前回のカナダに続いて今度はイギリスの旅行記をここに記すこととなった。偶然の結果とはいえ、こうして1年に2回も立て続けに海外に出かけるということは、私にとって生まれて初めてのことである。しかも2回とも公費で……。
イギリスは実に15年ぶりだ。まだ高校生だった1989年1月に、3週間ほどロンドンにホームステイさせてもらったことがある。ロンドン北東部の郊外住宅地だった。もっと長くいれば英語がもう少し上達したのかもしれないが……。ホームステイから帰ってから、1年くらいホストファミリーと文通した。『英文手紙の書き方』などというガイドブックを片手に、慣れない英文を必死に書き送ったことを、懐かしく思い出す。ずっと昔の経験でしかないけど、ロンドンに滞在することに不安や違和感はない。
今回のイギリス旅行は、8月28日から9月13日までの17日間(イギリス国内滞在は正味14日間)におよび、滞在期間はずいぶん長かった。前回のカナダ行きは正味わずか3日間だったから、あまりの違いである。ただ、行く前は、ずいぶん長いと思ったものだが、終わってみればあっという間だった、これは今回の旅行に同行した皆さんもおっしゃっていたことだ。
前回のカナダ行きと違っている二つ目の点は、前回は一人旅だったのに比べ、今回は総勢13名の調査団だったということ。全員ではないが多くのメンバーが同じホテルに宿泊し、集団で聞き取り調査に訪問した。
違っている三つ目は何かというと、物価である。トロント市の生活物価は、食料にしても衣料品にしても、大変安く感じた。それに比べて、ロンドン市の物価は、今ちょうどバブル経済の時期ということもあってか、何から何まで非常に高い。1ポンドは日本円にして大体200円なので、値札に200をかけると日本円に換算できるが、東京の物価の2倍程度かそれ以上だ。たとえば、三角形のサンドイッチ一つが500〜600円、ボトルに入った250ml程度のジュースは200円、夕食をごく普通のレストランで食べると3000〜5000円。地下鉄の初乗り料金は400円。ロンドンに来た当初は驚いて目を剥いてばかりいたが、次第に感覚が麻痺してくる。ガイドブックによると、ロンドン子は1ポンドを100円くらいの感覚で使っているらしい。そう言われてみると、そうかなという気がしてくる。ただ、やはりロンドンの中心部は懐の温かい人でないととても生活できない。
そもそも何をしにイギリスに行ったのか?
それは、大学に提出した、イギリス旅行の報告書を以下に掲載することで答えに代えさせていただきたい。
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オープンリサーチセンター整備事業 海外出張報告
コミュニティ開発におけるNPO・行政・地域企業・大学の戦略的パートナーシップに関する研究」イギリス調査 2004年8月28日〜9月13日
今回の調査では、「地域づくりにおけるNPO・行政のパートナーシップとソーシャル・エンタープライズの動向」を研究する一環として、イギリスにおける地域づくり分野のNPO・行政・企業のパートナーシップ(コンパクト・LSP)と社会的企業の動向に関するボランタリー組織・社会的企業・自治体に対する聞き取りを行った。筆者は団長の塚本一郎教授をはじめとする総勢13名の調査団の一員として本調査に加わり、全ての聞き取り調査に参加した。
訪問先および訪問日は以下の5ヶ所である。聞き取りの主要な内容を記す。
1.ルイシャム区(ロンドンの地方自治体) 2004年9月2日(木)
ロンドン南東部に位置するルイシャム(Lewisham)区のNew Cross Gate地域は貧困者・失業者を多く抱えるなど経済的に問題を抱えた低開発地域である。
労働党政権は低開発地域の再活性化(regeneration)を図るためニューディール政策を始め、NDC(New Deal for Community)という部署の下に、全国各地で、地方自治体とともに活性化のためのプロジェクトを開始した。
今回訪問したNew Cross Gate地域では、NDCから予算を得てThe Gate Agencyというプロジェクトに取り組んでいる。これはNDCから独立した組織であり、法人格を持たない、2006年までの期限付きのプロジェクトであるが、NDC、ルイシャム区、地元のボランタリー組織、助成財団、社会的企業など幅広い組織と連携・協働して、失業者の就業支援、起業に対する支援、公園の整備など、幅広い活動を展開している。NDCのプロジェクトの年度が終了した後は、地域住民の希望により法人格を新たに取得して恒久的な組織に変更することも考えているとのことである。
2.ウェスト・ミッドランドの中間支援組織RAWM 2004年9月6日(月)
イギリスは、イングランド内の9地域(region)とスコットランド、北アイルランド、ウェールズの計12地域(region)から構成されるが、ウェスト・ミッドランド(West Midlands)はその一つ、イングランドの中央部に位置している。労働党政権の主導下で分権化政策が進み、地域(region)単位で地方政府の権限が強化された。これと同時にボランタリーセクターは地方政府の意思決定に影響力を与えるために協議体(および中間支援組織)であるRegional Action West Midlands (RAWM) という組織を設立し、地方政府とボランタリー組織、社会的企業などとの橋渡し役として役割を果たしてきた。RAWMは独立したチャリティであり、政府や地方議会、助成財団など多様な組織から収入を得て活動している。
当日は、RAWMのChris Bonard氏に、本研究プロジェクトへの参加、来年度予定しているワークショップやシンポジウムへの参加を要請し、同氏の快諾を得た。
3.ロンドン市内の自治組織グループ LA Connecting Group 2004年9月8日(水)
ロンドンは33の自治組織(borough:バラ)からなるが、この自治組織から選ばれた代表者、ボランタリー組織、社会的企業などの代表者が、低開発地域の再活性化に共同で取り組むために協議の場を持っている(LA Connecting Group)。調査団はこの協議を傍聴し、簡単な説明を受けた。
4.ロンドンの社会的企業推進組織 SEL 2004年9月10日(金)
ロンドンにおいて社会的企業(Social Enterprise)を推進するために、中央政府やロンドン市内の自治組織、ボランタリー団体、社会的企業などと連携・協働しながら活動する推進組織がSELである。政府に対しての政策要求、自治組織間の連絡調整、社会的企業に対しての助言・情報提供、社会一般に向けての啓発など、幅広い活動を展開している。
5.レジャー・スポーツセンターを経営する社会的企業GLL 2004年9月10日(金)
ロンドン南東部Greenwich区には、失業者が多いなど経済的に問題を抱えた地域がある。従来公的施設として運営されてきたレジャー・スポーツセンターが、財政難のため存続が難しくなった時、これを閉鎖するのではなく民間の社会的企業グリニッチ・レジャー・リミテッドとして存続させることとした。営利企業ではなく、従業員主導で、地域住民代表も運営に加わるワーカーズコープ的な法人として再生した。年間100万人の利用者が訪れるなど住民に広く支持され、収入も年々増加するなど、成功を収めている。
上記の訪問および聞き取り調査を通して、イギリスにおける中間支援組織と地方自治体との協働により社会的企業が大きく成長してきていることが分かった。今回の調査の成果を今後の本調査研究プロジェクトに活かしていきたい。
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社会的責任投資(SRI)関係団体の訪問
ただ、イギリス滞在中に公式訪問したのは上記のとおり4日間のみで、あとの10日間は(ミーティングは時折あったが)全て自由行動日であった。
仕事の義務はないし、観光してももちろんかまわないが、だからといって連日連夜、観光地やパブに通い続けるというのも変だ。
私は、以前から関心があった、社会的責任投資(Socially Responsible Investment; SRI)について、関連する団体をいくつか訪問することにした。主な訪問先だけここに紹介しておきたい。
1)BiTC(Business in the Community:http://www.bitc.org.uk) コミュニティ投資推進機関。コミュニティ投資だけでなく環境や人権などさまざまな分野のCSRを総合的に扱う組織。今年、1年間にわたるプロジェクトの調査結果に基づいてSmall Business Journeyという新サイトを立ち上げたという。ここで、コミュニティ投資、特にSmall Business Consortium projectとCommunityMarkについての資料をもらった。
事務所は住宅地の中にあって、あまり目立たない建物だったが、近くに行ってみるとかなり大きかった。受付をはじめスタッフの方はとても親切に対応してくれた。
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2)CDFA(Community Development Finance Association: http://www.cdfa.org.uk) コミュニティ投資組織CDFIs(Community Development Financial Institutions) の全国連合団体。
入り口には組織の名前の下に "Building a thriving community finance sector.
