有間皇子の変は父の仇討(解読された暗号 その四)

 先述したとおり、古事記では中大兄皇子(天智天皇)は兄と争いに勝利した応神天皇と大国主神に喩えられている。斉明天皇(天智天皇の母)は子供を助けた大国主神の母神と神功皇后に、有間皇子は中大兄皇子より年少であるが、敗北した庶兄弟として大国主神の兄神と神功皇后に滅ぼされた忍熊皇子に喩えられている。有間皇子は父の孝徳天皇と母の阿倍氏の子足媛からの出生である。

有間皇子の乱関係図

 日本書紀の有間皇子の変に関する記述を簡単に説明する。
 有間皇子は性格が聡く、狂人をよそおったところがあった。斉明天皇三年(六五七)有間皇子は紀伊の国の牟婁の温泉に行って、「大変いい場所で行っただけで病気が治る。」と斉明天皇に言った。斉明天皇は大変喜んで紀伊の国の牟婁の温泉に行った。都にいる留守役の蘇我赤兄は有間皇子に斉明天皇の失政について語った。「斉明天皇には三つの失政がある。一、大きな蔵を建て、人民の財産を集めたこと。二、長く運河を掘って食料を浪費したこと。三、船に石を積んで岡にしたこと。」有間皇子は喜んで「我が生涯で初めて兵を使う時が来た。」と語った。有間皇子の立てた作戦は、先ず飛鳥京を焼き、斉明天皇と中大兄皇子が行幸している牟婁への陸路・海路を封鎖するという周到なものであった。
 後日、有間皇子は蘇我赤兄の家で謀議をしたが、有間皇子が帰った後、蘇我赤兄は有間皇子の家を包囲して、早馬で斉明天皇に謀議の内容を通報した。中大兄皇子は有間皇子になぜ謀反を起こしたか尋ねた。有間皇子は「天と蘇我赤兄が知っているが、私は知らない。」と答えた。その後、有間皇子は刑死した。
 日本書紀の説明は以上である

 有間皇子が変を起こした動機だが従来の説明では単に皇位を狙う以外の明確な動機は不明であった。この有間皇子の変は、有間皇子の父親の孝徳天皇が崩御してから4年後の事件である。孝徳天皇の崩御が斉明天皇と中大兄皇子の母子の謀殺であるなら、父の仇討という明確な動機付けがある。有間皇子が立てた作戦、「飛鳥京を焼く」の作戦目標は主のいない首都を占領して、牟婁に行幸中の斉明天皇と中大兄皇子の指揮命令系統の破壊であり、「牟婁の封鎖」の作戦目標は斉明天皇と中大兄皇子の母子の殺害であったと考えられる。斉明天皇は中大兄皇子の傀儡のような見解も一部にあるようだが、筆者は斉明天皇は意志の強い天皇であったという見解である。

 この事件は単純な親の仇討、という問題だけではないと思われる。孝徳天皇・有間皇子父子VS斉明天皇・天智天皇母子は目指す律令政治の政策の差がある。後述するが、現代風に一言にまとめると、孝徳天皇・有間皇子父子の政策は、内政重視で健全な財政を目指す財政均衡主義的で、斉明天皇・天智天皇母子の政策は外征・公共工事重視で積極的に財政投資をする膨張主義的といえる。

 孝徳天皇崩御の後、皇極上皇は重詐して斉明天皇となる。斉明天皇は孝徳天皇の崩御を待っていたかの様に多武峰を石垣で囲み、香具山から石上山への運河工事を開始した。斉明天皇は土木工事が好きで、このほかにも飛鳥板葺宮、飛鳥後岡本宮、吉野宮と宮殿、離宮を造った。また、須弥山を象った庭園を飛鳥寺の西に造る、と日本書紀に書かれている。また、外征にも積極的である。百済救援に失敗した白村江の役の他にも蝦夷に阿倍比羅夫の水軍を派遣して能代、津軽二郡を得た、とある。斉明天皇の政策は積極的に土木工事を行い、韓半島の他、未だ未開の地であった東国や九州・南西諸島に積極的に領土を広げる、という政策である。領土を広げるには未開の地から招いた酋長を饗応して現政権の威信である土木工事の成果を見せつける必要があったのである。

 有間皇子はこの政策を批判した。先の日本書紀から引用した第一に「大きな蔵を建て、人民の財産を集めたこと」と斉明天皇の増税を批判している。「船に石を積んで岡にしたこと」土木工事の着手自体を批判している。「長く運河を掘って食料を浪費したこと」土木工事による国家支出の増加を批判している。この有間皇子による斉明天皇の政策批判は、正に現代の財政均衡主義者が公共事業による財政支出の増加を批判しているのと同じ様である。

 有間皇子の変の顛末は日本書紀にも表面的に記載されている。
 一方、古事記は、有間皇子を大国主神の兄神達、香坂皇子・忍熊皇子と複数の兄弟と衝突して敗死させる、と喩えることにより、別の語りかけをしている。
 一つは、大国主神が母神の庇護を受け、応神天皇が神功皇后の庇護を受けるように有間皇子を敗死させた相手は斉明天皇・天智天皇の母子であること。
 一つは、大国主神に敗北した兄神ともてなかった秋山の下氷壯夫達と同一視して「八十神」とい複数形で表すことにより、女性にもてない父親の孝徳天皇と関連づける。このことにより有間皇子の動機は父親の仇であること。
 古事記は日本書紀に書いていない以上の二点を有間皇子の変について語っている、というのが小論の結論である。