畿内からの人、文物が逸早く届けられるという地理的環境により、毛長川流域では早くから古墳の築造が行われました。川口市峯の高稲荷古墳(前方後円墳)が最も古く且つ大規模で、4世紀後半から5世紀前半の築造と推定されており、毛長川流域の古墳群の主墳と看做されております。
6世紀中頃になると、首長クラスのみならず、配下のムラの有力者クラスも古墳を築造するだけの力を貯え、7世紀前半にかけてこの一帯に数多くの円墳を築くようになりました。これにより、毛長川流域に一大古墳群が形成されるようになったのです。
これらの内、現存するのは4基、消滅したものの存在が知られているものを含めても30基程度ですが、この地域には古墳に因むと思われる地名が多く見受けられるので、実際はもっと多くの古墳が存在していたものと思われます。
地名とその由来は次の通りです。
●草加市
谷 塚:湿地を意味するヤ+塚。或いは「沢山」を意味する「八(ヤ)」+塚のいずれか。
苗 塚:町内に存在した苗塚に由来する。
富貴塚:谷塚の小名で、やはり存在した同名の塚に由来する。
●足立区
竹之塚:「高い塚」の転訛か、墳丘に竹が茂っている様子に由来すると思われる。
こうした地名からも伺えるように、毛長川流域の古墳群の存在は古くから知られており、江戸時代後期に徳川幕府によって編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』等の江戸期の文献において、既に幾つかの古墳に関する記事が見受けられます。
明治時代に入ると、これらの古墳にも学術的な感心が向けられるようになり、『東京人類学雑誌』等の考古学関連の学会誌にその内容や分布についての報告が掲載されるようになります。例えば、明治33年に発行された東京帝国大学の『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』には、毛長川流域及びその周辺の古墳として、次のような記載が見られます(『新編武蔵風土記稿』『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』は国会図書館サイト中の「近代デジタルライブラリ」にて全文を閲覧できます)。
| 所在地 |
種類 |
報告者 |
| 南足立郡伊興村 |
古墳 |
八木奘三郎報 |
| 同郡大谷口村 |
古墳 |
地学協会雑誌報 |
| 北足立郡鳩ヶ谷在仙元祠及近傍 |
古墳 |
蒔田鎗次郎報 |
| 同郡神根村大字道合 |
古墳 |
同人 |
| 同郡新郷村大字峰 |
古墳 |
地学協会雑誌報 |
| 同郡新郷村大字赤井 |
古墳 |
同上 |
| 同郡新郷村大字大竹 |
古墳 |
同上 |
| 同郡神根村大字西新井宿 |
古墳 |
同上 |
これらの古墳について簡単に解説しますと、南足立郡伊興村の古墳は、現足立区伊興の白旗塚周辺の古墳(B群。白旗塚、擂鉢塚、甲塚等)、伊興氷川神社周辺の古墳(C群。金塚、船山塚、聖塚等)の内のいずれかだと思われますが、詳細は不明です。
次の同郡大谷口村とあるのは、恐らく大谷田の誤記で、足立区大谷田の大谷田古墳と呼ばれているもののことでしょう。
北足立郡鳩ヶ谷在仙元祠及近傍は、鳩ヶ谷市坂下町に存在した前方後円墳の仙元祠古墳(消滅)。同郡神根村大字道合の古墳は、1956年刊行の『埼玉縣史』(旧県史)で前方後円墳とされているもので、川口市北部・大字道合の台地上に存在したとされてます(消滅)。次の同郡新郷村大字峰は、同じく前方後円墳で川口市大字峯の高稲荷古墳(消滅)。赤井のものは川口市大字赤井字台の赤井台古墳(消滅)を指すと思われます。
大字大竹の古墳は現在その詳細は不明となっていますが、『新編武蔵風土記稿』で大竹の飛地にあったとされる苗塚のことか、宮脇1・2号墳の近くに所在した未知の古墳ではないかと思われます。
最後の同郡神根村大字西新井宿の古墳とは、道合のものと同様に旧県史にて前方後円墳とされているもので、道合の東南、鳩ヶ谷北部の川口市西新井宿の台地上に存在したようです(消滅)。
尚、『埼玉縣史』(埼玉県 1956)の北足立郡古墳所在地名表には毛長川流域とその近傍の古墳として、次の古墳が記載されております。
| 所在地 |
名称 |
形態 |
出土遺物 |
| 谷塚村大字上谷塚 |
|
円墳 |
|
| 新郷村大字峰 |
瓢箪塚 |
前方後円墳 |
|
| 同 大字赤井 |
|
