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読書をしていると、断片的に真相めいた話に行き当たることがある。そのつど驚きもし感心も
するのだが、すぐに忘れてしまう。それではもったいないのでここに記録し、皆さんに楽しんで いただく。ネタは書籍、雑誌、テレビなど一応公器に表われたものばかりで、実は秘密でもなん でもない。 オックスフォード留学の真相
皇太子殿下は、1983年6月末から85年10月初旬の2年4ヶ月間、オックスフォードに留学
された。ちょっとピンとこない方のために和暦でいうと、昭和58年から60年のことである。年齢 は23歳から25歳くらいの時で、学習院の大学院で1年ほど研究生活をおくり、そのまま旅立 たれた。留学は皇室の新しい伝統というべきもので、後年秋篠宮が、同じくオックスフォードに 留学している。
最近、高円宮承子(つぐこ)さまが自分のホームページに、エディンバラ大学でのはじけた様
子を掲載し、週刊誌や女性誌に恰好の話題を提供してしまったが、殿下の留学はそれとは違 い、折り目正しいものであった。 ![]()
殿下はロンドンに着くと、平原駐英大使公邸に12日間滞在し、エリザベス女王はじめとする
王族への表敬や、オックスフォードでの指導教授への挨拶をすました。次に、オックスフォード 郊外にあるトム・ホール大佐宅に3ヶ月ホームスティし、英語研修を受ける。
ホール大佐という人は、女王に武官として仕える一方語学学校を経営し、日本にもスクール
を開いている。直接の指導は日本でも教鞭をとったことのあるコーカス夫妻が当たり、午前午 後2時間ずつ交代でレッスンする。英会話の本とBBCラジオニュースの聞き取り、新聞の読み 取り、そして英文日記が宿題で課せられる。ホール大佐は、気晴らしを兼ねて外へ連れ出し、 切手の買い方やバブでのビールの注文の仕方などを教えてくれた。
ホームスティの間にも、バッキンガム宮殿の園遊会に招かれたり、スコットランドへ旅行に行
ったり、かなりハードスケジュールをこなしている。
ホール大佐宅のホームスティ終了後、同じくオックスフォード郊外の富士参事官宅で一泊し、
留学先であるマートン・コレッジ(日本風に言うとマートン大学大学院か)の寮に移った。富士参 事官は殿下の留学に合わせて家族ごと日本から同行してきた侍従で、2年間オックスフォード に家を借り、いろいろ殿下のお世話をする一方、大学が休暇の時の宿泊先になるなど、家族 的な団欒を提供する役目を担っていた。
マートンでの部屋は、最上階である3階の端に位置し、広い書斎と寝室と浴室からなり、隣は
警護官の部屋になっている。警護官はロンドン警視庁から選ばれた2名の警察官で、1週間交 代で警護にあたる。警護官とはいえ気の利いた人選だったとみえ、買い物や史料読み、英文 のチェック、図書館の手続き、運転手、ジョギングの伴走など、事務官のような役割をしてい る。殿下は、アイロンの掛け方まで警護官に教わっている。室内の清掃は、ご主人が警察官と いう夫人が簡単に行うが、ここでも人選に配慮があることが分かる。
留学先の選定は全て英国政府に一任しており、学長の人望やオックスフォード最古のコレッ
ジの一つであるという歴史、友達を作るのに適した規模など協議の上、マートン・コレッジが選 ばれたとのことである。
研究の指導は、マサイアス博士とハイフィールド博士が行い、調べる本や史料を指示したり、
小論文を評価したりする。論文には自分の解明したことや意見が入っていなくてはならず、そ れでなくとも英文でまとめるだけで、かなりの重荷である。
研究内容は「テムズ川の交通史」で、1750年から1800年間のテムズを輸送された、モル
ト、農産物、工業製品、染料、明ばん、サイダー、ワイン、植民地由来の砂糖、タバコ、米、茶 など35種類以上にも渡る物資の移動である。これを、「オックスフォード州四季裁判所記録」 の税の記録から読み解くのである。また、「ジャクソンズ・オックスフォード・ジャーナル」という当 時の週間地方新聞を一枚一枚たどって、要点をカードに書き出すこともする。殿下はさらにオ ックスフォード州文書館、ボードリー図書館、ラドクリフ・カメラ(ボードリー図書館分室)、バーク 州文書館、バッキンガム州文書館(車で1時間かかる)に通い、保険会社の記録などあさる。
なぜ、1750年から1800年間に限定したかというと、河川に「パウンド・ロック」なる水門が
発明され、飛躍的に物資の輸送が活発化した時期であるのと、あまり昔の史料だと全てラテン 語で読めないという事情がある。学習院で、1445年の「兵庫北関入船納帳」という現在の神 戸港の関税記録を研究していた、というベースもある。
それにしても、日本語でも江戸の古文書など容易に読めるものではないが、それの英語版を
読むのだから、かなりハイレベルである。後に殿下の論文はオックスフォード大学出版会に出 版してもらい、名誉法学博士号をもらっている。 ![]()
大学生活はこれだけではない。学生には「ヒロ」という愛称で呼ばれ、ポテトチップスとビール
で車座になって雑談したり、弦楽四重奏にヴィオラで参加したり、ボート、テニス、ゴルフ、競 馬、スカッシュ、スキー、登山を楽しんでいる。プリンスということは知られているので、何でもか んでもお誘いがかかる。
なあんだ我々と変わらないな、と思ってはいけない。スキーといっても、近場でするわけでは
ない。リヒテンシュタインの皇太子殿下邸に滞在したり、ルクセンブルクの大公殿下とスイスで 新雪スキーをするのである。競馬場は女王と同じボックスで観覧し、テニスはウィンブルドンで ケント公の隣に座り、コナーズ対マッケンロー、ベッカー対カレンを観戦するのである。
我々と変わらない、と思ってもいいのは、オックスフォードで初めて銀行に行ったこと、カード
で買い物をしたこと、ディスコに行ったことなどである。また、ジーンズなどラフなスタイルで出歩 き、日本人観光客に見つかって「ウッソー!(確かに流行っていたね)」と言われたりしていたこ とである。
そうこうしているうちに、両親(陛下だ)、清子さま(今は黒田さんだね)、秋篠宮が別々に訪ね
てこられたり、大忙しである。なにせ2年の間に、オックスフォードを拠点に13カ国訪れてい る。のんびりした留学とはほど遠い、目まぐるしいものであったと思う。
殿下はご自身のあと、皇統は浩宮から秋篠宮に移り、相撲でいえば一代年寄みたいなこと
になっているが、雑音には耳を貸さず人生を楽しまれてほしい。 美術工芸品通信販売の真相
日曜日の新聞の全国版によく載っている、美術品の通信販売。掛軸、日本画、油絵、版画、
彫刻、陶芸。たいてい巨匠の作品の複製品で、それはちゃんと断ってある。まあ、わざわざ複 製と断らなくても、価格からしてレプリカに決まっている。むろん複製とはいえ、美術品を楽しむ のは良い趣味といえるであろう。 ![]()
不思議なのは、広告に「限定20」と限定数が打ってあることである。新聞を探して、確認いた
だきたい。
たまたま手元にある広告を例にとると、掛軸が一幅4万8千円である。限定20なら、全部売
っても96万円にしかならない。不思議でしょう、分からない?
考えてもみてほしい。
全国紙に広告を打つには、それなりにお金がかかる。今目にしている広告でも、5段1/2と
いうサイズは、朝日、読売、毎日、日経で比較しても、およそ下は390万円から上は840万円 までかかる。仮に最安値の390万円で出稿したとして、原価やコストを無視しても、82本は売 らないと広告費が出ない。しかも一紙ではなく、各紙に同じ広告を掲載しているようなので、数 千万円もかけているはずだ。好意的に解釈して、一紙ごとに「限定20」としても巨額な赤字で ある。
一応、別な業者の広告も見てみたが、こちらも同様で「限定20」とある。しかもこちらは7段
サイズなので、およそ1000万円から2360万円広告費がかかる。 ![]()
定期的に広告を打ってるところをみると、それなりに利益があるはずである。まあ、「限定」と
いうのは売り文句で、おおげさにすれば読者があわてて注文してくると思ってやっているのだろ う。それはいいとして、商品は、職人が1人で何百本も描けるわけがなく、学生なんかが流れ作 業で描いてる。業者によっては中国、東南アジアで描かせている。複製といっても印刷というわ けにはいかず、一応肉筆にしなくてはならないのだ。原価やコストは抑えに抑えているだろう が、0円で済むということはない。
えっ、何?「限定20」って、お一人様20本までの意味だって。それはどうかなあ。「限定200
本の内、今回領布は限定20本」なんて断ってるのもあるから、そんなトンチで逃げられないだ ろう。 恐山イタコの真相
「あの世」を取材したいと思い恐山に登った。青森から野辺地で乗り換え、JR下北駅で降り
た。下北駅が終着駅と普通は思うだろうが、終着駅はもう一つ先の大湊駅である。
下北の駅舎はやけに小さい。鉄道オタクが、ネットで仕入れた駅の看板を自宅に掲げている
感じである。もちろん、全国にはもっとささやかな駅舎や、かろうじて屋根だけがある駅も珍しく ない。下北の駅舎がやたら小さく感じられるのは、ここがむつ市の玄関駅ということを知ってい るからだ。 ![]()
椿事は駅前で起きた。
駅前に下北交通の看板が立っていて「7月1日からバス乗場は移動しました」とあり、駅前か
ら100mほど行って左に曲る矢印がかいてある。4、5人の観光客が矢印にしたがって早足で 進んでいくのが見える。早足なのは、列車が2時間に1本しかないので、今乗ってきた列車に 接続するバスを逃がすとエライ目に会う、という勘が働くからだ。
半分ほど来たところで「バス停はこのへんかな?このへんって聞いたんだけど」と叫んでいる
老婦人が道の反対側にいた。左手にキャスター付きのカバンを引きずり、スポーツバックを肩 にタスキに掛け白杖を突いている。「バス停?」「バス停がこの辺にあるって」「どこに行くの?」 「恐山」「恐山、ああはいはい」道を横断し、腕に手を沿える。霊山に入るという気分が善行を 苦にしない。
我々がバス溜まりに着かないうちに動き出したバスが横を通過しかけたので手を上げて制
し、「恐山ですか」と訊く。白杖を連れているので大胆である。「恐山は向こうのバスです」「どう も」バス溜まりに残っているもう1台のバスを指す。
老婦人と再び歩き始める。目はクリクリと開いているが、全盲ではない印象があるものの、見
えてはいないようだ。頭髪は真っ黒に染めている。バス停が移動したことは承知していたようだ が、耳で聞いただけでは新しい場所が分からないのも仕方が無い。
信号で道を渡りバスに乗せる。運転手が引っ張り上げるようにして、すぐ後の席に座らせる。
ステップに足を掛けながら、後ろに顔を向け「どうもありがとうございました」と大きな声で礼を 云われた。その後に続いて自分も乗り込み、中ほどに座る。