Creating lasting wealth in every disadvantaged community within the UK" (コミュニティ融資セクターを繁栄させる。イギリス国内にある貧しいコミュニティのなかに、いつまでも富を作り出していく)とあり、貧しい地域に資金を融通することを使命としていることが分かる。コミュニティ投資組織CDFIsの力量形成や、政府・企業への働きかけ、社会一般への啓発活動などを行っている。ここのスタッフの方に話をうかがうことができた。
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3)EIRiS(Ethical Investment Research Service: http://www.serm.co.uk) 社会的責任投資の調査機関で、主に2000社を超える調査対象企業のウェブサイトや、Business in the Community(BiTC)などから情報を得て調査し、インデックス機関FTSE(後述)に情報を提供している。企業の担当者は、競合他社の動向を気にしている。EIRISは、各企業に対して何をしろとアドバイスをするわけではないが、EIRISのアンケート調査や、Best Practiceを伝えることで、community involvementの強い動機付けになっていることは間違いないという。ここの担当者の方に話を聞くことができた。
4)FTSE(http://www.ftse.com)社会的責任投資のインデックス(株価指数)提供機関。EIRiSなどの調査機関から提供された情報をもとに、世界中の主要企業の中から、社会的責任投資の対象としてふさわしい企業のリストを作る。どの企業をリストに含めるかという基準がウェブサイトで公開されているが、何百という詳細な項目が並んでおり、これらを全てチェックするのはかなりの作業だと思われる。コミュニティに対する企業の貢献(involvement)について話をうかがった。
5)SERM (Safety and Environmental Risk Management) Rating Agency Ltd:(http://www.serm.co.uk)企業格付け機関。企業が抱えるさまざまな種類のリスクを、独自の方法で数値(=リスクの高さを表す)に置き換え、その数値をもとに投資の安全性・確実性を投資家や年金基金などに情報提供している。リスク項目のなかには環境保全や社会貢献なども含まれており、コミュニティへの貢献を進めることでリスクが減るという解釈をしているようだ。しかし、大企業は、コミュニティに対していくらかの寄付はしても、投資・融資をするのは話が別で、難しいという。
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観光・その他
さて、調査研究以外の部分で、ロンドンに滞在した約2週間に撮った460枚あまりの写真の中から、いくつかを厳選(?)してご紹介する。
1)大英博物館
たまたま、宿泊したホテルのすぐそばに大英博物館(the British Museum)があった(徒歩3分程度)。さすが観光名所だけあって、連日観光客でごった返している。訪問した時期には特別展"Mummy: the inside story"(ミイラ内部)を開いていた。
やはり人気があるのは日本でもおなじみの、古代エジプト王朝のラムゼス2世像とか、ヒエログリフ文字の書いてあるロゼッタ石、古代ギリシアの彫刻、アテネ・オリンポスのゼウス神殿、そしてなんと言ってもミイラである。人気のある部屋は、ものすごい混雑ぶりだ。
ミイラの大部分は棺おけに収まっているが、なかには棺おけから出されて布巻きの状態のミイラや、布をはがされて全裸の状態のミイラも展示してある。ミイラは普通、死体から内臓や脳など腐る部分を取り出して詰め物をするなど、人工的に作られる(作り方まで解説してあった)けれども、砂漠の中で行き倒れたために自然にミイラになってしまったものもあった。湿気の多い日本では想像もつかないことである。
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イギリス在住の方から、イギリス人はオリンピックにほとんど興味を示さないし、テレビでもオリンピック放送はあまり積極的にしていないという話を聞いた。日本では連日、アテネオリンピックの話題で持ちきりだったのに比べると、あまりの違いである。
ただ、博物館に行くとやはりオリンピック関連の展示がしてあった。やはり博物館らしく、古代アテネのオリンポスの模型だ。有名なゼウス神殿(Temple of Zeus)を中心に、丘の周辺にさまざまな競技場や建物が並んでいるのが分かる。
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博物館の中央には、ドーム状の大きな図書館(reading room)があって、円形の壁の書架には世界中から集めた本が展示してある。ほとんどの観光客は、入り口で「ほほう」と言いながらドームの写真を撮って帰っていくが、写真を撮るだけではちょっともったいない。
とても全部の本は見切れないが、眺めていると面白いものに出会う。かのカール・マルクスが親友エンゲルスの援助を受けながら、大英博物館で執筆を続けたことはあまりにも有名だが、入り口近くにマルクス・エンゲルス全集がちゃんと勢ぞろいしていた。
日本関係の本もけっこうあって、日本美術、日本の歴史、経済など、日本のことについて紹介した本がある。また、イギリスでも研究を行った南方熊楠の著書(英訳本)がマル・エン全集の近くに展示してあった。
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ちょっと変わったところでは、子供向けに書かれた、本の読み方ガイド(?)のページが開いてあった。内容が面白いので紹介する。
まず、開いてある本の一節を引用すると、
"be careful not to read 'good' books, you will spare yourself much discomfort, and keep yourself in good health."
"If you are told that any book is not fit for you to read, get it and read it when nobody is looking. There are some books that are not fit for grown-up people; but all books are fit for you. Therefore read everything except what you find tiresome."
(「良い」本を読まないように気をつけなさい。そんなのを読んだら気分が悪いし、健康にも良くないから。(中略) もしあなたが、お前にはこの本は相応しくないと言われたら、誰も見ていないときにその本を読みなさい。大人が読むには相応しくない本もあるけど、あなた(=子ども)には相応しくない本なんかありません。だから、あなたがつまらないと感じるもの以外は、何でも読んでよろしい)
本の右側のページの絵には、ゆらゆらと立ち昇っているオバケと、テーブルの下に隠れてこっそり面白そうな本を読んでいる女の子が書かれている。たぶん、女の子はお化けの登場するホラー小説でも読んでスリルを味わっているのだろう。人は誰でも、やっちゃいけないと禁止されると、隠れてこっそりやってみたくなるものだが、それにしても「どんな本でもいいからこっそり読みなさい」とは、子どもに対してなかなか大胆なアドバイスである。まあ、いまどきは、過激なセックス描写や暴力シーンなど、本当に子どもにとってふさわしくない本もたくさんあるから、100%真に受けることはできないけど。
大英博物館は、最初は見物に行ったが、その後は連日、図書館を書斎代わりに使わせてもらった。図書館の机といすは広くて快適、電源もあるのでノートパソコンを持ち込み、静かな部屋で仕事に集中することができた。無料で入場できるのでとてもありがたかった。最後の日には感謝の気持ちを込めて玄関の募金箱に少しだけ寄付金を入れてきた。
2)ロンドンアイ(London-Eye)
2000年のミレニアム・イベントの一環として、華々しく登場した観覧車。ロンドンに行く前、英会話学校のイギリス人講師から、ロンドンアイに乗ることを勧められたので、ついでに立ち寄ってみた。テムズ川をはさんでウェストミンスター寺院の向かい側に聳え立っている。近くで見るとさすがに大きい。係りの人に、観覧車に乗っている時間はと聞くと、30分かかるという。
この観覧車はブリティッシュ・エアウェイズ(BA)が運営するもの。
私が行ったのは平日のお昼時だったが、乗り場の前にはものすごい長蛇の列。しかしその列に並ぶ前に、チケットを買わねばならない。そのチケット売場に行くと、窓口の前にはもっと長い行列がうねうねと続いていた。観覧車に乗っているよりも、待っている時間のほうがはるかに長くかかりそうだった。観覧車からロンドン市街を一望することはあきらめ、代わりに売店で写真のついたパンフレットを買うことにした。
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3)oxoタワー
1960年代には、ロンドン市内でも荒廃した地域だったコイン・ストリート(Coin Street)を再生しようと住民が立ち上がって、ディベロッパーの買収計画をはねのけ、1980年代からCoin Street Community Buildersという組合(社会的企業)を結成し、地域再生の核となる建物を建設する動きが始まった。医者や看護婦など、街にいなくてはならない人々に格安の住居を提供し、また衣料品やアート、喫茶店、レストランなどの小さな店を開く場所を起業家に提供するのがoxoタワーで、G〜2階は名店街、3〜7階は住宅、8階は展望およびレストラン&バー。テムズ河畔にあり展望も良く、新しいせいもあるが全体としてこぎれいでおしゃれな雰囲気である。
名店街の一角に'coin street community builders exhibition'もあるが、特に地域再開発の事情を知らない人にとっては特になんと言うこともない場所かもしれない。
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4)自然史博物館
サウス・ケンジントンには美術館や博物館が集まっている。私が訪れた自然史博物館は恐竜や虫の展示、人間の身体のメカニズムの展示などがあった。物をただ見せるというのではなく、実際に何かを動かしてみるとか、遊んでみるといった要素をふんだんに盛り込んでいて、見ている人を飽きさせない。特に、人間の身体のメカニズムに関する展示は、すぐれた性教育といえる。
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展示を2つだけ写真で紹介したい。
ひとつは、人間の細胞の働きを、都市にたとえて説明したもの。説明文には
Like the different people in a city...都市にたとえて細胞の働きを説明しているのはなかなか面白く、分かりやすかった。there are different types of cells in the body with their own jobs to do.
Some carry supplies... (左側の写真にはバスが、右側に赤血球。)
Some remove harmful elements...(左側の写真には犯人を追う警官、右側に白血球)
Some carry messages... (左側の写真には郵便配達員、右側に神経細胞)
Some build a structural framework...(左側の写真には建築工事現場、右側に細胞壁)
...and there are many more types of cells in the body. each with its own job to do.
People can change their jobs- but a cell is especially adapted for one particular job.
