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読書をしていると、断片的に真相めいた話に行き当たることがある。そのつど驚きもし感心も
するのだが、すぐに忘れてしまう。それではもったいないのでここに記録し、皆さんに楽しんで いただく。ネタは書籍、雑誌、テレビなど一応公器に表われたものばかりで、実は秘密でもなん でもない。 三越事件現場の真相
昭和57年の三越事件で商法の特別背任などの罪に問われ実刑となった、元アクセサリー会
社社長の竹久みちさん(79)が平成21年7月死去した。 ![]()
三越事件というのは、三越百貨店の岡田社長が、愛人で納入業者の竹久さんが経営する
「アクセサリーたけひさ」に不当に多額の手数料を支払うなどで自社に損害を与えた事件であ る。
竹久さんは新たに設立した「オリエント交易」を通じて納入量を増やすとともに、人事にも口を
出すされるようになり「女帝」とまで呼ばれるようになった。竹久さんのオリジナルブランド「カトリ ーヌ」は婦人服の主力商品として売り出されていった。
しかし、竹久さんは岡田社長と共謀して三越を支配しようとしていたとまでは言いがたい。竹
久さんは岡田社長の権勢を嵩に増長し、臆面もなく「むさぼり」に励んでいたに過ぎない。この 点、後世面白おかしくスキャンダラスに言われ過ぎているきらいがある。問題は岡田社長の副 社長、専務も置かない独裁と専横にあり、左遷、降格、追放による粛清で有能な役員を次々に 葬っていったことにある。
昭和57年夏、日本橋本店で開催した「古代ペルシャ秘宝展」への出展品47点のほとんどが
贋作であることが発覚し、しかもこのニセ物を仕入れ価格の17倍の価格で販売しようとていた ことが発覚した。この「古代ペルシャ秘宝展」も竹久さんの「オリエント交易」を経由したもので ある。
この分かりやすい大失着を表に立て、反岡田派は昭和57年9月、定例取締役会の幕切れ
で劇的な社長解任のクーデターを起こした。その瞬間、岡田社長が発した「なぜだ」は流行語 になった。
三越に16億円の損害を与え、特別背任罪で逮捕された岡田社長と竹久さんは、平成5年東
京高裁の二審で岡田社長に懲役3年、竹久さんには懲役2年6ヶ月、罰金6千万円の判決が 言い渡された。岡田社長は上告中の平成7年、腎不全のため80歳で死去。竹久さんは最高 裁まで争ったが平成9年に刑が確定し、栃木刑務所に1年6ヶ月収監された。 ![]()
三越デパートで中元歳暮のアルバイトをしていた時代がある。逮捕までの4年間、岡田社長
の暴走が極まった時期と重なるため、今から思うと合点がいくことがある。とは言っても、一介 のアルバイトの身で、しかも地方の支店の事ゆえ、上層部の暗闘など少しも分からない。アル バイトの最後の方は、週刊誌にもいろいろ書かれた時期でキナ臭いものはそれなりに感じた が、それでも解任劇や逮捕は思いもよらないことであった。
三越の、どの支店の経験かは省略する。どの支店だろうとも大差ないだろう。末端の瑣末的
なことばかりになるが、実際に見聞したことの記録も何かの足しになるかもしれない。
「江坂ちゃん、翡翠買ってよ」「ヒスイ?宝石ですか?」「うん、翡翠売らないとだめなんだよ」
「ふーん」
正社員がバイトに翡翠を買えと言ったのは冗談であるが、しばらくして正社員は「外出します」
と断って食品売場を離れた。訊けば外に翡翠のセールスに行った、とのことである。後で分か ったが、硯(すずり)やら何やら売って回らなくてはならないそうである。
その時は、デパートの店員というのは売場に立ってるだけでなく訪問販売もする、という驚き
に注意が向いてしまった。今にして思えば、翡翠だの硯だの、同じ売るにしても妙な物を売るも んだと気づくべきだった。
やがて売場も、風変わりな商品が一画を占めるようになってきた。お酒売場にチリ産ワイン
が並んだ。チリ産ワインなぞ今でこそアニータ・アルバラータさんのおかげて知名度が上がった が、当時はカリフォルニアワインでさえ多少胡散臭く感じられた時代で、「何でまたチリ産?」と 首をかしげた。
そのうち正面玄関のエントランスと、2階に上がる階段前スペースに、クラッシックカー風の微
妙な車が2台置かれた。いや、当時は「微妙」という言葉をこういう文脈で使う用法は無かった な。この車も南米産で、しかもディスプレイではなく売り物だという。
いくら血の巡りの悪い私でも、南米から安物を仕入れて三越の名前で売っていると察するこ
とが出来た。すでに岡田社長の事が報じられてきていたので、ははあこれも社長のゴリ押しに 相違ないと思った。
「カトリーヌ」やチリ産ワインが押しつけられる前段に、5年ほど前からのPB(プライベートブラ
ンド)の開発と導入といった下地があったことも関係する。覚えているだけでも、ウィスキーの 「ハンキーバニスター」や日本酒の「國稀」というPB商品があった。PBで利益率の向上を図る という正論が「カトリーヌ」の批判を封じ、ツケは現場の販売努力に転嫁されることとなった。 ![]()
例のニセ「古代ペルシャ秘宝展」をきっかけに週刊誌がにぎやかになり、事態がはっきりして
きた。
正社員が地下鉄で週刊誌に夢中になって目を通しているのを目撃し、「自分の会社の情報を
週刊誌から得るとは情けない」と思った。これは世間を知らない生意気な感想であった。幸い 口にすることはなかった。30年近くたった今でも、口にしなかった賢明な判断を褒める気持ち がある。数年後、自分が同じような思いで写真週刊誌に目を落とすことになろうとは、いや、差 し障りがあるのでやめておこう。
岡田社長の横暴が、地方の支店にどこまで影響したか分からない。社長の臨店に際しては、
すぐエレベータに乗れるよう押さえっぱなしにして、前主(客)を度外視して案内して回るというこ とはあったが、財前教授の総回診のようなもので、さして珍しいことではなかろう。
当時の三越は毎年売上高が前年を超え、史上最高額を更新している時代であった。私のよ
うな能無しアルバイトの手も借りるほど忙しかった。
朝大量に搬入された商品の在庫が夕方には心細くなり、追加で発注することも頻繁にあっ
た。問屋も心得たもので、終日売場に張り付いて、追加注文があると屋上まで一気に駆け上 がり伝書バトを解き放つ、というのは真っ赤なウソで、実際は公衆電話に飛びついて入荷させ ていた。携帯電話は影すらなかった。
まだ中元歳暮の慣習も残っていたため、売場は連日お祭り騒ぎのような賑わいで、そこに身
を置くだけで血が沸き立つ思いがした。
正月には、社員、パート、アルバイトに至るまで年賀のタオルが配られた。竹久ブランド「カト
リーヌ」の高級品である。素直に喜んだ。「社員差入」か何かの科目で経理して、少しでも在庫 を滅したものと思う。
今ではすっかりお株を奪ったスーパーも、当時は生協くらいしかなく、ダイエーは市街のプレ
出店からようやく郊外へ出店を開始する段階であった。
偶然、まったく偶然だろうとは思うが、絶妙のタイミングでダイエー系列の「オー・プランタン・
ジャポン」が出店準備に入り、三越の社員に声をかけてきた。にやにやしながら「プランタンに 行くつもりだな」と冗談めかした会話が隅で交わされ、実際に何人かはそちらに移ったようだ。
「お上がそう云うんだから、しょうがねえじゃねえか」と開き直った岡田社長の記者会見が悪
かった。人心が離れ、老舗の信用が失墜し、一部の納入業者や配送業者には手を引かれてし まった。後日、これらのいきさつは高杉良や大下英治の経済小説になり、上層部の軋轢はそう いうものであったかと知ることが出来た。
それでも売り上げは右肩上がりの更新を続け、明るい未来しか浮かばない状況にあり、熱気
や勢いの方が強かったと思う。愛人のつまみ食いなどそう悲観したものではなく、ダメージは岡 田社長一代のスリップダウンに限定されたと言ってよいだろう。思えばまだまだ百貨店の強い 時代であった。
デパートが本格的に凋落するのは三越事件とは関係がなく、大型スーパーが台頭するもう少
し後の時代になる。 ![]()
三越事件は現在の目で検証すると、「コーポレート・ガバナンス」つまり「経営者の暴走をチェ
ックする仕組み」の欠如が真っ先に指摘されると思う。
当時の株主総会はセレモニーと言ってよく、経営のチェック機能が働いていなかった。このた
め定例取締役会で経営者の暴走を指摘しても、議事録を開示して判断を仰ぐ先がなく、自分 の首を絞めるだけのあばき損で終わる。
株主総会が有効に機能しないため、やむなく三井グループの会長・社長で構成される「二木
会」などの連携で、岡田社長を糾弾せざるを得なかった。要は商店街のもめごとを「寄合」や 「顔役」が収めるようなもので、社長の暴走も前近代的なら、解決手段も前近代的なものであっ たといえる。
百貨店業界の衰退が、撤退や閉店などの形で明らかになって久しい。三越は、三越伊勢丹
ホールディングスのもと組織再編を行い生き残りをかける。
正社員の店員は目立って少なくなり、店員の機知・才覚による高級感の演出といったことは
昔日のこととなっている。百貨店は「場所貸し業」の傾向がより強くなり、集客狙いに量販店を 入れるなど模索が続いている。 東尋坊自殺の名所の真相
青鈍(あおにび)色の日本海に切り立つ断崖。激しい荒波が打ちつける絶壁。2時間サスペ
ンスのラスト10分、それまで探偵に従ってきた楚々とした美人若女将が、一転して犯行を告白 する舞台が東尋坊だ。
海抜25メートルある岩石は、五角柱・六角柱の安山岩柱状節理群からなる特別天然記念物
である。絶景に感嘆する一方、思いのほか小振りな様子に「えっ、こんなもん」と拍子抜けする 人もあろう。
上から見下ろすと海面ひたひたに岩が見え、素人がどう上手く飛び込んでも岩に激突して助
かりそうにない。そもそも東尋坊の名称自体、ここで死んだ悪僧に由来する。平安時代、乱暴 狼藉を働く東尋坊が、恋敵で同じく悪僧の真柄覚念に言葉巧みに酒をしこたま飲まされ、突き 落とされたのである。 ![]()
ここ東尋坊は、この10年でも257人、年間25人以上自ら命を絶つ「自殺の名所」である。2
週間に1人の割合と考えれば尋常な数ではない。しかも地元はそれを売り物にしているところ があり、自殺防止など表立って口に出来ない空気がある。自殺者が減れば「名所」の一つを失 冠し、単なる景勝地に下がってしまって集客に影響するのだ。
観光地としてみた場合、東尋坊は観光客が一巡りするだけの通過型観光地である。冒頭で
も触れたとおり、意外と小規模かつ単調なもので、宿泊を伴ってまで観るものは無く、滞在型 観光地として耐えうる所ではない。
土産物を売る商店街は、いわゆる出店商店街、早い話が「通い」のため、午後4時頃には
次々とシャッターが閉まり、物寂しくゴーストタウン化する。ところがこの太陽が沈みかける日没 前後の1時間が、人の心を塞ぐ最も危険な時間帯となる。 ![]()
自殺企図者は大抵、岸壁やベンチに何時間も佇み海をじっと見つめてから事を起こす。傍か
ら見ても一目で分かる。
では、声をかけて思いとどまらせたらどうなるだろうか。仮に、自殺企図者を発見して警察に
通報したとしよう。あるいは、警官が直接見つけてもいい。
警察は「警察官職務執行法第3条」によりすみやかに保護して、家族に引き取らすか、公共
福祉機関に引き継ぐこととなっている。では引き継いだ都道府県市町村はどうするかというと、 「生活保護法第19条」により「急迫した状況」にあるときは、急迫した事由が止むまで保護する ことになっている。 ![]()
ところがそうはならない。
それは「急迫」の定義が「行旅病人及び行旅死亡人取扱法」で、行き倒れて動けない状態を
指すからである。実際のところは、予算の関係もあって他府県者まで救う余裕がないという事 情から、無理やり「行き倒れ法」を持ち出している。結局500円くらいの交通費を支給されて、 住所地へ帰れと追い払われることになる。 ![]()
平成16年4月、警察を定年退職した茂幸雄(しげゆきお)氏がNPO法人「心に響く文集・編
集局」を立ち上げ、文字通り水際での自殺防止活動に取り組んでいる。
茂氏は、サポートセンター「心に響くおろしもち」という茶店を東尋坊タワーの下に開き、ボラ
ンティアスタッフとともに毎日パトロールを行っている。活動を始めてから5年ほどで、自殺企図 者と遭遇し再起を支援した人数は200人近い。
単なる声掛けと違うところは根本原因の解決にあり、多重債務者は自己破産させ、当面の休
息が必要な者には住居を提供し、職の無いものは支援者を通じて住み込みの職を探す、とい った具体的な支援にある。 ![]()
しかし、活動を快く思わない地元からは一切の支援が得られない。得られないどころか、地
元観光協会や商店街から活動を妨害する署名運動など、さまざまな圧力を受けてきている。
しかもその反対理由は「ことさら自殺を強調する自殺防止活動は、東尋坊のイメージを損なう
ので、活動は目立たないよう控え目にしてほしい」という、よくもまあヒネリ出したものだと感心 するほど不思議なものだ。
本当に死を決意した人は、その場ですぐさま事を起こすだろう。わざわざ東尋坊まで来る人
は、自殺を止めて欲しい、出来れば生きたい、という気持ちがある。それが証拠に、茂氏が関 わった人は、その後自殺することなく立ち直っている。ただ、東尋坊まで来た人は、思い詰め、 追い込まれ、視野が狭まり、正常な判断や行動が取れなくなっていて、自己破産や生活保護 申請が自力で出来る精神状態になく、支援が必要なのである。 ![]()
直接茂氏に話をうかがったが、今でも地元の反発は強く「選挙にでも出たいんだろう」「売名
行為」「ええカッコしい」といった陰口を言われ、土産物店でサポートセンターの場所を訊いても 「さあ」と応えないそうである。 ルイ15世機密局の真相
(ネタバレ注意 : チェスタトン「木曜日の男」、平松伸二「ブラック・エンジェルズ」を未読の方はご注意ください)
推理小説のアイデアが出尽くしてから相当経つ。アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ディ
クスン・カーら世界的大御所がいろいろなパターンを書き尽くしてしまったためだ。それでも毎 年ミステリーが量産される。歌謡曲の新曲が次々出るのといっしょで、符割とリズムと歌詞の 組み合わせは無限らしい。
トリックにも若い頃はいちいち驚いたものだ。寝転んだ体勢から、あっと驚いて半身を浮かせ
たこともある。しかし歳を重ねるにつれすれてしまい、こりゃ偶然に頼り過ぎているな、これは 残りページの厚さからすると実行犯は誰かに繰られているんだろう、手垢のついた女装もん だ、こいつが犯人だろうがどう辻褄を合わせるんだろう、作者のさじ加減ひとつで成立する密 室じゃないか、ファンタジーに逃げてはいかんな、サスペンスとして成立しているからよしとする か、などと読めてしまう。
探偵役も幼児や人形、犬や猫はもう珍しくなく、最近読んだもので木製の椅子が探偵というも
のもあった。まあ小説だから、何があってもそれはそれで構わない。
さて「意外な犯人」で、善玉の首領と悪玉のボスが実は同一人物だった、というのが昔からあ
る。
たとえば、警視総監じきじきの指示で刑事が陰謀団を追い詰める。さまざまな妨害を乗り越
え悪玉のボスに辿り着き、対峙する。「フッフッフ、よくここまで来たな」と悪玉のボスが振り返る と、なな何と警視総監その人じゃあ〜りませんか、とここで読者は仰天する、という趣向だ。
これは鉄板ネタで必ず驚かすことが出来るかわり、相当の筆力がいる。この例でいえば、警
察トップの仕事と悪の陰謀団の運営を一人にやらせることになるので、時間的、物理的、心理 的辻褄合わせと、それを納得させる描写にかなりの困難がともなう。「そんなバカな」と思われ たら身も蓋もないのだ。 ![]()
チェスタトン「木曜日の男」は一種の不条理小説で、筋立てよりも比喩暗喩警句に価値があ
る。しかしストーリーも「意外な犯人」を踏襲していて、先々の展開の興味から読み切ってしま う。
簡単にあらすじを記すと、売れない詩人のサイムは、警官とのいざこざから逆に見込まれ、
刑事にスカウトされる。姿をはっきり見せない部長(すでに怪しいでしょ)から密命を与えられた サイムは、爆弾闘争も辞さない無政府主義者の地下組織に潜入する。
その組織には、怖ろしい「日曜日」という暗号名の大ボスと、「月曜日」から「土曜日」までの暗
号名の幹部クラスの闘士がいる。秘密の会合で、前任者の死亡により空席だった「木曜日」の 選挙において、サイムは巧みな弁舌により新「木曜日」に選ばれる。
サイムは散会後「金曜日」と対峙し、「金曜日」も実は刑事の変装であることを知る。「金曜
日」が仲間だと知ったサイムは2人で「土曜日」を攻めると、実は「土曜日」も刑事の潜入だとい うことが判明する。この調子で次々と幹部を攻め、結局「日曜日」以外は全員潜入中の刑事だ ったことが分かる。
全員で、逃げる「日曜日」を追撃し、逆に「日曜日」の屋敷で捕まってしまう。しかし、全員晩餐
の席で「日曜日」が警察の部長である(うすうす気づいていたね)ことを告げられ、さらに小説は 哲学的、幻想的な展開をみせて終わる。
「意外な犯人」のパターンではあるが、不条理小説だから許せるのであって、推理小説なら早
い段階で破綻してしまっている。 ![]()
「木曜日の男」は知らなくても、漫画が好きな方は少年ジャンプ連載平松伸二の「ブラック・エ
ンジェルズ」をご存知だろう。
清廉で高潔な鷹沢神父は、悪の組織竜牙会を阻止すべくブラック・エンジェルという必殺仕事
人のようなチームを結成し、竜牙会を追い詰める。ブラック・エンジェルのメンバーは主人公の 雪藤ら、神父に命を捧げ正義のためなら手段を選ばない戦士たちである。
雪藤は神父の指揮のもと死闘の末、仲間を次々に失いながらも竜牙会のボスに肉薄する。
ところがそのボスの正体は何と鷹沢神父その人であった、という誰もが予想し得なかった衝撃 の結末は、少年ジャンプを手にした純情な少年達を文字通りジャンプさせてしまった。
しかしこんな善玉と悪玉のボスが実は同一人物、なんていう荒唐無稽な展開は、小説や漫画
などフィクションの世界にしか存在しないに決まっている、生身の人間に、敵対する両組織のト ップが務まるわけがない、と思っていたら、事実は小説より奇なり、現実の世界でも似たような ことがあった。 ![]()
その人の名は、フランスのルイ15世。太陽王ルイ14世と、マリー・アントワネットと共に断頭
台の露と消えたルイ16世にはさまれ、64歳で没するまで58年以上も在位していたにもかか わらず、妙に影の薄い王である。
ルイ15世は、自ら任命した外務大臣や大使に外交政策をとらす一方、「王の機密局」という
秘密外交機関を設け、自らの政府の背後に回って公式外交を挫折させたり出し抜いたりさせ ていた。
機密局は王の私金でまかなわれ、メンバーはド・ブロリー伯爵、外務省高官テルシエ、従兄
のコンチ王子、亡命英国人ダグラス・マッケンジー、女装の美剣士デオン・ド・ボーモンと少な い。人数は限られているが、表の外務省の情報は王を通じて全て筒抜けなので、十分に対抗 することが可能であった。
当時フランスは英国と敵対関係にあった。英国はロシアと同盟関係にあり、フランスはプロイ
センと同盟関係にあって、表の外交関係は均衡を保っていた。機密局はロシア女帝エリザヴェ ータに直接働きかけ、女帝とルイ15世に友好関係を樹立し、強大化する外交官僚を出し抜き 仏露双方で王権の強化を図った。機密局の陰謀は成功し、秘密裡に親書が交換され国際間 のパワーバランスが揺さぶられるという成果を挙げる。
また、対立する英仏間に公式の大使をあて調停を進める一方、機密局には英国王ジョージ3
世の軍事機密を盗むよう命じ、書類盗写に成功した。 ![]()
ルイ15世がみずから認証した表の公式政策を、自分の私的機関で裏をかきつづけたのは、
権力が王権から官僚へ奪われつつあったため、王権の復権を狙ったものと言われる。しかし そもそも王権が衰微したのは、先王ルイ14世時代から続く借財と、ルイ15世が政治に無関心 で、寵臣ショワズールや愛妾のポンパドゥール夫人、そしてその後に続くデュ・バリー夫人に政 治を牛耳られたためである。