「おばあちゃんイタコさんかい?」「んだ」運転手に老婦人が応える。
「えっ」心の中で仰天する。わずかな距離ながら、正真のイタコの手を引いていたことに気づ
かされたのだ。
バスが出た。途中、むつターミナルで拾った客が「おはようございます」とイタコに挨拶して世
間話を始めた。顔見知りがいてこちらも安堵する。
終点恐山に着き、750円払う。「イタコさーん、荷物運んどくから」「ありがとー」休憩所の人が
声を掛ける。もう見知った人ばかりで完全に安全圏だ。 ![]()
イタコのことは忘れて、太鼓橋へ150mくらい歩いて戻る。さっき、バスで横を通過してしまっ
たのだ。この太鼓橋は三途の川にかかる朱に塗られた8mほどの木製の橋である。バスで一 気に「あの世」に来てしまったため、「あの世」側から三途の川を見ている。あたりは硫黄臭に 満ちている。川の向こうは現世だ。
三途の川は、宇曽利山湖(うそりやまこ)から流れ出ている。硫黄による酸で、動植物がほと
んどいない。酸に勝つように変異したウグイが、わずかに棲息している。そのウグイが何を食し ているかは分からない。恐山のオソレは、ウソリが転訛したものだ。
総門で500円払い中に入る。右手に寺務所があり、左に粗末なトタン屋根の建物がある。建
物の前に「イタコの口寄せ」とイラスト風にかかれた安手の看板がある。そもそも寺とイタコは 正式には無関係である。しかしイタコは名物だけに、全くの無関係と言い切るのも冷たすぎる。 寺と宿坊、もしくは寺と土産物屋の関係と云って差し支えなかろう。 ![]()
山門をくぐると地蔵殿があり、そこの左手から地獄に見立てた岩場が広がる。先ほどの三途
の川とは比べ物にならない濃い硫黄臭が立ち込め、ぐつぐつと煮立つ音がする。傍らに積み 上げられた小石は軽石である。気泡でスカスカして角張っているため、積み上げても膚が噛み 合って容易に崩れない。血の池地獄とか無間地獄と名づけられた景色は、地獄の箱庭といっ た風情である。無造作に小銭が置かれているが、アルミ貨は酸にやられて黒ずみ、字も消え かかっている。 ![]()
観光客は岩と岩の間の踏まれて出来ただけの小道を行く。地獄のテーマパークを巡るようで
ある。だだでさえ荒涼とした景色に、さらに気を滅入らせる物がある。風車である。セルロイド 製のけばけばしい色使いの風車が、狂ったように回っている。風車は土産物屋で400円で売 っているが、総門の外にあるため、その場で思いたって買って供えるということが出来ない。こ のため、風車がやたらたくさんあるわけではない。
不意に宇曽利山湖畔に出る。極楽浜と称される横一文字の白い砂浜と、薄いエメラルドの湖
水、向こう岸の水際の線とさらに向こうの山々。山々に注ぐ筋のような日の光。一転して極楽 浄土の景色である。地獄から救い上げられた観光客は、当惑のあまり呆げた表情を浮かべ る。
三途の川の時に見た湖と同じ湖なのだが、湖に突き出した自然の突起によって、上手い具
合に左手の眺望が遮られ、極楽浄土の様だけ切り出されて眼前に広がっている。
生物のない景色は人工的で、西洋の宗教画のようである。ルネサンス以前の遠近法が確立
される前の、どこかバランスを欠いた大仰な、フレスコ画というのか、そんな宗教画のようであ る。 ![]()
向こう岸からイエスが水面をすべるようにやってくる。ここはガリラヤ湖畔だろうか。イエスが
こちらに進んで来るのが見えているのだが、そのくせいっこうに近づいてこない。先ほど見た地 獄は、イエスが修行した一木一草もないユダの荒野だったのだろうか。
妄想を振り払い、湖に指を浸して味見する。無味である。無臭かどうかは、とっくに硫黄に慣
らされているので分からない。
地獄と極楽を一巡りすると、自然に山門の前に戻るようになっている。そういえば本堂がな
い。「供養の道場」というものが本堂と呼ばれているが、イタコの口寄せ場と棟つながりの粗末 な建物のことでいわゆる本堂ではない。恐山は、むつ市内の円通寺の所管と何かで読んだこ とがある。そちらに本堂があるのかもしれない。 ![]()
さてイタコの口寄せ場であるが、思い切ってすりガラスの入った引戸を開けてのぞいてみる。
団体客の宴会が2つ取れそうな広間で、客が並んでいる。大祭前なのでイタコは一人しかいな い。朝、手を引いたイタコである。そのイタコの前で三人連れのご婦人が話を聞いている。その 後に二人連れ、その後に三人連れが待っている。静かにその後につく。
三人連れのご婦人でも、三人いっぺんに口寄せするのではなく、一人一人順に口寄せしてい
る。まず、誰を呼んで欲しいか訊き、続柄と何時頃幾つで亡くなったか訊く。そして、ごにょごに ょ何か云った後、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏を2度唱え「今日はよぐ来でくれた、あり がとなー」と始める。テレビでは、唸ったり奇声を発したり、手を合わせて膝立ちで伸び上がっ たり、甚だしいのになると昏倒するフリをするようなのがいるが、そんなことは一切ない。それ どころか、声の調子すら変えず、男性っぽく低い声で語ることもなく、ごく普通に素の話し方で 語る。
話の内容はだいたい同じで「今日はよぐ来でくれた、ありがとなー、また来でおくれ。お前のお
蔭で安心すていられる、天命にはさがらえずこっつさ来だが、いづもお前を見守っでいる。たま には揉んで貰ってゆっぐり休め、帰るどきはころばねよう足元さ気いづけでけれ、何か訊ぎだ いこどはねが」といった感じだ。客のご婦人は、冒頭の「今日はよぐ来でくれた」というところで 早くもハンカチで目をぬぐいながらすすり泣いている。
ご先祖様が話しているのか、物分りのいい年寄りが話しているだけなのか区別はないが、も
うそんなことはどうでもいい、という気になる
謝礼の金額は分からない。壁のどこにも料金表のようなものは貼っていない。お気持ちでよ
い、ということだろう。まあ、5千円か1万円が妥当な雰囲気だ。
順番を待っていたがすぐ離脱した。まだまだ時間がかかりそうなのと、朝の者だと分かってお
礼の言葉を云わせるような展開が嫌だな、と思い直したためである。 ![]()
戦前、下北半島の各地にイタコがいた。恐山に集まるようになって有名になったのは、意外
にも新しく戦後のことである。
イタコは目が不自由だったり、身体に障害があって野良仕事が出来ない者がなった。貧しい
時代、家や村のお荷物だった者がイタコになって、姑にいじめられる嫁や子を失った親など に、ご先祖さまに成り代わって慰めの言葉をかけたのである。障害により身の置き所のない思 いで生涯を過ごしてきたイタコの言葉は、慈雨のように心に染みた。イタコはいくばくかの現金 収入を得て、生活の足しとした。暗黙の了解のもと、互いに助け合い慰め合って生きてきたの である。
イタコは霊能者でも霊媒師でもない。ましてやインチキなどではない。どん底の境遇に置か
れ、人一倍心の痛みや悲しみを察することのできるようになった人達なのである。
恐山を降りた。イタコが本格的に集まる大祭に向けて、目の不自由なイタコにもう少し配慮さ
れるよう下北交通にメールを出した。 洋服の青山「2着目1千円」の真相 ![]()
平成18年8月に夏物1着、合物1着、礼服1着のスーツ計3着を一挙購入という大散財をし
た。しかしここ青森は一向に暑くならず、夏物は一度も手を通さないうちに冬がきた。
11月にあわてて冬物を買いに行った。このときは、色形サイズの全く同じスーツを2着お買
い上げである。2パンツスーツだったため、同じズボンが4本も揃った。こんな気違いじみた固 め買いをしたので、店長にすっかり覚えられ名刺交換もした。
一度に何着も買ってしまうのは、2着目が1千円だからである。2着目が1千円なのに、1着
だけ買って帰る人はいない。「2着目1千円」というのは、正確にいうと、高い方のスーツの料金 にプラス1千円で安い方のスーツが買えるのである。
わかりやすい例をつくると、3万円のスーツをA、4万円のスーツをBとしよう。AとBを別々に
買えば7万円である。ところが同時に買えば、4万1千円ですむ。とここまではいい。
ところがである。
8月に3着目を迷ったところ「3着目は半額になりますよ」と言う。5万円の礼服だったら2万5
千円で買えるのである。2着目を1千円で手に入れ気分がいいとろで3着目が半額と聞かさ れ、何か変だなと感じつつ、どうせ買うなら今買っちゃえとなってしまった。
さらにところがである。
11月にスーツを選んでいると、気づいた店長が走ってきて、「足して2で割ってプラス1千円
でいいですよ」と耳打ちする。店長の裁量があるのか、顔見知りになると得だな、とホクホクし つつ2着お買い上げた。
あれっ、やっぱり変だな。こりゃ手の込んだ「半額セール」じゃないか、と気づいた人は賢い。
しかも高い方のスーツに引っぱられて半額よりは高く買い、さらに1千円つけてやるのだから、 何とかに追い銭である。
ではなぜ最初から単品を半額に価格設定しないかというと、2着いっぺんにさばくためといっ
た理由のほかに、1万円引とか5千円引といった割引券を使われないようにするためである。 下取り券や割引券を使うより、「2着目1千円」の方がお得なように設定されているのだ。
それにしても、スーツが安くなった。就職活動時代、社会人駆け出し時代、ふた昔前のことに
なるが、当時はもっと高かった。背広といえば大枚5枚が飛んでいくイメージが頭にあった。 それがどうだ、5万円あれば2着買える。バブルの一時期を除いて、ずいぶん安くなったが、 これはひとえに青山商事の青山五郎氏の奮闘による。
昔の紳士服業界は「委託仕入れ方式」が商慣行となっていた。早い話が、売れ残り返品方式
である。百貨店は売れ残りリスクを負わないかわりに、返品処理コストやメーカーの派遣販売 員コストを仕入価格に乗せられる。
たとえば、百貨店は9月に冬物を2万円で100着仕入れ、50着売れ残ると2月に返品する。
この2年落ちの50着は、翌年の9月に4割落の1万2千円で再び卸される。結局百貨店は2年 にわたって平均単価1万6千円で仕入れることになる。
ところが青山は全品買取制で返品リスクがないため、初シーズンから1万5千円で仕入れる
ことが出来る。初シーズンだけ見れば、仕入れ価格に5千円もの差が出来る。
さらに普通、百貨店の販売価格は仕入れの5倍程度なので、2万円で仕入れると10万円の
販売価格で店頭に並ぶ。これに対し青山は、仕入れの2.1倍程度で販売できる。1万5千円 で仕入れたら2.1倍の3万1500円で売っていいのだ。百貨店が10万円で売るスーツを3万 1500円で売れるなら、「2着目1千円」もおかしな話ではない。
かたや5倍、かたや2.1倍の差は、地価と人件費の差である。
百貨店の一角は、坪単価は高く、スペースは極端に狭いため、品揃いも十分ではない。つい