もうひとつは、脳が首から下の身体をどうコントロールしているかを、模型を使って説明したもの。感覚神経と運動神経の2種類で制御していて、脳の特定の部分が体の特定の部分をコントロールしている。写真の模型は、脳の体積の割合で人間の身体をデフォルメするとこんな形になりますよ、というのを示している。写真左側の赤いほうはsensor (感覚)、写真右側の青いほうはmotor (運動)をあらわす。脳の体積全体に占める身体のコントロールの割合を見ると、大部分は顔(目・鼻・口)と手のひらが占めていて、顔と手のひらが極度に肥大化し、胴体や腕・足はひものように細くヒョロッとしている。
5)グリニッチ天文台
世界標準時として名高いグリニッチ天文台に立ち寄った。この天文台を通る経線0度をはさんで世界が西と東に分かれるというのは、やはりロンドンこそが世界の中心だという大英帝国の威信を示すものにほかならない(そのおかげで日本は極東などと呼ばれている。要するに世界の中心からはるか遠い、世界の果ての国の意味)が、ぜひとも一度は見ておきたかった。天文台は広々としたグリニッチ公園の中心部にあり、天文台というだけあって小高い丘の上に聳え立っている。天文台のある丘からはロンドン市外が遠く一望できた。
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6)その他
・公園で一休み
宿泊したホテルのすぐ近くにラッセル・スクエア・ガーデンという方形の公園があり、天気の良い日中は多くの人が芝生に寝転んだり、お昼を食べたり、あるいは運動したりと思い思いにすごしていた。大木も噴水も花壇もベンチもレストランもあり、芝生がきれいに手入れしてあって、なかなか快適な休憩所である。自治組織が公園を管理しているらしく、この地区(London borough of Camden)の注意書きの看板が立ててあった。
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・列車に乗る
ロンドンでは主に地下鉄を利用したが、一度だけ、バーミンガムに行ったときに列車を利用した。同じ路線でも運行会社によって価格が全く異なるのには驚く。
写真は列車(Virgin)の車内の様子と、車窓からの農村風景、伝統的な住宅のある風景である。駅出入口には日本でいう改札がなく、車内で検札があるだけだった。イギリス在住の方に事情を聞くと、係官が改札する場合もたまにあり、車内で検察がないこともよくあるらしい。考え方としては、改札で切符を改めなくても、乗客は切符を買って乗るのが当然の前提ということらしい。まあ、それはそうだが、フリーライダーもたくさんいるだろう。その代わりペナルティも用意されていて、時折来る検札で、仮に切符を持っていない場合には恐ろしく高額の罰金が課されるとか。
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・2階建てバスからの眺め
ロンドンの名物として名高い2階建てバスだが、最初は乗り方がよく分からずに敬遠していた。それでも滞在中に一度は乗りたいと思い、何とか乗ることができた。乗車するとさっそく2階の最前列に陣取り、眺めを楽しむ。道路は混んでいるので、地下鉄ほどスピーディに移動できないが、急がない時には景色を眺めながらゆったりとバスに乗るのもいいものだと感じた。写真は、ウォータールー橋を渡って中心部ホルボーンに向かうところ。
・ホテル
ロンドン中心部ホルボーンにあるホテルに泊まった。前半はボニントン(Bonnington;写真左)、後半はプレジデント(President;写真右)。どちらも大変すばらしいホテルだった。金額も安くサービスもよいボニントンが、プレジデントよりはるかに優れていると感じた。
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●トロント見聞記
2004.7.17
7月10日から15日までの6日間、カナダのトロント市に行ってきた。観光旅行で楽しんできました、と言いたいところだが、そうではない。ISTR(International Society for Third Sector Research; 国際サードセクター学会)の第6回大会が、トロント市中心部にあるライアソン大学(Ryerson University)というところで11〜14日の4日間にわたって開催されたので、その大会に出席して報告を聞いてきた――つまり、お勉強のために行ったのである。
(上空よりトロント市郊外を望む)
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せっかく海外に行くのだから、ついでに観光旅行もしてくれば? 直行直帰なんてもったいない、とも言われた。私も最初は、ついでに観光旅行もしたいなあと思っていた。トロント市のすぐ南には、あの有名なナイアガラの滝もある。今回トロントに行くことになるまで、ナイアガラの滝がどこにあるのかさえ、知らなかった。せっかく行くのだから、少し足を伸ばして滝を見に行きたいと思った。カナダの旅行ガイドをパラパラとめくると、行ってみたいところばかり。もう少し日数を増やせばここにも行けるかも?と欲がふくらんだ。
そもそも、今回のトロント行きは、私にとって実に久々の海外旅行なのだ。パスポートを見ると、前回海外に行ったのは、家族でタイランドにパックツアーで行った2001年だから、実に3年ぶりだ。私のパスポートは長い間、引き出しの奥底で長い眠りについていたが、今回久々に陽の目を見ることになった。
ところが、である。事情というものは、行く直前になってから、降って湧いてくるものだ。まず、大学から交通費と宿泊費を出してもらえることになった。つまり、海外出張扱いである。もともとは私費で行くつもりだったが、飛行機代だって安くはない。もらえるのならもらおう。ところが、経費で海外に行きながら、観光のために宿泊日数を増やすとなると、公私混同になってしまう。たとえ大学にばれなかったとしても、良心が痛む。今回は、観光のために日数を増やすことはあきらめた。
さらに、早割りの航空券を手に入れた後になってから、またまた大学の事情によって日程を変更せざるを得なくなった。どういう事情かはここには記せないが、残念ながら当初の予定を2日早めて帰国することになった。結局、トロントに滞在するのは正味3日半となった。
(宿泊したピットマンホール)
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(ライアソン大学の創設者像)
(ISTR大会の受付)
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ISTRの大会に参加した報告は、大学に提出した報告書を以下に抜粋しておきたい。
ISTR(International Society for Third Sector Research) 第6回大会がカナダ・トロント市のライアソン大学(Ryerson University)にて、2004年7月11日(日)〜14日(水)の4日間にわたって開催された。配布された参加者リストによれば、参加者数は200人強にのぼり、連日の分科会は多数の参加者を得て、きわめて盛況であった。日本からは、筆者のほか、出口正之氏、田中敬文氏、早坂毅氏、雨森孝悦氏など数名が参加した。
4日間を通して合計70の分科会(パラレル・セッション)、4つの全体会(プレナリー)とポスターセッションがあり、個別の報告やパネルセッションのテーマは実に多彩であった。NGOにおける女性のリーダーシップ、寄付とボランティア、市民社会、政府との関係、社会資本、新自由主義、組織評価、企業の社会的責任など、多様な報告がなされたが、なかでも注目されたテーマは、@アカウンタビリティ・透明性・正当性、A新自由主義・商業化であったと思われる。@とAは相互に関連したテーマといえる。
@については、初日から最終日にいたるまで、毎回のように分科会が開かれており、多くの参加者がつめかけて関心の高さを示した。アカウンタビリティに関する議論は「なぜいまアカウンタビリティが重要なのか」「誰に対してアカウンタブルなのか(=説明責任があるのか)」という問いであり、2日目に開かれた全体会"Third Sector Legitimacy and Accountability: Why and to Whom?" のタイトルに集約されている。「誰に対して」という問いは、従来「寄付者に対して」アカウンタブルだったが「受益者に対して」は必ずしもアカウンタブルではなかったことへの反省でもある。
今回も議論になった正当性のジレンマの問題は、非営利組織論にとって必ずしも新しい問題ではない。選挙民から選ばれたわけでも、消費者から選ばれたわけでもない非営利組織には、社会から正当性を付与される手続きを持たない。特に非営利組織の経済的・政治的権力が強まるにつれ、非営利組織は誰に対して責任を持ち、非営利組織を誰がどのようにコントロールするのかという問題が顕在化してくる。さらにNGOの国際連合体(IGO)の場合は、直接に受益者とのかかわりを持たない二次組織であるため、問題は複雑である。今回の大会では、アメリカのコーポレート・ガバナンスモデルでアカウンタビリティや正当性を規定することには限界があり、メンバーシップではない社会一般もアカウンタビリティや正当性の対象に含めて考えるべきだという主張がなされた。
Aについては、先進諸国だけでなく、途上国や中欧諸国出身の報告者も同様の問題を提起し、世界的に共通の問題であることを物語っていた。政府の財政負担が減少し、それだけ非営利組織は政府の補助金に代わる多様な財源を確保しなければならないという点だが、「多様な財源」の中には民間の寄付割合の増加や商業化も含まれる。
今回の学会大会参加を通して、非営利組織が世界的な規模で共通の問題に直面し、曲がり角(cross-road)に来ていることを実感させられた。また、非営利組織の調査研究の最新の動向と、多様な研究方法論をじかに学ぶことができて、大変有益であった。今回の大会参加で学んだ内容を今後の自らの研究に活かしていきたい。