王は国家のためという崇高な理念で機密局を用意したのではなく、退屈な公務の気晴らしと
して子供っぽい遊びを思いつき、「玩具」として設けたのである。王は機密局のメンバーを相手 にするときは変名で呼び合い、暗号文書を作成し、タバコ入れを二重底にして隠すなど大いに 楽しんだ。少年探偵団やスパイごっこと同じレベルである。
機密局のメンバーはそれぞれ野心を内に秘め、このいささか幼稚な王に調子を合わせつけ
入り利用した。
ところがフランスの財政が悪化の一途をたどり、王権の衰退がはなはだしくなると、ルイ15
世はこの遊びを続けることもあきらめざるをえなかった。機密局のメンバーは秘密を守ることを 条件に年金が支給され、ルイ16世の頃もしばらく支給されていたが、フランス革命を控えた混 乱でいつしかうやむやになり生活に困窮した。 オックスフォード留学の真相
皇太子殿下は、1983年6月末から85年10月初旬の2年4ヶ月間、オックスフォードに留学
された。ちょっとピンとこない方のために和暦でいうと、昭和58年から60年のことである。年齢 は23歳から25歳くらいの時で、学習院の大学院で1年ほど研究生活をおくり、そのまま旅立 たれた。留学は皇室の新しい伝統というべきもので、後年秋篠宮が、同じくオックスフォードに 留学している。
最近、高円宮承子(つぐこ)さまが自分のホームページに、エディンバラ大学でのはじけた様
子を掲載し、週刊誌や女性誌に恰好の話題を提供してしまったが、殿下の留学はそれとは違 い、折り目正しいものであった。 ![]()
殿下はロンドンに着くと、平原駐英大使公邸に12日間滞在し、エリザベス女王はじめとする
王族への表敬や、オックスフォードでの指導教授への挨拶をすました。次に、オックスフォード 郊外にあるトム・ホール大佐宅に3ヶ月ホームスティし、英語研修を受ける。
ホール大佐という人は、女王に武官として仕える一方語学学校を経営し、日本にもスクール
を開いている。直接の指導は日本でも教鞭をとったことのあるコーカス夫妻が当たり、午前午 後2時間ずつ交代でレッスンする。英会話の本とBBCラジオニュースの聞き取り、新聞の読み 取り、そして英文日記が宿題で課せられる。ホール大佐は、気晴らしを兼ねて外へ連れ出し、 切手の買い方やバブでのビールの注文の仕方などを教えてくれた。
ホームスティの間にも、バッキンガム宮殿の園遊会に招かれたり、スコットランドへ旅行に行
ったり、かなりハードスケジュールをこなしている。
ホール大佐宅のホームスティ終了後、同じくオックスフォード郊外の富士参事官宅で一泊し、
留学先であるマートン・コレッジ(日本風に言うとマートン大学大学院か)の寮に移った。富士参 事官は殿下の留学に合わせて家族ごと日本から同行してきた侍従で、2年間オックスフォード に家を借り、いろいろ殿下のお世話をする一方、大学が休暇の時の宿泊先になるなど、家族 的な団欒を提供する役目を担っていた。
マートンでの部屋は、最上階である3階の端に位置し、広い書斎と寝室と浴室からなり、隣は
警護官の部屋になっている。警護官はロンドン警視庁から選ばれた2名の警察官で、1週間交 代で警護にあたる。警護官とはいえ気の利いた人選だったとみえ、買い物や史料読み、英文 のチェック、図書館の手続き、運転手、ジョギングの伴走など、事務官のような役割をしてい る。殿下は、アイロンの掛け方まで警護官に教わっている。室内の清掃は、ご主人が警察官と いう婦人が簡単に行うが、ここでも人選に配慮があることが分かる。
留学先の選定は全て英国政府に一任しており、学長の人望やオックスフォード最古のコレッ
ジの一つであるという歴史、友達を作るのに適した規模など協議の上、マートン・コレッジが選 ばれたとのことである。
研究の指導は、マサイアス博士とハイフィールド博士が行い、調べる本や史料を指示したり、
小論文を評価したりする。論文には自分の解明したことや意見が入っていなくてはならず、そ れでなくとも英文でまとめるだけで、かなりの重荷である。
研究内容は「テムズ川の交通史」で、1750年から1800年間のテムズを輸送された、モル
ト、農産物、工業製品、染料、明ばん、サイダー、ワイン、植民地由来の砂糖、タバコ、米、茶 など35種類以上にも渡る物資の移動である。これを、「オックスフォード州四季裁判所記録」 の税の記録から読み解くのである。また、「ジャクソンズ・オックスフォード・ジャーナル」という当 時の週刊地方新聞を一枚一枚たどって、要点をカードに書き出すこともする。殿下はさらにオ ックスフォード州文書館、ボードリー図書館、ラドクリフ・カメラ(ボードリー図書館分室)、バーク 州文書館、バッキンガム州文書館(車で1時間かかる)に通い、保険会社の記録などあさる。
なぜ、1750年から1800年間に限定したかというと、河川に「パウンド・ロック」なる水門が
発明され、飛躍的に物資の輸送が活発化した時期であるのと、あまり昔の史料だと全てラテン 語で読めないという事情がある。学習院で、1445年の「兵庫北関入船納帳」という現在の神 戸港の関税記録を研究していた、というベースもある。
それにしても、日本語でも江戸の古文書など容易に読めるものではないが、それの英語版を
読むのだから、かなりハイレベルである。後に殿下の論文はオックスフォード大学出版会に出 版してもらい、名誉法学博士号をもらっている。 ![]()
大学生活はこれだけではない。学生には「ヒロ」という愛称で呼ばれ、ポテトチップスとビール
で車座になって雑談したり、弦楽四重奏にヴィオラで参加したり、ボート、テニス、ゴルフ、競 馬、スカッシュ、スキー、登山を楽しんでいる。プリンスということは知られているので、何でもか んでもお誘いがかかる。
なあんだ我々と変わらないな、と思ってはいけない。スキーといっても、近場でするわけでは
ない。リヒテンシュタインの皇太子殿下邸に滞在したり、ルクセンブルクの大公殿下とスイスで 新雪スキーをするのである。競馬場は女王と同じボックスで観覧し、テニスはウィンブルドンで ケント公の隣に座り、コナーズ対マッケンロー、ベッカー対カレンを観戦するのである。
我々と変わらない、と思ってもいいのは、オックスフォードで初めて銀行に行ったこと、カード
で買い物をしたこと、ディスコに行ったことなどである。また、ジーンズなどラフなスタイルで出歩 き、日本人観光客に見つかって「ウッソー!(確かに流行っていたね)」と言われたりしていたこ とである。
そうこうしているうちに、両親(陛下だ)、清子さま(今は黒田さんだね)、秋篠宮が別々に訪ね
てこられたり、大忙しである。なにせ2年の間に、オックスフォードを拠点に13カ国訪れてい る。のんびりした留学とはほど遠い、目まぐるしいものであったと思う。
殿下はご自身のあと、皇統は浩宮から秋篠宮に移り、相撲でいえば一代年寄みたいなこと
になっているが、雑音には耳を貸さず人生を楽しまれてほしい。 美術工芸品通信販売の真相
日曜日の新聞の全国版によく載っている、美術品の通信販売。掛軸、日本画、油絵、版画、
彫刻、陶芸。たいてい巨匠の作品の複製品で、それはちゃんと断ってある。まあ、わざわざ複 製と断らなくても、価格からしてレプリカに決まっている。むろん複製とはいえ、美術品を楽しむ のは良い趣味といえるであろう。 ![]()
不思議なのは、広告に「限定20」と限定数が打ってあることである。新聞を探して確認いた
だきたい。
たまたま手元にある広告を例にとると、掛軸が一幅4万8千円である。限定20なら、全部売
っても96万円にしかならない。不思議でしょう、分からない?
考えてもみてほしい。
全国紙に広告を打つには、それなりにお金がかかる。今目にしている広告でも、5段1/2と
いうサイズは、朝日、読売、毎日、日経で比較しても、およそ下は390万円から上は840万円 までかかる。仮に最安値の390万円で出稿したとして、原価やコストを無視しても、82本は売 らないと広告費が出ない。しかも一紙ではなく、各紙に同じ広告を掲載しているようなので、数 千万円もかけているはずだ。好意的に解釈して、一紙ごとに「限定20」としても巨額な赤字で ある。
一応、別な業者の広告も見てみたが、こちらも同様で「限定20」とある。しかもこちらは7段
サイズなので、およそ1000万円から2360万円広告費がかかる。 ![]()
定期的に広告を打ってるところをみると、それなりに利益があるはずである。まあ、「限定」と
いうのは売り文句で、おおげさにすれば読者があわてて注文してくると思ってやっているのだろ う。それはいいとして、商品は、職人が1人で何百本も描けるわけがなく、学生なんかが流れ作 業で描いてる。業者によっては中国、東南アジアで描かせている。複製といっても印刷というわ けにはいかず、一応肉筆にしなくてはならないのだ。原価やコストは抑えに抑えているだろう が、0円で済むということはない。
えっ、何?「限定20」って、お一人様20本までの意味だって。それはどうかなあ。「限定200
本の内、今回領布は限定20本」なんて断ってるのもあるから、そんなトンチで逃げられないだ ろう。 恐山イタコの真相
「あの世」を取材したいと思い恐山に登った。青森から野辺地で乗り換え、JR下北駅で降り
た。下北駅が終着駅と普通は思うだろうが、終着駅はもう一つ先の大湊駅である。
下北の駅舎はやけに小さい。鉄道オタクが、ネットで仕入れた駅の看板を自宅に掲げている
感じである。もちろん、全国にはもっとささやかな駅舎や、かろうじて屋根だけがある駅も珍しく ない。下北の駅舎がやたら小さく感じられるのは、ここがむつ市の玄関駅ということを知ってい るからだ。 ![]()
椿事は駅前で起きた。
駅前に下北交通の看板が立っていて「7月1日からバス乗場は移動しました」とあり、駅前か
ら100mほど行って左に曲る矢印がかいてある。4、5人の観光客が矢印にしたがって早足で 進んでいくのが見える。早足なのは、列車が2時間に1本しかないので、今乗ってきた列車に 接続するバスを逃がすとエライ目に会う、という勘が働くからだ。
半分ほど来たところで「バス停はこのへんかな?このへんって聞いたんだけど」と叫んでいる
老婦人が道の反対側にいた。左手にキャスター付きのカバンを引きずり、スポーツバックを肩 にタスキに掛け白杖を突いている。「バス停?」「バス停がこの辺にあるって」「どこに行くの?」 「恐山」「恐山、ああはいはい」道を横断し、腕に手を沿える。霊山に入るという気分が善行を 苦にしない。
我々がバス溜まりに着かないうちに動き出したバスが横を通過しかけたので手を上げて制
し、「恐山ですか」と訊く。白杖を連れているので大胆である。「恐山は向こうのバスです」「どう も」バス溜まりに残っているもう1台のバスを目指す。
老婦人と再び歩き始める。目はクリクリと開いているが、全盲ではない印象があるものの、見
えてはいないようだ。頭髪は真っ黒に染めている。バス停が移動したことは承知していたようだ が、耳で聞いただけでは新しい場所が分からないのも仕方が無い。
信号で道を渡りバスに乗せる。運転手が引っ張り上げるようにして、すぐ後の席に座らせる。
ステップに足を掛けながら、後ろに顔を向け「どうもありがとうございました」と大きな声で礼を 云われた。その後に続いて自分も乗り込み、中ほどに座る。
「おばあちゃんイタコさんかい?」「んだ」運転手に老婦人が応える。
「えっ」心の中で仰天する。わずかな距離ながら、正真のイタコの手を引いていたことに気づ
かされたのだ。
バスが出た。途中、むつターミナルで拾った客が「おはようございます」とイタコに挨拶して世
間話を始めた。顔見知りがいてこちらも安堵する。
終点恐山に着き、750円払う。「イタコさーん、荷物運んどくから」「ありがとー」休憩所の人が
声を掛ける。もう見知った人ばかりで完全に安全圏だ。 ![]()
イタコのことは忘れて、太鼓橋へ150mくらい歩いて戻る。さっき、バスで横を通過してしまっ
たのだ。この太鼓橋は三途の川にかかる朱に塗られた8mほどの木製の橋である。バスで一 気に「あの世」に来てしまったため、「あの世」側から三途の川を見ている。あたりは硫黄臭に 満ちている。川の向こうは現世だ。
三途の川は、宇曽利山湖(うそりやまこ)から流れ出ている。硫黄による酸で、動植物がほと
んどいない。酸に勝つように変異したウグイが、わずかに棲息している。そのウグイが何を食し ているかは分からない。恐山のオソレは、ウソリが転訛したものだ。
総門で500円払い中に入る。右手に寺務所があり、左に粗末なトタン屋根の建物がある。建
物の前に「イタコの口寄せ」とイラスト風にかかれた安手の看板がある。そもそも寺とイタコは 正式には無関係である。しかしイタコは名物だけに、全くの無関係と言い切るのも冷たすぎる。 寺と宿坊、もしくは寺と土産物屋の関係と云って差し支えなかろう。 ![]()
山門をくぐると地蔵殿があり、そこの左手から地獄に見立てた岩場が広がる。先ほどの三途
の川とは比べ物にならない濃い硫黄臭が立ち込め、ぐつぐつと煮立つ音がする。傍らに積み 上げられた小石は軽石である。気泡でスカスカして角張っているため、積み上げても膚が噛み 合って容易に崩れない。血の池地獄とか無間地獄と名づけられた景色は、地獄の箱庭といっ た風情である。無造作に小銭が置かれているが、アルミ貨は酸にやられて黒ずみ、字も消え かかっている。 ![]()
観光客は岩と岩の間の踏まれて出来ただけの小道を行く。地獄のテーマパークを巡るようで
ある。だだでさえ荒涼とした景色に、さらに気を滅入らせる物がある。風車である。セルロイド 製のけばけばしい色使いの風車が、狂ったように回っている。風車は土産物屋で400円で売 っているが、総門の外にあるため、その場で思いたって買って供えるということが出来ない。こ のため、風車がやたらたくさんあるわけではない。
不意に宇曽利山湖畔に出る。極楽浜と称される横一文字の白い砂浜と、薄いエメラルドの湖
水、向こう岸の水際の線とさらに向こうの山々。山々に注ぐ筋のような日の光。一転して極楽 浄土の景色である。地獄から救い上げられた観光客は、当惑のあまり呆げた表情を浮かべ る。
三途の川の時に見た湖と同じ湖なのだが、湖に突き出した自然の突起によって、上手い具
合に左手の眺望が遮られ、極楽浄土の様だけ切り出されて眼前に広がっている。
生物のない景色は人工的で、西洋の宗教画のようである。ルネサンス以前の遠近法が確立
される前の、どこかバランスを欠いた大仰な、フレスコ画というのか、そんな宗教画のようであ る。 ![]()
向こう岸からイエスが水面をすべるようにやってくる。ここはガリラヤ湖畔だろうか。イエスが
こちらに進んで来るのが見えているのだが、そのくせいっこうに近づいてこない。先ほど見た地 獄は、イエスが修行した一木一草もないユダの荒野だったのだろうか。
妄想を振り払い、湖に指を浸して味見する。無味である。無臭かどうかは、とっくに硫黄に慣
らされているので分からない。
地獄と極楽を一巡りすると、自然に山門の前に戻るようになっている。そういえば本堂がな
い。「供養の道場」というものが本堂と呼ばれているが、イタコの口寄せ場と棟つながりの粗末 な建物のことでいわゆる本堂ではない。恐山は、むつ市内の円通寺の所管と何かで読んだこ とがある。そちらに本堂があるのかもしれない。 ![]()
さてイタコの口寄せ場であるが、思い切ってすりガラスの入った引戸を開けてのぞいてみる。
団体客の宴会が2つ取れそうな広間で、客が並んでいる。大祭前なのでイタコは一人しかいな い。朝、手を引いたイタコである。そのイタコの前で三人連れのご婦人が話を聞いている。その 後に二人連れ、その後に三人連れが待っている。静かにその後につく。
三人連れのご婦人でも、三人いっぺんに口寄せするのではなく、一人一人順に口寄せしてい
る。まず、誰を呼んで欲しいか訊き、続柄と何時頃幾つで亡くなったか訊く。そして、ごにょごに ょ何か云った後、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏を2度唱え「今日はよぐ来でくれた、あり がとなー」と始める。テレビでは、唸ったり奇声を発したり、手を合わせて膝立ちで伸び上がっ たり、甚だしいのになると昏倒するフリをするようなのがいるが、そんなことは一切ない。それ どころか、声の調子すら変えず、男性っぽく低い声で語ることもなく、ごく普通に素の話し方で 語る。
話の内容はだいたい同じで「今日はよぐ来でくれた、ありがとなー、また来でおくれ。お前のお
蔭で安心すていられる、天命にはさがらえずこっつさ来だが、いづもお前を見守っでいる。たま には揉んで貰ってゆっぐり休め、帰るどきはころばねよう足元さ気いづけでけれ、何か訊ぎだ いこどはねが」といった感じだ。客のご婦人は、冒頭の「今日はよぐ来でくれた」というところで 早くもハンカチで目をぬぐいながらすすり泣いている。
ご先祖様が話しているのか、物分りのいい年寄りが話しているだけなのか区別はないが、も
うそんなことはどうでもいい、という気になる
謝礼の金額は分からない。壁のどこにも料金表のようなものは貼っていない。お気持ちでよ
い、ということだろう。まあ、5千円か1万円が妥当な雰囲気だ。
順番を待っていたがすぐ離脱した。まだまだ時間がかかりそうなのと、朝の者だと分かってお
礼の言葉を云わせるような展開が嫌だな、と思い直したためである。 ![]()
戦前、下北半島の各地にイタコがいた。恐山に集まるようになって有名になったのは、意外
にも新しく戦後のことである。
イタコは目が不自由だったり、身体に障害があって野良仕事が出来ない者がなった。貧しい
時代、家や村のお荷物だった者がイタコになって、姑にいじめられる嫁や子を失った親など に、ご先祖さまに成り代わって慰めの言葉をかけたのである。障害により身の置き所のない思 いで生涯を過ごしてきたイタコの言葉は、慈雨のように心に染みた。イタコは貴重な現金収入 を得て、生活の足しとした。暗黙の了解のもと、互いに助け合い慰め合って生きてきたのであ る。
イタコは霊能者でも霊媒師でもない。ましてやインチキなどではない。どん底の境遇に置か
れ、人一倍心の痛みや悲しみを察することのできるようになった人達なのである。
恐山を降りた。イタコが本格的に集まる大祭に向けて、目の不自由なイタコにもう少し配慮さ
れるよう下北交通にメールを出した。 洋服の青山「2着目1千円」の真相 ![]()
平成18年8月に夏物1着、合物1着、礼服1着のスーツ計3着を一挙購入という大散財をし
た。しかしここ青森は一向に暑くならず、夏物は一度も手を通さないうちに冬がきた。
11月にあわてて冬物を買いに行った。このときは、色形サイズの全く同じスーツを2着お買
い上げである。2パンツスーツだったため、同じズボンが4本も揃った。こんな気違いじみた固 め買いをしたので、店長にすっかり覚えられ名刺交換もした。
一度に何着も買ってしまうのは、2着目が1千円だからである。2着目が1千円なのに、1着
だけ買って帰る人はいない。「2着目1千円」というのは、正確にいうと、高い方のスーツの料金 にプラス1千円で安い方のスーツが買えるのである。
わかりやすい例をつくると、3万円のスーツをA、4万円のスーツをBとしよう。AとBを別々に
買えば7万円である。ところが同時に買えば、4万1千円ですむ。とここまではいい。
ところがである。
8月に3着目を迷ったところ「3着目は半額になりますよ」と言う。5万円の礼服だったら2万5
千円で買えるのである。2着目を1千円で手に入れ気分がいいとろで3着目が半額と聞かさ れ、何か変だなと感じつつ、どうせ買うなら今買っちゃえとなってしまった。
さらにところがである。
11月にスーツを選んでいると、気づいた店長が走ってきて、「足して2で割ってプラス1千円
でいいですよ」と耳打ちする。店長の裁量があるのか、顔見知りになると得だな、とホクホクし つつ2着お買い上げた。