でに立ち寄る冷やかしの相手をするための販売員も必要である。
しかし青山のような郊外店は、土地を借りるのに坪がどうのこうのでなく、農地一反いくらのよ
うな世界で驚くほど安い。しかもそんなところまで車で来る客は、何らかの購入意欲があるわけ で、余計な接客をせずにすみ人件費を抑えることが出来る。
縫製工場に注文する際、百貨店はスーツ60着分に当る生地3反を最低ロットにするケース
が多いが、青山は全国に674店舗あるというスケールメリットを生かし、1度に生地1千反とい うロットで注文する。1千反あれば、1万6千着から2万着取れる。発注単位が三桁も違うの だ。当然仕入れ価格も大幅に下げられる。青山は年間252万着売りさばくため、このような注 文も可能なのである。
道路沿いで「青山」の看板を目にしたあと、しばらく行くと「はるやま」が見えてきた、という経
験をお持ちの方は多いだろう。かつて青山五郎氏が仕入れのノウハウを教えた「はるやま」 が、青山に狙いを定めて出店し、追撃してきたのである。局地的に「はるやま」に負ける店舗も 出はじめた。青山五郎氏は下から上がってくる報告書の虚の部分に気づき、陣頭指揮のもと 店長の意識改革を行なった。新生青山の効果はしだいに表れ、「はるやま」を死闘の末突き放 すことに成功した。
青山の成功を見た紳士服業界がこぞって郊外店に流れるなか、銀座、神田、飯田橋、大阪
日本橋、梅田など都心に出店を開始した。目の覚めるような逆張りである。都心では金融機関 の統廃合でできた余剰店舗が生まれていて、次から次へと青山へ賃貸物件が舞い込んできた のである。
現在、青山が占めるシェアは20%程度。これが25%に達すれば、メーカーから価格決定権
を奪うことが出来る。
順風満帆のようだが、心配事もある。平成17年に青山五郎氏は会長に退き、息子の青山理
氏が社長になった。青山は、青山五郎氏の奇抜な発想と強烈な使命感で持っていたようなとこ ろがある。いつの日か天命もつきよう。その後も勝ち続ける保証はない。
※その後
平成20年1月15日、青山五郎会長(77)が肺炎で死去。ご冥福をお祈りします。
![]() 青森県新郷村キリストの墓の真相 ![]()
小学生の時、少年サンデーに世界の不思議な伝承が載っていて、キリストが日本で死んだと
出ていた。
中学生の時、このサイトともリンクしているkoenさんに、青森の戸来(へらい)村の盆踊りの
囃子言葉は古代のユダヤ語で、ユダヤ人が聞いたら意味が分かると教えられた。
長い間気にかかっていたが、大人になって多少なりとも理詰めで物が考えられるようになる
と、現地を見るまでもなくデタラメと推測できた。それでも縁あって青森に流れ着いたのを機 に、キリストの墓を訪れてみようという気になった。
物事の順序として、まず日本のキリスト伝説を簡単に紹介する。
『キリストは21歳の時に天啓を受け、家業も家も捨て行方不明となり、33歳の時に忽然と表
に現われ、天国を語り神を説いた。この空白の12年の間どうしていたかというと、キリストは日 本海沿岸の橋立の港に上陸し、越中の国にいた尊き方の弟子となり、日本語や文字を習い修 行をしていた。当時日本は第十一代垂仁天皇の御代である。
キリストは11年間の修行を終え、日本を去り、モナコに上陸してユダヤに戻り、新約聖書に
あるような活躍をした。
やがてキリストの主張が、ローマからの独立やユダヤの再興をあきらめ、精神的な幸福を説
くものであることに気づいた民衆はキリストに幻滅し離れていった。ユダヤ人衆議会の権威を 無視し続けるキリストを危険視していた大司祭カヤパは、この機を逃さず民衆を焚きつけ、ロ ーマ帝国の知事ピラトを巧に恫喝し、キリストをゴルゴダの丘で磔刑にしようとした。
しかしながら、十字架についたのは身代わりとなった弟イスキリであった。難を逃れたキリス
トは弟子達をともなって、北欧、アフリカ、中央アジア、中国、シベリアを転々とした。
シベリアからアラスカへ渡り、北米、南米を一周してから、4年目の2月26日再びアラスカか
ら船に乗り、今の青森県八戸港に上陸、名を「十来太郎大天空」と改め定住した。ユミ子という 日本人をめとり三女をもうけ、西暦81年4月5日106歳で亡くなった。
住んでいたあたりは、ヘブライが転じて戸来(へらい)となった』
![]()
(キリストの墓を見る観光客) (墓に供えられている絵)
次にヘブライ語のお囃子説を紹介する。
『戸来村の盆踊りでは、次の唱を延々と繰り返す
ナニャドヤラー
ナニャドナサレノ
ナニャドヤラー
この意味不明な歌詞を、米国シアトルに住む神学博士川守田英二(岩手県二戸出身)は、ヘ
ブライ語であるとして、次のように翻訳した。
お前の聖名をほめ讃えん
お前に毛人を掃蕩して
お前の聖名をほめ讃えん』
ちなみに掃蕩というのは、今の表記でいう掃討のことである。
![]()
さていよいよ出発である。キリストの墓の住所は「青森県三戸郡新郷大字戸来字野月33−
1」である。
まず、JR八戸駅から南部バスで五戸駅まで行く。バス料金は800円もする。バスの終点な
のになぜ五戸駅なのかというと、昔は八戸駅(当時は尻内駅)と五戸駅を結ぶ「五戸鉄道」が 通っており、昭和44年に廃線になると線路の大半はバス道路に転用されたという事情によ る。ここで五戸鉄道にふれたのは、何も知識をひけらかすためではない。後々五戸鉄道が関 わりをもってくるからである。 ![]()
(五戸鉄道跡、自販機の後がホームの売店) (五戸駅)
五戸駅は、鉄道時代からの寿命の尽きた建物である。ここで、新郷行きのバスに乗り換える
のだが、次のバスは何と2時間30分も待たないと来ない。やむなくタクシーを探すが、そんなも のは見事に通らない。
近くに五戸に不釣合いな新しいスーパーがあり、軽く食事をしてぶらぶらする。やがて五戸病
院に客待ちしているタクシーを見つけ、「新郷のキリストの墓」と告げる。高齢の運転手は、無 線に弾んだ調子で「実車」と報告している。その後も嬉しくてたまらないといった顔で、車が通過 する道々の近隣の説明をしてくれる。どうやら遠方の客を乗せたことがよほど嬉しいらしい。
4100円乗ったところで、キリストの墓公園に到着する。車の中から腕を出して、その道を上
がって行くんだ、というような仕種をする。
坂道を登り、さらに階段を上がると、土饅頭が2基並んでいる。2基とも高さが1.5mほどの
十字架が立っている。向かって右側が「十來塚(とうらいづか)」で、キリストの墓である。左は 「十代墓」で、身代わりになって死んだ弟イスキリを祀った墓で、聖母マリアの遺髪も納めてあ る。土饅頭の周囲は、花壇に使われる高さが30cmくらいの白い柵で囲われている。観光客 の中から「ずいぶんきれいになった。20年前はこんな柵も無かった」と言っているのが聞こえ た。案内板の新しさからも、近年特に整備しているのが見て取れる。
2基の土饅頭の間には、平成16年にエルサレム市から寄贈された、1畳よりも一回り大きい
石のプレートが置かれている。新郷町とエルサレム市の友好の証である。
墓の横は中庭ほどの広場で、その奥の教会を模した「キリスト伝承館」に伝説の源となった
古文書の写し、民具、写真、マネキンが展示してある。デパートにあるバタ臭い顔のマネキン に、農村の衣装を着せてあるのでかなり気持悪い。 ![]()
さて、この「キリスト伝説」は、実は古くからの伝承でも何でもなく、昭和10年に突然降ってわ
いた話である。茨城県磯原町(現北茨城市)の竹内巨麿(たけうちきよまろ)という人が創作し たものだ。
この竹内巨麿という人は、武内宿禰(たけうちのすくね)の66代後裔を自称する人物で、天
津(あまつ)教の教主である。
自分の家に代々伝わる「竹内文献」を公表したが、その内容たるや、ビッグバンすら起きて
いなかった紀元前3175億年にすでに初代天皇がいた、などという噴飯物である。キリスト伝 説の元となった「キリストの遺書」も、巨麿が竹内家の文庫から発見したものだ。
竹内巨麿は、明治7年富山県で私生児として生まれ、生後まもなく小作農の竹内庄蔵の養子
になった。やがて行商や六部(ろくぶ。諸国を巡り乞食する巡礼)となって諸国を巡り、古墳、 塚、神社、仏閣をうろついている。大いにいかがわしさの感じられる人物である。
しかしながら、荒唐無稽な伝説を創作して一方的に持ち出しただけでは、相手にされずに終
わるだろう。実際の経緯はもっと複雑で、次のようなものである。
@昭和9年10月、戸来村村長佐々木伝次郎が、十和田湖周辺が国立公園に指定されること
が決まったのに、戸来村が区域から除外されたことに危機感を持った。
村長は、七戸出身の日本画家鳥谷幡山(とやばんざん)を招聘し相談。
A鳥谷は、後にキリストの墓とされる場所から西へ4kmほど入った、羽井内という所にある
「御石神」という巨石がピラミッドであると断定。
B昭和9年11月、酒井勝軍(さかいかつとき)という、日本のピラミッドの権威で国家主義者が
来村。鳥谷の発見を追認し、以降「大石神ピラミッド」と称す。
C昭和10年3月、上記のピラミッド騒ぎとは別に、米国シアトルに住む神学博士川守田英二
(岩手県二戸出身)が「ナニャドヤラのヘブライ語説」を発表。
一大センセーションを巻き起こす。
D昭和10年8月、鳥谷、酒井が信奉する竹内巨麿が来村。
鳥谷、巨麿ら一行は地元の県議や村長らの案内で、大石神ピラミッドを探査。
巨麿、何も語らず。
E巨麿が村長に「この辺に貴人の墓はないか」と尋ね、村長は由来の分からない墓が2基並
んでいると答える。
巨麿は土饅頭を見て、それぞれに木標を建て「十來塚(とうらいづか)」「統來訪神」と記すよ
う指示。
F昭和10年10月、巨麿、「キリスト遺言書」を竹内家の文庫から発見。
G昭和11年2月、巨麿、伊勢神宮の尊厳を冒すという不敬罪の容疑で検挙される。
H昭和11年3月、鳥谷、キリストの墓に関する最初の著作「霊山聖地」を刊行。
I昭和12年5月、山根キク(菊子)女史、「光は東方より」を出版。キリストの末裔とされる沢口
家の家紋が、ダビデの六芒星であるなど、さまざまな傍証を提示する。注目を浴びるが、巨
麿の検挙起訴の関係で発禁となる。
J昭和13年3月、山根、「竹内文献」関係を削除した改訂版の「光は東方より」出版。
このため、キリスト伝説が元来地元にあった伝説と読めてしまった。
K五戸鉄道が観光パンフレットを発行し、キリストの墓を宣伝。
L昭和14年、日大芸術学部教授の仲木貞一が「日本におけるキリストの遺跡を探る」という
文化映画を製作。マスコミが取り上げUPI外電まで打たれ、国際的な反響を巻き起こす。
M昭和14年、15年アメリカの新聞社が調査団を派遣。逆輸入の形で、キリストの墓伝説が広
まる。
N戦後、新郷村は毎年6月10日にキリスト祭を行う。現在は、6月の第一日曜日に行なってい
る。
![]()
(弟イスキリの塚、マリアの遺髪も納めてある) (キリスト伝承館)