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上記の報告書には書かなかったことを、ここにこっそりと記しておこう。
正直に言って、けっこうきつかった。 何がきつかったのか?というと、英語を聞き取るのが、である。
昔から、英語は大の苦手だった。単語は覚えられないし、会話もろくにできないし、リスニング(聞き取り)もできない。文章を読むのも遅い。特に苦手なのがリスニングであった。そういう人間が、一人で英語圏の国に出かけていって、英語での報告やディスカッションを聞きに行こうというのだから、おかしなものだ。
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日本では、研究職に就いている人間は、英語の読み書きは無論のこと、聞いたり書いたり話したりすることも当たり前にできるものだという"常識"があるようだ。高齢の研究者はできなくても「仕方がない」と思われているふしがあるが、若手の研究者は英語くらいできて当然(できない人は恥ずかしい)、と思われている。先日もアメリカ人研究者を招いての講演会があり、講演会後の懇親会では日本人の教授たち(私も同席していたが)が普通に英語で会話していた。
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もちろん、私自身、これまで何も努力しなかったわけではない。リスニングの通信教育も、英会話学校への通学も自分なりに、充分とはいえないが努力を重ねてきたつもりだった。リスニングのCDを聞いて内容はかなりの程度理解でき、またネイティブスピーカーとの会話でも(その日の調子によっても違うが)ある程度突っ込んだ話もできていた、あるいは、できるような気がしていたと言ったほうが正確かもしれない。リスニングの苦手はなかなか克服しきれていないけれども。
しかし、通信教育のCDにしても、英会話学校にしても、結局のところ、日本人向けに調整された教材であって、それがそのまま海外で実際に通用するかというと、ややギャップがあることは否めないようだ。
1対1の会話なら、特に支障は感じない。電車やバスに乗る、道を尋ねる、店で買い物をする、食堂でランチを注文する、などはまったく問題ない。
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きついと感じるのは、ネイティブスピーカーどうしが普通かそれ以上のスピードで話す時と、発音がハッキリ明瞭でない時だ。講演でも、ハッキリした発音で、ゆっくりめに話してくれれば、内容は理解できる。そのうえ、書かれた資料を見ながら話を聞けば、もっと心強い。
しかし、話し手は私のようなリスニングの苦手な人間のためにスピードダウンをしてはくれない。中には、ものすごい勢いで弾丸のようにダーッとしゃべる人もいて、こっちはほとんどお手上げ状態である。発音に関しては、ノンネイティブの人や、イギリス人のほうがどちらかというとハッキリしてわかりやすいことが多い。哀しいことに、日本人が日本語っぽい発音で英語を話しているのは、分かりやすいのだ。
正味3日半の滞在期間は、普通の早さの英語に耳が慣れるには短すぎる。今後、機会を見つけていっそうトレーニングに力を入れないといけない、と改めて痛感した。
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さて、ISTRの大会には200人以上の参加者があったが、世界中から集まっているだけあって、顔ぶれも実に多彩だった。私は、先進諸国出身がほとんどかと思っていたが、必ずしもそうではない。ご当地のカナダやアメリカ出身が多いけれども、香港、台湾、インド、バングラデシュ・フィリピンなどのアジア諸国、南アフリカ・エジプト・ガーナなどのアフリカ諸国、チリ・アルゼンチン・ブラジル・メキシコ・ベリーズなどのラテンアメリカ諸国からも多くの参加者があり、会場はまさに"人種の坩堝"だった。台湾人、香港人は、外見では日本人と区別がつかない。東南アジア人も、日本人的な感じの人がいるから、胸につけている名札を見ないと分からない。
それだけ多様な国から参加者がありながら、ほぼ全員が共通の英語を自由にあやつって、共通の問題を論じ、意見交換して握手しているというのは、なかなか感動的な光景である。そういう場面を目撃することが私にとって初めてだったからかもしれない。
こうして皆が英語を自由に駆使し、共通のディスコース(discourse)で調査研究し、意見交換ができているのは、非英語圏の研究者が英語圏(おそらくイギリスやアメリカなど)の大学に留学して語学力とディスコースを身につけたという意味であろう。
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多彩な顔ぶれという点では、ISTRの会場の中だけが多彩だったわけではない。
トロント市街に出ると、やはりそこは"人種の坩堝"であった。アジア系もアフリカ系も数多く見かける。特に中国系の人が多い。一見、日本人と見まがう。
初日の午後、若干のフリータイムがあったので、会場を出て、市内見物に出かけた。市の中心部にあるオンタリオ州美術館(AGO; Art Gallery of Ontario)を訪ねたが、美術館の付近一帯はチャイナタウンで、漢字の看板がたくさん立ち並び、行きかう人々は中国語を話している。道路の標識もその地域だけ、漢字とアルファベットが併記されていた。
美術館では印象派のTurner, Whistler, Monet3人の特別展を行っていて、そうとう混雑していた。この特別展はなかなか良かった。
(オンタリオ美術館)
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美術館の裏手には広々とした公園(Grange Park)があって、日曜の昼下がりにカップルと親子連れが公園の芝生に寝そべったり、水浴びをしたりしてくつろいでいた。公園の横には美術大学(Ontario College of Art & Design)があったが、大学の建物は奇抜なつくりで、たぶん他では見ることができないだろう。トロントでも最も印象に残る建物だった。
(Grange Park。公園にはリスが走り回り、人を見ても物怖じしない。)
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(オンタリオ美術大学)
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美術館を出てしばらく歩くと、トロント市庁舎の前にネイサン・フィリップス・スクエア(Nathan Phillips Square)という広場がある。この広場でたまたま、野外美術展(Toronto Outdoor Art Exhibition)をやっていた。500以上のブースが広場を埋め尽くし、それぞれのブースではアーティストが自信作の絵画や陶器、小物などを展示しており、楽しい催しだった。7月9〜11日の3日間で、訪れたのが最終日、しかも晴天の日曜日ということもあって、ネイサン広場は大変な盛況だった。なかにはギョッとさせられる絵や、日本の古美術もあった。
(ネイサン・フィリップス・スクエアにて)
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(ネイサン・フィリップス・スクエアのすぐ隣にあるオズグード・ホール(左)と、トロント市旧庁舎(右)。落ち着いた古風な建物で、観光名所でもある)
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もうひとつ、ここに記しておきたいのは地下街(Underground City)だ。ダウンタウンの地下を縦横に走る巨大な地下街で、地下1階から3階までの重層構造になっている。地下街といえども、中央部に巨大な吹き抜けがあって、歩道もとても広く、天井は高く、日本の狭苦しい地下街と違って、じつに開放的だ。ファッション、宝石、レストラン、土産物など実にさまざまな店が軒を連ねていて、ウィンドウショッピングだけでも飽きない。私もこの地下街で土産を買った。
トロントの夜が更けるのは遅い。最初、トロントのピアソン国際空港に着いたのは18:50だったが、まだ真昼間の明るさだった。周りの明るさと時計の示す時刻がどうも食い違っているような気がしてならなかった。午後8時を過ぎてもまだ明るく、ようやく夜のとばりが下りるのは夜10時をまわってからだった。夜遅くなっているのにも気づかず、街中をうろうろ歩き回っている自分がいた。
ライアソン大学の近くにあるダンダス(Dundas)の街中は、若者でごった返している。ダンダス・スクエアなどで繰り広げられるストリートパフォーマンスやストリートミュージック、それらに群がって見物する人たち。実に活気にあふれているのが印象に残った。
(ヤング・ストリート(Yonge Street)にてストリート・パフォーマンスと、その見物人たち)![]()
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(市街地を東西に走るダンダス・ストリートと、市営トロリーバス。この付近はチャイナタウン)
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(オンタリオ湖岸にそびえるCNタワー)
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英語以外で苦労したことといえば、電話のかけ方、である。
ガイドブックには、国際電話のかけ方が丁寧に解説してあるから、その通りやれば問題ないはずであった。