あれっ、やっぱり変だな。こりゃ手の込んだ「半額セール」じゃないか、と気づいた人は賢い。
しかも高い方のスーツに引っぱられて半額よりは高く買い、さらに1千円つけてやるのだから、 何とかに追い銭である。
ではなぜ最初から単品を半額に価格設定しないかというと、2着いっぺんにさばくためといっ
た理由のほかに、1万円引とか5千円引といった割引券を使われないようにするためである。 下取り券や割引券を使うより、「2着目1千円」の方がお得なように設定されているのだ。
それにしても、スーツが安くなった。就職活動時代、社会人駆け出し時代、ふた昔前のことに
なるが、当時はもっと高かった。背広といえば大枚5枚が飛んでいくイメージが頭にあった。 それがどうだ、5万円あれば2着買える。バブルの一時期を除いて、ずいぶん安くなったが、 これはひとえに青山商事の青山五郎氏の奮闘による。
昔の紳士服業界は「委託仕入れ方式」が商慣行となっていた。早い話が、売れ残り返品方式
である。百貨店は売れ残りリスクを負わないかわりに、返品処理コストやメーカーの派遣販売 員コストを仕入価格に乗せられる。
たとえば、百貨店は9月に冬物を2万円で100着仕入れ、50着売れ残ると2月に返品する。
この2年落ちの50着は、翌年の9月に4割落の1万2千円で再び卸される。結局百貨店は2年 にわたって平均単価1万6千円で仕入れることになる。
ところが青山は全品買取制で返品リスクがないため、初シーズンから1万5千円で仕入れる
ことが出来る。初シーズンだけ見れば、仕入れ価格に5千円もの差が出来る。
さらに普通、百貨店の販売価格は仕入れの5倍程度なので、2万円で仕入れると10万円の
販売価格で店頭に並ぶ。これに対し青山は、仕入れの2.1倍程度で販売できる。1万5千円 で仕入れたら2.1倍の3万1500円で売っていいのだ。百貨店が10万円で売るスーツを3万 1500円で売れるなら、「2着目1千円」もおかしな話ではない。
かたや5倍、かたや2.1倍の差は、地価と人件費の差である。
百貨店の一角は、坪単価は高く、スペースは極端に狭いため、品揃いも十分ではない。つい
でに立ち寄る冷やかしの相手をするための販売員も必要である。
しかし青山のような郊外店は、土地を借りるのに坪がどうのこうのでなく、農地一反いくらのよ
うな世界で驚くほど安い。しかもそんなところまで車で来る客は、何らかの購買意欲があるわけ で、余計な接客をせずにすみ人件費を抑えることが出来る。
縫製工場に注文する際、百貨店はスーツ60着分に当る生地3反を最低ロットにするケース
が多いが、青山は全国に674店舗あるというスケールメリットを生かし、1度に生地1千反とい うロットで注文する。1千反あれば、1万6千着から2万着取れる。発注単位が三桁も違うの だ。当然仕入れ価格も大幅に下げられる。青山は年間252万着売りさばくため、このような注 文も可能なのである。
道路沿いで「青山」の看板を目にしたあと、しばらく行くと「はるやま」が見えてきた、という経
験をお持ちの方は多いだろう。かつて青山五郎氏が仕入れのノウハウを教えた「はるやま」 が、青山に狙いを定めて出店し、追撃してきたのである。局地的に「はるやま」に負ける店舗も 出はじめた。青山五郎氏は下から上がってくる報告書の虚の部分に気づき、陣頭指揮のもと 店長の意識改革を行なった。新生青山の効果はしだいに表れ、「はるやま」を死闘の末突き放 すことに成功した。
青山の成功を見た紳士服業界がこぞって郊外店に流れるなか、銀座、神田、飯田橋、大阪
日本橋、梅田など都心に出店を開始した。目の覚めるような逆張りである。都心では金融機関 の統廃合でできた余剰店舗が生まれていて、次から次へと青山へ賃貸物件が舞い込んできた のである。
現在、青山が占めるシェアは20%程度。これが25%に達すれば、メーカーから価格決定権
を奪うことが出来る。
順風満帆のようだが、心配事もある。平成17年に青山五郎氏は会長に退き、息子の青山理
氏が社長になった。青山は、青山五郎氏の奇抜な発想と強烈な使命感で持っていたようなとこ ろがある。いつの日か天命もつきよう。その後も勝ち続ける保証はない。
※その後
平成20年1月15日、青山五郎会長(77)が肺炎で死去。ご冥福をお祈りします。
![]() 青森県新郷村キリストの墓の真相 ![]()
小学生の時、少年サンデーに世界の不思議な伝承が載っていて、キリストが日本で死んだと
出ていた。
中学生の時、このサイトともリンクしているkoenさんに、青森の戸来(へらい)村の盆踊りの
囃子言葉は古代のユダヤ語で、ユダヤ人が聞いたら意味が分かると教えられた。
長い間気にかかっていたが、大人になって多少なりとも理詰めで物が考えられるようになる
と、現地を見るまでもなくデタラメと推測できた。それでも縁あって青森に流れ着いたのを機 に、キリストの墓を訪れてみようという気になった。
物事の順序として、まず日本のキリスト伝説を簡単に紹介する。
『キリストは21歳の時に天啓を受け、家業も家も捨て行方不明となり、33歳の時に忽然と表
に現われ、天国を語り神を説いた。この空白の12年の間どうしていたかというと、キリストは日 本海沿岸の橋立の港に上陸し、越中の国にいた尊き方の弟子となり、日本語や文字を習い修 行をしていた。当時日本は第十一代垂仁天皇の御代である。
キリストは11年間の修行を終え、日本を去り、モナコに上陸してユダヤに戻り、新約聖書に
あるような活躍をした。
やがてキリストの主張が、ローマからの独立やユダヤの再興をあきらめ、精神的な幸福を説
くものであることに気づいた民衆はキリストに幻滅し離れていった。ユダヤ人衆議会の権威を 無視し続けるキリストを危険視していた大司祭カヤパは、この機を逃さず民衆を焚きつけ、ロ ーマ帝国の知事ピラトを巧に恫喝し、キリストをゴルゴダの丘で磔刑にしようとした。
しかしながら、十字架についたのは身代わりとなった弟イスキリであった。難を逃れたキリス
トは弟子達をともなって、北欧、アフリカ、中央アジア、中国、シベリアを転々とした。
シベリアからアラスカへ渡り、北米、南米を一周してから、4年目の2月26日再びアラスカか
ら船に乗り、今の青森県八戸港に上陸、名を「十来太郎大天空」と改め定住した。ユミ子という 日本人をめとり三女をもうけ、西暦81年4月5日106歳で亡くなった。
住んでいたあたりは、ヘブライが転じて戸来(へらい)となった』
![]()
(キリストの墓を見る観光客) (墓に供えられている絵)
次にヘブライ語のお囃子説を紹介する。
『戸来村の盆踊りでは、次の唱を延々と繰り返す
ナニャドヤラー
ナニャドナサレノ
ナニャドヤラー
この意味不明な歌詞を、米国シアトルに住む神学博士川守田英二(岩手県二戸出身)は、ヘ
ブライ語であるとして、次のように翻訳した。
お前の聖名をほめ讃えん
お前に毛人を掃蕩して
お前の聖名をほめ讃えん』
ちなみに掃蕩というのは、今の表記でいう掃討のことである。
![]()
さていよいよ出発である。キリストの墓の住所は「青森県三戸郡新郷大字戸来字野月33−
1」である。
まず、JR八戸駅から南部バスで五戸駅まで行く。バス料金は800円もする。バスの終点な
のになぜ五戸駅なのかというと、昔は八戸駅(当時は尻内駅)と五戸駅を結ぶ「五戸鉄道」が 通っており、昭和44年に廃線になると線路の大半はバス道路に転用されたという事情によ る。ここで五戸鉄道にふれたのは、何も知識をひけらかすためではない。後々五戸鉄道が関 わりをもってくるからである。 ![]()
(五戸鉄道跡、自販機の後がホームの売店) (五戸駅)
五戸駅は、鉄道時代からの寿命の尽きた建物である。ここで、新郷行きのバスに乗り換える
のだが、次のバスは何と2時間30分も待たないと来ない。やむなくタクシーを探すが、そんなも のは見事に通らない。
近くに五戸に不釣合いな新しいスーパーがあり、軽く食事をしてぶらぶらする。やがて五戸病
院に客待ちしているタクシーを見つけ、「新郷のキリストの墓」と告げる。高齢の運転手は、無 線に弾んだ調子で「実車」と報告している。その後も嬉しくてたまらないといった顔で、車が通過 する道々の近隣の説明をしてくれる。どうやら遠方の客を乗せたことがよほど嬉しいらしい。
4100円乗ったところで、キリストの墓公園に到着する。車の中から腕を出して、その道を上
がって行くんだ、というような仕種をする。
坂道を登り、さらに階段を上がると、土饅頭が2基並んでいる。2基とも高さが1.5mほどの
十字架が立っている。向かって右側が「十來塚(とうらいづか)」で、キリストの墓である。左は 「十代墓」で、身代わりになって死んだ弟イスキリを祀った墓で、聖母マリアの遺髪も納めてあ る。土饅頭の周囲は、花壇に使われる高さが30cmくらいの白い柵で囲われている。観光客 の中から「ずいぶんきれいになった。20年前はこんな柵も無かった」と言っているのが聞こえ た。案内板の新しさからも、近年特に整備しているのが見て取れる。
2基の土饅頭の間には、平成16年にエルサレム市から寄贈された、1畳よりも一回り大きい
石のプレートが置かれている。新郷町とエルサレム市の友好の証である。
墓の横は中庭ほどの広場で、その奥の教会を模した「キリスト伝承館」に伝説の源となった
古文書の写し、民具、写真、マネキンが展示してある。デパートにあるバタ臭い顔のマネキン に、農村の衣装を着せてあるのでかなり気持悪い。 ![]()
さて、この「キリスト伝説」は、実は古くからの伝承でも何でもなく、昭和10年に突然降ってわ
いた話である。茨城県磯原町(現北茨城市)の竹内巨麿(たけうちきよまろ)という人が創作し たものだ。
この竹内巨麿という人は、武内宿禰(たけうちのすくね)の66代後裔を自称する人物で、天
津(あまつ)教の教主である。
自分の家に代々伝わる「竹内文献」を公表したが、その内容たるや、ビッグバンすら起きて
いなかった紀元前3175億年にすでに初代天皇がいた、などという噴飯物である。キリスト伝 説の元となった「キリストの遺書」も、巨麿が竹内家の文庫から発見したものだ。
竹内巨麿は、明治7年富山県で私生児として生まれ、生後まもなく小作農の竹内庄蔵の養子
になった。やがて行商や六部(ろくぶ。諸国を巡り乞食する巡礼)となって諸国を巡り、古墳、 塚、神社、仏閣をうろついている。大いにいかがわしさの感じられる人物である。
しかしながら、荒唐無稽な伝説を創作して一方的に持ち出しただけでは、相手にされずに終
わるだろう。実際の経緯はもっと複雑で、次のようなものである。
@昭和9年10月、戸来村村長佐々木伝次郎が、十和田湖周辺が国立公園に指定されること
が決まったのに、戸来村が区域から除外されたことに危機感を持った。
村長は、七戸出身の日本画家鳥谷幡山(とやばんざん)を招聘し相談。
A鳥谷は、後にキリストの墓とされる場所から西へ4kmほど入った、羽井内という所にある
「御石神」という巨石がピラミッドであると断定。
B昭和9年11月、酒井勝軍(さかいかつとき)という、日本のピラミッドの権威で国家主義者が
来村。鳥谷の発見を追認し、以降「大石神ピラミッド」と称す。
C昭和10年3月、上記のピラミッド騒ぎとは別に、米国シアトルに住む神学博士川守田英二
(岩手県二戸出身)が「ナニャドヤラのヘブライ語説」を発表。
一大センセーションを巻き起こす。
D昭和10年8月、鳥谷、酒井が信奉する竹内巨麿が来村。
鳥谷、巨麿ら一行は地元の県議や村長らの案内で、大石神ピラミッドを探査。
巨麿、何も語らず。
E巨麿が村長に「この辺に貴人の墓はないか」と尋ね、村長は由来の分からない墓が2基並
んでいると答える。
巨麿は土饅頭を見て、それぞれに木標を建て「十來塚(とうらいづか)」「統來訪神」と記すよ
う指示。
F昭和10年10月、巨麿、「キリスト遺言書」を竹内家の文庫から発見。
G昭和11年2月、巨麿、伊勢神宮の尊厳を冒すという不敬罪の容疑で検挙される。
H昭和11年3月、鳥谷、キリストの墓に関する最初の著作「霊山聖地」を刊行。
I昭和12年5月、山根キク(菊子)女史、「光は東方より」を出版。キリストの末裔とされる沢口
家の家紋が、ダビデの六芒星であるなど、さまざまな傍証を提示する。注目を浴びるが、巨
麿の検挙起訴の関係で発禁となる。
J昭和13年3月、山根、「竹内文献」関係を削除した改訂版の「光は東方より」出版。
このため、キリスト伝説が元来地元にあった伝説と読めてしまった。
K五戸鉄道が観光パンフレットを発行し、キリストの墓を宣伝。
L昭和14年、日大芸術学部教授の仲木貞一が「日本におけるキリストの遺跡を探る」という
文化映画を製作。マスコミが取り上げUPI外電まで打たれ、国際的な反響を巻き起こす。
M昭和14年、15年アメリカの新聞社が調査団を派遣。逆輸入の形で、キリストの墓伝説が広
まる。
N戦後、新郷村は毎年6月10日にキリスト祭を行う。現在は、6月の第一日曜日に行なってい
る。
![]()
(弟イスキリの塚、マリアの遺髪も納めてある) (キリスト伝承館)
キリスト伝説が昭和の創作であるのは、簡単に分かる。
身代わりになった弟イスキリというのは聖書に出てこない名前である。イエス・キリストの幼稚
なアナグラムだ。
キリストとユミ子の間に設けられた三女の末裔とされる沢口家の家紋が、ダビデの六芒星と
いうのは残念ながら違う。似ているが良く見ると、五角形の桔梗紋である。しかも六芒星がユ ダヤの象徴になったのは中世の終わり頃であり、キリストの生きていた時代は無かったもので ある。
「竹内文献」も「キリスト遺言書」も、竹内家に代々伝わったものなんかではなく、巨麿が自分
で書いたものだ。
ヘブライから転じたとされる戸来村の「戸来」という地名は、江戸前期南部候の時代に付けら
れたものである。
「ナニャドヤラー ナニャドナサレノ ナニャドヤラー」という囃子言葉は、女性が輪になって単
調な踊りを一心不乱に繰り返すときのお囃子である。盆踊りのビデオを見る限り、これは、古 代の歌垣などに通じる異性を誘う猥雑な言葉で「私はどう 好きにしていいのよ 私はどう」くら いの意味だろう。 ![]()
(キリスト末裔の沢口家、気のせいか外人っぽい) (沢口家の桔梗紋、ダビデの星じゃない)
現在、地元では全てを創作と認め、「湧説」という立場を取っている。大人の見識と言えるだ
ろう。
もう少し交通の便を良くして、エルサレムまで巡礼に行けない人たちの代替地くらいまで成長
させてもいいんじゃないかな。 童謡「通りゃんせ」の真相 ![]()
童謡「通りゃんせ」の発祥の地は、埼玉県川越市にある「三芳野(みよしの)神社」ということ
になっている。もちろん異論も多く、そもそも神社のことではなく、関所のことを唄ったものだと いう説もある。
しかし、歌詞の内容と、三芳野神社の置かれた状況は、かなり符合すると言って差し支えな
い。断定こそ出来ないものの、三芳野神社をモデルと考えていいだろう。
三芳野神社は素盞男尊、稲田姫、菅原道真を祀る神社で、JR川越駅もしくは西武本川越駅
から歩いて2、30分のところにある。途中に「蔵の町」だの「時の鐘」だの、いかにも取って付 けたような、観光用のテーマパーク的景観がある。
そこを通り過ぎると、川越小学校、川越第一小学校、初雁中学校、養護学校、川越高校、市
民会館、市役所、美術館、博物館など公共施設があり、さらに奥に「川越城本丸御殿」と「三芳 野神社」がある。折からの強風で、口の中がじゃりじゃりいった。
実はこの公共施設群から三芳野神社まで、かつての川越城の敷地内であった。年に一度の
大祭に参詣が許されていたが、神社に参詣するということは、本来庶民が足を踏み入れること かなわぬ、城の敷地内に入ることを意味していた。これは他所に例のないことで、「通りゃん せ」発祥の根拠の一つである。
神社までの細い道はいわば城内なので、左右に警護の侍が詰めており、参詣の明確な目的
や、挙動のチェックを行なっていた。足を止めたり、キョロキョロしようものなら、さっさと歩くよう どやされ、帰りには荷物の検査が行なわれるなど、庶民はビクビクものであった。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
ちぃっと通して 下しゃんせ
ご用のない者 通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
これは、大正時代に本居長世という本居宣長を先祖にもつ人が、伝承の歌詞を文字にした
ものである。どうみても埼玉県あたりの言葉でないのは気になるが、まあ、伝承の公約数的な 歌詞であろう。
以上、庶民の「お上」を恐れる気持が「通りゃんせ」の歌詞に反映された、というのが通説で、
インターネットなどで調べても、だいたいそう説明されている。 ![]()
わらべ唄発祥の所 天神様の細道じゃ
しかし物事はもう少し考えたほうがいい。
通説どおりなら、七つのお祝いの「お札」を持って、さっさとお参りして戻ってくれば、何も恐れ
る必要がなかろう。なぜ、行きはよくて、帰りがこわいのかも説明がつかない。
真相は目の前にある。
祭神が素盞男尊、稲田姫、菅原道真の3人に対し、「通りゃんせ」は天神様、つまり菅原道真
のことだけ唄っていることに気づけば、後は簡単に推理できる。
菅原道真は平安時代、宇多天皇に重用され、次の醍醐天皇の時に右大臣にまで昇った。こ
れを怖れた左大臣藤原時平一派の讒言により九州の大宰府に流され、かの地で失意の内に 病没した。菅原道真は大怨霊と化し、京の都に異変を起こす。
紫宸殿落雷、藤原時平死去、長男藤原保忠変死、暴風雨、清涼殿落雷により藤原清貫ら貴
人が死傷、そのショックで醍醐天皇病没。
ここに至って、ようやく菅原道真を「天満大自在天神」つまり「天神様」と祀り、怨霊を鎮めるこ
ととなった。
このことから、為政者の圧政に対し、何の抵抗もできない弱い庶民は、自分たちの怒り恨み
嘆きを汲み取り、天罰を下す神として天神様に祈るようになる。
川越の為政者は、怨嗟の声を天神様に訴えることで無言の抵抗をされては、一揆などの萌
芽につながりかねないと考え、参詣の目的を厳しく問いただす。庶民は「七つのお祝い」など差 し障りのない口実をカムフラージュに、天神様へ詣でる。これが「行きはよいよい」である。
しかし、参拝の様子をじっと見つめられ、為政者に対する不平不満を天神様に訴えるといっ
た真意を見抜かれた場合は、「胸中疑念あり」と容赦なく咎められる。これが「帰りはこわい」で ある。
人っ子一人いない境内。社殿横にはゴルフバックが不法投棄されている。神域を樹木で囲む
わけでもなく、拝殿が開かれているわけでもない。社殿は徳川家光の時代に建てられたもの で、貴重なわりにぞんざいな扱いを受けている。「蔵の町」などの似非観光地を整備する前に、 ちゃんとすることがあるのではないかと思う。 総合週刊誌暴走の真相
「文春」「新潮」「ポスト」「現代」の頭に「週刊」と付けると、出版社系総合週刊誌というカテゴリ
ーに分類される。政界、財界、芸能界のゴシップにお色気情報をちりばめた、オヤジ御用達の 通俗雑誌である。
新幹線に乗ると、座席の前ポケットにささっていて、しばらくすると頭が薄く脂っぽい管理職風
のオヤジがトイレから戻ってきたりする。
この4誌の部数が、95年の284万部をピークに下降線をたどり、2004年には209万部ま
で落ちた。購買層は団塊世代以上と言ってよく、定年と同時に買わなくなるため部数が着実に 落ちていく。2007年以降団塊世代の定年到来により、壊滅的な打撃を受けるのは必至だ。
なぜ団塊世代以上で読者層が固定されているかというと、週刊誌創世期に梶山季之らの「ト
ップ屋」がスクープ合戦を行い、企業秘密や権力者の腐敗を暴露し喝采を浴びた時代の幻想 が残っているからだ。
また、団塊世代には専門誌という細分化が間に合わなかったことと、スペシャリストよりゼネ
ラリストを目指す企業教育を受けたせいである。
しかし、今では暴露という機能はネットにかなわない。企業教育は法務、税務、財務、労務、
システムなど、分社化と並行して、きちんと通用する専門家を育成する方向にある。
現在の週刊誌は、「刺客全滅!」「醜聞噴出で『小泉大敗』」といった、結果論で逃げられない