キリスト伝説が昭和の創作であるのは、簡単に分かる。
身代わりになった弟イスキリというのは聖書に出てこない名前である。イエス・キリストの幼稚
なアナグラムだ。
キリストとユミ子の間に設けられた三女の末裔とされる沢口家の家紋が、ダビデの六芒星と
いうのは残念ながら違う。似ているが良く見ると、五角形の桔梗紋である。しかも六芒星がユ ダヤの象徴になったのは中世の終わり頃であり、キリストの生きていた時代は無かったもので ある。
「竹内文献」も「キリスト遺言書」も、竹内家に代々伝わったものなんかではなく、巨麿が自分
で書いたものだ。
ヘブライから転じたとされる戸来村の「戸来」という地名は、江戸前期南部候の時代に付けら
れたものである。
「ナニャドヤラー ナニャドナサレノ ナニャドヤラー」という囃子言葉は、女性が輪になって単
調な踊りを一心不乱に繰り返すときのお囃子である。盆踊りのビデオを見る限り、これは、古 代の歌垣などに通じる異性を誘う猥雑な言葉で「私はどう 好きにしていいのよ 私はどう」くら いの意味だろう。 ![]()
(キリスト末裔の沢口家、気のせいか外人っぽい) (沢口家の桔梗紋、ダビデの星じゃない)
現在、地元では全てを創作と認め、「湧説」という立場を取っている。大人の見識と言えるだ
ろう。
もう少し交通の便を良くして、エルサレムまで巡礼に行けない人たちの代替地くらいまで成長
させてもいいんじゃないかな。 童謡「通りゃんせ」の真相 ![]()
童謡「通りゃんせ」の発祥の地は、埼玉県川越市にある「三芳野(みよしの)神社」ということ
になっている。もちろん異論も多く、そもそも神社のことではなく、関所のことを唄ったものだと いう説もある。
しかし、歌詞の内容と、三芳野神社の置かれた状況は、かなり符合すると言って差し支えな
い。断定こそ出来ないものの、三芳野神社をモデルと考えていいだろう。
三芳野神社は素盞男尊、稲田姫、菅原道真を祀る神社で、JR川越駅もしくは西武本川越駅
から歩いて2、30分のところにある。途中に「蔵の町」だの「時の鐘」だの、いかにも取って付 けたような、観光用のテーマパーク的景観がある。
そこを通り過ぎると、川越小学校、川越第一小学校、初雁中学校、養護学校、川越高校、市
民会館、市役所、美術館、博物館など公共施設があり、さらに奥に「川越城本丸御殿」と「三芳 野神社」がある。折からの強風で、口の中がじゃりじゃりいった。
実はこの公共施設群から三芳野神社まで、かつての川越城の敷地内であった。年に一度の
大祭に参詣が許されていたが、神社に参詣するということは、本来庶民が足を踏み入れること かなわぬ、城の敷地内に入ることを意味していた。これは他所に例のないことで、「通りゃん せ」発祥の根拠の一つである。
神社までの細い道はいわば城内なので、左右に警護の侍が詰めており、参詣の明確な目的
や、挙動のチェックを行なっていた。足を止めたり、キョロキョロしようものなら、さっさと歩くよう どやされ、帰りには荷物の検査が行なわれるなど、庶民はビクビクものであった。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神様の細道じゃ
ちぃっと通して 下しゃんせ
ご用のない者 通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
これは、大正時代に本居長世という本居宣長を先祖にもつ人が、伝承の歌詞を文字にした
ものである。どうみても埼玉県あたりの言葉でないのは気になるが、まあ、伝承の公約数的な 歌詞であろう。
以上、庶民の「お上」を恐れる気持が「通りゃんせ」の歌詞に反映された、というのが通説で、
インターネットなどで調べても、だいたいそう説明されている。 ![]()
わらべ唄発祥の所 天神様の細道じゃ
しかし物事はもう少し考えたほうがいい。
通説どおりなら、七つのお祝いの「お札」を持って、さっさとお参りして戻ってくれば、何も恐れ
る必要がなかろう。なぜ、行きはよくて、帰りがこわいのかも説明がつかない。
真相は目の前にある。
祭神が素盞男尊、稲田姫、菅原道真の3人に対し、「通りゃんせ」は天神様、つまり菅原道真
のことだけ唄っていることに気づけば、後は簡単に推理できる。
菅原道真は平安時代、宇多天皇に重用され、次の醍醐天皇の時に右大臣にまで昇った。こ
れを怖れた左大臣藤原時平一派の讒言により九州の大宰府に流され、かの地で失意の内に 病没した。菅原道真は大怨霊と化し、京の都に異変を起こす。
紫宸殿落雷、藤原時平死去、長男藤原保忠変死、暴風雨、清涼殿落雷により藤原清貫ら貴
人が死傷、そのショックで醍醐天皇病没。
ここに至って、ようやく菅原道真を「天満大自在天神」つまり「天神様」と祀り、怨霊を鎮めるこ
ととなった。
このことから、為政者の圧政に対し、何の抵抗もできない弱い庶民は、自分たちの怒り恨み
嘆きを汲み取り、天罰を下す神として天神様に祈るようになる。
川越の為政者は、怨嗟の声を天神様に訴えることで無言の抵抗をされては、一揆などの萌
芽につながりかねないと考え、参詣の目的を厳しく問いただす。庶民は「七つのお祝い」など差 し障りのない口実をカムフラージュに、天神様へ詣でる。これが「行きはよいよい」である。
しかし、参拝の様子をじっと見つめられ、為政者に対する不平不満を天神様に訴えるといっ
た真意を見抜かれた場合は、「胸中疑念あり」と容赦なく咎められる。これが「帰りはこわい」で ある。
人っ子一人いない境内。社殿横にはゴルフバックが不法投棄されている。神域を樹木で囲む
わけでもなく、拝殿が開かれているわけでもない。社殿は徳川家光の時代に建てられたもの で、貴重なわりにぞんざいな扱いを受けている。「蔵の町」などの似非観光地を整備する前に、 ちゃんとすることがあるのではないかと思う。 総合週刊誌暴走の真相
「文春」「新潮」「ポスト」「現代」の頭に「週刊」と付けると、出版社系総合週刊誌というカテゴリ
ーに分類される。政界、財界、芸能界のゴシップにお色気情報をちりばめた、オヤジ御用達の 通俗雑誌である。
新幹線に乗ると、座席の前ポケットにささっていて、しばらくすると頭が薄く脂っぽい管理職風
のオヤジがトイレから戻ってきたりする。
この4誌の部数が、95年の284万部をピークに下降線をたどり、2004年には209万部ま
で落ちた。購買層は団塊世代以上と言ってよく、定年と同時に買わなくなるため部数が着実に 落ちていく。2007年以降団塊世代の定年到来により、壊滅的な打撃を受けるのは必至だ。
なぜ団塊世代以上で読者層が固定されているかというと、週刊誌創世期に梶山季之らの「ト
ップ屋」がスクープ合戦を行い、企業秘密や権力者の腐敗を暴露し喝采を浴びた時代の幻想 が残っているからだ。
また、団塊世代には専門誌という細分化が間に合わなかったことと、スペシャリストよりゼネ
ラリストを目指す企業教育を受けたせいである。
しかし、今では暴露という機能はネットにかなわない。企業教育は法務、税務、財務、労務、
システムなど、分社化と並行して、きちんと通用する専門家を育成する方向にある。
現在の週刊誌は、「刺客全滅!」「醜聞噴出で『小泉大敗』」といった、結果論で逃げられない
無責任報道や、田中真紀子の長女の週刊文春差し止め問題などプライバシー侵害、大原麗 子ご近所トラブル、清原和博いかがわしい店出入りなど事実無根の名誉毀損、などが横行し ている。これらの取材不足、裏付不足の結果、真実性、公共性が損なわれてしまった。
さらに、中吊り広告で目を引くためだけの、東スポ的な見出しと中身の落差により、信頼を落
としている。
そして、週刊誌一番の特徴である「元宮内庁職員の話」「政府高官夫人の話」といった、誰が
言ったのか、本当に言ったのか分からないグレーゾーンが、信憑性を失うもととなっている。
なぜ慢性的に取材不足で紙面が出来上がるかというと、週刊誌のスケジュールを考えるとす
ぐ分かる。
金曜に企画会議、月曜にライターと打ち合わせ、火曜に見出し案、水曜に入稿開始、木曜締
め切り。これでは、月火水の3日間しか取材の時間が取れず、ろくな取材ができない。
そこで、まず見出しありきで、それに沿った方向で取材を行い、取れたコメントをつなぐような
記事を作成する。最後に当人に確認取材し、全否定されても「事務所サイドはこちらの取材に 対し事実無根とそっけない」などと締めて、「取材はした」というアリバイをつくるのである。
昔はそれでも通用したが、現在では裁判に持ち込まれるのでそうも云っていられない。団塊
世代の使命は残っているかどうか個人差もあろうが、総合週刊誌の使命は既に終わっている と云えそうだ。 インド映画ダンスシーンの真相
「ムトゥ・踊るマハラジャ」に代表されるインド映画、日本が元気のなかった1990年代、荒唐
無稽で能天気ながらも、明るく、パワフルなインド映画はブームになった。
主演のラジニ・カーントは、小太りで美男でもなく、年齢も高いのにかかわらず、本来イケメン
俳優がやるような役をやるので不思議である。なにせ、はっきりいって吉幾三そっくりだ。しか しこの吉幾三が神をも凌ぐ人気で、足元に跪くファンに囲まれ、何十本と主役をこなしている。 日本で云えば、里見浩太朗や杉良太郎がキャーキャー言われながらいつまでも時代劇スター でいるのを、外人が不思議そうに見ているようなものと思えばいい。
インド映画で圧巻なのは、ダンスシーンである。それも群舞である。鮮やかな民族衣装のダ
ンサーが、これでもかというくらい踊り倒すのである。ミュージカル映画が唐突に歌になだれ込 むように、インド映画では突然踊りが始まるのだ。
後で分かったのだが、インド映画ではキスシーン、ベッドシーンといった、いわゆる濡れ場は
ご法度なので、ダンスシーンに代替させるそうだ。つまり、激しい踊りを観ながら、そういうこと も頭に思い浮かべなくてはいけない、ということだ。
さて、このダンスは「フィルミーダンス」と呼ばれているが、彼らは通しで踊ることが出来ない。
いや、頭から終いまででなくても、途中の1分やそこらでも続けて踊れない。
それはどういうことかというと、ダンスは「ダンスマスター」と呼ばれる振付師がその場その場
で8小節くらい振付けたものを、どんどん撮影していくからである。ラジオ体操を1動作ずつそ の場で教わって、教わったそばから1動作ずつ撮影すると云えば分かるだろうか。つまり、前 の動作は忘れても構わないので、通しで踊れないのだ。
では、ブツ切れでダンスに見えないと思うかもしれないが、良く観察すると、男優、女優、遠
景、顔、手足、炎など、細かく切り替えるカメラワークにみせかけて、巧妙にフィルムをつないで いる。さらに、衣装を頻繁にチェンジして、何テイクも撮ったダンスを編集するので細切れにな る、という演出に見せかけている。もちろん、普段からダンスのトレーニングを積んでいるの で、このような「やっつけ仕事」が可能なのである。