マニュアルどおりの方法で日本に電話してみようと、ホテル内の公衆電話の前に立った私は、充分な量の硬貨を持っていないことに気づいた。で、近くにはテレフォンカードの自販機があった。これだと思い、10ドル分のテレカを購入したまではいいが、さてそのテレカの使い方が分からない。日本的な感覚だと、テレカを電話機に挿入すれば残り度数が表示されて、電話がかけられるようになると思っていた。しかも、公衆電話にはちゃんと、テレカを挿入する口もついていた。早速、テレカを入れてみる。しかし、「カードを抜いてください」というエラー表示が出るばかりだった。カードを抜いたからといってつながるわけではなく、「またのご利用をお待ちしております」と表示されるだけ。何度試しても同じ結果に、私は「???」だった。
ホテルのフロントデスクのお姉さんに使い方を聞くと、答えはけっさくだった。私はベル電話会社ではない。カード裏面に書いてあるお問い合わせ用電話番号にかけてくれ。
お問い合わせ用の番号にかけてみると、「○○○については1を、○×◇については2を、△□○については3を、…押してください」の自動応答が延々と果てしなく続き、迷路に迷い込んでしまう。いったい、自分の問題がどれにあたるのか、ピンとこない。仕方がないので直接オペレータにつないで事情を話すと、「あなたのカードの裏面にあるカードナンバーを入力すればいいんですよ」。
カードナンバーって何? と聞くと、オペレータは「それはカードのどこかにあるはずだ。でもそれが何かは、私には分かりません」という意味不明の答え。カードの端のほうには、確かに番号らしきものがいくつも刻んである。果たして、これのことだろうか? オペレータに確認しようとしても、「私には分かりません」というばかり。何で分からないのだろう。要領を得ない問答が続き、オペレータはうんざりしたように、「あなたの近くに、だれか助けてくれる人はいませんか?」と言って、電話を切り上げてしまった。
仕方なく、再びフロントデスクのお姉さんのところへ。 フロントデスクにたった一人で番をしているお姉さんは、次々かかってくる電話への応対に忙しく、なかなかこちらには向いてくれない。ようやく電話が一段落したところで助けを求め、「カードナンバーって何ですか?」「そんなこと私にも分からないわよ!」「そんなこと言わずになんとか」の問答をしばらく繰り返したあと、お姉さんは突然、無言でテレカの中央部にある小さな模様の部分を爪で引っかいた。
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爪で引っかいたところから、12桁の数字が現れてきた。どうもこれが、個々のカードにつけられたIDナンバーのようである。日本で言えば、削ってその場で「あたり」が分かる「スピードくじ」と同じようなものだ。
さて、そのナンバーが分かってから、どうやって国際電話をかけるのか。再び、お問い合わせ電話のオペレータとのやり取りに移る。
結局のところ、テレカを電話機に挿入するのではなく、テレカに書いてある12桁のIDナンバーをプッシュすれば、それで良かったのだ。
カナダの人にとっては、ごく当たり前の常識なのだろう。一度分かってしまえば、難しくもなんともない。しかし。知らない人にとっては、全く分からずに往生する。結局、電話をかけようと思ってから、実際につながるまで、1時間半以上が経っていた。
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ついでながら…
街中で目にした公共広告を2つほど紹介しておきたい。
1つは、ライアソン大学の近くで見かけた、道端のゴミ箱。若い男女が抱き合っている写真と、"He hasn't asked for a condom. He must be negative." "He hasn't asked for a condom. He must be positive." の2つのセリフが書いてある。ACTという団体が主催しているエイズ予防キャンペーンのようだが、日本ではあまりお目にかからない広告である。
もう1つは、電車の中で見かけたポスター。"What are you running for?"の呼びかけと、一般の人々の手書きメッセージが書いてある。これは、2004年10月3日(日)午前10時に、ネイサン・フィリップ・スクエアを起点として、1kmないし5km歩く(または走る)大衆キャンペーン(CIBC RUN for the CURE)に参加しましょうという呼びかけであるが、その目的は乳がん早期治療の啓発・促進だ。カナダ乳がん財団(Canadian Breast Cancer Foundation;CBCF)が主催し、多くの企業が協賛している。乳がん撲滅運動は日本でもピンクリボンをシンボルマークとして行われているので、おなじみかもしれない。このポスターに掲載されている一般の人々(キャンペーン参加者)の手書きメッセージは、"Mommy" "My Daughter" "My Wife" "Aunt Wendy still in My Heart" など、自分の愛する家族のためにキャンペーンに参加するという思いが込められている。
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エイズ予防キャンペーンにしても、乳がん治療キャンペーンにしても、共通しているのは、広告を見る一般の人々の目線に合わせた呼びかけになっていることだ。大所高所から教え諭すのではない姿勢に、親近感をいだけるのかもしれない。
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最後に、カナダではいたるところに国旗を見かけた。赤いカエデ(Maple Tree)の葉が航空会社エア・カナダのマークになっているばかりでなく、街中でも旗がたくさんたなびいているし、Tシャツや土産品にも、とにかくカエデの葉マークはどこにでも見かける。私の買ったマグカップもそうだ(でも、カップの裏面を見ると、中国製だった)。
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わずか正味3日半の短期滞在者には、国旗のもつ意味や深い歴史が分かろうはずはない。しかし、パッと見た感じでは、国民にそれほど抵抗なく受け入れられているように感じた。
国旗・国歌が近代の国民国家において国民を統合する象徴として、権力者によって上手に活用されてきたこと、その下で少数民族、マイノリティが独自のアイデンティティを失い、ヘゲモニーを国家に争奪されてしまったこと。さらに国旗・国歌が国歌から国民に無理やり押し付けられたものという感覚ではなく、国民が自発的に愛着を持つよう教化すること。こうした一般的な観点からすれば、カナダの国旗もその例外ではなかろう。カナダにいる数百の少数民族、少数言語を一つの国家に統合する上で、そのシンボルとなるものは、為政者にとって不可欠な装置である。その国家統合を相対化するのが、多民族・多言語の独自性と共存を尊重する、マスメディアNGOなどの役割といえよう。
ただ、国旗・国歌の持つ一般的な特徴にとどまらず、国旗・国歌が侵略戦争を正当化したり、思想信条の統制を促進するために意図的に国民に押し付けられようとするとき、やはり勇気を持って国旗・国歌の押し付けに異議を唱えることが必要だと痛感する。日章旗(日の丸)は、君が代とともに、天皇家への忠誠、侵略戦争の象徴、国民の思想信条の自由を剥奪する象徴として強力に作用してきた。国旗国歌法制定以降、学校教育現場を中心に繰り広げられているあからさまな思想統制、ファシズムの進行は、もはや危機的な状況にあると聞く。学校の卒業式、入学式のたびに、多くの教師が不当に処分されてきた。他方では有事法制が整い、イラクの多国籍軍に日本の自衛隊が参加することが閣議で決まってしまった。しかしながら、国内ではほとんど反対の声が盛り上がらない。参議院選挙でも、ひたすら米国に追随して自衛隊を派兵した与党が、またもや多くの議席を確保してしまった。いったい、なぜなのだろう。なぜなのだろうか。愛国心とは。日章旗を見るたびに、しばし暗然たる思いにとらわれる。
●児童養護施設における虐待
〜裁判の傍聴〜2004.6.21
数年前から、「養護施設の子どもたち」という学習会に参加し、児童養護施設の現状と、施設内虐待の問題を学んできた。ここしばらくは学習会が事情により開かれていないが、家庭で暮らせない子どもが過ごす児童養護施設において虐待が少なからず起きているという事実に、大変衝撃を受けたものだ。
児童養護施設内虐待については、既に多くの事件が裁判で争われており、また虐待被害者を支援する組織や人々がいる。ウェブサイトでも詳しく紹介されているので、どういう事件があるのかは敢えてここでは再論しない。
私も実は縁あって、施設内虐待を民事で訴えている被害者のAさんの裁判に、支援のつもりで都度傍聴している。被告は、Aさんが在園していた財団法人生長の家神の国社会事業財団と、Aさんに暴力を加えた元職員のM氏である。事件と提訴の経緯に関する簡単な紹介文は、こちらをご覧いただきたい。裁判の経過については、STOP!児童養護施設内虐待の「神の国寮」ページ、そして武田さんの「日本の子どもたち」の裁判記録(「生長の家 神の国寮」の項目を参照)にも掲載されている。この裁判の契機となったのが佐々木朗著『自分が自分であるために』(文芸社、2002年)であり、こちらもぜひご覧いただきたい。![]()
去6月17日、東京地裁八王子支部の法廷にて、この本の著者である佐々木氏が証言台に立った。原告Aさんの証人として、勇気を持って証言をしてくれたのだ。大まかな内容については、武田さんの「私の雑記張」(2004/6/17 児童養護施設「生長の家・神の国寮」の裁判、傍聴報告。元寮生・佐々木朗さんの証言)に紹介されているので内容は省略するが、私も佐々木さんの証言を傍聴し、できる限り内容を筆記したので、ここではそれを掲載する。なお、証言の中で登場した個人名は、A君とかM氏などと名前を伏せてある。