無責任報道や、田中真紀子の長女の週刊文春差し止め問題などプライバシー侵害、大原麗 子ご近所トラブル、清原和博いかがわしい店出入りなど事実無根の名誉毀損、などが横行し ている。これらの取材不足、裏付不足の結果、真実性、公共性が損なわれてしまった。
さらに、中吊り広告で目を引くためだけの、東スポ的な見出しと中身の落差により、信頼を落
としている。
そして、週刊誌一番の特徴である「元宮内庁職員の話」「政府高官夫人の話」といった、誰が
言ったのか、本当に言ったのか分からないグレーゾーンが、信憑性を失うもととなっている。
なぜ慢性的に取材不足で紙面が出来上がるかというと、週刊誌のスケジュールを考えるとす
ぐ分かる。
金曜に企画会議、月曜にライターと打ち合わせ、火曜に見出し案、水曜に入稿開始、木曜締
め切り。これでは、月火水の3日間しか取材の時間が取れず、ろくな取材ができない。
そこで、まず見出しありきで、それに沿った方向で取材を行い、取れたコメントをつなぐような
記事を作成する。最後に当人に確認取材し、全否定されても「事務所サイドはこちらの取材に 対し事実無根とそっけない」などと締めて、「取材はした」というアリバイをつくるのである。
昔はそれでも通用したが、現在では裁判に持ち込まれるのでそうも云っていられない。団塊
世代の使命は残っているかどうか個人差もあろうが、総合週刊誌の使命は既に終わっている と云えそうだ。 インド映画ダンスシーンの真相
「ムトゥ・踊るマハラジャ」に代表されるインド映画、日本が元気のなかった1990年代、荒唐
無稽で能天気ながらも、明るく、パワフルなインド映画はブームになった。
主演のラジニ・カーントは、小太りで美男でもなく、年齢も高いのにかかわらず、本来イケメン
俳優がやるような役をやるので不思議である。なにせ、はっきりいって吉幾三そっくりだ。しか しこの吉幾三が神をも凌ぐ人気で、足元に跪くファンに囲まれ、何十本と主役をこなしている。 日本で云えば、里見浩太朗や杉良太郎がキャーキャー言われながらいつまでも時代劇スター でいるのを、外人が不思議そうに見ているようなものと思えばいい。
インド映画で圧巻なのは、ダンスシーンである。それも群舞である。鮮やかな民族衣装のダ
ンサーが、これでもかというくらい踊り倒すのである。ミュージカル映画が唐突に歌になだれ込 むように、インド映画では突然踊りが始まるのだ。
後で分かったのだが、インド映画ではキスシーン、ベッドシーンといった、いわゆる濡れ場は
ご法度なので、ダンスシーンに代替させるそうだ。つまり、激しい踊りを観ながら、そういうこと も頭に思い浮かべなくてはいけない、ということだ。
さて、このダンスは「フィルミーダンス」と呼ばれているが、彼らは通しで踊ることが出来ない。
いや、頭から終いまででなくても、途中の1分やそこらでも続けて踊れない。
それはどういうことかというと、ダンスは「ダンスマスター」と呼ばれる振付師がその場その場
で8小節くらい振付けたものを、どんどん撮影していくからである。ラジオ体操を1動作ずつそ の場で教わって、教わったそばから1動作ずつ撮影すると云えば分かるだろうか。つまり、前 の動作は忘れても構わないので、通しで踊れないのだ。
では、ブツ切れでダンスに見えないと思うかもしれないが、良く観察すると、男優、女優、遠
景、顔、手足、炎など、細かく切り替えるカメラワークにみせかけて、巧妙にフィルムをつないで いる。さらに、衣装を頻繁にチェンジして、何テイクも撮ったダンスを編集するので細切れにな る、という演出に見せかけている。もちろん、普段からダンスのトレーニングを積んでいるの で、このような「やっつけ仕事」が可能なのである。
また、ダンスシーンでは女優のカン高い声で歌が流れるが、これはプレイバック・シンガーに
よる「吹き替え」である。女優は、日本の男性アイドルグループのように「口パク」で踊ってい る。
現在のラジニ・カーントは、政界へ進出するのか、もう進出したのか、はっきり分からないが
そんな状態である。 魔法の杖の真相
西洋の魔法使いは、魔法の杖を使う。オーケストラの指揮棒サイズのものを「エイッ」と振る
場合と、身長ほどある木の瘤だらけの棒で地面を「ドン」と突く場合がある。指揮棒サイズの方 は「ウォンド」と呼ばれ、身長ほどある長い方は「ケーン」とか「ステッキ」といわれる。
ハリー・ポッターが入校前に購入したのは指揮棒サイズの「ウォンド」の方で、不死鳥の尾羽
を芯にしている高価なものだ。長い方の「ステッキ」は、モーゼや東洋の仙人、七福神が持って いることから、年配者の実用の杖を魔法の杖に見立てたものだろう。 ![]()
現代では、マジシャンが魔法の杖を使う。伏せたカップの底にコツコツコツとおまじないを掛
けるとあら不思議、こちらの玉が消えてそちらのカップから出てきました、という具合だ。
なぜ、いちいちこんな子供じみた意味の無い動作をはさむのか、不思議といえば不思議であ
る。大人向けのショーでこれをやられると、子供用のネタを持ってこられた気がして、少し不快 を覚える。
しかしそれは誤解だ。マジックの手順に無駄はない。魔法の杖にもそれなりの役割がある。
それは次のようなものだ。
@ポケットから杖を取り出すついでに、タネもいっしょに取り出す。
Aタネを手に隠し持っていると、不自然に手が握りっぱなしになるので、魔法の杖を持ってカム
フラージュする。
B右手に隠したタネを密かに左手にパスする際、魔法の杖を左手に持ちかえる動作に紛れて
自然に行なう。
![]()
マジシャンの動きには全て意味がある。何気なくスタンドマイクを脇によけたり、水を注ぎ損な
って少しこぼしたり、クネクネ踊ったりする動作にもびっくりするような必然性がある。タネをば らすような野暮は云わないけどね。 坂田三吉関西名人の真相
驚きの声を上げそうになった。坂田三吉が発行した将棋免状を見たときのことである。そこ
には「名人 坂田三吉」と署名されている。長い間すっかり勘違いをしていた。
勘違いというのは、三吉が僭称したのは「名人」ではなく「関西名人」だと思い込んでいたこと
である。 ![]() ![]()
僭称は僭称でも「関西名人」というローカル冠だから、さほど障りがないはずなのに、なぜあ
れほど東京から敵視されたか不思議に思っていた。しかし、実際には「名人」と称し、あまつさ え免状を発行していたとなると孤立もやむおえない。
勘違いの原因は、中村浩著「棋神・阪田三吉」に「関西名人への道」という章があり、頑なに
拒む三吉に、恩人や後援者が「関西名人だから、関根名人を軽んずるものではない」と口説く 部分が印象に残ったからだ。新聞の死亡記事にも「関西名人」と書かれている。 ![]()
三吉は明治3年堺の塩穴(しわの)村で生まれた。「塩穴」は「舳松(へのまつ)」、「耳原(みみ
はら)」と名が変わり、現在は堺市協和町となっている。画像の「名人 坂田三吉」の免状は、 舳松歴史資料館の「阪田三吉特別展」で展示されたものだ。
生家は、舳松小集会場のあたりで、現在は舳松社会教育会館になり、顕彰碑が建てられて
いる。要するに、同和地区の真ん中に生まれたのだ。
三吉は、文字を知らず無学奇行で知られる。芝居や映画は表現がオーバーだが、おおむね
そんなものだろうと思う。
字が読めないのは、貧しいためでも、教育の機会がなかったためでも、同和差別のためでも
ない。ちゃんと舳松尋常小学校に通ったが、遊びや将棋に夢中で、「カキ」という2文字しか覚 えられなかったためだ。「それだけしか知らんのか?」「もっと習うたが、忘れてしもた」。三吉の 資質が勉学に向いていなかったのである。
戦前の将棋界は団体がばらばらに存在していたが、大正13年有力三派が一本化して「東京
将棋連盟」が設立された。現在の「(社)日本将棋連盟」もそうだが、「連盟」と称するにはそうい う事情がある。
関西には「東京将棋連盟」のようなはっきりした組織は無かったが、坂田の将棋道場を中心
に政財界人と大阪朝日新聞が東京に対抗意識をあらわにしていた。小野名人が関根を嫌っ て、意趣返しに坂田を名人に、と主張していたせいもあり、次の名人は坂田に、という機運が 高まっていた。
大正10年小野が亡くなると、結局三吉より2歳年上で「心技体」揃った関根が名人に就い
た。三吉本人も心底関根の方が名人にふさわしいと分かっており、関根の祝賀会に参列して いる。
しかし4年後の大正14年、柳沢保惠(やすとし)伯爵や後の通産大臣高橋龍太郎、大阪朝
日新聞など有力後援者やタニマチの強いすすめで名人宣言を行なった。 ![]()
(生家跡の顕彰碑) (通天閣下の王将碑)
昭和13年、絶縁状態を破り第二期名人リーグに参加、7勝8敗の成績を残す。当時は2年
かけての総当り戦であるが、1年目は2勝6敗と振るわなかった。10年以上ブランクがあった のと、盤側で雑音を入れる輩がいたためである。
そこで2年目は松本治一郎という同和出身の国会議員を立会わせて集中し、5勝2敗という
好成績をあげた。70歳という年齢を考慮すると奇跡である。坂田がもう少し若ければ、と誰も が恐懼した。
翌年のリーグも参加の意思があったが、戦争でリーグ戦が停止になり、対局のないまま昭和
21年77歳で没した。
「坂田」と「阪田」の表記があるが、元々は「坂田」で、戸籍を新しくした際「阪田」になったらし
い。大正、昭和の新聞でも混ぜこぜに使われている。そもそも字の読めない三吉にこだわりよ うがなく、「おおさかのサカだす」とでも云っていたのだろう。
三吉は奇行で知られるが、それは東京人の見方である。本当は、アホなのかそうでないのか
判断に困る間寛平みたいな人である。大阪では、そう珍しい人種ではない。
没後9年、名人位と王将位を追贈され、さらに翌年墓を贈られた。戦後は遠くなりつつあった
が依然連盟の台所が苦しい時代、費用は高橋龍太郎が負担し、連盟で建てたことにした。
墓の縁がガタガタしているのは、心ない勝負師や選挙の候補者がお守りに欠いていったた
めである。 ![]()
(一番長く住んだ吹田市の借家跡付近) (豊中市服部霊園の墓)
明治天皇誕生の真相
孝明天皇が36歳で急死し、実子の16歳の睦仁(むつひと)親王が明治天皇になったという
のが正史である。孝明天皇の死は毒殺説と刺殺説があるものの、暗殺はまず間違いない。孝 明天皇は徳川体制の維持を前提とした強固な公武合体論者で、薩長にとっては邪魔な存在で あった。
睦仁親王は砲声と宮女の悲鳴に卒倒するような、華奢なお公家さんだったことは記録にあ
る。ほどなく睦仁親王は毒殺され、大室寅之祐(18歳)なる人物と入れ替わった。
では、この大室寅之祐は何者かというと、後醍醐天皇の末裔の光良(みつなが)親王の子孫
で、長州に匿われていたという。当時、南朝の正系の良泰(ながやす)親王の子孫は熊沢天皇 家として水戸藩に、美良(よしなが)親王の子孫は三浦天皇家として尾張藩に、そして長州では 大室天皇家としていずれも貧窮のうちに棲息していた。このような天皇家のスペアーは、何事 にも用意周到な徳川家にもあり、日光東照宮の宮司がそれで代々天皇家の血筋である。
華奢な睦仁親王は明治天皇になると二十四貫の巨体となり、馬上から大元帥として号令を
掛け、気が向けば側近を相撲で投げ飛ばすなど、まるで別人であった。それもそのはずで、2 歳年上の別人だからである。明治天皇がわがままを言うと、西郷が「昔の身分にかえします ぞ」と凄んだという。明治政府があわてて南朝を正統としたのも、万一世間の知るところとなっ た際、偽系との誹りを逃れるためである。
このへんの事情は知っている人は知っていることらしい。薩摩が西郷の敗死もあり失速した
あとは、天皇をメイクした長州の天下となり佐藤栄作まで国政をリードした。 明治天皇出自の真相
我々の知る明治天皇は、大室寅之祐なる人物が明治維新の動乱に紛れて入れ替わった、と
「明治天皇誕生の真相」で記したところ、山口県在住の方から丁寧なメールをいただいた。大 室寅之祐の実弟、「地家朝平」の玄孫(げんそん、やしゃご)にあたる「Jike」氏である。
平たく云えば、Jike氏は地家朝平の孫の孫で、血筋であるという。しかも地家朝平の孫の地
家翁は、現在90歳でご健在であり、地家家の口伝と、地元の伝承、さらにJike氏ご自身が調 べられたことをお教えいただいた。
メールは長文で内容は多岐にわたり興味深いが、ここでは大室寅之祐に関する部分を要約
する。あまり、予備知識が無くても分かるよう細部は割愛する。また、当時は幼名と、長じて後 に複数の名前を使い分けていたが、名前が鍵となる部分を除いて、一番ポピュラーな名前で 統一したことをお断りしておく。 ![]()
話はここからはじまる。
田布施町麻郷に、作蔵とスヘという若い夫婦がいた。作蔵は苗字が無く、維新後に在所の地
名から「地家」を姓とした。
作蔵とスヘの間に、ターケ(女)、寅吉(後の寅之祐、明治天皇)、庄吉、朝平(Jike氏の高祖
父)の4人が生まれた。スヘは作蔵と離縁したが、4人はしばらくスヘの実家の西円寺で楽しく 暮らしていた。
やがてスヘは、寅吉(寅之祐、明治天皇)、庄吉の2人を連れ、大室彌兵衛に再嫁する。スヘ
と彌兵衛の間に寅助が生まれるが、スヘは産後の肥立ちが悪く死亡、寅助も1〜2歳で早世 する。このとき、寅吉(寅之祐、明治天皇)5〜6歳であった。早い話、寅吉(寅之祐、明治天 皇)はスヘの連れ子であり、大室家の血統ではないということだ。
一方、大室彌兵衛の弟の大室惣兵衛が萩に住んでおり、虎助という息子がいた。当初、吉
田松陰はこの虎助を天皇に据えようと考えていた。大室家が南朝光良(みつなが)親王の末裔 という言伝えがあったのと、虎助が孝明天皇の息子の睦仁親王と、年齢が近かったためであ る。
ところが、虎助は16歳のとき京都で新撰組に斬殺されてしまった。そこで伊藤博文は寅吉
(寅之祐、明治天皇)に目をつけ、石城山の練兵場に連れ出し、乗馬、剣術、角力を仕込ん だ。
寅吉(明治天皇)は、「寅之祐」時には「虎之祐」という、虎助(斬殺)とも寅助(早世)ともとれ
る名前を名乗った。そこには、節目の改名や潜伏のための変名というより、周囲が大室家の 血統である虎助(斬殺)や寅助(早世)と混同するのを誘うような、積極的な作為が感じられる。 事実、後の田中光顕伯爵も、明治天皇の入れ替えは承知していたが、正体は萩の虎助(斬 殺)の方だと思い込んでいた。
やがて、伊藤博文による孝明天皇、睦仁親王の暗殺の後、寅之祐は首尾よく明治天皇とし
て迎えられた。
孝明天皇の死亡により、睦仁親王の践祚(せんそ、皇位継承)があったとみる向きもあり、睦
仁を「京都明治天皇」、寅之祐を「東京明治天皇」と区分することもある。
明治期以降も、大室家の血筋(実際は大室の血筋ではなく、寅之祐の血筋)を尊重する傾向
が続く。たとえば、寅之祐(明治天皇)と共に連れ子となった庄吉の孫の大室近祐(地家翁の はとこ、平成8年92歳没)の次男は、岸信介が除籍の上徳川家の養子に出し、徳川恒孝(つ ねなり)を名乗らせ徳川宗家を継がせている。
さて、寅之祐が連れ子なのはよしとしても、そもそも大室家が南朝光良親王から23代500
年続いた天皇家かというと、実は後世の系図くらいしか記録が無く、はなはだ心もとない。神話 と伝承の中間といってよいかもしれない。大室家がはっきり分かっているのは、寅助(早世)の わずか4代前までである。地家翁も「大室家が南朝の末裔で、500年以上続いて、しかも寅之 祐が大室家23代なんて嘘だ」とおっしゃっているそうである。 コ川恒孝明治天皇の縁戚の真相
18代将軍コ川恒孝(つねなり)氏は、明治天皇の弟の血筋である大室近祐の次男を、岸信
介が除籍の上徳川家の養子に出し、徳川宗家を継がせたものであると「明治天皇出自の真 相」で述べた。
平成16年11月9日(火)の「徹子の部屋」に、コ川恒孝氏本人が出演されたので、これはよ
い機会とじっくり拝見した。
恒孝氏は日本郵船(株)の副社長を退職後、平成15年に(財)徳川記念財団を設立し、将軍
家に伝わる絵画、工芸調度品、着物、古文書などの保護にあたっている。
恒孝氏の風貌は、ずんぐりした体躯と、NHKの磯村さんや松平さんと同系の福々しい顔つき
で、どこか家康公の肖像にも似ている。幼い頃に悪戯をすると周りの大人から「なり様、城が 落ちます」と叱られたとも語った。
これは本物だ一目瞭然だ、決して横から入った闖入者などではない、直感がそう告げる。幼
時の記憶もはっきりしているので、正統なご子孫に間違いない。
「岸信介が除籍の上徳川家の養子に出し云々」というのは、つまらぬ俗説にすぎないと判断
する。 野口英世偉業の真相
ヒデヨ・ノグチの業績というと「黄熱病の研究」である。「何々の研究」止まりでは、よくてノーベ
ル賞である。偉人伝に連なるには少し足りない。
成人前の野口については有名なので、24歳からの渡米後を簡単にたどる。野口はロックフ
ェラー財団の医学研究所で25年ほど花形研究員として活躍後、彼の発見した黄熱病の病原 体の追試のためアフリカに渡り、そこで黄熱病のため殉じたとされる。研究所では梅毒の血清 診断法などの研究を行い、人柄の魅力もあって米国でもいまだに人気がある。
しかし決定的な業績をあげることができなかった。野口は顕微鏡技術にたけ、それに頼むと
ころがあり、来る日も来る日も顕微鏡をのぞいた。学者というより、顕微鏡技師、顕微鏡職人と いったほうが近い。
実は理科室にあるような光学顕微鏡の時代は終盤に来ていて、見つかるものはほとんど発
見し尽くされた後に野口が出ていったのである。このあとは電子顕微鏡の登場を待たなくては ならなかった。
野口はあせった。顕微鏡から離れなかった。細菌を発見したかった。1915年38歳の時に
帰国したが、帝大を頂点とする医学界は世界的名声を遠ざけた。失意のうちにアメリカに戻 り、ふたたび顕微鏡に向かった。発見を願ってやまない細菌は、眼前のプレパラートにうようよ いたのであるが光学顕微鏡では捉えられない大きさであった。
南米の医師が黄熱病病原体のスピロヘータを見つけたと思い、それをもとに野口は黄熱病
スピロヘータ説を発表した。スピロヘータは光学顕微鏡で捉えることのできる最小の生物であ る。ところがこのころになると、ウイルスの存在が予測されていたので、続々と反論があがっ た。野口は最後のかけにアフリカに渡り、500匹以上のサルと巨額の研究費を投入したが敗 れた。
ロックフェラー財団は東洋人を表に立てることで博愛を演出した。野口は梅毒、黄熱病など
米国の意にかなうようなテーマを自然選び続けた。もう少し早く生まれるか遅く生まれるかで、 山のような発見をしたはずである。
野口の苦難と苦悩を想うと、澱のような野心や功名心を差し引いてもやはり偉人である。最
後は絶望の末の自殺(ハラキリ)だったという。 ユリ・ゲラー超能力の真相
1946年イスラエルのテルアビブで生まれたユリ・ゲラーは、ナイトクラブの「読心術」ショーで
人気を得ていた。日本で云えば「当てもの」に相当する芸である。ショーを見た米国の超心理 学者アンドリーヤ・プハリッチが、アポロ14号で月面にも立ったことのある元宇宙飛行士エドガ ー・ミッチェルに紹介し、ミッチェルがユリ・ゲラーを米国に呼び寄せ、スタンフォード研究所の ハロルド・パソフとラッセル・ターグという物理学者にテストをさせた。その時の論文が、実験に 問題ありとする巻頭の弁明つきで「ネイチャー」に掲載された。このときからユリ・ゲラーの快進 撃が始まり、スプーン曲げ、テレパシー、念力を引っさげ世界中のテレビを席巻した。日本テレ ビの特番は高視聴率を獲得し、たびたび来日するようになった。
その後超能力は手品であるとの暴露があり一時表舞台から消えたが、エンターテイメントを
プロレス的に受け入れるなど視聴者サイドの成長に助けられ、再びテレビに登場するようにな った。
映像で見る限り、ユリ・ゲラーの手さばきに奇術師としての訓練は無い。「へたくそな手品師」