また、ダンスシーンでは女優のカン高い声で歌が流れるが、これはプレイバック・シンガーに
よる「吹き替え」である。女優は、日本の男性アイドルグループのように「口パク」で踊ってい る。
現在のラジニ・カーントは、政界へ進出するのか、もう進出したのか、はっきり分からないが
そんな状態である。 魔法の杖の真相
西洋の魔法使いは、魔法の杖を使う。オーケストラの指揮棒サイズのものを「エイッ」と振る
場合と、身長ほどある木の瘤だらけの棒で地面を「ドン」と突く場合がある。指揮棒サイズの方 は「ウォンド」と呼ばれ、身長ほどある長い方は「ケーン」とか「ステッキ」といわれる。
ハリー・ポッターが入校前に購入したのは指揮棒サイズの「ウォンド」の方で、不死鳥の尾羽
を芯にしている高価なものだ。長い方の「ステッキ」は、モーゼや東洋の仙人、七福神が持って いることから、年配者の実用の杖を魔法の杖に見立てたものだろう。 ![]()
現代では、マジシャンが魔法の杖を使う。伏せたカップの底にコツコツコツとおまじないを掛
けるとあら不思議、こちらの玉が消えてそちらのカップから出てきました、という具合だ。
なぜ、いちいちこんな子供じみた意味の無い動作をはさむのか、不思議といえば不思議であ
る。大人向けのショーでこれをやられると、子供用のネタを持ってこられた気がして、少し不快 を覚える。
しかしそれは誤解だ。マジックの手順に無駄はない。魔法の杖にもそれなりの役割がある。
それは次のようなものだ。
@ポケットから杖を取り出すついでに、タネもいっしょに取り出す。
Aタネを手に隠し持っていると、不自然に手が握りっぱなしになるので、魔法の杖を持ってカム
フラージュする。
B右手に隠したタネを密かに左手にパスする際、魔法の杖を左手に持ちかえる動作に紛れて
自然に行なう。
![]()
マジシャンの動きには全て意味がある。何気なくスタンドマイクを脇によけたり、水を注ぎ損な
って少しこぼしたり、クネクネ踊ったりする動作にもびっくりするような必然性がある。タネをば らすような野暮は云わないけどね。 坂田三吉関西名人の真相
アッと声を上げそうになった。坂田三吉が発行した将棋免状を見たときのことである。そこに
は「名人 坂田三吉」と署名されている。長い間すっかり勘違いをしていた。
勘違いというのは、三吉が僭称したのは「名人」ではなく「関西名人」だと思い込んでいたこと
である。 ![]() ![]()
僭称は僭称でも「関西名人」というローカル冠だから、さほど障りがないはずなのに、なぜあ
れほど東京から敵視されたか不思議に思っていた。しかし、実際には「名人」と称し、あまつさ え免状を発行していたとなると孤立もやむおえない。
勘違いの原因は、中村浩著「棋神・阪田三吉」に「関西名人への道」という章があり、頑なに
拒む三吉に、恩人や後援者が「関西名人だから、関根名人を軽んずるものではない」と口説く 部分が印象に残ったからだ。新聞の死亡記事にも「関西名人」と書かれている。 ![]()
三吉は明治3年堺の塩穴(しわの)村で生まれた。「塩穴」は「舳松(へのまつ)」、「耳原(みみ
はら)」と名が変わり、現在は堺市協和町となっている。画像の「名人 坂田三吉」の免状は、 舳松歴史資料館の「阪田三吉特別展」で展示されたものだ。
生家は、舳松小集会場のあたりで、現在は舳松社会教育会館になり、顕彰碑が建てられて
いる。要するに、同和地区の真ん中に生まれたのだ。
三吉は、文字を知らず無学奇行で知られる。芝居や映画は表現がオーバーだが、おおむね
そんなものだろうと思う。
字が読めないのは、貧しいためでも、教育の機会がなかったためでも、同和差別のためでも
ない。ちゃんと舳松尋常小学校に通ったが、遊びや将棋に夢中で、「カキ」という2文字しか覚 えられなかったためだ。「それだけしか知らんのか?」「もっと習うたが、忘れてしもた」。三吉の 資質が勉学に向いていなかったのである。
戦前の将棋界は団体がばらばらに存在していたが、大正13年有力三派が一本化して「東京
将棋連盟」が設立された。現在の「(社)日本将棋連盟」もそうだが、「連盟」と称するにはそうい う事情がある。
関西には「東京将棋連盟」のようなはっきりした組織は無かったが、坂田の将棋道場を中心
に政財界人と大阪朝日新聞が東京に対抗意識をあらわにしていた。小野名人が関根を嫌っ て、意趣返しに坂田を名人に、と主張していたせいもあり、次の名人は坂田に、という機運が 高まっていた。
大正10年小野が亡くなると、結局三吉より2歳年上で「心技体」揃った関根が名人に就い
た。三吉本人も心底関根の方が名人にふさわしいと分かっており、関根の祝賀会に参列して いる。
しかし4年後の大正14年、柳沢保惠(やすとし)伯爵や後の通産大臣高橋龍太郎、大阪朝
日新聞など有力後援者やタニマチの強いすすめで名人宣言を行なった。 ![]()
(生家跡の顕彰碑) (通天閣下の王将碑)
昭和13年、絶縁状態を破り第二期名人リーグに参加、7勝8敗の成績を残す。当時は2年
かけての総当り戦であるが、1年目は2勝6敗と振るわなかった。10年以上ブランクがあった のと、盤側で雑音を入れる輩がいたためである。
そこで2年目は松本治一郎という同和出身の国会議員を立会わせて集中し、5勝2敗という
好成績をあげた。70歳という年齢を考慮すると奇跡である。坂田がもう少し若ければ、と誰も が恐懼した。
翌年のリーグも参加の意思があったが、戦争でリーグ戦が停止になり、対局のないまま昭和
21年77歳で没した。
「坂田」と「阪田」の表記があるが、元々は「坂田」で、戸籍を新しくした際「阪田」になったらし
い。大正、昭和の新聞でも混ぜこぜに使われている。そもそも字の読めない三吉にこだわりよ うがなく、「おおさかのサカだす」とでも云っていたのだろう。
三吉は奇行で知られるが、それは東京人の見方である。本当は、アホなのかそうでないのか
判断に困る間寛平みたいな人である。大阪では、そう珍しい人種ではない。
没後9年、名人位と王将位を追贈され、さらに翌年墓を贈られた。戦後は遠くなりつつあった
が依然連盟の台所が苦しい時代、費用は高橋龍太郎が負担し、連盟で建てたことにした。
墓の縁がガタガタしているのは、心ない勝負師や選挙の候補者がお守りに欠いていったた
めである。 ![]()
(一番長く住んだ吹田市の借家跡付近) (豊中市服部霊園の墓)
明治天皇誕生の真相
孝明天皇が36歳で急死し、実子の16歳の睦仁(むつひと)親王が明治天皇になったという
のが正史である。孝明天皇の死は毒殺説と刺殺説があるものの、暗殺はまず間違いない。孝 明天皇は徳川体制の維持を前提とした強固な公武合体論者で、薩長にとっては邪魔な存在で あった。
睦仁親王は砲声と宮女の悲鳴に卒倒するような、華奢なお公家さんだったことは記録にあ
る。ほどなく睦仁親王は毒殺され、大室寅之祐(18歳)なる人物と入れ替わった。
では、この大室寅之祐は何者かというと、後醍醐天皇の末裔の光良(みつなが)親王の子孫
で、長州に匿われていたという。当時、南朝の正系の良泰(ながやす)親王の子孫は熊沢天皇 家として水戸藩に、美良(よしなが)親王の子孫は三浦天皇家として尾張藩に、そして長州では 大室天皇家としていずれも貧窮のうちに棲息していた。このような天皇家のスペアーは、何事 にも用意周到な徳川家にもあり、日光東照宮の宮司がそれで代々天皇家の血筋である。
華奢な睦仁親王は明治天皇になると二十四貫の巨体となり、馬上から大元帥として号令を
掛け、気が向けば側近を相撲で投げ飛ばすなど、まるで別人であった。それもそのはずで、2 歳年上の別人だからである。明治天皇がわがままを言うと、西郷が「昔の身分にかえします ぞ」と凄んだという。明治政府があわてて南朝を正統としたのも、万一世間の知るところとなっ た際、偽系との誹りを逃れるためである。
このへんの事情は知っている人は知っていることらしい。薩摩が西郷の敗死もあり失速した
あとは、天皇をメイクした長州の天下となり佐藤栄作まで国政をリードした。 明治天皇出自の真相
我々の知る明治天皇は、大室寅之祐なる人物が明治維新の動乱に紛れて入れ替わった、と
「明治天皇誕生の真相」で記したところ、山口県在住の方から丁寧なメールをいただいた。大 室寅之祐の実弟、「地家朝平」の玄孫(げんそん、やしゃご)にあたる「Jike」氏である。
平たく云えば、Jike氏は地家朝平の孫の孫で、血筋であるという。しかも地家朝平の孫の地
家翁は、現在90歳でご健在であり、地家家の口伝と、地元の伝承、さらにJike氏ご自身が調 べられたことをお教えいただいた。
メールは長文で内容は多岐にわたり興味深いが、ここでは大室寅之祐に関する部分を要約
する。あまり、予備知識が無くても分かるよう細部は割愛する。また、当時は幼名と、長じて後 に複数の名前を使い分けていたが、名前が鍵となる部分を除いて、一番ポピュラーな名前で 統一したことをお断りしておく。 ![]()
話はここからはじまる。
田布施町麻郷に、作蔵とスヘという若い夫婦がいた。作蔵は苗字が無く、維新後に在所の地
名から「地家」を姓とした。
作蔵とスヘの間に、ターケ(女)、寅吉(後の寅之祐、明治天皇)、庄吉、朝平(Jike氏の高祖
父)の4人が生まれた。スヘは作蔵と離縁したが、4人はしばらくスヘの実家の西円寺で楽しく 暮らしていた。
やがてスヘは、寅吉(寅之祐、明治天皇)、庄吉の2人を連れ、大室彌兵衛に再嫁する。スヘ
と彌兵衛の間に寅助が生まれるが、スヘは産後の肥立ちが悪く死亡、寅助も1〜2歳で早世 する。このとき、寅吉(寅之祐、明治天皇)5〜6歳であった。早い話、寅吉(寅之祐、明治天 皇)はスヘの連れ子であり、大室家の血統ではないということだ。
一方、大室彌兵衛の弟の大室惣兵衛が萩に住んでおり、虎助という息子がいた。当初、吉
田松陰はこの虎助を天皇に据えようと考えていた。大室家が南朝光良(みつなが)親王の末裔 という言伝えがあったのと、虎助が孝明天皇の息子の睦仁親王と、年齢が近かったためであ る。
ところが、虎助は16歳のとき京都で新撰組に斬殺されてしまった。そこで伊藤博文は寅吉
(寅之祐、明治天皇)に目をつけ、石城山の練兵場に連れ出し、乗馬、剣術、角力を仕込ん だ。
寅吉(明治天皇)は、「寅之祐」時には「虎之祐」という、虎助(斬殺)とも寅助(早世)ともとれ
る名前を名乗った。そこには、節目の改名や潜伏のための変名というより、周囲が大室家の 血統である虎助(斬殺)や寅助(早世)と混同するのを誘うような、積極的な作為が感じられる。 事実、後の田中光顕伯爵も、明治天皇の入れ替えは承知していたが、正体は萩の虎助(斬 殺)の方だと思い込んでいた。
やがて、伊藤博文による孝明天皇、睦仁親王の暗殺の後、寅之祐は首尾よく明治天皇とし
て迎えられた。
孝明天皇の死亡により、睦仁親王の践祚(せんそ、皇位継承)があったとみる向きもあり、睦