一言だけこの証言の意味を説明するとすれば、原告である被害者Aさんが、神の国寮にいた子どもの頃、被告の職員M氏および他の寮生の暴行により腕に重い障害を負ったが、Aさんが被告M氏から暴行を受ける口実となったのは、Aさんが金の盗難の犯人と疑われたことだった。証人の佐々木氏も同じ神の国寮の出身者で、Aさんなど卒園生の面倒を見てきた。最近になって佐々木氏は、当時金を盗んだ真犯人が別に存在したことを聞かされ、当初は佐々木氏も自分の胸の中に留めておこうと思ったが、やはりAさんの裁判に協力しようと決意して、真犯人がAさんではない(にもかかわらず暴行を受けた)ことを証言するに至った。
以下にその証言を掲載する。
神の国寮裁判 佐々木朗氏証人尋問
2004年6月17日(木)10:00〜11:10 東京地裁八王子支部401号法廷
【宣 誓】 証人・佐々木氏、良心に誓って真実を述べる旨、宣誓。
【原告側代理人・坪井弁護士の尋問】
・現在の職業は。会社を経営しているのか。独立したのはいつ頃か。
――内装業。会社を経営している。(有)佐々木フロアー。平成5年頃独立し、平成7年に会社を設立。現在5名の従業員がいる。
・証拠・甲11,34,36,42号証を示す。これらはいずれも佐々木さんの書いたものに間違いないか。
――間違いない。
・あなたが神の国寮に入園・卒園したのはいつで、あなたが何歳の時か。
――入園は昭和47年、3歳の時。退園は昭和60年、16歳。
・在園中に原告のA君が入園したのはいつか、憶えているか。
――A君が入園したのは私が中学生、A君が5〜6歳の時。5〜6年の年齢差があった。
・A君の怪我についてはじめて聞いたのはいつか。
――事件についてはO君が逃げ出して助けを求めてきた時に内情を聞いた。平成元年、20歳の時。
・そのときあなたはアパートに住んでいたのか。
――はい。
・O君の話はどんな内容だったか。
――施設の内情とか、Mの暴力、O君もMに暴力を受けたこと、A君がMから暴力を受けて骨折したこと。
・あなたはそれを聞いて、本当のことだと思ったのか。
――本当のことだと思った。私も暴力を受けたので、本当のことだと。
・これまでに、後輩が助けを求める機会はあったか。
――電話や手紙で私に在園生が話をしに来ることもあった。
・あなたの会社には後輩がいるのか。
――私が経営している会社で5〜6名ほど元在園生を雇った。
・つまり、あなたが元園生の面倒を見たということか。
――はい。
・O君も卒園後あなたの会社に入社したのか。それはいつか。
――入社したのは平成12年頃、あるいは13年。
・記憶を鮮明にするために、甲3号証(著書)が2000(平成12)年に出版されたが、O君の入社は出版の前だったか。
――はい。
・そうすると、O君が入社したのは1999年か。
――そうだ。
・著書を出版した動機は。
――施設の内情を多くの人に知ってもらいたいと思ったから。普通の人ができることも、A君はできない。そのことを会社で目の当たりにして、決意した。
・A君も入社していたことがあったのか。
――はい。
・本を書く前に、A君について誰からどういう話を聞いたのか。
――O君から、また他の卒園生からも聞いた。A君のことについても、本を書くにあたり、O君から改めて話を聞いた。A君が盗んでもいない金を盗んだと無理やり言わされ、Mから暴行を受けた。誰が盗んだのかについては、O君は知らないと言った。
・直接A君から話を聞いたのはいつか。
――本の出版後、平成12年ごろに話を聞いた。
・A君はあなたの会社でどんな仕事をしていたのか。
――軽作業だけ。本人は一生懸命、動かない腕に角材を乗せて、血を流しながら仕事をしていた。
・A君に、金を盗んだか聞いたことがあるか。
――A君は、金を盗っていないと断言した。
・A君の裁判に当たり、あなたが協力しようと思ったのはなぜか。
――私の会社で働き始めて、私がたちが普通にできることもA君はできない、ということなど、施設にいたせいで腕が不自由になり、A君が一生懸命生きているのをみて。
・本を出版して、反響は。
――いろいろな方からもらった。ご支援をいただいた。それも重なって、本を書くだけでなく裁判も協力しようと。
・金を盗ったことをO君から聞いたのはいつか?
――仕事の帰り、車中で2人きりになり、裁判の話をしているとき。平成13年4月のあと、夏ごろ。O君から、金を盗ったのは俺だと聞いて、そうなのかと。O君は、誰にも言わないでくれと言った。自分が盗ったことをみんなに知られると、立場がなくなってしまう。A君の腕が暴行によって使えなくなった重大さは、O君も感じていたので、私も敢えてO君の話を(自分の胸の中に)留めておこうと思った。
・O君は、A君のことをよく憶えていたか。
――A君の事件は鮮明に憶えていた。O君は、自分が金を盗ったので他の人より敏感になっていた。A君に対して申し訳ないという気持ちがあった。
・この事件について、弁護団以外に話したことは?
――ない。金を盗んだということがA君ではなくO君だということがみんなに知られると、O君はA君に対して申し訳ないと思うので、言えなかった。
・この話をあなたがしようと思ったのは、いつ、どうしてか。
――M氏の尋問のとき、盗んだ金で何を買ったか書けと言って、A君が買ってもいないお菓子を無理やり書かせていた。それはちょっとひどいと、傍聴席で叫びたかった。真犯人がいるんだと叫びたかった。居ても立ってもいられないというか。
・あなたは法廷が終わった途端に弁護団のところに来て、真犯人がいると言ったね。
――はい。
・それは昨年6月のことだった。そのときは真犯人の名を挙げなかったが。今、名前を挙げたのはなぜか。
――3月に弁護団の方と打ち合わせの会議をして、弁護団の方から証人として、名前を挙げてくれないかと言われ、私の考えで名前を出すことを決意した。
・O君はいま、どこで何をしているのか。
――私の会社を平成14年3月頃に辞めて、いまは連絡がとれずにいる。
・法廷で話すことについて、O君の了解は取れたのか。
――取れていない。私の考えで(O君の名前を)出した。
・甲38号証(平成14年1月14日)を示す。柴田弁護士との面会であなたも同席していたが、そのときに真犯人のことは話題になったのか。
――盗んだ人のことは話題にならず、弁護士に言えなかった。O君も言わなかった。
・在園中、M氏とK氏との関係はどうだったか。
――(K氏は)何をするにもM氏の意見に従わないとできない。A君の暴力事件のときも、Kは一緒にいて見て見ぬ振りをしていた。時には(Mと)一緒に暴力を振るっていた。
【原告側代理人・平湯弁護士の補足尋問】
・甲3号証(著書)について、執筆中A君はまだあなたの会社に勤めていなかったが、A君のことはどのようにして聞いたのか。
――O君から聞いて書いた。
・本を書く動機は、A君の事件のほかに、施設でたくさんひどいことがあって…
<M被告側代理人―異議>誘導です。
・A君があなたの会社に勤めるようになって、A君に聞いたことは?
――ある。
・A君は左手が使えないとのことだが、使える右手だけでできる仕事は?
――軽作業。清掃など。
・両手を使う仕事はどのように?
――左手の甲に材料を載せて運んでいた。手が切れていて、回数を運ぶので血が出た。
・A君の尋問調書によれば、印刷所に勤めていたとき、足を使って材料を持ち上げ、手に載せていたとあるが、それと同じことをしていたか。
――はい。あごを使って材料を載せていたこともあった。
・あなたはO君の話を聞いて、本当だと思ったというが、あなた自身も暴行を受けたか。
――はい。
・甲24号証(色紙)を示す。卒業のときにみんなに書いてもらった色紙だが、M氏に書いてもらったのを朗読してください。
――「朗を叱って手が痛くなった。手が使えなくて残念だ。」 Mに食堂に引きずり込まれ、朝食時に殴る蹴る、足で顔を蹴り上げられ、1ヶ月まともに食べられなかった。そのことを憶えている。
・甲34号、35号の2を示す。松下理事長との電話のやり取りの記録だが、合計電話で何回理事長と話をしたか。
――3回。
・そのうち、理事長からかかってきたのは何回か。
――2回。
・甲34号証を証人に見せる。何回か。
――3回。
・この中で、理事長はMの暴行を肯定している。最近もMによる暴行に言及しているようだが?
――はい。
・誰に対する暴力のことか?
――寮生に対する。
・理事長から、本の内容が嘘だ、という抗議はあったか?
――嘘とは言わないが、私がマスコミの前で「あれは違うんだ」と説明してくれと理事長から言われた。あの本に書いてあることは全部嘘だと説明してくれ、と言われた。
・理事長は、自分が理事長になってからは良い園になったので、過去のことを……。
<M被告側代理人―異議>誘導です。
<裁判長>整理して質問してください。
・甲25号証の4〜5ページには「M氏は反省の色があるか…Mは反省の色がないね…」
<M被告側代理人―異議>ただ読んでいるだけです。
・質問を終わります。
【財団被告代理人・後藤弁護士の反対尋問】
・あなたの生年月日は。
――昭和34年○月○日。
・あなたが寮にいたのは昭和60年3月までか?
――はい。
・Mが寮に着任したのは、園の記録では……とあるが、あなたの証言と違う。
――私の記憶では違う。
・あなたがMと一緒に過ごしたのは4ヶ月程度ではないか。
あなたは退寮後、園を訪れてMと話したことはあるか。
――ある。
・在園生の前で話をしたことはあるか。
――そういう形では、なかった。
・では、どういう形でならあったのか。
――個人的には話をしたことがある。
・それはどこで?
――玄関などで。
・在園生と話すことは可能だったのか。
――制限はあった。
・甲24号証(色紙)を示す。この部分「俺はお前が好きだ」も、先ほど朗読したのと同じ筆跡だが、Mが書いたものか。
――はい。
・では、先ほどなぜ読まなかったのか。
――理由はない。
・O君はいつからいつまで、あなたの会社で働いていたのか。
――O君は平成11年から平成14年まで。
・O君はなぜ会社を辞めたのか。
――身体がついていかなかったという理由で辞めた。
・A君はいつからいつまでか。
――記憶が定かでないが、長くはなかった。
・甲3号証は、卒園生に確認して書いたが、偽名を使った。事実には間違いないか?