というのは当たっている。念力で方位磁石を動かすというネタは、念を入れるポーズにまぎれ て磁針に顔を近づけると針が振れるというもので、スプーン曲げの前の山場に持ってくることが 多い。歯に磁石を埋めているだけであるが、もう少し上手い見せ様がありそうだ。観客が紙に 描いた図形を開封せずに当てるのは、シピ・シトラングというイスラエル時代からの相方が合 図を送っているだけである。視聴者に動かなくなった時計を握りしめてくれ、念を送るから変化 があるはずだ、という呼びかけに日本中から動いた動いたと電話が殺到したのは衝撃であっ た。しかし当時のゼンマイ時計は握っているうちに油などが弛み、数のうちには動き出すことも あるのだ。十八番のスプーン曲げは、成功した今となっては、首が柔らかい物や脆い物など特 注で自在になるのだが、さすがに当時はそうもいかない。推測するに、事前にスプーンを何本 も曲げたり戻したりしていると、稀に表面は一見普通だが内部が折れてる状態、いわゆるクラ ックが走った状態になることがある。これを常に用意していたと考えられる。
それはさておき、ユリ・ゲラーの真価が分かっていない人が多い。ユリ・ゲラーには奇術の歴
史に大きく名を残す功績がある。
ユリ・ゲラーのテレビを観たことのある人は、彼が視聴者に向かってたどたどしく「アナタニ
モ、デキマス」というのを聞いただろう。この一言により、観客に当事者意識を持たせ主体的に 参加させるという双方向のパフォーマンスを開発したのだ。メソポタミアの時代から4000年も の間、奇術は奇術師が舞台でハトを出してみせる一方通行の見世物であったことを思うと、ま さにコペルニクス的転回である。
現在のユリ・ゲラーは英国在住で頼まれれば気軽にテレビに出るが、実は大富豪である。
「超能力で油田を持ってマス」と言われると、超能力で石油を掘り当てたと早合点してしまうが、 正しくは、「超能力ショーで稼いだ金で購入した油田を持ってマス」となる。 クラーク博士「少年よ大志を抱け」の真相
明治9年7月から明治10年4月まで、ウィリアム・S・クラーク博士は北海道大学の前身、札
幌農学校の初代教頭であった。その間わずか8か月のことである。
この有名な言葉には続きがあって、「子供等よ、この老人のごとく大望にあれ」という短いも
のと、「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空し いもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成 しとげるために大志をもて」という長いものがある。
短い方は、明治27年予科生安東幾三郎が農学校の学芸会機関紙「恵林」に書いたもので、
クラークが悠々と馬に跨り学生を顧みて叫んだあと、一鞭をくれ塵埃を蹴って立ち去った云々 とある。芝居じみてる上、50歳を少し過ぎたばかりの博士がoldmanと言ったかどうか怪し い。
長い方は、昭和39年3月16日の朝日新聞「天声人語」に掲載されたものである。出典とし
て、稲富栄次郎著「明治初期教育思想の研究」(昭19)をあげている。稲富は岩波の「教育学 辞典」(昭11)の「クラーク」の項(海後宗臣)から引用しており、さらに海後氏は同文館の「教育 大辞書」増訂改版(大正7)の「クラーク」の項(小林光助)に拠っている。つまり孫引きの孫引き である。言葉の意味も、富や名誉を否定して内面の価値を重んじる倫理的なものとなってい る。ところがクラークなら、世俗的な職業に励むピューリタン精神にもとづいた勤勉と節制は説 いても、富や名声は否定するわけはない。開校式の演説でも「相応の資産と不朽の名声と、か つまた、最高の栄誉と責任を有する地位」に到達するよう呼びかけているほどだ。
第一期生大島正健博士の著書によると、帰国に際し島松まで見送った学生たちに向かって
馬上から最後に一声「Boys be ambitious」と言ったのが真相で、「さようなら」くらいの意味 である。長い方の言葉でもなく、短い方の「この老人のごとく」という部分もない。また、学生も 深く受け止めたわけではなかった。
この有名な言葉は、明治半ばまで埋もれた後に思い起こされ、何者かに引き伸ばされたあと
見栄えのいい解釈が与えられたのである。そして、「天声人語」により、全国隅々まで知れ渡る ようになった。
それにしても良い解釈を得たと思う。「少年よ大志を抱け」に鼓舞され、どれだけ多くの若者
が殻を破ったろう。
ところで博士のほうは、本国では船上大学の開校をめざしたが資金不足で頓挫するなど、来
日前も帰国後も芳しくなかった。1828年マサチューセッツ生まれの博士は、社交的な性格で 学者としての素養より、学校経営などに気が行くたちであったが、もともと山っ気が強く無計画 なところがあったらしい。窮した博士は、出資者をつのり「クラーク・ボスウェル社」を設立、7つ の鉱山会社を買収したが、1年半で179万ドル(約2億円)の負債を抱えて倒産した。出資者 や親戚から詐欺で告訴され、有罪にこそならなかったが全ての信用を失い、1886年失意のう ち59歳で心臓病のため亡くなった。日本から帰国後、9年目のことである。
明治政府のお雇い外国人にはお粗末な者もいて、博士はボーダーラインと云えるだろう。農
学校は8か月と短期間だったため、ボロを出さずに済んだ。 宮本武蔵剣豪の真相
武蔵は日本一の剣豪であった。槍、剣、鎖鎌、十手など得物が刀剣に収斂するまえの江戸
初期にあっては、日本一は兵法家の数だけ存在した。武蔵は三十歳を過ぎてから仕合を避け ているが、ひとたび日本一という評判を獲得したためである。
では武蔵という人物の値打ちはいかほどと考えられていたか、壮年期の仕官運動をたどって
みる。
武蔵三十台半ば、江戸において幕臣北条安房守氏長を通じ、最低一千石の兵法指南役か
大身の直参を希望し運動した。戦場での指揮経験も門地もない一介の牢人風情では、正気の さたではない。当時柳生家が兵法指南役から大名に累進していたが、柳生家はもともと大和 の小領主で関ヶ原の頃から徳川に貢献していた上、宗矩という突出した能吏がでたためであ る。この頃すでに、武芸一本では入り込めないほど幕府の体制は固まっていた。
江戸をあきらめ、尾張で大道寺玄蕃頭直繁を通じ仕官を頼んだ。藩主は家康第九子の義直
で怜悧な人物である。近習と仕合をさせ、武蔵の強さは天稟であることを見抜き、教官には不 適切であると判断した。それでも五百石なら召し抱える気があったが、一千石以上と訊き決別 した。このとき五百石で受けないかと勧める玄蕃に対し、武蔵は「それでは面目を失う」と云っ た。
次に筑前福岡の黒田家の船曳刑部に斡旋を頼んだ。ここでは尾張で誘いがあったが辞退し
たと、しれっと言ってのけた。藩主の忠之は暗愚で、刑部が言葉巧みに薦めると三千石で召し 抱えると公表した。ところが、刑部が退出すると序列を心配した重臣たちが、武蔵の風貌を若 君が怖がると搦め手から諭すと、忠之は他愛もなく取り消した。武蔵は刑部の屋敷で「なぶら れたか」と小さく云った。
ほどなく播州明石十万石を通過した際、城主小笠原忠真に仕官を懇望された。武蔵は十万
石という小藩が気に入らず辞した。しかし無下に断るのも惜しく思うようになってきていた。そこ で養子の八五郎を指南役として置いていくことにした。八五郎は親戚の次子で、後の宮本伊織 である。伊織は江戸城吹上で荒木又右衛門と仕合を行うほど剣術に長けていた。後に、武蔵 が小身と思った小笠原忠真は豊前小倉十七万石に移封となり、伊織は皮肉なことに吏才によ って家老にまで累進し、四千石取となった。
五十歳を過ぎて、小倉の伊織のもとへ身を寄せた。九州の諸侯はあらそって来遊を求め、武
蔵も気軽に応じた。書画、木彫、彫金などにも才をみせ、地方名士、地方文化人となった。
五十四歳のとき、島原の乱が起こり、伊織の「後見人」という資格で参戦した。城攻めでは、
すくむ小笠原軍を大喝し、先頭きって石垣に取りついた。武蔵は落石に脛を打たれ草の上に ころがったが、その勇姿に励まされ伊織を先頭に小笠原兵が一気に石垣をのぼりつめ城内に 入り込んだという。
五十七歳のとき、肥後熊本五十四万石細川家に召し抱えられた。藩主は名君忠利であっ
た。武蔵は「客分」を望んだ。客分なら禄の多寡は問題にならず、仮に無禄でも体面が保て る。また客分なら序列の外であり、藩士の反発を買うこともないという計算があった。実際は三 百石と広大な屋敷が与えられ、忠利が賓客扱いをしたのでその厚遇に感服した。
五十九歳のとき、忠利が急逝し武蔵は落胆した。武蔵は門を閉じ、茶禅書画三昧を送るが、
やがて霊巌洞にこもり五輪書を執った。
六十二歳で体調すぐれず屋敷に戻り没した。
晩年の武蔵は、望んだとおりのものを得た。伊織という生計の土台を得て、卑にまみれるこ
となく、権高に生きることができた。
武蔵亡き後、伊織があちこちに碑文を残したが、事跡をかなり誇張している。流祖を讃える
意味のほかに、自身の出自を飾りたかったためだろう。ただし、武蔵自身が書物や手紙を残し ているため、むやみな誇張はできなかった。
情報の乏しかった時代、一度中央で名前が上がれば一生食えた。死後もその死を知らず、
仕合を申し込まれたり、弟子入りを志願されたりすることもざらであった。田舎仕合を繰り返 し、断崖から飛び降りてみせたり、風呂に入らなかったのも名を成さんがためである。
名が売れたあとは、地方の名家を順に訪ね、暫し逗留しては食にありついた。つての無いと
ころでは、金箔の紋の帷子にタスキをかけ、夜な夜な城下の林で怪鳥のように飛びつつ太刀 打ちするというふうな、思わせぶりなパフォーマンスで気を引いた。いわば、武蔵と弟子のドサ 廻りである。当初は仕官のための巡業であったが、徐々に生活手段となっていった。
武蔵並に実力のある兵法家は多く存在した。武蔵が、他の日本一のように泡沫で終わらな
かったのは、結果的に家老の家筋となり一級の諸侯の知遇を得たことと、「五輪書」や書画が 水準を超えていたためである。 秋篠宮プレイボーイの真相
法律的には皇位継承権2位の秋篠宮であるが、国民感情ではすでに3位後退だろう。色白、
長身、切れ長の目にきょとんとした瞳、長めのヘアー、口ヒゲの容姿は美男と言って差し支え ない。最近は、顔がふっくらし、髪はグレーになったが、あいかわらずのダンディーぶりで、アパ レル関係の業界人にも見える。
1996年秋篠宮はマスコミからバッシングを受けた。クリントン大統領の宮中晩餐会を欠席し
てタイに行ったため、「結婚前から親しくしているタイ人女性に会いに行く」「殿下の女好きは何 とかならないか」「紀子妃の父親の川嶋辰彦教授が殿下の女性問題を問いただすために御所 へ怒鳴り込み、天皇陛下に苦言を呈した」というような記事が週刊誌に掲載された。
実は1989年の結婚前後にも悪意に満ちた噂があった。「紀子さまが何度も中絶させられ、
川嶋教授が怒鳴り込み、陛下がしぶしぶ結婚を認めた」「秋篠宮は美智子妃の子ではなく、元 宝塚女優加茂さくらの子である」というのがそれである。
これらはまったくのデマである。川嶋教授が怒鳴り込むというくだりなど、噂の焼き直しをして
いるのが見て取れる。
バッシングの突端は、毎日新聞が「ナマズのためなら」という見出しで、秋篠宮が晩餐会とい
う公務を欠席してタイに私的訪問するという報道であった。記事が批判的なトーンだったため、 週刊誌が尻馬に乗ってセンセーショナルな噂を掲載したのである。
真相はどうであったか。タイ旅行は、プラー・ブックという巨大淡水魚の調査のため数年前か
ら計画されていたが、阪神大震災などで延期になっていたところ、この時期に実現となった。ク リントンの訪日は一旦前年に決まっていたものが延期になり、あらためて確定した日程が、タ イ旅行と重なってしまった。タイ側では半年前から準備に入っていたため、宮内庁にも打診の 上欠席したのである。秋篠宮にはなんの落ち度もない。
ところが、宮内記者会発表時に宮内庁側が、欠席の経緯をよく説明せず「過去にも似たケー
スはあった」と繰り返すだけで、記者会側が「幹部を呼べ」とイラ立ち、そのムードが記事に反 映されたらしい。さらに、「熟慮の末、宮内庁としては不本意ながら云々」ということまで言ってし まった。これでは秋篠宮が宮内庁の制止を聞かず、自分勝手に行ったかのようである。
なぜこうなったか。事情を把握していない職員が記者発表したとも考えられるが、どうも秋篠
宮と宮内庁、外務省はあまりうまくいってないらしい。秋篠宮が各国で調査研究のため現地の 王族も行かないような山奥まで入るので、現地は大歓迎だが、職員は忙しい思いをするせいで ある。
女性問題も根拠がない。秋篠宮は風貌に反して、出不精でありお忍びで飲み歩くことはな
い。学生時代も酒量やタバコは多いものの、コンパやカラオケは苦手で、社交性を心掛けるよ う皇后に諭されているほどなのだ。
秋篠宮は外見は母親似であるが中身は父親の相似であり、そのため何をしでかすか天皇に
は読めるらしい。天皇に性格が酷似しているということだけでも、女性問題など起こしそうにな いと見当がつくだろう。兄の皇太子が地味なため、その対比で派手と思われるがそうではな い。この兄弟はふたりとも地味なのだ。
現在の日常は、朝7時に家族と朝食のあと9時頃に事務室に顔を出しメールのチェックなど
をし、夕方は子供と犬の散歩をする。夜の10時位からウィスキーを飲みだし、飲みながら自分 の仕事を午前2時か3時までする。このため、朝7時に起きるのがつらいのだが、子供の教育 のため無理に起きだしている。どうも2度寝や昼寝をしているようなのだが、確かなことは分か らない。つらいことはこれくらいで、やりたいことをのんびり気楽にやっている。
ニワトリの研究が一番の仕事で、学者としての評価は悪くない。国内外で、一流の学者や標
本に接する特典があるので有利である。
公務での応対は素っ気なく、マイクも紀子妃に向けられることが多い。素っ気ないのはシャイ
なためなのだが、このへんが誤解を生む。サングラスもヒゲもシャイのせいだが隆とした姿形 のため、かえってプレイボーイ染みてくる。
※上記は悠仁親王ご誕生前の記述。現在は、秋篠宮の皇位継承権2位が確定。
タイタニック号保険金詐欺説の真相
1912年4月15日2時20分、タイタニック号は氷山に側面を接触し沈没した。総乗船者数
2,228人中、生存者は705人、差し引き1,523人が死亡した。ただし、数字には数人のぶ れがある。コンピューターのない時代、そもそも乗船者数は正確に把握できないのが普通であ った。イタリア系、中国系の密航者も多くいた上、船員も航海毎に募集するため乗船資格の貸 し借りみたいなこともあって、人数は最後まで確定していない。
それでも、キャンセルが55人あったことは判明している。この55人に、タイタニック号の真の
所有者であるJ・Pモーガンと彼の知人が多く含まれていたため、保険金詐欺説が今日でも蒸 しかえされている。
保険金詐欺説のシナリオはこうである。タイタニック号の1年ほど前に、ほぼ同型のオリンピ
ック号が就航していた。このオリンピック号は巡洋船ホークと衝突し、船体には損傷、経済的に は賠償責任が残った。その後も海中の障害物と接触し、26トンもあるスクリューブレードが脱 落する事故を起こしていた。
当時の造船技術では、大きな損傷を受けると修理をしても耐久性能が格段に落ちてしまい、
オリンピック号では保険を大きく掛けることができなかった。オリンピック号、タイタニック号クラ スが造船費用を回収するには最低6年を必要とするが、オリンピック号は事故のため費用が かさみ回収の目途が立たなかった。
そこで、オリンピック号とタイタニック号のプレートを入れ替え、タイタニック号(実はオリンピッ
ク号)を氷山に正面衝突させ、乗客乗員は付近の船に全員収容されるというシナリオを描い た。正面衝突なら、隔壁により沈没しない構造だったのだ。ところが氷山が夜間予定外に出現 し、あわてて方向転換したため、側面に長く接触し、広範囲で浸水したため2時間しか持たな かった。このため、多数の犠牲が出てしまったというものである。
本当だろうか。確かに不審な点が多い。タイタニック号では、双眼鏡が紛失するという信じら
れない事態が起こっていた。また数回の「氷山警告」を他の船から受信していたにもかかわら ず、速度を遅くするどころか、最速の速度で航行していたことも大きな謎である。さらに、それ までの豪華客船では食器、リネン類には船名が入れられていたが、このころから合理化が台 頭し、備品の使いまわしが効いたため、入れ替えが全く不可能ではなかったらしい。
しかしながら、保険金詐欺説には無理がある。速度を落とさなかったのは、処女航海で最速
記録を作り宣伝したかっただけである。これは、同乗していた、J・Pモーガン傘下の子会社社 長J・ブルース・イズメイの意向であった。船長であったエドワード・J・スミスは、もともと危険航 路でも減速せず突っ込むタイプで、わりと事故歴の多い昔ふうの人物であった。ちなみに、船 長は自分の意思で船と運命を共にしている。
事故のあと、米国で1か月に渡る査問会、さらに英国で同様の査問会が行われ、船員、乗
客、周囲の船、電信会社にいたるまで事情聴取されている。いくら似ているとはいえ、1年以上 も前から就航している船と新品の船の区別が船員につかないはずはない。とくに、機械周りを みれば一目瞭然である。船員にはオリンピック号経験者も多くいたのだ。もし船の入れ替えが あれば、必ず証言が出るはずである。いや、船員でなくともベルファストのドックの作業員など 関係者が全員沈黙を保つとは考えられない。
それよりも気になるのは、ロビン・ガーディナーの「タイタニックは沈められた」など一連の著
書である。保険金詐欺説を展開しているいわゆる御本家で、テレビのスペシャル番組のネタ本 になっている。字数が多く読みにくい本であるが、頭の方から九割ばかり、いろいろ事実関係 をあげ、説得力のある保険金詐欺説を述べている。ところが、最後の方になってくると、「沈め られた」というのが、「故意に沈められた」という意味のほかに、「氷によって沈められた」とも読 めるような逃げをうっており、さらにこれらの疑惑は保険金詐欺という「陰謀説」でもないと説明 がつかない、などと急に自問に後退するような腰砕けなのだ。
どうも著者自身、保険金詐欺説が無理なのは承知しているフシがある。
ドーデ「最後の授業」の真相
小学校6年の国語の教科書で、フランスの作家アルフォンス・ドーデの「最後の授業」という短
編に感動を覚えた人は多いと思う。日本語にして原稿用紙10枚程度のこの作品は、準主役 のアメル先生がドラマチックな役回りのため、教員に受けのいい作品であった。 ![]()
ストーリーはこうである。普仏戦争の結果、フランスのアルザス地方はドイツへ割譲されるこ
とになった。一人の少年が、遅刻の上、動詞の活用を暗記していなかったので、恐々教室に入 る。ところが、アメル先生はやさしくこう言った。
「フランツ、はやく、自分の席に着きなさい。君が来なくても、始めるところだったんだよ」
アメル先生は正装し、今日が最後のフランス語の授業であること、ベルリンの命令でドイツ語
以外を教えてはいけなくなったこと、明日新しい先生がくることを告げた。少年は、教室の後ろ で、村の長老や元の村長、元の郵便屋などいろいろな人達が、悲しそうに座っている訳が分か った。
少年は先生に指され、動詞の活用を言わされるが、答えられない。先生は、勉強を先送りし
たことをやさしく諭したあと、この地方の親達が教育より畑や工場の手伝いを優先したこと、そ して先生自身釣りのため学校を休みにしたことなど、自責の言葉を吐く。さらに続けて、フラン ス語は世界中で一番美しい、一番はっきりした、一番しっかりした言葉であること。民族が奴隷 になったとき、国語さえ守っていれば、自分達の牢獄の鍵を握っているようなものだ、ということ を語る。
「やがて、教会の大時計が正午を知らせた。
アメル先生は真っ青になって教壇に立ち上がった。今までに先生が、こんなに大きく見えたことはない。
『皆さん。』
先生は言った。
『皆さん……私は……私は……』
けれど、何かが先生の咽喉を詰まらせ、先生は、そこまでしか言えなかった。
先生は黒板の方を向くと、チョークを一本とり、全身の力をこめて、できるかぎり大きい字で、
フランス万歳!