仁を「京都明治天皇」、寅之祐を「東京明治天皇」と区分することもある。
明治期以降も、大室家の血筋(実際は大室の血筋ではなく、寅之祐の血筋)を尊重する傾向
が続く。たとえば、寅之祐(明治天皇)と共に連れ子となった庄吉の孫の大室近祐(地家翁の はとこ、平成8年92歳没)の次男は、岸信介が除籍の上徳川家の養子に出し、徳川恒孝(つ ねなり)を名乗らせ徳川宗家を継がせている。
さて、寅之祐が連れ子なのはよしとしても、そもそも大室家が南朝光良親王から23代500
年続いた天皇家かというと、実は後世の系図くらいしか記録が無く、はなはだ心もとない。神話 と伝承の中間といってよいかもしれない。大室家がはっきり分かっているのは、寅助(早世)の わずか4代前までである。地家翁も「大室家が南朝の末裔で、500年以上続いて、しかも寅之 祐が大室家23代なんて嘘だ」とおっしゃっているそうである。 コ川恒孝明治天皇の縁戚の真相
18代将軍コ川恒孝(つねなり)氏は、明治天皇の弟の血筋である大室近祐の次男を、岸信
介が除籍の上徳川家の養子に出し、徳川宗家を継がせたものであると「明治天皇出自の真 相」で述べた。
平成16年11月9日(火)の「徹子の部屋」に、コ川恒孝氏本人が出演されたので、これはよ
い機会とじっくり拝見した。
恒孝氏は日本郵船(株)の副社長を退職後、平成15年に(財)徳川記念財団を設立し、将軍
家に伝わる絵画、工芸調度品、着物、古文書などの保護にあたっている。
恒孝氏の風貌は、ずんぐりした体躯と、NHKの磯村さんや松平さんと同系の福々しい顔つき
で、どこか家康公の肖像にも似ている。幼い頃に悪戯をすると周りの大人から「なり様、城が 落ちます」と叱られたとも語った。
これは本物だ一目瞭然だ、決して横から入った闖入者などではない、直感がそう告げる。幼
時の記憶もはっきりしているので、正統なご子孫に間違いない。
「岸信介が除籍の上徳川家の養子に出し云々」というのは、つまらぬ俗説にすぎないと判断
する。 野口英世偉業の真相
ヒデヨ・ノグチの業績というと「黄熱病の研究」である。「何々の研究」止まりでは、よくてノーベ
ル賞である。偉人伝に連なるには少し足りない。
成人前の野口については有名なので、24歳からの渡米後を簡単にたどる。野口はロックフ
ェラー財団の医学研究所で25年ほど花形研究員として活躍後、彼の発見した黄熱病の病原 体の追試のためアフリカに渡り、そこで黄熱病のため殉じたとされる。研究所では梅毒の血清 診断法などの研究を行い、人柄の魅力もあって米国でもいまだに人気がある。
しかし決定的な業績をあげることができなかった。野口は顕微鏡技術にたけ、それに頼むと
ころがあり、来る日も来る日も顕微鏡をのぞいた。学者というより、顕微鏡技師、顕微鏡職人と いったほうが近い。
実は理科室にあるような光学顕微鏡の時代は終盤に来ていて、見つかるものはほとんど発
見し尽くされた後に野口が出ていったのである。このあとは電子顕微鏡の登場を待たなくては ならなかった。
野口はあせった。顕微鏡から離れなかった。細菌を発見したかった。1915年38歳の時に
帰国したが、帝大を頂点とする医学界は世界的名声を遠ざけた。失意のうちにアメリカに戻 り、ふたたび顕微鏡に向かった。発見を願ってやまない細菌は、眼前のプレパラートにうようよ いたのであるが光学顕微鏡では捉えられない大きさであった。
南米の医師が黄熱病病原体のスピロヘータを見つけたと思い、それをもとに野口は黄熱病
スピロヘータ説を発表した。スピロヘータは光学顕微鏡で捉えることのできる最小の生物であ る。ところがこのころになると、ウイルスの存在が予測されていたので、続々と反論があがっ た。野口は最後のかけにアフリカに渡り、500匹以上のサルと巨額の研究費を投入したが敗 れた。
ロックフェラー財団は東洋人を表に立てることで博愛を演出した。野口は梅毒、黄熱病など
米国の意にかなうようなテーマを自然選び続けた。もう少し早く生まれるか遅く生まれるかで、 山のような発見をしたはずである。
野口の苦難と苦悩を想うと、澱のような野心や功名心を差し引いてもやはり偉人である。最
後は絶望の末の自殺(ハラキリ)だったという。 ユリ・ゲラー超能力の真相
1946年イスラエルのテルアビブで生まれたユリ・ゲラーは、ナイトクラブの「読心術」ショーで
人気を得ていた。日本で云えば「当てもの」に相当する芸である。ショーを見た米国の超心理 学者アンドリーヤ・プハリッチが、アポロ14号で月面にも立ったことのある元宇宙飛行士エドガ ー・ミッチェルに紹介し、ミッチェルがユリ・ゲラーを米国に呼び寄せ、スタンフォード研究所の ハロルド・パソフとラッセル・ターグという物理学者にテストをさせた。その時の論文が、実験に 問題ありとする巻頭の弁明つきで「ネイチャー」に掲載された。このときからユリ・ゲラーの快進 撃が始まり、スプーン曲げ、テレパシー、念力を引っさげ世界中のテレビを席巻した。日本テレ ビの特番は高視聴率を獲得し、たびたび来日するようになった。
その後超能力は手品であるとの暴露があり一時表舞台から消えたが、エンターテイメントを
プロレス的に受け入れるなど視聴者サイドの成長に助けられ、再びテレビに登場するようにな った。
映像で見る限り、ユリ・ゲラーの手さばきに奇術師としての訓練は無い。「へたくそな手品師」
というのは当たっている。念力で方位磁石を動かすというネタは、念を入れるポーズにまぎれ て磁針に顔を近づけると針が振れるというもので、スプーン曲げの前の山場に持ってくることが 多い。歯に磁石を埋めているだけであるが、もう少し上手い見せ様がありそうだ。観客が紙に 描いた図形を開封せずに当てるのは、シピ・シトラングというイスラエル時代からの相方が合 図を送っているだけである。視聴者に動かなくなった時計を握りしめてくれ、念を送るから変化 があるはずだ、という呼びかけに日本中から動いた動いたと電話が殺到したのは衝撃であっ た。しかし当時のゼンマイ時計は握っているうちに油などが弛み、数のうちには動き出すことも あるのだ。十八番のスプーン曲げは、成功した今となっては、首が柔らかい物や脆い物など特 注で自在になるのだが、さすがに当時はそうもいかない。推測するに、事前にスプーンを何本 も曲げたり戻したりしていると、稀に表面は一見普通だが内部が折れてる状態、いわゆるクラ ックが走った状態になることがある。これを常に用意していたと考えられる。
それはさておき、ユリ・ゲラーの真価が分かっていない人が多い。ユリ・ゲラーには奇術の歴
史に大きく名を残す功績がある。
ユリ・ゲラーのテレビを観たことのある人は、彼が視聴者に向かってたどたどしく「アナタニ
モ、デキマス」というのを聞いただろう。この一言により、観客に当事者意識を持たせ主体的に 参加させるという双方向のパフォーマンスを開発したのだ。メソポタミアの時代から4000年も の間、奇術は奇術師が舞台でハトを出してみせる一方通行の見世物であったことを思うと、ま さにコペルニクス的転回である。
現在のユリ・ゲラーは英国在住で頼まれれば気軽にテレビに出るが、実は大富豪である。
「超能力で油田を持ってマス」と言われると、超能力で石油を掘り当てたと早合点してしまうが、 正しくは、「超能力ショーで稼いだ金で購入した油田を持ってマス」となる。 クラーク博士「少年よ大志を抱け」の真相
明治9年7月から明治10年4月まで、ウィリアム・S・クラーク博士は北海道大学の前身、札
幌農学校の初代教頭であった。その間わずか8か月のことである。
この有名な言葉には続きがあって、「子供等よ、この老人のごとく大望にあれ」という短いも
のと、「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空し いもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成 しとげるために大志をもて」という長いものがある。
短い方は、明治27年予科生安東幾三郎が農学校の学芸会機関紙「恵林」に書いたもので、
クラークが悠々と馬に跨り学生を顧みて叫んだあと、一鞭をくれ塵埃を蹴って立ち去った云々 とある。芝居じみてる上、50歳を少し過ぎたばかりの博士がoldmanと言ったかどうか怪し い。
長い方は、昭和39年3月16日の朝日新聞「天声人語」に掲載されたものである。出典とし
て、稲富栄次郎著「明治初期教育思想の研究」(昭19)をあげている。稲富は岩波の「教育学 辞典」(昭11)の「クラーク」の項(海後宗臣)から引用しており、さらに海後氏は同文館の「教育 大辞書」増訂改版(大正7)の「クラーク」の項(小林光助)に拠っている。つまり孫引きの孫引き である。言葉の意味も、富や名誉を否定して内面の価値を重んじる倫理的なものとなってい る。ところがクラークなら、世俗的な職業に励むピューリタン精神にもとづいた勤勉と節制は説 いても、富や名声は否定するわけはない。開校式の演説でも「相応の資産と不朽の名声と、か つまた、最高の栄誉と責任を有する地位」に到達するよう呼びかけているほどだ。
第一期生大島正健博士の著書によると、帰国に際し島松まで見送った学生たちに向かって
馬上から最後に一声「Boys be ambitious」と言ったのが真相で、「さようなら」くらいの意味 である。長い方の言葉でもなく、短い方の「この老人のごとく」という部分もない。また、学生も 深く受け止めたわけではなかった。
この有名な言葉は、明治半ばまで埋もれた後に思い起こされ、何者かに引き伸ばされたあと
見栄えのいい解釈が与えられたのである。そして、「天声人語」により、全国隅々まで知れ渡る ようになった。
それにしても良い解釈を得たと思う。「少年よ大志を抱け」に鼓舞され、どれだけ多くの若者
が殻を破ったろう。
ところで博士のほうは、本国では船上大学の開校をめざしたが資金不足で頓挫するなど、来
日前も帰国後も芳しくなかった。1828年マサチューセッツ生まれの博士は、社交的な性格で 学者としての素養より、学校経営などに気が行くたちであったが、もともと山っ気が強く無計画 なところがあったらしい。窮した博士は、出資者をつのり「クラーク・ボスウェル社」を設立、7つ の鉱山会社を買収したが、1年半で179万ドル(約2億円)の負債を抱えて倒産した。出資者 や親戚から詐欺で告訴され、有罪にこそならなかったが全ての信用を失い、1886年失意のう ち59歳で心臓病のため亡くなった。日本から帰国後、9年目のことである。
明治政府のお雇い外国人にはお粗末な者もいて、博士はボーダーラインと云えるだろう。農
学校は8か月と短期間だったため、ボロを出さずに済んだ。 宮本武蔵剣豪の真相
武蔵は日本一の剣豪であった。槍、剣、鎖鎌、十手など得物が刀剣に収斂するまえの江戸
