の水辺の祭祀に起因するものとは言えませんが、古墳時代の人々の旧入間川に対する畏敬の念、水に対する想いのようなものは引き続きこの地域の人々に継承されてきたと考える事は出来るかもしれません。