と、書いた。
そして、そのまま、壁に顔を押しあてた。それから無言で、僕らに、手で合図した。
『これでおしまいです……お帰りなさい。』」
祖国を失う寂寥感と無力感に包まれた、感動的な幕切れである。
ところが、大人の目で読み返すと、奇妙な点に気づく。物語の少年の名は、フランツである。
フランツ・カフカなどから分かるとおり、フランツはドイツ名である。ストーリーの中に、動詞の活 用を訊かれて少年が立ち往生する場面があるが、日常の話し言葉で動詞の変化が分からな いということはない。ということは、フランス語は教室の中だけのことで、普段はドイツ語を話し ていることがわかる。言い換えれば、ドイツ人にフランス語を「強要」していたということだ。我々 は、何か大きな間違いをしていたのではないだろうか。
実はこの小説は、1870年の普仏戦争でパリがドイツ軍に包囲されるという時代に、戦争に
参加したドーデが体験をもとに、愛国的作品を書いたものである。つまり、フランス人に都合の よい部分だけつまんだ、誇張と歪曲に満ちている創作なのだ。アルザス地方が歴史的にフラン ス領になったのは、1789年のフランス革命以降のことである。その82年後の1871年、普仏 戦争でドイツが勝利しアルザス地方を回復したのが、この物語の時点である。ドイツ系のフラ ンツ少年にとっては、祖国復帰の輝かしい日だ。ただし、この地域はフランス系住民もおり、単 純な「取った取られた」という事情でないのも確かである。
アルザス地方は軍事的な重要拠点のため、第一次世界大戦後は戦勝国のフランスにふた
たび帰属した。第二次世界大戦でヒトラーが優勢な間はドイツに復帰したが、戦後は戦勝国の フランスにみたび帰属して、今日に到っている。
フランスに組み込まれた現在でも、住人の79%はドイツの方言を話している。ドイツ系が、ア
メル先生の教えのとおり牢獄の鍵を握っているのは、歴史の皮肉だ。 新約聖書「ヨハネの黙示録」の真相
先年亡くなった三浦綾子の著書に「新約聖書入門」というのがある。先に出版されている「旧
約聖書入門」もそうだが、三浦の日本人的な日常や感想が織り込まれており、字句に宗教的 なごまかしのない良書である。
「以前私は、新約聖書の中で、この『ヨハネの黙示録』を読むのが一番気が進まなかった。私
と同じ思いの人は意外に多いが、また反対に、この黙示録に夢中になっている人々も少なくな いと聞く。つまり、評価が二つに分かれているということであろう」
という書き出しで、「ヨハネの黙示録」は、暗号がちりばめられていて内容がちんぷんかんぷん
である点、この世の終わりを説いて不安や混乱におとしいれる者がいる点、を気の進まない理 由にあげている。それでも、ローマの迫害のもとで信仰を貫くため暗号を用いた、命がけの書 であることに思い至り、三浦自身命がけでものを書くことができるか問うたあと、無理に自分を 納得させている。 ![]()
「ヨハネの黙示録」というのは新約聖書の最終章に位置し、ローマ支配にたいするユダヤ人
の憎悪を端的に表している。暗号を解いた形で要約すると、以前イエスが治安を乱したかど で、ユダヤ人の長老会議で死刑の判決を受け、ローマ人によって処刑された。イエスは実はメ シヤであり、ローマ支配を打倒してユダヤ人を解放するはずの王だった。いまや、この世の終 わりが近づいている。その日に、ヤハヴェ信仰を守ってローマに屈服しなかったユダヤ人、12 部族からそれぞれ1万2千人の計14万4千人が生きかえって、シオンの山に集まる。イエスが 白馬に乗り、天の軍勢を率いて出現する。サタンは千年のあいだ地底に閉じこめられ、その千 年のあいだ14万4千人は、イエスの玉座のもと地上を支配する。千年が終わると、サタンは打 倒される。あらゆる死人は審判を受けて、イエスをメシヤと認めなかったユダヤ人は第二の死 によって罰せられる。古い大地は消え去り、イエス派のユダヤ人たちが、新しい世界を永遠に 支配する。つまり時間は停止する。
要約だけでも「ヨハネの黙示録」は、無機質の薄気味悪い雰囲気に満ちており、他の章とトー
ンが違うことが分かる。どれだけ譲っても、イエスの教えとは無関係である。「旧約」あたりの話 をベースにしたものが紛れ込んだのか、とも思える。
「ヨハネの黙示録」はどういう文書かというと、1世紀末小アジア西岸地方のどこかで書かれ
たもので、ヨハネと名乗る人物が、霊感に打たれて見た幻の報告である。このヨハネは「使徒 のヨハネ」とも「福音書の著者のヨハネ」とも違う人物である。何者かというと、エーゲ海の南東 のパトモス島にいたらしいということ以外、分かっていない。このような、出所のはっきりしない 文書がカトリックの正典に加えられたのは、2世紀末のことである。当時、終末予言が何種類 も出回り、混乱を収拾するため、教会がそのうちの一つを正典と認める必要に迫られたのだ。 東方教会系では4世紀になってしぶしぶ正典に加えたが、今でも儀式では読み上げない。宗 教改革を行なったマルティン・ルターも、正典からはずすべきだ、という意見を表明した。
「ヨハネの黙示録」は暗号を使っているというが、「ブッシュ大統領」を「薮の殿様」と呼ぶ程度
のもので、誰の目にもローマを当て擦っていることが分かる。ところが、このような反ローマ精 神を含むキリスト教が、392年こともあろうにローマの国教になってしまった。このため、反ロ ーマ的部分は、反ユダヤ、反アラブ、反共、反アジアに姿を変え、最終戦争でキリスト教側の 軍勢が勝利して完結する、というビジョンを引き継ぐ役目を果たすことになった。また、人類滅 亡大予言やイエス宇宙人説など、レベルの低いオカルトや新興宗教も、「ヨハネの黙示録」を 拠りどころにしている。正典とはいえ、いささか問題のある文書ではないだろうか。
三浦は、良心を痛める必要など少しもなかった。「ヨハネの黙示録」は、気が進まなければ読
まなくてもかまわないのである。 三笠宮双子の真相
そもそも「三笠宮」が分かるだろうか。どなたのどなたにあたるのか、存命なのかそうでない
のか、年配の方でもしばし思い返さないと分からないのではないか。
三笠宮は昭和天皇の末弟で、その間には上から秩父宮、高松宮がいる。三笠宮ご自身は存
命だが、平成14年に急逝された子息の高円宮とは逆縁になってしまった。このため、平成15 年正月の慶賀は遠慮された。 ![]()
大正4年12月2日三笠宮は生まれたが、同時に生まれた糸子(いとこ、戸籍上は絲子)は、
大正5年1月8日山本実庸(さねもち)子爵の庶子として生まれたことにされた。今でこそ、双子 どころか五つ子、六つ子と数が増えるほど微笑ましく受け入れられるが、当時は「畜生腹」とい って、1度の出産で複数産むのは動物と同じだということで忌み嫌われた。特に男女の双子 は、「心中の生まれ変わり」という迷信も加わった。皇族、将軍家、公家、大名家では家門の名 誉のため、男女なら女児を、同性なら後から生まれた方を密かに始末した。
糸子は高貴な家の習慣により、嵯峨の宮大工の今井家に里子に出され、5歳半で京都の大
聖寺に入り、ほどなく奈良の円照寺という由緒ある尼寺に移り、「山本静山(じょうざん)尼」とな った。23歳で第十世門跡に就き、79歳で亡くなった。
戦前から、静山尼に限って上京のたび、大正天皇妃である貞明皇太后に、拝謁という形式を
飛び越えて自由に会えた。宮内では「やすこ」という符牒で糸子をよんでいた。三笠宮は天理 大学で月に1、2回講義があったが、その帰りに円照寺に立ち寄っていた。
昭和も深まると、円照寺に伝わる華道「山村御流」の家元として、月に2度上京して、1回は
高島屋、1回は三笠宮邸を稽古場にして指導していた。三笠宮邸では、常陸、秩父、高松、三 笠の妃、旧皇族、女官に教授していたという。
望んで尼僧になったわけではないだろう。学校教育も全く受けず、寺で元教師に教科をひと
通り学び、一生を仏道に捧げた。
「いろいろな事情の中におかれた私は、悲しいときも、うれしいときも、ご本尊の観音様にだけ
そのことをお話してきました」
近代の旧弊と、現代の感覚の谷間にあって、いまさら時間を戻すこともできず、そっとしてお
かれた生涯だったと思う。円照寺は檀家をもたないため、寺の財政も苦しく華道教室で補って いた。そんな中、皇族方の精一杯の接し様が、唯一の救いである。 鼠小僧次郎吉義賊の真相
ひと昔前まで、夏になると京都南座で「鼠小僧」の芝居がかかった。座長は人気スター田村
正和である。最近の田村正和は、もっぱらコマ劇場で「乾いて候」というお毒見役ばかり演じて いる。年齢的に鼠小僧が似合わなくなったのだろう。山本譲二あたりが演れば丁度よいのにと も思う。
それはさておき、鼠小僧は江戸天保期の実在の盗賊をモデルに講釈師が語っていたのを、
河竹黙阿弥が「鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)」という歌舞伎に仕立てたもの である。
歌舞伎のストーリーは次のとおりである。次郎吉は、足軽与三兵衛の倅として庚申の日に生
まれたが、庚申生まれは盗人になるという俗信のため捨てられる。これを拾った女賊のお熊婆 が、盗人に育て上げる。長じた次郎吉は武家屋敷から小判を盗み取り、あわれな境遇の者に 分け与えるようになった。
あるとき、どうしても大枚の必要な刀屋新助に、稲毛屋敷から盗んだ百両を与えると、小判
が極印付だったため盗金と分かり新助は捕らえられる。また、稲毛屋敷を警備していた父の 与三兵衛と、父とは知らずに顔を合わせてしまうが、手引きをしたと与三兵衛が疑われ拷問を 受ける。次郎吉は新助のためよかれと思ってした盗みが、逆に仇になったのを後悔し、自首し て新助と与三兵衛の冤罪を晴らす。
鼠小僧次郎吉の侠気と所業は事実どうであったか、割と記録が残っているため異論は少な
い。次郎吉は天保三年(1832)に捕られると、「異名 鼠小僧事 無宿入墨 次郎吉」と記録さ れる。現代風に云うと「鼠小僧こと本名次郎吉、住所不定、前科あり」となる。前科は、武家屋 敷の盗みに失敗した際、それまで諸所で751両も盗んでいたがシラを切りとおし、捕まった時 の盗みだけ罪に問われたものである。この時は、入墨と江戸十里四方追放という「中追放」で すんだが、なお江戸に潜伏し入墨を削り取った上、89回の侵入で総計2334両盗んだところ でふたたび捕まった。
次郎吉は芝居茶屋の奉公人貞次郎の倅で、幼年のころから木具職人、武家、鳶へ弟子入り
や奉公に上がっていた。木具職人の経験を錠前や土蔵破りに生かし、武家の奉公で武家屋 敷の構造や奥向きの局のありようを知り、鳶の修錬で塀の乗り越えや屋根伝いの逃走を得意 とした。武家屋敷を狙ったのは、町家の方が戸締りが厳重なせいである。また、武家には男子 禁制の局があり、そこから侵入すれば騒がれても武士が駆けつけるまで時間が稼げる計算が あった。また、大名家の中には体裁にこだわり被害届を出さないところもあった。
盗んだ金は酒食遊興博奕に費消し、庶民にバラ撒くようなことはなかった。それでも庶民は
鼠小僧に喝采を送り、武家に対し溜飲を下げた。
ずいぶん捕まらなかったようだが、これには訳がある。町奉行では鼠小僧のことは承知して
いたが、3年ほど打ち捨てておいたためである。庶民を襲わないので放っておいたらしいが、 極印付の金を盗んでしまったため、「もう御用でよかろう」と捕縛に踏み切った。
量刑は結局、引廻しの上獄門となった。これに落ち着くまで町奉行から老中に伺いを立て、
老中は、寺社、町、勘定の三奉行で構成する評定所の議にかける、といった多少の曲折を経 た。前例のない盗みの高であったが、人を殺したことがないことで、獄門より重い磔(はりつけ) にするかどうか迷ったのである。ちなみに獄門はさらし首のことである。数え36歳、鈴ヶ森で打 ち首となった。供養の香を手向けるものは少なくなかった。
時代は、商品経済の発展により農民の階層分化が進み、大量の貧民が町方に流れ、無宿
渡世人や博奕打ちが横行する物騒な世情であった。経済の変化が分からず、精神主義で緊 縮を強いた松平定信の寛政の改革が頓挫した後のことである。事態は一層悪化し、博奕打ち が親分子分関係を軸に結束し、仲間内にだけ侠気が働く、現代の暴力団の原型が出来上が ったのもこの頃である。鼠小僧が講談などで理想化されもてはやされたのも、大量増産された ならず者の好みが投影されている。 ベートーヴェン「月光」の真相
ベートーヴェンのピアノ・ソナタの第14番の作品27の2の嬰ハ短調は、「月光の曲」と呼ばれ
ている。
由来はこうだ。18歳のベートーヴェンが夜ボンの街を散歩していると、ある貧しそうな靴屋の
前に出た。ピアノの音がしたが、自分のへ長調の交響曲であった。その小さな家に入ってみる と、演奏していたのは盲目の少女であった。彼女のためにベートーヴェンは即興演奏をした。 ローソクの火は消え、月の光が部屋にさしていた。「彼は急いで家に帰った。そうしてその夜は まんじりともせずに机に向かって、かの曲を譜に書き上げた。ベートーヴェンの『月光の曲』と いって、不朽の名声を博したのはこの曲である」
教科書にも載っておりよく知られた話であるが、この話が全くのデタラメであることも知られて
いる。話をデッチあげたのは、ヨハン・ペーター・リーザーという作家、詩人、画家、音楽家とい うマルチな才人で、ベートーヴェンの死後7年たって音楽雑誌に載せたものである。音楽雑誌 はシューマンの創刊した「ノイエ・ツァイトシュリフト・フュール・ムジーク」で、掲載は1834年の 号である。この話は瞬く間に全世界に広まった。
アメリカのベートーヴェン研究家、アレキサンダー・ホィーロック・セイヤーが1877年の著書
で、巷間伝えられるベートーヴェンの興味本位の逸話を選び出し、それらが根も葉もない馬鹿 げた話であることを論証した。
それによると、この曲は1801年ベートーヴェンが30歳の作である。ベートーヴェンは楽譜
の表紙に、ピアノ・ソナタ(嬰ハ短調「幻想曲風のソナタ」)伯爵令嬢ジュリエッタ・グイッチアル ディに献呈された、と書いただけというのが本当のところだ。
不思議なことに、嘘とわかったあともこの作り話は消えることなく生き残った。日本には明治
か大正の頃、アメリカ経由で伊沢修二が伝えた。教科書には井上赳という人の文が載った。 ベーリー50年目の真相
昭和37年1月20日、東映女優小宮光江さん(26)が自宅のベットで亡くなった。ガスの元栓
とガスストーブの栓が開いていた。ベットわきのナイトテーブルの上にあったメモ帳に「ベーリ ー、ゴメンネ、ミーコモウダメ」と鉛筆で走り書きがあった。
以下は、当時の大衆紙「内外タイムス」の報道である。
戸塚署は@ガス管がはずれていないA事故なら、うすれた意識のもとで遺書めいたことを書
くより、ドアなり窓辺にはってゆくのが普通、ということで自殺と判断した。
これに対し母親の松江さんは、「前の晩、娘はあす“恋愛学校”のオールラッシュがあるし、ギ
ャラも半分残しているので、それをもらってお母さんになんか買ってあげるといってたんです。 死のうと思っていた人が、そんなことを母親にいいますか?あの遺書とかいわれるメモね。い つも電話のそばにおいて、よくメモするんですよ。クセなんですよ。大切な遺書をメモに走り書 きするなんて……遺書だと即断し、自殺だと決められては死んだあの子が浮かばれません… …」と自殺を否定した。
お手伝いの松沢さんは「ウイスキーを半分ぐらい飲んでいた。ふだんは、小さなグラスで1ぱ
い飲む程度だった」といい、親友で女優の鈴木朝子さんも「多分ウイスキーを飲みすぎて意識 がもうろうとなり、ガスストーブに点火したと思い、そのまま寝てしまった。だから絶対過失よ」と 過失死を主張した。
では“ベーリー、ゴメンネ”のベーリーは何者だったのか。某外人野球選手ともいわれたが、
いまもって不明である。ベーリーはついに名乗り出ないまま、ナゾの愛人ということになってい る。外人であるか日本人であるかさえ、わからない。
小宮光江さんという女優は全く知らない。何せ50年ほど前の話である。自殺か過失かも、正
直分からない。記事からすると、自殺者の行動パターンがよく出ているようにも見える。母親の 主張は主観的な感想の域を出ておらず、ほとんど意味がない。友人の女優の推測は、自殺の 場合でもそっくりあてはまるので、単に可能性の一つを述べたにすぎない。警察の見解は、遺 書めいた走り書きが残っている以上そう判断するよりなく、まあ妥当と思われる。
さて、“ベーリー”の正体だが、これは素直に“Very”であろう。「サンキュー、ベリー、マッチ」
のベリーである。何が「ナゾの愛人」だ。“ベーリー、ゴメンネ”は「本当に、ゴメンナサイ」という つもりで書かれたのである。 重信房子国際テロリストの真相
重信房子のことは記憶にある。中学に小菅生重信(こすごうしげのぶ)君という子がいて、名
前みたいな苗字だとか、親子なら「重信重信」になると思ったからだ。
それはさておき、1972年5月、イスラエルのテルアビブ空港襲撃事件が起きた。奥平剛士、
安田安之、岡本公三を含むパレスチナ解放組織の一つであるPFLPが、戦時下の空港で無差 別乱射、爆弾テロを行なったものである。当初の作戦では、管制塔を破壊し飛行機を分捕って くるものであったが、直前のベルギー・サベナ航空機ハイジャックの失敗から、管制塔攻撃後 直ちに投降し、その後の捕虜交換で生還するのを待つ、というある意味失敗しようのない作戦 に軌道修正された。生き残ったオカモトはアラブ世界で英雄となり、常に捕虜交換の名簿の先 頭に上げられた。
重信は、高校卒業後キッコーマンのOLをしつつ、明治大学二部に入り学生運動に加わっ
た。重信の属していた赤軍派は、共産主義者同盟(ブント)の一派で、世界革命の党と軍の根 拠地をつくり、その力をバックに日本の革命を実現するという「国際根拠地論」を実践しようとし ていた。その最初の作戦が、1970年の例の「よど号」ハイジャックだが、彼らは北朝鮮に取り 込まれ、事実上行ったきりになってしまった。
「よど号」の教訓から、国のない地域に行こうということで、1971年ベイルートへ向かった。
よく勘違いされるが、このときは合法的な出国である。パレスチナ解放闘争は帝国主義に対す る闘いであることに着目し、「武装闘争」という共通項以外は、深い考えがなかったようだ。
1973年の日航ジャンボ機ハイジャックを経て、重信房子の名前はどんどん大きくなっていっ
た。重信は大黒幕で、コマンドを将棋の駒のように動かす非情なテロリストというイメージが一 般的だろう。事実、1974年オランダ・ハーグのフランス大使館占拠で国際指名手配を受けて いる。完全な大物扱いであるが、実際はどうか。
重信がベイルートに渡ったのは、25、6歳の頃で、日本赤軍というそう多くないメンバー中で
も、重要な地位にいたわけではない。しかし重信は度重なる爆撃や暗殺にも不思議と生き残 り、女性ということもあってか日本赤軍の代表格になってしまった。しかし実際は、作戦会議な どにも出席する一方、雑誌の編集や、子育て、有名無名の人と対談など、緩衝剤のような役割 を果たしていた。イラクで日本人が人質になった時も、バクダットまで行って日本人の解放を主 張している。加齢や時代による変化もあるし、意図的に隠している部分もあるだろうが、本人 は代表代行というくらいのポジションと認識していたようだ。
事をややこしくしているのは、「よど号」「浅間山荘」「テルアビブ」「日航ジャンボ機ハイジャッ
ク」と立て続けに起きたため、連合赤軍と混同され、さらに永田洋子のイメージから類推して重 信が報道されたため、実像よりも膨らんでしまった面があることだ。連合赤軍と違って、日本赤 軍に内ゲバは一切ない。ただし、日本赤軍と連合赤軍は、かつて同志であったり、顔見知りの 者がいたりしたため、「日航ジャンボ機ハイジャック」の超法規的措置において何名かが日本 赤軍にスカウトされている。
その後、アラブの息子オカモトは大歓迎の中、捕虜交換で釈放された。岡本は独房で、頻繁
に手足を鎖につながれて放置されたり、大量のモルヒネを投与されたりして廃人同様になって いたが、決して恩義を忘れないアラブ的なメンタリティーにより、手厚い介護を受けている。
さらに時代は下り、アラブへ武器を提供していたソ連・東欧の崩壊で、米・イスラエルの圧力
が強まったことで、レバノン政府は1997年日本赤軍5人を逮捕拘束した。ところが、うっかり 英雄オカモトが含まれていたため、全アラブで非難が起こり、あわてた政府は岡本を釈放する 一方、残りの4人を極秘にヨルダン経由で日本に送還した。どうも、岡本以外は岡本の余徳で 活動できていたような気がする。
てっきりアラブかどこかに潜伏していると思われていた重信は、2000年11月大阪府高槻市
で逮捕された。
テレビの映像を観て仰天した。オノ・ヨーコが逮捕されたように見えたからである。
送還された時点から、公安は所在を知っていたのだろうが、すぐには逮捕しなかった。日本
の支援者を把握したかったのだろう。容疑も偽造旅券がどうのといった、常套のやつである。
弁護士によると「武装闘争」はもうしないと語っているとのことだ。理由を訊かれて「私たちは
今まで、その時代、その民衆が必要とする闘争をしてきた。今の日本はそれを必要としていな い」と答えたそうである。 橿原神宮御鎮座の真相 ![]()
橿原神宮外拝殿 橿原神宮参集所
考古学で捏造があったのは記憶に新しいが、史跡にも偽史跡といってさしつかえないものが
ある。
近鉄橿原線、近鉄南大阪線、近鉄吉野線が交わる「橿原神宮前」駅で降りると、畝傍山のふ
もとに橿原神宮と神武天皇陵が広がっている。橿原神宮は神域15万坪の鬱蒼たる森になっ ており、野球場や陸上競技場が隣接している。甲子園の予選の時期にあたり、ブラスバンドが 「ルパン3世のテーマ」を鳴らす中、「ピッチャー何番、ナントカ君」というアナウンスがこだます る。
さて橿原神宮の由緒だが、橿原神宮で販売しているパンフレットによると、神武天皇が畝傍
山の東南・橿原の地に皇居を営んで即位の礼を行なったとある。そして、明治になり、神武天 皇の御聖徳を景仰して、この橿原宮跡に神宮創建の請願が民間有志から起こり、明治天皇が 元京都御所の賢所と神嘉殿を下賜され、明治23年4月2日御鎮座になった、とある。
神武天皇に歴史的実在性はないが、古くからの伝承を基に祀ること自体、そう変な事ではな
い。ところが江戸期の認識はどうであったかというと、この地に神功皇后を祭神とする「畝傍明 神」という小さなお宮があったきりで、神武天皇のことは誰も知らなかったのである。橿原宮跡 などという痕跡もなく、それどころか明治23年まで神武天皇を祀る神社など、日本のどこにも なかったのも事実だ。実際は明治政府が陵墓整備の際、神武の陵墓を畝傍山のそばの、現 在の高市郡に持ってきただけのことであり、伝承でも何でもなかったのである。
この明治23年の御鎮座でも、神域は小さく、野っ原に神社があるだけだった。ところが、昭