初期にあっては、日本一は兵法家の数だけ存在した。武蔵は三十歳を過ぎてから仕合を避け ているが、ひとたび日本一という評判を獲得したためである。
では武蔵という人物の値打ちはいかほどと考えられていたか、壮年期の仕官運動をたどって
みる。
武蔵三十台半ば、江戸において幕臣北条安房守氏長を通じ、最低一千石の兵法指南役か
大身の直参を希望し運動した。戦場での指揮経験も門地もない一介の牢人風情では、正気の さたではない。当時柳生家が兵法指南役から大名に累進していたが、柳生家はもともと大和 の小領主で関ヶ原の頃から徳川に貢献していた上、宗矩という突出した能吏がでたためであ る。この頃すでに、武芸一本では入り込めないほど幕府の体制は固まっていた。
江戸をあきらめ、尾張で大道寺玄蕃頭直繁を通じ仕官を頼んだ。藩主は家康第九子の義直
で怜悧な人物である。近習と仕合をさせ、武蔵の強さは天稟であることを見抜き、教官には不 適切であると判断した。それでも五百石なら召し抱える気があったが、一千石以上と訊き決別 した。このとき五百石で受けないかと勧める玄蕃に対し、武蔵は「それでは面目を失う」と云っ た。
次に筑前福岡の黒田家の船曳刑部に斡旋を頼んだ。ここでは尾張で誘いがあったが辞退し
たと、しれっと言ってのけた。藩主の忠之は暗愚で、刑部が言葉巧みに薦めると三千石で召し 抱えると公表した。ところが、刑部が退出すると序列を心配した重臣たちが、武蔵の風貌を若 君が怖がると搦め手から諭すと、忠之は他愛もなく取り消した。武蔵は刑部の屋敷で「なぶら れたか」と小さく云った。
ほどなく播州明石十万石を通過した際、城主小笠原忠真に仕官を懇望された。武蔵は十万
石という小藩が気に入らず辞した。しかし無下に断るのも惜しく思うようになってきていた。そこ で養子の八五郎を指南役として置いていくことにした。八五郎は親戚の次子で、後の宮本伊織 である。伊織は江戸城吹上で荒木又右衛門と仕合を行うほど剣術に長けていた。後に、武蔵 が小身と思った小笠原忠真は豊前小倉十七万石に移封となり、伊織は皮肉なことに吏才によ って家老にまで累進し、四千石取となった。
五十歳を過ぎて、小倉の伊織のもとへ身を寄せた。九州の諸侯はあらそって来遊を求め、武
蔵も気軽に応じた。書画、木彫、彫金などにも才をみせ、地方名士、地方文化人となった。
五十四歳のとき、島原の乱が起こり、伊織の「後見人」という資格で参戦した。城攻めでは、
すくむ小笠原軍を大喝し、先頭きって石垣に取りついた。武蔵は落石に脛を打たれ草の上に ころがったが、その勇姿に励まされ伊織を先頭に小笠原兵が一気に石垣をのぼりつめ城内に 入り込んだという。
五十七歳のとき、肥後熊本五十四万石細川家に召し抱えられた。藩主は名君忠利であっ
た。武蔵は「客分」を望んだ。客分なら禄の多寡は問題にならず、仮に無禄でも体面が保て る。また客分なら序列の外であり、藩士の反発を買うこともないという計算があった。実際は三 百石と広大な屋敷が与えられ、忠利が賓客扱いをしたのでその厚遇に感服した。
五十九歳のとき、忠利が急逝し武蔵は落胆した。武蔵は門を閉じ、茶禅書画三昧を送るが、
やがて霊巌洞にこもり五輪書を執った。
六十二歳で体調すぐれず屋敷に戻り没した。
晩年の武蔵は、望んだとおりのものを得た。伊織という生計の土台を得て、卑にまみれるこ
となく、権高に生きることができた。
武蔵亡き後、伊織があちこちに碑文を残したが、事跡をかなり誇張している。流祖を讃える
意味のほかに、自身の出自を飾りたかったためだろう。ただし、武蔵自身が書物や手紙を残し ているため、むやみな誇張はできなかった。
情報の乏しかった時代、一度中央で名前が上がれば一生食えた。死後もその死を知らず、
仕合を申し込まれたり、弟子入りを志願されたりすることもざらであった。田舎仕合を繰り返 し、断崖から飛び降りてみせたり、風呂に入らなかったのも名を成さんがためである。
名が売れたあとは、地方の名家を順に訪ね、暫し逗留しては食にありついた。つての無いと
ころでは、金箔の紋の帷子にタスキをかけ、夜な夜な城下の林で怪鳥のように飛びつつ太刀 打ちするというふうな、思わせぶりなパフォーマンスで気を引いた。いわば、武蔵と弟子のドサ 廻りである。当初は仕官のための巡業であったが、徐々に生活手段となっていった。
武蔵並に実力のある兵法家は多く存在した。武蔵が、他の日本一のように泡沫で終わらな
かったのは、結果的に家老の家筋となり一級の諸侯の知遇を得たことと、「五輪書」や書画が 水準を超えていたためである。 秋篠宮プレイボーイの真相
法律的には皇位継承権2位の秋篠宮であるが、国民感情ではすでに3位後退だろう。色白、
長身、切れ長の目にきょとんとした瞳、長めのヘアー、口ヒゲの容姿は美男と言って差し支え ない。最近は、顔がふっくらし、髪はグレーになったが、あいかわらずのダンディーぶりで、アパ レル関係の業界人にも見える。
1996年秋篠宮はマスコミからバッシングを受けた。クリントン大統領の宮中晩餐会を欠席し
てタイに行ったため、「結婚前から親しくしているタイ人女性に会いに行く」「殿下の女好きは何 とかならないか」「紀子妃の父親の川嶋辰彦教授が殿下の女性問題を問いただすために御所 へ怒鳴り込み、天皇陛下に苦言を呈した」というような記事が週刊誌に掲載された。
実は1989年の結婚前後にも悪意に満ちた噂があった。「紀子さまが何度も中絶させられ、
川嶋教授が怒鳴り込み、陛下がしぶしぶ結婚を認めた」「秋篠宮は美智子妃の子ではなく、元 宝塚女優加茂さくらの子である」というのがそれである。
これらはまったくのデマである。川嶋教授が怒鳴り込むというくだりなど、噂の焼き直しをして
いるのが見て取れる。
バッシングの突端は、毎日新聞が「ナマズのためなら」という見出しで、秋篠宮が晩餐会とい
う公務を欠席してタイに私的訪問するという報道であった。記事が批判的なトーンだったため、 週刊誌が尻馬に乗ってセンセーショナルな噂を掲載したのである。
真相はどうであったか。タイ旅行は、プラー・ブックという巨大淡水魚の調査のため数年前か
ら計画されていたが、阪神大震災などで延期になっていたところ、この時期に実現となった。ク リントンの訪日は一旦前年に決まっていたものが延期になり、あらためて確定した日程が、タ イ旅行と重なってしまった。タイ側では半年前から準備に入っていたため、宮内庁にも打診の 上欠席したのである。秋篠宮にはなんの落ち度もない。
ところが、宮内記者会発表時に宮内庁側が、欠席の経緯をよく説明せず「過去にも似たケー
スはあった」と繰り返すだけで、記者会側が「幹部を呼べ」とイラ立ち、そのムードが記事に反 映されたらしい。さらに、「熟慮の末、宮内庁としては不本意ながら云々」ということまで言ってし まった。これでは秋篠宮が宮内庁の制止を聞かず、自分勝手に行ったかのようである。
なぜこうなったか。事情を把握していない職員が記者発表したとも考えられるが、どうも秋篠
宮と宮内庁、外務省はあまりうまくいってないらしい。秋篠宮が各国で調査研究のため現地の 王族も行かないような山奥まで入るので、現地は大歓迎だが、職員は忙しい思いをするせいで ある。
女性問題も根拠がない。秋篠宮は風貌に反して、出不精でありお忍びで飲み歩くことはな
い。学生時代も酒量やタバコは多いものの、コンパやカラオケは苦手で、社交性を心掛けるよ う皇后に諭されているほどなのだ。
秋篠宮は外見は母親似であるが中身は父親の相似であり、そのため何をしでかすか天皇に
は読めるらしい。天皇に性格が酷似しているということだけでも、女性問題など起こしそうにな いと見当がつくだろう。兄の皇太子が地味なため、その対比で派手と思われるがそうではな い。この兄弟はふたりとも地味なのだ。
現在の日常は、朝7時に家族と朝食のあと9時頃に事務室に顔を出しメールのチェックなど
をし、夕方は子供と犬の散歩をする。夜の10時位からウィスキーを飲みだし、飲みながら自分 の仕事を午前2時か3時までする。このため、朝7時に起きるのがつらいのだが、子供の教育 のため無理に起きだしている。どうも2度寝や昼寝をしているようなのだが、確かなことは分か らない。つらいことはこれくらいで、やりたいことをのんびり気楽にやっている。
ニワトリの研究が一番の仕事で、学者としての評価は悪くない。国内外で、一流の学者や標
本に接する特典があるので有利である。
公務での応対は素っ気なく、マイクも紀子妃に向けられることが多い。素っ気ないのはシャイ
なためなのだが、このへんが誤解を生む。サングラスもヒゲもシャイのせいだが隆とした姿形 のため、かえってプレイボーイ染みてくる。
※上記は悠仁親王ご誕生前の記述。現在は、秋篠宮の皇位継承権2位が確定。
タイタニック号保険金詐欺説の真相
1912年4月15日2時20分、タイタニック号は氷山に側面を接触し沈没した。総乗船者数
2,228人中、生存者は705人、差し引き1,523人が死亡した。ただし、数字には数人のぶ れがある。コンピューターのない時代、そもそも乗船者数は正確に把握できないのが普通であ った。イタリア系、中国系の密航者も多くいた上、船員も航海毎に募集するため乗船資格の貸 し借りみたいなこともあって、人数は最後まで確定していない。
それでも、キャンセルが55人あったことは判明している。この55人に、タイタニック号の真の
所有者であるJ・Pモーガンと彼の知人が多く含まれていたため、保険金詐欺説が今日でも蒸 しかえされている。
保険金詐欺説のシナリオはこうである。タイタニック号の1年ほど前に、ほぼ同型のオリンピ
ック号が就航していた。このオリンピック号は巡洋船ホークと衝突し、船体には損傷、経済的に は賠償責任が残った。その後も海中の障害物と接触し、26トンもあるスクリューブレードが脱 落する事故を起こしていた。
当時の造船技術では、大きな損傷を受けると修理をしても耐久性能が格段に落ちてしまい、
オリンピック号では保険を大きく掛けることができなかった。オリンピック号、タイタニック号クラ スが造船費用を回収するには最低6年を必要とするが、オリンピック号は事故のため費用が かさみ回収の目途が立たなかった。
そこで、オリンピック号とタイタニック号のプレートを入れ替え、タイタニック号(実はオリンピッ
ク号)を氷山に正面衝突させ、乗客乗員は付近の船に全員収容されるというシナリオを描い た。正面衝突なら、隔壁により沈没しない構造だったのだ。ところが氷山が夜間予定外に出現 し、あわてて方向転換したため、側面に長く接触し、広範囲で浸水したため2時間しか持たな かった。このため、多数の犠牲が出てしまったというものである。
本当だろうか。確かに不審な点が多い。タイタニック号では、双眼鏡が紛失するという信じら
れない事態が起こっていた。また数回の「氷山警告」を他の船から受信していたにもかかわら ず、速度を遅くするどころか、最速の速度で航行していたことも大きな謎である。さらに、それ までの豪華客船では食器、リネン類には船名が入れられていたが、このころから合理化が台 頭し、備品の使いまわしが効いたため、入れ替えが全く不可能ではなかったらしい。