――はい。
・57〜63ページによれば、証人は在寮生との面会を断られたという。メモを渡したというのは、本当はO君のことか。
――はい。
・先ほどの証言と食い違うのではないか。O君が電話してきたのか、逃げてきたのかということも違う。
――O君から手紙が来た。
・それは先ほどの証言にもなかったが。
――あえて言わなかった。
・著書の中で「三田」というのはMのことか? 59ページの内容をO君が話したのか?
――そうだ。そのことをO君から聞いた。
・「普段から気に入らない寮生」というのはA君のことか。
――はい。
・「川辺拓二君が真犯人」というが、これがA君のことではないのか。
――私の記憶違いであったかもしれない。
・原告のA君があなたの会社で働いていたのは数週間ではないのか。本の執筆後、裁判の始まった後ではないか。
――そうかもしれない。
・元園生で、他にあなたの会社で働いていた中に、D君はいたか。
――いない。
・では、T君は。
――いる。
・E君は。
――いない。
・MO君は。
――いない。
・O君があなたに話しをしたというが、どこから盗んだというのか。
――どこからかは、聞かなかった。それ以上は、詳しく聞かなかった。
・O君は、棚にあった金を盗んだようだが。
――はい。
・でも、A君のときに問題になったのは、職員の財布の中の金だ。あなたの勘違いではないか。同じく金を盗んだといっても、違うことなのではないか。
――……もしかしたら、棚の財布かもしれない。
【財団被告側代理人・小松弁護士の反対尋問】
・甲37号証(佐々木氏陳述書)を示す。9月分の定期券代3万円がなくなったのはいつか。
――(書き取れず)Mではなく他の職員が定期券代を使い込んで定期が買えなくなった。
・定期券代がなくなって殴られたという時期と、Mの着任した時期が合わないが。
――Mは6月に着任したと思っていた。
・この陳述書は、Mの証言後に書いているのに、Mの証言内容を気にしていなかったのか。
――気にも留めていなかった。
【M被告側代理人・弁護士の反対尋問】
・O君はどういう動機で金を盗ったのか?
――動機は言っていない。
・盗った金をどう使ったのか。
――言ってない。
・詳しいことをなぜ聞かなかったのか。
――金がなくなったことで、(A君に)障害が残ったので申し訳ないという……
・あなたはなぜ(O君に)聞かなかったのか。
――O君の気持ちを察して。
・でも裁判で論点だったのに?
――裁判は初めてだし、それが重要なことだとは思っていなかった。敢えて聞かなかった。
・共犯も、動機も?
――はい。
【原告側代理人・坪井弁護士の追加尋問】
・甲3号証は、O君から聞いた話を主に書いたので、その後A君が話したことと違っていても、あなたは執筆当時、詳しいことを知りえない立場にいたのではないか。
――はい。
・Mの着任時期はともかく、定期券代のことでMから殴られたことは事実ではないか。
――はい。
【原告側代理人・平湯弁護士の追加尋問】
・陳述書で、本と違う理由を書いている。「気に入らない寮生」というのは中山君のことで、中山君がMから殴られて、その怒りをA君に向けたということを書きたかったのでは。
――そうです。
<M被告側代理人―異議>誘導です。
・最後に、本を書いた動機、裁判に関わっている気持ちは。
――本を出版しなければ、まだ虐待は続いていた。世間の人に知ってもらい、虐待がなくなればいいと思っている。
【裁判長の尋問】
・O君から話を聞いたあなたが、アドバイスをしなかったのはなぜか。
――それ以上私自身が騒ぎ立てれば、O君のプライドが失われてしまうような気がして、私は敢えて聞かなかった。
・A君に申し訳ないと思えば、普通は何かアドバイスをするんじゃないのか。
――突然言われて……
・O君は切羽詰って、他の人に言えず、あなたに相談したのではなかったか。
――O君の気持ちをそこまで汲み取ってやれなかったのかもしれない。
裁判を傍聴して改めて感じたことは、第一に、児童虐待を告発して証拠を示すことの困難さである。
佐々木氏の証言は、本人の記憶と、他の寮生からの伝聞が頼りだ。まだ小さな子どもだった当時、詳しい記録を残しておくことなど不可能に近い。生きていくだけで精一杯だったろう。裁判の反対尋問で、微細な内容の食い違いを突付かれることになる。
第二に、勇気を奮いたたせて裁判を起こしても、結論が出るまでには実に何年もかかるということだ。提訴したのが2001年4月、何度も書類のやり取り、数人の証人尋問、双方の間での進行協議を経て、もう3年以上経っている。今回(2004年6月)を持って証拠調べを打ち切り、次回(9月)の和解協議に移る(和解協議が決裂すれば判決)。判決が出たとしても、被告が控訴すれば、判決の確定はいつのことか見当がつかない。いつになったら原告のAさんは法的に救済されるのだろうか。 そして仮にいくばくかの損害賠償金が支払われたとしても、Aさんの腕はもう治らない。
第三に、世間一般の関心の低さである。家庭における児童虐待は、多くの人が、また政府・自治体も含めて、強い関心を寄せている。しかし、児童養護施設における虐待には、関心がほとんど向けられない。理解度・認知度の低さが、判決の水準にも影響を及ぼすであろうと推測される。少しでも理解者を増やし、被害者に対する支援の輪を広げていくことが必要だ。裁判の傍聴に出かけるのは、孤独なたたかいを強いられている原告にエールを送る目的もあるが、同時に裁判官に対して、施設内虐待に関心を持っている人が社会にはこんなに多くいるんだということを行動で示すためでもあるのだ。
――シリーズ――●いじめの記憶(2)
2004.5.7
1.武田さんの講演
講演会でBさんの話が終わった後、武田さんが次のような話をしてくれた。
武田さんは、1年前から、「ジェントルハートプロジェクト」の活動を始めた。「ジェントルハート」は、「優しい心が一番大切だよ」という小森香澄さんの言葉から名づけたそうである。小森香澄さんは、高等学校でのいじめによって、1998年に15歳の短い人生を閉じた。
小森さん夫婦のようにいじめで我が子を失った親や、武田さんたちが始めた活動が、NPO法人「ジェントルハートプロジェクト」である。いじめで亡くなった子の書き残したものや絵などを学校に展示して子どもに見せたり、いじめで子どもを亡くした親の立場から子どもに講演したり、学習会を開いたりしている(詳しくはウェブサイトを参照)。
実は、この講演会は、ジェントルハートの展示と同じ会場で行われた。展示物を撮影してきたので、後ほど紹介したい。
【恐 喝】
武田さんによれば、Bさんの事例に即して考えてみると、K君に対する恐喝の影には暴力(あるいはその恐怖)があるという。恐喝も手が込んでいて、いかさま賭博(不公平なルール)や、不要品を高く売りつける、架空のパーティ券を売り付ける、「金を借りる」という言い訳で巻き上げるなど、対等な取引に見せかけるため、おとながその言い訳を信じてしまいがちなのだ。
【いじめが減ったわけではない】
今の世の中では、いじめから不登校へという流れだが、いじめが決して減っているわけではなく、教員が責任逃れのために「いじめ」問題を「不登校」にすり替え、被害者を切り捨てている面があると、武田さんは指摘する。いじめは、いじめている子や、監督者である教師が責任を問われるが、不登校は、不登校の子自身の問題に帰されてしまう。いじめが原因で不登校になってしまったとしても、教師が文部科学省に報告する際には「不登校」扱いしておけばよい。
不登校の子を無理に学校に戻そうとしたり、カウンセリングを受けさせたりしても、加害者の存在を変えない限り、問題は解決しない。だが、不登校はあくまでも緊急の一時避難に過ぎず、いつまでも不登校のままではやはり解決にたどり着かないという。
ちなみに、この話は、武田さんの近著『あなたは子どもの心と命を守れますか!』(WAVE出版、2004年、1600円)第2章で詳しく論じられている。
【死に惹かれる心】
K君は、死ぬ前に親に「死なないよ」と言って安心させたり、テレビのバラエティ番組を見て笑ったりしていたという。家出からも帰ってきて親はほっとした。親のBさんとしては、まさか死ぬとは思っていなかったので、なぜ死んでしまったのか、親として自殺を食い止められなかったことを大変悔いている。
武田さんは自殺前の兆候について、次のように指摘する。親や友人に、亡くなる前に「死ぬよ」とか「死なないよ」と告げることが多い。「死なないよ」は、死んではいけないという理性がそう言わせているのだとか。バラエティ番組を見て笑っていたというが、死を決意して、気持ちが吹っ切れたから、あるいは親に心配をかけさせまいとして笑っていたのかもしれないという。
【絶 望】
自殺した後に「もっと早く言ってくれれば、何とかできたのに」「せめてあの時に一言でも打ち明けてくれたら」と親や教師は言う(鎌田慧『せめてあのとき一言でも』)。