円墳 |
|
| 同 大字東本郷字見沼台 |
|
前方後円墳 |
直刀、曲玉 |
| 鳩ヶ谷町 |
仙元祠 |
前方後円墳 |
直刀、曲玉、土師 |
| 神根村大字道合 |
|
前方後円墳 |
直刀、曲玉 |
| 同 大字西新井宿 |
|
前方後円墳 |
直刀、曲玉 |
埼玉県域のものに限っているので、足立区伊興周辺の古墳に関する記載はありませんが、概ね『古墳横穴及同時代遺物発見地名表』の記載を踏襲しており、これに草加市上谷塚の円墳と川口市東本郷の見沼台古墳(八兵衛山古墳)が追加されています。尚、上谷塚の円墳は、その所在地から、『新編武蔵風土記稿』に記されている富貴塚を指しているものと思われます。
これら毛長川流域の古墳群は西垣隆雄・鈴木敏弘氏の研究(西垣・鈴木「考古学的環境」伊興遺跡調査団『武蔵伊興遺跡』1975 掲載)において、現毛長川下流のA群、中流域右岸のB、C、D群、中流域左岸のE群、上流域のF、G群に大別されており、当サイトでもこの分類に従う事とします。この内、F、G群を新郷古墳群(鳩ヶ谷市東部〜川口市東南部。毛長川左岸)、E群を谷塚古墳群(草加市南部。毛長川左岸)、A〜D群を伊興古墳群(足立区北部。毛長川右岸)と呼んでおります。B群は現存する白旗塚古墳の名をとって「白旗塚古墳群」と称される事もあります(東京都の遺跡としての登録は「白旗塚古墳群」です)。
この内、伊興古墳群と谷塚古墳群は円墳のみ(C群の金塚古墳を方墳、伊興氷川神社を前方後円墳とする説もあるが)で構成される群集墳であり、首長墓である前方後円墳を含むものは現時点では、新郷古墳群のみとなっております。
この事から、毛長川流域は新郷古墳群を築いた首長に統率された古墳文化圏であったと考えられます。
以後ここでは、この古墳文化圏を「毛長川流域古墳文化圏」と呼ぶ事にします。
毛長川流域の古墳群を構成する古墳の特徴として、時代の新旧を問わず、主体部に石室を用いていない事が挙げられます。勿論、今後の調査によっては石室が検出される可能性は皆無ではありませんが、現時点で調査が及んでいる限りにおいては、4世紀後半〜5世紀前半の築造と見られる高稲荷古墳は当然としても、宮脇1・2号墳に代表される6世紀後半から7世紀初頭にかけての小円墳からも石室は検出されておりません。全て主体部は粘土槨乃至は粘土床を伴う木棺です。
何故この地域では石室による主体部を採用しなかったのか(少なくとも一般的ではなかったと言えるでしょう)興味の有る所です。
確かに周辺は洪積台地及び沖積平野ですから、石材に乏しいのは理解できますが、水上交易路を掌握していた勢力ですから、利根川や荒川の上流、東京湾対岸の千葉県等から石材を運ぶ事は充分に可能であったと思われます。また、畿内中央から情報が入ってくるのも比較的早かったと思われますので、竪穴式/横穴式の石室を主体とする墓制について知らなかったという事も無いでしょう。更に旧入間川を遡ったさいたま市域内の大久保古墳群、側ヶ谷戸古墳群、植水古墳群の古墳や、荒川低地を挟んだ対岸の武蔵野台地(本郷台、赤羽台)上の古墳のように、ほぼ同じ地理的環境下にありながら石室を有する古墳も存在しております。こうなりますと「敢て」石室による主体部を採用しなかったのではないかと考えたくなりますが、その真相については、今後の調査研究の進展に期待したいと思います。
次に毛長川流域古墳群の立地上の特徴ですが、台地縁辺部に立地する新郷古墳群(F群、G群)を除く、A〜E群は、毛長川両岸に発達した集落遺構を載せる自然堤防の縁辺部か、これに隣接する未発達な自然堤防上に築造されています。この事から、生活が営まれる日常の場とは隔絶した当時日常的には利用されていなかった土地に墓域を設けようとした事が伺われます。新郷古墳群も近辺の集落遺構(三ツ和遺跡、石御堂遺跡)から距離的に離れているという点から、日常との隔絶性が伺えます。
鳩ヶ谷、川口市域内において、集落が存在する自然堤防の縁辺部や、これに隣接する自然堤防上から古墳が検出されていないのは、A〜E群の事例からすると不思議に思われますが、未調査の塚や塚跡は両市域内の自然堤防上に存在しており(「鳩ヶ谷・川口市域内のその他の古墳」参照)、これらの調査が進めば、A〜E群と同様な分布状況がこの地域にも認められるようになるかも知れません。
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