しかしながら、保険金詐欺説には無理がある。速度を落とさなかったのは、処女航海で最速
記録を作り宣伝したかっただけである。これは、同乗していた、J・Pモーガン傘下の子会社社 長J・ブルース・イズメイの意向であった。船長であったエドワード・J・スミスは、もともと危険航 路でも減速せず突っ込むタイプで、わりと事故歴の多い昔ふうの人物であった。ちなみに、船 長は自分の意思で船と運命を共にしている。
事故のあと、米国で1か月に渡る査問会、さらに英国で同様の査問会が行われ、船員、乗
客、周囲の船、電信会社にいたるまで事情聴取されている。いくら似ているとはいえ、1年以上 も前から就航している船と新品の船の区別が船員につかないはずはない。とくに、機械周りを みれば一目瞭然である。船員にはオリンピック号経験者も多くいたのだ。もし船の入れ替えが あれば、必ず証言が出るはずである。いや、船員でなくともベルファストのドックの作業員など 関係者が全員沈黙を保つとは考えられない。
それよりも気になるのは、ロビン・ガーディナーの「タイタニックは沈められた」など一連の著
書である。保険金詐欺説を展開しているいわゆる御本家で、テレビのスペシャル番組のネタ本 になっている。字数が多く読みにくい本であるが、頭の方から九割ばかり、いろいろ事実関係 をあげ、説得力のある保険金詐欺説を述べている。ところが、最後の方になってくると、「沈め られた」というのが、「故意に沈められた」という意味のほかに、「氷によって沈められた」とも読 めるような逃げをうっており、さらにこれらの疑惑は保険金詐欺という「陰謀説」でもないと説明 がつかない、などと急に自問に後退するような腰砕けなのだ。
どうも著者自身、保険金詐欺説が無理なのは承知しているフシがある。
ドーデ「最後の授業」の真相
小学校6年の国語の教科書で、フランスの作家アルフォンス・ドーデの「最後の授業」という短
編に感動を覚えた人は多いと思う。日本語にして原稿用紙10枚程度のこの作品は、準主役 のアメル先生がドラマチックな役回りのため、教員に受けのいい作品であった。 ![]()
ストーリーはこうである。普仏戦争の結果、フランスのアルザス地方はドイツへ割譲されるこ
とになった。一人の少年が、遅刻の上、動詞の活用を暗記していなかったので、恐々教室に入 る。ところが、アメル先生はやさしくこう言った。
「フランツ、はやく、自分の席に着きなさい。君が来なくても、始めるところだったんだよ」
アメル先生は正装し、今日が最後のフランス語の授業であること、ベルリンの命令でドイツ語
以外を教えてはいけなくなったこと、明日新しい先生がくることを告げた。少年は、教室の後ろ で、村の長老や元の村長、元の郵便屋などいろいろな人達が、悲しそうに座っている訳が分か った。
少年は先生に指され、動詞の活用を言わされるが、答えられない。先生は、勉強を先送りし
たことをやさしく諭したあと、この地方の親達が教育より畑や工場の手伝いを優先したこと、そ して先生自身釣りのため学校を休みにしたことなど、自責の言葉を吐く。さらに続けて、フラン ス語は世界中で一番美しい、一番はっきりした、一番しっかりした言葉であること。民族が奴隷 になったとき、国語さえ守っていれば、自分達の牢獄の鍵を握っているようなものだ、ということ を語る。
「やがて、教会の大時計が正午を知らせた。
アメル先生は真っ青になって教壇に立ち上がった。今までに先生が、こんなに大きく見えたこと
はない。
『皆さん。』
先生は言った。
『皆さん……私は……私は……』
けれど、何かが先生の咽喉を詰まらせ、先生は、そこまでしか言えなかった。
先生は黒板の方を向くと、チョークを一本とり、全身の力をこめて、できるかぎり大きい字で、
フランス万歳!
と、書いた。
そして、そのまま、壁に顔を押しあてた。それから無言で、僕らに、手で合図した。
『これでおしまいです……お帰りなさい。』」
祖国を失う寂寥感と無力感に包まれた、感動的な幕切れである。
ところが、大人の目で読み返すと、奇妙な点に気づく。物語の少年の名は、フランツである。
フランツ・カフカなどから分かるとおり、フランツはドイツ名である。ストーリーの中に、動詞の活 用を訊かれて少年が立ち往生する場面があるが、日常の話し言葉で動詞の変化が分からな いということはない。ということは、フランス語は教室の中だけのことで、普段はドイツ語を話し ていることがわかる。言い換えれば、ドイツ人にフランス語を「強要」していたということだ。我々 は、何か大きな間違いをしていたのではないだろうか。
実はこの小説は、1870年の普仏戦争でパリがドイツ軍に包囲されるという時代に、戦争に
参加したドーデが体験をもとに、愛国的作品を書いたものである。つまり、フランス人に都合の よい部分だけつまんだ、誇張と歪曲に満ちている創作なのだ。アルザス地方が歴史的にフラン ス領になったのは、1789年のフランス革命以降のことである。その82年後の1871年、普仏 戦争でドイツが勝利しアルザス地方を回復したのが、この物語の時点である。ドイツ系のフラ ンツ少年にとっては、祖国復帰の輝かしい日だ。ただし、この地域はフランス系住民もおり、単 純な「取った取られた」という事情でないのも確かである。
アルザス地方は軍事的な重要拠点のため、第一次世界大戦後は戦勝国のフランスにふた
たび帰属した。第二次世界大戦でヒトラーが優勢な間はドイツに復帰したが、戦後は戦勝国の フランスにみたび帰属して、今日に到っている。
フランスに組み込まれた現在でも、住人の79%はドイツの方言を話している。ドイツ系が、ア
メル先生の教えのとおり牢獄の鍵を握っているのは、歴史の皮肉だ。 新約聖書「ヨハネの黙示録」の真相
先年亡くなった三浦綾子の著書に「新約聖書入門」というのがある。先に出版されている「旧
約聖書入門」もそうだが、三浦の日本人的な日常や感想が織り込まれており、字句に宗教的 なごまかしのない良書である。
「以前私は、新約聖書の中で、この『ヨハネの黙示録』を読むのが一番気が進まなかった。私
と同じ思いの人は意外に多いが、また反対に、この黙示録に夢中になっている人々も少なくな いと聞く。つまり、評価が二つに分かれているということであろう」
という書き出しで、「ヨハネの黙示録」は、暗号がちりばめられていて内容がちんぷんかんぷん
である点、この世の終わりを説いて不安や混乱におとしいれる者がいる点、を気の進まない理 由にあげている。それでも、ローマの迫害のもとで信仰を貫くため暗号を用いた、命がけの書 であることに思い至り、三浦自身命がけでものを書くことができるか問うたあと、無理に自分を 納得させている。 ![]()
「ヨハネの黙示録」というのは新約聖書の最終章に位置し、ローマ支配にたいするユダヤ人
の憎悪を端的に表している。暗号を解いた形で要約すると、以前イエスが治安を乱したかど で、ユダヤ人の長老会議で死刑の判決を受け、ローマ人によって処刑された。イエスは実はメ シヤであり、ローマ支配を打倒してユダヤ人を解放するはずの王だった。いまや、この世の終 わりが近づいている。その日に、ヤハヴェ信仰を守ってローマに屈服しなかったユダヤ人、12 部族からそれぞれ1万2千人の計14万4千人が生きかえって、シオンの山に集まる。イエスが 白馬に乗り、天の軍勢を率いて出現する。サタンは千年のあいだ地底に閉じこめられ、その千 年のあいだ14万4千人は、イエスの玉座のもと地上を支配する。千年が終わると、サタンは打 倒される。あらゆる死人は審判を受けて、イエスをメシヤと認めなかったユダヤ人は第二の死 によって罰せられる。古い大地は消え去り、イエス派のユダヤ人たちが、新しい世界を永遠に 支配する。つまり時間は停止する。
要約だけでも「ヨハネの黙示録」は、無機質の薄気味悪い雰囲気に満ちており、他の章とトー
ンが違うことが分かる。どれだけ譲っても、イエスの教えとは無関係である。「旧約」あたりの話 をベースにしたものが紛れ込んだのか、とも思える。
「ヨハネの黙示録」はどういう文書かというと、1世紀末小アジア西岸地方のどこかで書かれ
たもので、ヨハネと名乗る人物が、霊感に打たれて見た幻の報告である。このヨハネは「使徒 のヨハネ」とも「福音書の著者のヨハネ」とも違う人物である。何者かというと、エーゲ海の南東 のパトモス島にいたらしいということ以外、分かっていない。このような、出所のはっきりしない 文書がカトリックの正典に加えられたのは、2世紀末のことである。当時、終末予言が何種類 も出回り、混乱を収拾するため、教会がそのうちの一つを正典と認める必要に迫られたのだ。 東方教会系では4世紀になってしぶしぶ正典に加えたが、今でも儀式では読み上げない。宗 教改革を行なったマルティン・ルターも、正典からはずすべきだ、という意見を表明した。
「ヨハネの黙示録」は暗号を使っているというが、「ブッシュ大統領」を「薮の殿様」と呼ぶ程度
のもので、誰の目にもローマを当て擦っていることが分かる。ところが、このような反ローマ精 神を含むキリスト教が、392年こともあろうにローマの国教になってしまった。このため、反ロ ーマ的部分は、反ユダヤ、反アラブ、反共、反アジアに姿を変え、最終戦争でキリスト教側の 軍勢が勝利して完結する、というビジョンを引き継ぐ役目を果たすことになった。また、人類滅 亡大予言やイエス宇宙人説など、レベルの低いオカルトや新興宗教も、「ヨハネの黙示録」を 拠りどころにしている。正典とはいえ、いささか問題のある文書ではないだろうか。
三浦は、良心を痛める必要など少しもなかった。「ヨハネの黙示録」は、気が進まなければ読
まなくてもかまわないのである。 三笠宮双子の真相
そもそも「三笠宮」が分かるだろうか。どなたのどなたにあたるのか、存命なのかそうでない
のか、年輩の方でもしばし思い返さないと分からないのではないか。
三笠宮は昭和天皇の末弟で、その間には上から秩父宮、高松宮がいる。三笠宮ご自身は存
命だが、平成14年に急逝された子息の高円宮とは逆縁になってしまった。このため、平成15 年正月の慶賀は遠慮された。 ![]()
大正4年12月2日三笠宮は生まれたが、同時に生まれた糸子(いとこ、戸籍上は絲子)は、 大正5年1月8日山本実庸(さねもち)子爵の庶子として生まれたことにされた。今でこそ、双子 どころか五つ子、六つ子と数が増えるほど微笑ましく受け入れられるが、当時は「畜生腹」とい って、1度の出産で複数産むのは動物と同じだということで忌み嫌われた。特に男女の双子 は、「心中の生まれ変わり」という迷信も加わった。皇族、将軍家、公家、大名家では家門の名 誉のため、男女なら女児を、同性なら後から生まれた方を密かに始末した。 |