和15年を記紀の記述から比定して、皇紀二千六百年とし、神武天皇を架空とした津田左右吉 博士の著書を発禁にした。もちろん「皇紀」は全くの創造であり、昭和15年より前に「皇紀」は 存在しない。そして神宮は学徒動員で大規模な拡張工事を行なった。このとき駈り出されたの が、当時学生だった黒岩重吾や司馬遼太郎たちである。
両名とも空腹の中での勤労奉仕が恨めしかったせいでもないだろうが、神宮が虚構に虚構
を重ねてそれらしく仕立て上げた、国家神道のためのオープンセットにすぎないことを指摘して いる。そして国をあげての国威発揚、戦意高揚の祝典や行事が、翌年の太平洋戦争につなが ったことを強く批判している。敗戦後、奉安殿などといっしょに解体されても不思議はなかった が、免れた。
現在の橿原神宮は、大相撲ができそうな広々とした境内と、半世紀を経て丹塗りが落ち、ほ
どよく古色を帯びてきた鳥居や拝殿により、ある種の威容を誇っている。伏見稲荷や住吉大社 と違って、民間信仰や習俗に拠って経営が成り立っている様子もない。近年の右傾化を考え れば、靖国同様順境にあるといえる。 キュリー夫人不倫スキャンダルの真相
キュリー夫人は1903年ノーベル物理学賞、1911年ノーベル化学賞を受賞した。女性初の
ノーベル賞であり、2度の受賞は男女を通じても初である。1902年までにポロニウムとラジウ ムは発見していたので1回目の受賞は業績的によく分かるが、2回目の受賞はよく分からな い。
ノーベル賞がスタートしたのが1901年なので、たまたまキュリー夫人が女性初に当たったよ
うに思えるが、ノーベル賞のスタートが100年早くても第1号はキュリー夫人のはずである。昔 は女性が学問を積むことは、女らしさを損なうと考えられていた。19世紀半ばのフランスで女 子中学コースが設置されたとき、娘を通わそうとした親に、比喩ではなく本当に石がとんでき た。ジュリー・ドービエという女性が運動して大学受験にこぎつけ、合格後数年してから入学を 許可され、その後も有形無形の妨害にあい、卒業に10年かかっている。
キュリー夫人となる前のマリーは物理学科を1番で卒業後、2つ目の学位を目指して数学科
に在籍中、工業振興協会から研究を委嘱された。この指導にあたったのが、パリ市立物理化 学学校の新進学者ピエール・キュリーである。
マリー27歳、ピエール36歳、質素に結婚をした。ピエールは「ピエゾ電気」の業績があった
が、処世に興味が無く冷遇されていた。島津製作所の田中耕一氏のような人である。
1903年に夫婦でノーベル賞を共同受賞すると、一晩にして世界中のマスコミが押し寄せる
ようになる。3年ほどしてピエールが馬車に轢かれて即死すると、マリーは茫然自失となった。 ピエール享年46歳、残ったのはマリー38歳、8歳のイレーヌ、1歳半のエーヴである。後に長 女のイレーヌはノーベル賞を受賞している。
マリーはピエールの授業を引き継ぐため、講師に任命された。2年ほどで教授に任命されフ
ランス初の女性教授になるが、ピエールが死ぬまでノーベル賞受賞者でありながら、ピエール の研究室の実験主任でしかないことに時代を感じる。
1911年人の薦めで科学アカデミーに立候補するが、「男の最後の牙城を守れ!」という運
動により2票差で落選する。担ぎ出された対抗馬が、ほとんど業績の無い老学者なので、マリ ーは落胆した。この時の立候補は、先々不利に働いた。論争で木端微塵に論破された男性科 学者の恨みが積もっていたのである。
1911年11月『ジュルナル』という新聞の一面トップに「恋の物語、キュリー夫人とランジュヴ
ァン教授」というスキャンダル記事がでた。ポール・ランジュヴァンはピエールの弟子であり、後 を継いで物理化学学校の教授になっていた。仕事を理解しない妻と別居状態で、十数年来の 顔見知りであるマリーに相談しているうちいつしか恋愛関係になったのである。「一緒に暮らせ るように、奥さんと離婚してください」といったマリーの手紙が何通も特集号に掲載され、「キュリ ー夫人が5歳年下の妻子ある教授と不倫」という大スキャンダルに発展した。「ポーランド女は 出ていけ」と投石され、友人のボレル教授の家に避難する始末である。マリーは憔悴しきった 様子で自殺の恐れもあったので、ポーランドから兄姉が急遽全員駆けつけた。
二度目のノーベル賞受賞はこのスキャンダルの渦中にあって、身も心もぼろぼろになってい
るときであった。受賞にはマリーを励ます意味もあったという。しかし、この偉業もマスコミのス キャンダル報道合戦を静めることはなかった。1年の休職を経て大学に復帰したが、しばらく は旧姓の「スクロドフスカ」を使っていた。
二人が恋愛関係にあったのは事実だが、女性ゆえの集中砲火であった。現在でいうバッシ
ングである。粋なフランスのこと、当のランジュヴァンを始め、男性なら全く非難されることはな かった。女性の台頭に対する一種の魔女裁判である。
1914年の第一次世界大戦勃発でスキャンダルはようやく風化した。マリーはレントゲン車を
200台用意し、レントゲン技師も養成して傷痍兵の治療に大きく貢献した。祖国ポーランドも念 願の独立を果たした。
1921年アメリカの婦人雑誌に6週間の招待をうけ、そこで握手攻めにあい腕を吊って残り
のスケジュールをこなした。この訪米でマリーは本格的に立ち直った。
マリーはラジウムの研究を続けたかったが、誰でも研究できるよう精製法の特許をとらなか
ったため、工業的に精製されるラジウムが高すぎて買えないという妙な状態になっていた。若 い頃、手作業でやっていた精製は、時間的にも体力的にも不可能であった上、得られるラジウ ムも微々たる量でしかないのである。そこで、先の婦人雑誌が寄附を募り、1グラムのラジウ ム(現在の価値で1億円相当)を贈られた。
マリーは66歳で白血病に冒され死亡した。ラジウムを素手で扱ったためである。
日本で最初に正規に大学入学が許された女性は、1913年東北帝大の理学部の3人であ
る。理学部というところで、「キュリー夫人効果」であることが明らかである。東大はこれに遅れ ること30余年、第二次世界大戦後のことであった。 落柿舎小庵の真相 ![]()
落柿舎門 蓑と笠
トロッコ嵯峨駅がJR嵯峨嵐山駅の西に出来たため、嵯峨野が京の西端という感じが薄れ
た。今は観光用の人力車が行き交い、甘いレトロ調にくるまれている。人力車はバブル期に学 生が始めたベンチャー事業と記憶しているが、京のあちこちでちゃんと生き残っている。
駅から西へ道なりにたどると、自然に常寂光寺に着く。その手前にあるのが落柿舎である。
落柿舎は芭蕉が46歳の1689年、48歳の1691年の二回、寝泊りしている。48歳といって も、満年齢で47歳である。
落柿舎というのは高弟向井去来の別荘で、この縁から俳諧の名所となり、今でも保存会が設
けられている。
門を入ると、奥行きのない侘びた茅葺きの小庵が二棟建っている。手前の棟に俳画などが
展示されており、奥の棟は俳句愛好家の句会所になっている。見所は何も無い。他の観光寺 と異なり、入場料も200円と実費である。入口で「俳聖かるた」という、俳画と俳句でかるたに なったものを800円で販売している。訪れるたび2セット買って、機会があれば就学児童にプ レゼントしている。販売しているといっても、なぜかこちらから云わないと出してこない。
この建物が芭蕉の泊った本物の落柿舎でないことは、素人でもわかる。記録によれば、落柿
舎に40本の柿の木があり、ひと晩で実が落ちたので落柿舎と名づけられたとある。また芭蕉 が去り際に、奥の一間一間を見て廻わったという。現在目にしている狭い敷地の小庵のような ものではなく、立派な屋敷であったことがわかる。
本当の落柿舎は、去来が当時の富豪三井秋風(しゅうふう)の古くなった別荘を買ったもの
で、場所も現在とは少し異なる。
1704年去来が死ぬと壊され、これをなげいた俳人の井上重厚(じゅうこう)が半世紀を経た
1770年に、菊亭大納言の庭の腰掛け茶屋の一軒をもらいうけ、弘源寺の地に移して再建落 柿舎とした。この地が現在の落柿舎の場所である。
ところが、落柿舎三代の丈渓(じょうけい)、四代の吾同(ごどう)のとき、建物は弘源寺の所
有となり、老僧の隠居所、早い話が「捨庵」とされた。そこでやむなく下嵯峨北之町に別の落柿 舎をつくって住んだ。さらに五代石外(せきがい)、六代丈翠(じょうすい)のときに車折(くるまざ き)神社の境内に移り住み、七代一白(いっぱく)のとき渡月橋畔の仮の落柿舎に住んだ。
八代柏年(はくねん)の明治28年、嵯峨の旧家小松喜平次が、弘源寺の元再建落柿舎だっ
た捨庵を買いうけ修理し、ようやく今の場所に戻ることができた。
いくら昔でも俳句では生活の資にはならず、俳人の手だけではこんなささやかな旧跡でも維
持は困難であった。これを守り通そうとした歴代の俳人の熱意には、打たれるものがある。
落柿舎の前には、どちらの農家か分からないが本職の畑がある。あちこちの観光寺で、仏
像だの襖絵だのちまちましたものを勿体つけて見せられた後にこの畑の前に出ると、おもいっ きり伸びをしたような気分になる。 ![]()
句会所 落柿舎前の畑
エドモンズ大学日本校看板の真相
ゴルフ場へ向かう山道などで突如出現する「エドモンズ大学日本校」の看板。北は北海道の
奥地から、福井、三重、奈良、兵庫、岡山、九州、沖縄は宮城島など全国で目撃されている。 動物注意の交通標識があると、そろそろ出るころかなと構えてしまう。奈良県十津川村で見か けた時は、こんなところでお目にかかるとはと驚いたこともある。
学校にしてはいささか常軌を逸した宣伝と、閉校後も撤去されずに放置されているという不思
議がいろいろな憶測を呼ぶ。 ![]()
おっ、こんなところにも 全景
「エドモンズ大学日本校」跡は、神戸電鉄北鈴蘭台駅を東に20分歩いたところにある。周囲
に日本人が居ないような隔絶された山中を想像していたが、案に相違して住宅や学校などが あり、住宅街のはずれといった感じであった。駅から20分というロケーションでは当然である。 建物は大手予備校くらいの大きさで、わりと立派だったことが見てとれる。その代わり敷地が 狭く、日本の感覚では素直に「大学」とは言いがたい。しかし、現在目にしている敷地が狭いだ けで、当時はもっと確保されていたのかもしれない。
閉校してからはしばらく放置されたため、窓ガラスも割られ廃墟になりかけたが、現在は写真
のとおり業者によって改装工事がすすめられている。OBは安心していい。 ![]()
改装中のエントランス エドモンズ・コミュニティーカレッジ・ジャパン
「日本にいながら留学体験」といったキャッチフレーズで、州立大学が大挙して上陸してきた
のが90年代である。1990年だけでも「ミネソタ州立大学」「アリゾナ州立大学」「オクラホマ州 立大学」「オレゴン州立マウントフット大学」「テキサスA&M」「ニューヨーク市立大学」など8校 が開校した。我が「ワシントン州立エドモンズ大学日本校」も同じく90年の開校である。90年 以前にもすでに27校が存在している。
実は、90年以前と90年以降では事情が大きく異なる。現在でも生き残っているのは90年
以前のものであって、90年以降に開校したものは見事に霧散してしまった。90年以前に開校 したものは、在日外国人を対象としたいわゆるアメリカンスクールをベースに、日本人向けに 講座を用意したもので、経営がしっかりしており「テンプル大学」「フィリップス大学」など現在も 続いている。これに対して、90年以降のものは、昭和61年に貿易摩擦解消の一環として作ら れた「日米貿易促進委員会」による自治体への斡旋がきっかけで、要は、地域おこしや、あか らさまな営利目的の私人が、粗製濫造したものであった。 ![]()
横手 オー、アメリカン!
エドモンズ大学は写真にもあるとおり、当時神戸市議であった溝田弘利氏が開校したもの
だ。溝田氏はかつて市議会議長も務めており、溝田グループの中核企業「溝田旗工業」の社 長でもあって、「エドモンズ大学」の他、「神戸弘陵学園高校」「姫路学院女子短大」の教育3法 人を経営していた。「神戸弘陵学園高校」は野球留学で有名である。「姫路学院女子短大」は 昭和61年に溝田氏が経営を引き継いでから、「ひめがくキャンパスランド」をオープンし、自動 車教習所、ゴルフ練習場、会員制スポーツクラブ、温水プール、エアロビクス・スタジオ、一戸 建学生寮、80匹の犬を擁した「ワンワンカレッジ」、子馬10頭を擁した「ポニー牧場」、高級イ タリアンレストラン、姫路バンブー植物園、ショッピングセンターなどを学内に建設し、文字どお りのレジャー大学と揶揄された。しかし無理な拡張がたたり、転落していく。順を追うとこうな る。
@90年 4月 「エドモンズ大学日本校」開校。
A91年10月 市議から参院選にくら替え出馬。自民の公認が得られず落選。
B93年 6月 「姫路学院女子短大」教職員の給与遅配。定員の4〜7倍の学生を入学させて
いたことが発覚。
「ワンワンカレッジ」「ポニー牧場」閉鎖。
国税の滞納で、大阪国税局に校舎を差し押さえられる。
C93年 7月 「エドモンズ大学」から撤退し、芦屋市の不動産会社「プランナーズ・インターナ
ショナル」(前田潤社長)に経営を引き継ぐ。ただし、「エドモンズ大学」の負債 70億円は溝田氏の負担とする。
D93年 7月 「神戸弘陵学園高校」の理事長辞任。
E93年 8月 「溝田旗工業」が20億の負債を抱え和議申請。
このあと、「姫路学院女子短大」「エドモンズ大学」も閉校になる。「姫路学院女子短大」のキャ
ンパスは99年の閉校後、2000年「近畿福祉大学」に改組された。「エドモンズ大学」は六甲ア イランドに第2学舎を作り建て直しを図ったが、97年に閉校となった。 ![]()
たかし とも吉 豆吉 警備員詰所跡
「エドモンズ大学日本校」の顛末はこのようなものだが、本国の「エドモンズ大学」の関与はど
うであったかというと、本国の方はこの日本校の頓挫にたいし全くダメージがない。州法は日本 校を作るといった事業に公の資金を使うことを禁じており、日本校から進学してきた日本の学 生に対しても、州の住民より高い授業料を課していた。本国側は、大学名称と教育プログラ ム、幾人かの教授やスタッフを提供するのみで、日本校開校の費用やリスクは日本側が負う 契約になっていた。本校へ進学する場合の手続きは、あくまで生徒が自分で行なわなくてはな らず、教科書も買い直しする必要があった。進学というより、あらためて留学するといった方が よく、このことからも本校と日本校は別物に近かったことがうかがえる。
「エドモンズ大学」にかぎらず日本校の成功には学生のやる気が必要で、成功している日本
校は、留学やMBA取得のステップとして普通の大学以上に真剣に取り組んでいる学生が多 い。閉校に至った日本校は、平均以下の英語力を持つ学生しか集まらず、最初からハンディ のある状態からスタートを余儀なくされた。 ![]()
裏手 一時「クラーク外語学院」に(現在は撤退)
「エドモンズ大学」の卒業生は、現在30代後半。キャンパスライフは十分楽しかったらしい。
日本では各種学校扱いで、大卒資格ではないという曖昧な学歴をどう捉えているかは分からな い。しかししょせん学歴は、日本では就職活動のためにあるようなもので、企業が大卒とみな せば大卒である。また、日本での価値がどうあれ、米国では立派にカレッジ卒で通用するだろ うから、ドル建の外貨預金を持っているようなものである。
さて始めに戻って、全国津々浦々に看板がある不思議と、経営撤退後も撤去されずに放置
されているという不思議だが、こう考えることができる。
写真を見ると、結構な大きさで溝田氏の名前が掲示されている。看板を出した当時、溝田氏
が神戸市議であったことを考えると、看板に名前が掲示されている以上地元ばかりに設置す ると、公職選挙法に抵触する恐れがあったのではないか。あくまでも大学の宣伝ということで、 全国に満遍なく配置する必要があったものと思われる。その後、参院選に転じたのも深謀の 結果とも考えられる。
放置されている理由は、撤去費用の負担が困難なためだろう。また青色の大学名は褪色し
て判読しにくくなっているが、理事名の方は黒色でくっきり残っている。残しておいて損はないと 考えているかどうかは、分からない。 ![]()
沿道 大学名がすっかり褪色
![]()
福井県永平寺町で発見、政権交代。山本薬局 同じく永平寺町、「ひめがく」と1ペア
大内九段暴行事件の真相
プロの将棋棋士の大内延介(おおうちのぶゆき)九段(62)が、成田空港で日本航空の案内
係と搭乗遅れを理由に口論となり、顔を殴って軽いけがを負わせたとして、千葉県警新東京空 港署の事情聴取を受けた。
日本航空などによると、大内九段は同日午前9時50分発のソウル行きに搭乗する予定だっ
たが、15分遅れで搭乗口に到着。同便は出発した後だった。案内係の日航関連会社社員と 口論となり、顔を1回殴ったという。
社員は3週間のけがと診断された。
大内九段は同署の事情聴取を受けた後、逃亡の恐れがないため釈放され、別の便でソウル
に出発した。同署は帰国後、再び事情聴取するということだ。
この事件で棋界は大揺れした。しかし一般の人は大内九段なぞ知らないだろう。かつて名人
戦で中原名人をあわやというところまで追い込み、名人位に片足をかけた男と言われた棋士 である。政治家でたとえれば、大臣経験者で派閥の領袖くらいのポジションにいる。現在でも現 役でかつ重鎮、発言に影響力のある一流棋士なので、将棋連盟は対応に苦慮した。
結局、将棋連盟は安直に一番下手な対応を取った。ソウル行きは公務ではなくプライベート
の旅行なので、「だんまり」を決め込んだのである。プライベートというのは本当であるが、連盟 がそれを理由にコメントする立場にないと主張できると考えたのは、いささか世間を知らないた めである。
連盟には、なにかマズイ事があると「だんまり」で沈静化を待つという、いつもの手段を採る癖
がある。中原、林葉のスキャンダルのときもこの手の逃げに終始し、現在中原は将棋連盟会 長に納まっている。
かつては、それでやり過ごすことが可能であった。ところが時代は変わった。米長九段のホ
ームページをはじめ、各将棋関連のサイトの掲示板に、「棋士のモラル」「驕慢」「情報開示」 「謝罪」「再発防止」「社会的責任」といったタイトルで非難の書き込みが集まった。
反響にたじろいだ連盟は、理事会のあとコメントすると時間稼ぎに出た。あげくに理事会で出
されたコメントが、次のような当事者意識の無いお粗末なものであった。
『理事会よりご報告
本日、理事会より下記のとおり報告がまいりましたので、ご報告申し上げます。よろしくお願い申し上げます。
10月10日、成田空港にて起きました件につきましては、関係の皆様方にご迷惑をおかけいたしました。
日本将棋連盟として深くお詫び申し上げます。
本日、大内延介九段本人より謝罪の文章が理事会宛に提出され、理事会ではこれを受理いたしました。
平成15年10月15日
社団法人 日本将棋連盟 理事会』
理事会は大内九段の謝罪文を受理したというだけで、経過説明も処分の内容も無い。そもそ
も処分も考えておらず、これで幕引きと考えている様子がみえる。この連盟の発表は、さらに 掲示板を賑わせることとなった。
非難の多くは、棋士が幼少の頃から「先生、先生」と持ち上げられることが多く、人品ともにエ
ライ先生だと勘違いしているのではないか、というものであった。これは、ある世代の棋士まで は当たっている。ある世代というのは、谷川王将あたりが分かれ目で、谷川以降は紳士でエリ ートと云ってだいたい差支えない。逆に谷川より上の年代は、将棋が強くても尊敬できないよう な人の割合が高い。
なぜそうなったか述べることが、連盟の体質を理解する助けになるので時代を追って記す。
木村、升田、大山の時代は、将棋指しは博打うちの延長でアウトロー比率が高かったのは時
代的にやむを得ない。次の二上、大内、内藤、米長、中原の時代はどこも家計が苦しく、進学 か将棋かで将棋を選択した内弟子経験者たちである。ここで例として名前の上がっている連中 は立派な棋士であるが、人格的にそうでない棋士もいる。この世代は、日本の文化をしょって 立つという気概があった。
次の、石田、故森安、田丸、淡路、真部、森、青野の世代は、強くもなく弱くもなくといった状
態で、上の世代に完全に押さえ込まれてしまった。ハングリー精神に欠け、将棋を職業としてと らえてしまったようにも見える。真のエリート層は進学してしまい、将棋以外の世界へ行ってし まった。彼らは山登りなど趣味が多彩で、棋士のマイホーム化ともいえる。
さらに次の、伊藤、菊池らの時代になると将棋界に逆風が吹き、将棋指しを目指す若者が減
ったため、やむなく昇段基準を甘くした。したがって、プロになっても上の世代、下の世代に星 を提供するばかりで発言力も弱く、不作の層をなしている。この不作の世代と、一つ上のマイ ホーム世代が理事などの要職を担う年齢になっており、今回のようなトラブル処理などに強い 姿勢を打ち出せないでいる。
ところがさらに年代が下ると、東大将棋部が全国優勝し、将棋と学力が比例するといった都
合の良い誤解が広まった。ここにきて将棋ブームが起こり、棋士という職業に人気が集まっ た。両親に押されて棋士を目指したような田中寅、谷川、高橋、塚田、島、南、藤井の世代、さ らに母親に連れられて棋士を目指したような羽生、森内、佐藤、郷田、先崎らになると、棋士に ならなくてもエリートで通用する。理論と研究と研鑚により、旧世代を圧倒している。昇段基準 が元の厳しさに戻されたが、そこを勝ち抜いてきた実力は相当高い。
ここで、大内九段の名誉のため弁護しておきたい。報道では大内九段が搭乗口に勝手に遅
れてきておきながら、乗り遅れたことに腹を立てたかのように書かれているが、これは一方的 な記事だ。真相は、手荷物検査場で時間を取られ大内九段が「間に合うのかい」と云ったとこ ろ係員が「電話連絡しておきます」とのことで安心していたら、搭乗口で「聞いてません」と言わ れ口論になり、ついついポカリとなったのである。
大内九段は東急デパートの将棋祭りで実物を見たことがあるが、実にきっぷがよくさっぱりし
た人物である。喧嘩っ早い江戸っ子のノリでときどき仲間を殴ったりするが、理不尽なことに腹 を立てることはあっても、理不尽に腹を立てるような人ではない。勝負には淡白で棋士としては 損な性格である。こんなことであっさり引退表明する可能性も高い。 ドクター中松発明王の真相
発明王ドクター中松は、忘れた頃にテレビや選挙に顔を出す。知的な批評や重々しく締め括
りたいときにコメントを振られたが、すぐにその任ではないことが割れた。「いったい偉いのか 偉くないのか」グレーのままB級C級タレントに堕ちていったが、かえって納まりがよくなった。発 明品のジャンピングシューズで跳ねながらテレビカメラのフレームに入ってきて、お約束どおり コケてくれたりもする。
そもそも「町の発明家」には変人が多いものだが、ドクター中松をその括りに入れるか入れな
いかは悩ましい。東大から三井物産という経歴にも、ある意味「箔」がある。「町の発明家」に 押し込めるには、スケールが大きいところがあるように思えるのだ。
ドクター中松の経歴はとても書き切れないが、有名なものだけでも次のとおりである。
@2,360件の発明。ちなみにエジソンは1,093件。
Aフロッピーディスクの発明。
B世界発明コンテスト11年連続グランプリ。
Cニューオリンズ市、メリーランド州など11市州で名誉市民。
Dロサンゼルス市、ニューヨーク州など9の市州で「ドクター中松記念日」制定。
Eニューズウィーク誌の「世界12傑」に日本から唯一選ばれその価値1時間1万ドルと評価。
Fブッシュ大統領から親書をもらう。
G永久機関「ドクター・ナカマツ・エンジン」発明。
眉ツバな経歴と思うなかれ。全て本当のことである。ウソは一つもない。ただし、ウソは一つ
もないが、物は言いようである。消火器の訪問販売業者の「消防署の方(角)から来ました」と 同じである。
ひとつひとつの実態は次のようなものだ。
@発明は、自分で「これは発明である」と主張すれば発明である。いわば自己申告である。ドク
ター中松の特許件数は193件である。エジソンの特許件数と並べるので勘違いしてしまう。
A1948年東大在学中に「ナカビゾン」という、紙の裏に磁性体を塗り記録する、紙製のソノ
シートのようなものの特許を取っていた。1972年にIBMがフロッピーの生産を始めると、
1977年にIBMとフロッピーディスク関連のパテント契約を結ぶ。「ナカビゾン」とフロッピー
ではかなりイメージが違うし、日本の特許法では20年で権利が消滅している。しかし訴訟社
会の米国では、いちいち争うよりナニガシかのお金で、契約することが多い。
B自分で主催する「国際発明家協会」のコンテストで11年連続受賞である。
C寄附などで実に簡単になれる。記念スタンプに近い制度。
DCに同じ。もちろん祝日にはならない。
E講演料が1時間いくらというランク表。ドクター中松は一番安い1万ドル。これはすごい。
Fブッシュが大統領になる前だが、「国際発明家協会」のコンテストに送った手紙。日本でいえ
ば、政治家の祝電のようなもの。
Gソーラーパワーで動くモーター。太陽光を遮ると止まる。
ドクター中松には「醤油チュルチュル」という実用品の大発明がある。現在の、石油缶にさし
て、頭の赤い蛇腹をペコペコ押すと石油を汲み上げる二股のあれだ。発明家の実績としては これだけでも立派なものだ。オモシロ文化人枠でいいだろう。 ココ・シャネル革命児の真相
シャネルといえば、高級ブランドの代名詞としてゆるぎない地位にある。年配の男性なら、香
水のブランドして刷り込まれているかもしれない。そのシャネルも、最初はファッション界の反逆 児、オートクチュールに挑戦する革命的デザイナーとして世に出た。
シャネルが「黒のドレス」で大旋風を起こしたのは、1926年のことである。第一次世界大戦
と第二次世界大戦の間「狂った時代」と呼ばれたこの時代は、一方で女性の生き方が大きく変 わった時代でもあった。日本で「大戦」といえば第二次大戦を指すが、世界で普通に「大戦」と いえば、第一次大戦を指すほど社会的な影響が大きかった。この「大戦」で風俗習慣が崩れ、 仕事、スポーツ、運転などに女性が進出した。
社会の底辺で時代を見つめ続けていたシャネルは、行動する女性の時代にふさわしい、シン
プルにしてエレガントなファッションを打ちだした。シャネルの登場により、それまでのベル・エ ポック調は姿を消し、ファッションは一新された。 ![]()
ベル・エポック調 黒のドレス
第二次大戦後、「対独協力者」として10年間フランスから追放され、シャネルは過去の人とな
った。この間、クリスチャン・ディオールら若手男性デザイナーが、再び女性の身体を束縛する ようなファッションを流行らせていたことにシャネルは憤った。おしゃれで機能的ないわゆる「シ ャネル・スーツ」を引っさげ、執念のカムバックを果たした。71歳であった。
シャネルは、社会的に最下層の貧民からスタートした。
@1883年8月19日、ロワール河沿いの都市ソミュールで生まれる。日本でいえば、鹿鳴館
時代である。本名ガブリエル・シャネル。父はアルベール・シャネル。母はジャンヌ。父のア
ルベールは縁日で作業服や下着を売る行商人。かなりの二枚目で、女たらしの、だらしない
人物であった。立寄った先々で女性に手を出し、ジャンヌもその一人であった。姉、シャネ
ル、妹の3人が出来てやっと入籍。さらに下に3人作った。(うち一人は早世)
A過労と心労で、母33歳で死去。シャネル11歳。孤児院に預けられ、父は蒸発。
B20歳のとき、ムランという街で衣料品店の住み込み店員になり、店員とお針子をする。店を
通さず注文がくるなど、腕は良かった。
C店員をやめ、歌手になり「ココ」の愛称で呼ばれる。父譲りの美貌で、地元ではちょっとした
人気者になる。
D一段上を目指し、保養地ヴィシーの舞台に立とうとした。ここをステップにパリを狙う計画だ
ったが、ヴィシーの水準が高く行き詰まる。
E24歳のとき、ファンの騎兵士官エチエンヌ・バルサンの愛人になる。日陰の身ながら城館を
与えられ気ままに暮らす。暇にまかせて友人に帽子を作り、評判になる。
F無為にあきたりず、青年実業家アーサー・カペル(通称ボーイ・カペル)と恋に落ち、パリで帽
子作りを始める。バルサンやカペルの後援で流行る。
G27歳で帽子専門のブティックを開店。パートナーは、バルサンからカペルに完全に移る。
H30歳のとき高級避暑地ドーヴィルに店を出し、服を手がける。第一次大戦で上流階級が大
挙して避難してきたため、客であふれかえる。
I31歳、女性用の水着をつくり自ら海に入る。ここから女性の海水浴が始まる。
J40歳、「黒のドレス」発表、大旋風を起こす。
K模造真珠やガラス製ビーズなど、「ビジュー・ファンテジー」(模造装飾品)を流行らせる。
L香水「シャネルの5番」を発表。80種類の成分を調合した香水は、それまでの「花の香」の
伝統を終了させた。エルネスト・ボーが試験管を差し出し、シャネルが5番と番号が振ってあ
るのを選んだという誕生逸話はあまりにも有名。
Mカペル自動車事故で死亡。
N60歳、第二次大戦でフランスがドイツに降伏すると、ドイツ大使館付きの元将校と交際。
「帽子作戦」と名づけた、ヒトラーとチャーチルを会見させ和平交渉させるという、子供じみた
計画を実行しかけ、失敗する。
O第二次大戦後、フランスを追放され、スイスへ9年間亡命する。
P71歳、10年以上のブランクを経て、第一線に復帰しようと1954年ショーを開く。冷ややか
に迎えられ、時代遅れと酷評される。仕事上初めての挫折。
Qところが1年後、アメリカで「シャネル・スーツ」がどんどん売れ出す。機能的でシンプルなデ
ザインは、活動的なアメリカ女性に受け入れらた。既製服時代の大量生産に合うことも、成
功の要因であった。
R1971年、万博の翌年87歳で死去。
会社でのシャネルは暴君だった。仕事場はぴりぴりとした空気が張りつめ、シャネルの癇癪
玉に緊張した。シャネルと話すときは直立不動で、どんな要求でも「ノー」と答えてはいけなかっ た。シャネルはホテル・リッツに住み、向かいのシャネル本店と16年間往復した。どこに向け ても毒舌は冴え渡った。
死亡後、それまで本人が語っていた少女時代がほとんど作り話であったことと、年齢が10歳
ほど合わないことが判明した。 ナスカ地上絵の真相
地上絵は、ペルーの首都リマから444kmほどの赤道南部ナスカ平原にある。サルが90m、
コンドルが136m、よく写真でお目にかかるハチドリで50mの大きさがある。また巨大な直線 や幾何学的な抽象模様もある。
地上絵は1936年、上空を飛行中の航空機から発見された。これらの絵はちょうど2000年
ほど前、日本の弥生時代に描かれたが、いったい「どうやって描いたのか」、また「何のために 描いたのか」長い間謎であった。
このため、スイスの作家フォン・デニケンは、古代に地球に訪れた「宇宙人の滑走路」である
との説を唱えた。この「UFO説」はさすがにまともな学者から相手にされなかったが、それなり に面白かったので根強くはびこり、今でも子供向けの「なぜなに不思議百科」の類に記述され ている。
現地に50年以上住み着き、地上絵を研究したドイツの数学者マリア・ライヘ女史は、春分や
秋分を表す「カレンダー」と解いた。
この他にも、線の上を楽器を奏でながら行進したという「宗教祭祀」説、「気球から見るため
に作った」という説など、諸説は尽きない。しかしいずれも決め手に欠けるものばかりだ。
謎のうちの「どうやって描いたのか」は、マリア・ライヘ女史の研究で答えが出た。
まず、3mくらいの下絵を地面に描く。そこから離れたところに杭を打ち、その杭から絵の要
所までヒモをぴんと張る。そしてそのヒモを2、4、16倍と伸ばしていった先で目印を打つ。目印 を結ぶように線を描くと下絵の16倍の絵ができる。50mくらいの絵でも、3時間もあれば輪郭 はできる。後は、地表の黒い石をどけて、下の白い地面を出せば線になる。わざわざ宇宙人 にご指導いただくほどのものではない。
もう一方の謎、「何のために描いたのか」についても、近年あっさりと正解が出た。謎を解い
たのは、山形大学助教授の坂井正人である。
坂井先生は、ナスカより後の時代のチムー王国を研究していた。このチムー王国のチャンチ
ャン遺跡の空間構造が、ナスカの絵の配置に似ていることに気づき、ナスカの謎を解いた。
まず白っぽく見える山と、黒っぽく見える山から引いた線が直角に交差するところに、神殿を
置く。この御神山は、ラ・カレーラ山とクンティーヤ山で、神殿はカワチ神殿である。直角の対角 線45度のところに「人間」の地上絵があり、その絵を軸に北側は動物など具象の絵、南側は 幾何学模様など抽象の絵になっている。これは、当時の「折り返しの思考」であるという。
ナスカは自然環境が厳しく、特に旱魃は死命を制した。古代では、天空の「天の川」と地上の
川は水が循環していると考えられていた。そして、「天の川」がくっきり見える年は適度に雨量 があり、よく見えない年は日照りになることを経験的に知っていた。そこで、いつでもくっきり見 えるように、地上に星座を描いたのである。星座といっても我々の知っているギリシア星座では ない。当時のナスカの人々は、「天の川」の暗い部分を結んで、ハチドリやサルに見立ててい たのである。
ところが、後に灌漑を掘ることを覚え、信仰が薄れて本来の意味を忘れてしまったため、巨
大な絵と謎だけが残った。 ![]()
地上絵は上空からでしか認識できないと思われていたため諸説を生んでいたが、実は3mく
らいの脚立があれば分からないでもないそうである。 外人アクセサリー売りの真相
地下街や夜の歓楽街でアクセサリーを並べて売っている外国人を見かける。一見してどこの
国の人か分からない。いわゆるヨーロッパ系ではなさそうだが、顔をマジマジと見る事が出来 ないのでなんとも云えない。江坂駅南西出口の歩道橋下にも一人いて、警官がくると「ハーイ、 コニチワー」と急に愛想笑いをする。
実は、彼、彼女らのほとんどはイスラエルの若者である。どういうことかというと、イスラエルで
は18歳から21歳くらいまでに、男性3年、女性2年の兵役がある。兵役が終わると就職ある いは進学するが、その前に世界を見ようと、昔はアメリカの金持ちの親戚を頼ってまずアメリカ に行った。そして、ヨーロッパを回ってイスラエルに帰り、ぼちぼち就職しようか、大学に行こう かした。
現在の流れは、イスラエルを発って真っ直ぐ日本に来る。東京なら新大久保か大久保あたり
の、昔の連れ込み和風旅館をねぐらにして、男と女がペアになって街頭で売る。商品は香港、 バンコクあたりから売値の20分の1ぐらいで仕入れた金物細工だ。このシステムを作り出した のは、一人のあるユダヤ人である。
イスラエル人には金髪もいるのでヨーロッパ系に見え、酔っぱらったオジサン連中に声を掛
けると、幾らでも買っていくらしい。純益が、日に5万から8万、多いときは10万円くらいにな る。3ヵ月も働くと数百万円になり、それを持ってアメリカ、ヨーロッパと世界旅行して帰ってい く。一種の無銭旅行である。兵役が度胸をつけるのかとも思う。何とも逞しい若者達だ。 イエス最愛の弟子2000年目の真相
新約聖書をお持ちの方は、ヨハネによる福音書の13章「裏切りの予告」を確認してほしい。
有名な「最後の晩餐」のくだりである。
『イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いて
いた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図し た。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言う と、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン 切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。』
イエスが「誰かが裏切ろうとしている」と言った直後のシーンである。裏切り者が誰を指すの
か分からないので、イエスのお気に入りの弟子に、「ちょっと先生に訊いてくれ」とばかりに合図 を送っている。合図を送ったのは筆頭弟子のペトロである。筆頭よりもさらにイエスに近い弟子 がいることになる。イエスの弟子はいわゆる「12使徒」といわれる12名だが、もう1人謎の弟 子がいたのだ。この弟子は名前がない。「イエスが愛しておられた弟子」「愛する弟子」などと書 かれている。
この謎の弟子は、あろうことかイエスの胸元に寄りかかったまま、口を利いている。イエスの
叱責が怖く、面と向かって訊けないペトロとは大違いの破格の待遇だ。 ![]()
謎の弟子の正体は普通に考えると、次の5つだ。
@女性
A寵童、お小姓
B実子
C連れ子
D12使徒のヨハネ
@の女性ということは無い。晩餐といっても、祈りと食事を交互に行なう宗教儀式で4時間か
かる。この時代女性は同席できない。
Dのヨハネ説というのは、長い間正解とされてきた。イエスがヨハネをお気に入りだったのは
確かである。古い宗教画では、ヨハネがイエスに頭を垂れるように描かれている。しかしこれ は、「ヨハネによる福音書」の作者が「12使徒のヨハネ」と思われていた時代のものである。時 代が下ると、「12使徒のヨハネ」と「ヨハネによる福音書」の作者のヨハネが別人であることが 知られ、レオナルド・ダ・ビンチもそのような描き方をしていない。
そもそも胸元に寄りかかるというのは、青年もしくは成年の弟子に無理がある。それよりもな
によりも、名前を隠さずヨハネならヨハネと書けばよかろう。
Aの寵童、お小姓は、日本の戦国時代なら正解だろうが、イエスの禁欲的なイメージと合わ
ない。ユダヤの律法にも違反する。ではBの実子かCの連れ子か。
ここで19章を見ていただく。
『イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立
っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。 あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です」そのと きから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。』
何と、謎の弟子と聖母マリアに親子関係を結ばせ、謎の弟子に面倒をみるよう命じている。
Bの実子なら、祖母と孫という関係があるので、わざわざ親子関係を結ぶ必要がない。残るは Cの連れ子である。おそらくマグダラのマリアの連れ子だろう。イエスとマグダラのマリアは事 実婚の関係があったと考える。
この謎の弟子は、21章7節「イエス、7人の弟子に現われる」にも登場するが、後ほどふれ
る。
21章19節では、復活(生き返り)したイエスに筆頭弟子のペトロだけ呼ばれて、次のような
やりとりがある。
『ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言わ
れたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。ペトロが振 り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のと き、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペ トロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたし の来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。 あなたは、わたしに従いなさい」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広 まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで 彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたので ある。これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼 の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんあ る。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであ ろう。』
「私に死ぬ覚悟で布教せよというのは承知しました。では、あの子はどうなるんですか」
「私が再臨(よみがえること)するまで生きていたらいいんだが。あの子は命がけで頑張らなくて
いい。あの子はあの子、お前はお前。お前は命がけで頑張れ」
「(またそんな事言って、本当に死んだら再臨なんかあるわけないでしょうが、再臨を待ってたら
いつまでも死ねないということではないか)」
ペトロは、本当はイエス亡き後、教団でこの子をどう扱ったものか相談したかったのである。
黎明期の教団では、教祖の遺児が分裂の火種になるのは今も昔も変わらない。イエスは、こ の謎の弟子には、命を賭した布教などの宗教的使命を免除するよう示唆している。
そして最後の最後に、この「ヨハネによる福音書」を書いたのは、実はこの謎の弟子でありま
した、と告白している。
以上の推論で、謎の弟子はマグダラのマリアの「連れ子」であり、後に「ヨハネによる福音書」
を書いたヨハネであると結論づけた。しかしここで終わっては、「ヨハネによる福音書」の作者で あるヨハネの仕掛けたトリックに、まんまとはまってしまう。
真相はこうだ。
推理小説に「叙述トリック」という分野がある。
「拓美」「薫」といった男女兼用の名前を使って性別を逆に思い込ませたり、同姓の登場人物
を2人用意しておいて、謎解きまで1人しか存在していないかのように注意深く記述するトリック である。
「ヨハネによる福音書」を書いたヨハネは、「12使徒のヨハネ」と同じ名前なのを利用し、自分
自身をイエスの傍らにもぐりこませ、さも現場に立ち会ったかのような記述をしたのである。実 際には謎の弟子などいないと追及されれば、これは「12使徒のヨハネ」のことです、と言い抜 けるつもりであった。
その証拠は21章1節にある。
『その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうで
ある。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイ の子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
(中略)
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞く
と、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。』
「ゼベダイの子たち」イコール、大ヤコブとヨハネの兄弟のことである。この弟ヨハネこそ「12
使徒のヨハネ」であり、以上のことはキリスト教の世界の常識である。つまり、シモン・ペトロ、ト マス、ナタナエル、大ヤコブ、ヨハネの5人まで特定できるようにしておいて、「それに、ほかの 二人の弟子」などと、あやしい書き方をしている。謎の弟子が「12使徒のヨハネ」なのか、「ほ かの二人の弟子」の1人なのか、故意に隠している。「叙述トリック」でおなじみの伏線である。
つまり、「12使徒のヨハネ」と錯覚させる第一のトリックと、それが見破られてもイエスと何ら
かのつながりのある子供と誤認させる第二のトリックの二重底になっているのだ。
「ヨハネによる福音書」は、他のマタイ、マルコ、ルカによる福音書に比べて書かれた年代が
新しい。それだけ神学的であり、イエスの口を借りて多くの説明をしている。
その一方、リアリティという面では、イエスに直接説法を受けた人たちの話しから構成したマ
タイ、マルコ、ルカには及ばない。そこで、ありもしない架空の弟子を創作し、あたかもイエスの 体温に触れたかのような記述をしたのである。 イエス・キリスト髪型の真相
宗教画に描かれたイエスの顔は、どれもこれも同じパターンである。肩までかかる髪、うすい
ヤギ髭、やや頬骨の出た痩せた輪郭。美しく清らかで、聖なる人の面貌は、世界共通のイメー ジといえる。
ところが宗教画をよくみると、イエス御一人だけが、その他大勢と異なる髪形をしている。そ
の他大勢がモジャモジャと椎名誠や立花隆みたいな頭なのに対し、イエスだけが金八先生の ように黒いストレートの髪を真ん中から左右にハラリと垂らしている。
実際はどうであったか。正解は、新約聖書の『コリントの信徒への手紙一』の第11章14節に
明記されている。
「男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたが
たに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです」
これは、ビートルズが流行った70年代の新聞の投書欄ではない。れっきとした新約聖書の
一節である。『コリントの信徒への手紙一』というのは、信徒の日常や礼拝作法を示したもの で、新約聖書の真ん中からやや後ろの、いい場所に収録されている。もし、イエスが金八先生 スタイルなら、こうは書けなかったろう。この時代は、イエスも含めてモジャモジャオカッパ頭が 普通だったのである。
キリスト教の信者さんは、嘗めるように聖書を読み込んでいると思うが、ちゃんと理解してい
るのだろうか。
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