が、自殺する前にその子は必死にSOSを出していた。しかし、先生はあてにならず、言っても何も変わらない。男の子は強さを求められるし、女の子もプライドがあるから、自分がいじめられているとはなかなか周囲に話しづらいものである。そんな中で先生はSOSに答えてくれず、絶望して自殺に追いやられるのだという。
【加害者】
ジェントルハートの小森さんは、「いじめは、いじめることをやめれば、なくなります」と訴える。いじめる側が責められるべきであって、責任をいじめられる側に転嫁するのはまったく間違っている。いじめられる側にも悪いところがあり、だからいじめてもいいという正当化を与えることになってしまう。
加害者の子どもが学校から何もおとがめなく、そのまま自由放免というのが目立つが、それは加害者の子にとっても不幸なことだと武田さんは指摘する。
【子どもは二度殺される】
教師には人権意識が薄く、警察も人が死んで初めて動く。親も自分の子が被害者にならないうちは無関心。子どもが死んでしまっても、学校は誠意ある対応をせず、裁判を起こすと裁判官も理解を示さない。
子どもの自殺は何も教訓にならず、その子が生きていたことさえ無にされてしまう。遺族である親は周囲の心無い中傷に傷つく。武田さんは、そのことを「子どもたちは二度殺される」と表現している。
2.武田さち子著『子どもたちは二度殺される』の書評
もうずいぶん前のことになるが、武田さんが子どものいじめ自殺や暴力死などの事例を丹念に集めた本『子どもたちは二度殺される』(世界子ども通信『プラッサ』別冊、2001年、1800円)に書評を寄せた(2001年8月)。
その書評をここに再掲することにしよう。
「子どもはなぜ"二度"殺されなければならないのか」
本のタイトルを見て、まず「二度殺されるって、いったいどういうことだろう?」と率直に感じた。この本は、子供のいじめ自殺を中心に、学校の体罰死、体罰自殺、暴行殺人、など70に及ぶ事例を詳細に取り上げ、分析しているものだ。自殺も、子どもが勝手に死を選んだというよりは、いじめや体罰によって無理やりしに追い込まれたわけで、殺されたのとほぼ同じであるといってよい。
いじめや体罰、暴行などで子どもが自殺したり、殺されたりすることは、それ自体重大だが、問題はそれだけにとどまらず、自殺や殺人の事件の後に、加害者の少年やその親、学校、教師、教育委員会、警察などが遺族に対して誠実な対応をしようとしない。加害者や教師は重大な事件を起こしてしまった責任を自覚しない。学校や教育委員会、警察は自らの体面を気にして、事件の隠蔽に躍起になる。いじめ自殺などの場合、「学校でいじめはなかった」とうそをついたり、自殺した子どもの欠点をことさらあげつらうことで加害者はいじめの責任を回避したりする。子どもの自殺や殺人という重大な事件から真剣に教訓を得ることなく、その場しのぎで保身を図ることは、死者をさらに鞭打つことであり、一度死んだ子どもを(象徴的な意味で)もう一度殺すことなのだ。著者は「二度殺される」という表現に、子どもの死を真正面から受け止められない教育行政や地域社会に対しての警告を込めているように思われる。
この本に載っている豊富な事例を見て、子どもの自殺や暴行殺人、体罰死の事件がこんなに頻繁に起きているのか、と改めて驚かされる。なぜそういった悲しい事件が後を絶たないのか。どうすれば子どもを死の淵から救えるのか。著者は本の最後で、「思い込みを捨てよう」「子どもたちのSOSを読み取ろう」と読者に呼びかけ、問題解決に向けていくつかの興味深い提言を出している。私自身、小学校のときにひどくいじめられた経験を持つが、そのときの気持ちを思い出すと、いずれの提言も、「その通りだ」とうなずけるものばかりだ。多くの人に、ぜひこの本を手にとってほしいと願っている。
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武田さんは、近著『あなたは子どもの心と命を守れますか!』で109に上るいじめ事件(その多くはいじめ自殺だが、暴行死やいじめ逆転報復殺人なども含まれている)を紹介し、いじめ問題の分析を詳細に行っている。関心のある方は手に取っていただきたい。
3.いじめ自殺した子にかんするメッセージの展示
先ほど紹介したBさんと武田さんの講演会と同じ会場で、いじめ自殺した子のメッセージや写真、絵などが展示されていた。ウェブサイトでの紹介に許可を得ているので、ここで紹介させてもらう。
・小森香澄さんのメッセージ「やさしい心が一番大切だよ 香澄 15才」
・小森香澄さんへ 「友達からのメッセージ」
「香澄はとても明るくて、心のやさしい子でした。これは香澄を知っているみんなが思っていることと思います。ありがとう!! みーちゃんより」
・小森香澄さんへ 担任の教諭からの言葉
・岡崎哲君のメッセージ「僕は友達をなぐれない なぐったら友達でなくなるから 仲直りできなくなるから」
・前島優作君のメッセージ「差別はいかん」 ひざを抱えて座っている「孤独」を、4つの眼が取り囲んで笑っている絵。
「あの4人にいじめられていた。僕は死ぬ ぼうりょくではないけど ぼうりょくよりもひさんだった かなしかった ぼくはすべて聞いていた」
4.いじめ自殺などに関する本
いじめ自殺に関する本として、武田さんの著作以外にも、次のものを紹介しておきたい。
(1)前田功・前田千恵子『学校の壁:なぜわが娘が逝ったのかを知りたかっただけなのに』教育資料出版会、1998年、1700円
前田さんの娘・晶子さんが1991年にいじめ自殺。なぜ娘が自殺したのか、学校に教えて欲しいと頼んでも、教えてもらえなかった。真相を知るために親が裁判まで起こさざるをえなかった――。
(2)鎌田慧『せめてあのとき一言でも:いじめ自殺した子どもの親は訴える』草思社、1996年、1545円
前田功さんの事例を含め12の事例。いじめ自殺で子どもを亡くした親へのインタビュー。ここで一番親が苦しんでいるのは、学校や周囲の人間の極めて不誠実な対応や中傷である。
(3)小森美登里『優しい心が一番大切だよ:ひとり娘をいじめで亡くして』WAVE出版、2002年、1500円
小森香澄さんは、中学校での度重なるいじめによって、1998年に15歳の短い人生を閉じた。一人娘を亡くした母親の小森美登里さんは、誠実さが見られない学校を相手取って裁判を起こす過程を綴っている。
(4)教育科学研究会・村山士郎・久冨善之編『いじめ自殺:6つの事件と子ども・学校のいま』国土社、1999年、2200円
大河内清輝君いじめ自殺事件を中心に、教育関係者・研究者がいじめ問題の分析を行っている。
●4.1.7.
2004.4.17ペルーの日本大使館における人質立てこもり事件が解決してから、もうすぐ7年になる。当時は連日のようにテレビで日本大使館の映像を映し出していた。当時のフジモリ大統領率いる特殊部隊が大使館に乗り込んで、犯人グループのMRTAメンバーを全員射殺、捕らえられていた青木大使をはじめ人質を救出したのは、1997年4月22日(日本時間では23日)のことだった。過ぎてみると、早いものである。
ペルー政府は、日本に亡命しているフジモリ元大統領を引き渡すように要求し、日本政府はそれを拒否している。ペルー国内で弾圧政治を行い、人質立てこもり事件の遠因を作った張本人が日本でしぶとく居続けている以上、現在でも事件はまだ完全に終わったとは言えまい。
この事件で、人質が解放された瞬間をとらえて、中島みゆきは1つの歌を作っている。
彼女の歌の中で、私に最も衝撃を与えた歌「4.2.3」である。
始めに、特殊部隊の兵士が大使館公邸に突撃する様子を淡々と描く。
「白く平たい石造りの建物から 朱色の炎と石くれが噴きあがる瞬間だった」
「白い煙から土色の煙となって建物から噴き出していた」
「蟻のように黒い人影が走り込む 身を潜める 這い進む 撃ち放つ」……
やがて人質が建物から運び出されてくる。
「担架に乗り 肩にかつがれ 白い姿の人々が運び出される」
それをTVリポーターは「日本人が助けられました」と興奮して伝えている。他方、テレビの画面には、兵士が担架に乗せられて出てきた。先ほど公邸に突入した兵士は、担架の上で「腕は担架からぶら下がり 足首がグラグラと揺れる 兵士の胸元には赤いしみが広がる」。
ところが、TVリポーターは、日本人の人質が助けられたことばかり嬉々として伝え、兵士のことは全く言及しようとしない。そのことにみゆきは激しい怒りを覚える。
「見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心がある人たちが何故
助け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろう」
さらにみゆきは、日本人だけの生死に一喜一憂している日本(ないし日本人)が再び過ちを犯すのではないかと強い怖れをいだくようになる。
「この国は危ない 何度でも同じ過ちを繰り返すだろう 平和を望むと言いながらも
日本と名のついていないものにならば いくらだって冷たくなれるのだろう」
そう、日本と名のついていないものにならば、いくらだって冷たくなれる。
落合真司もこの歌に関するコメントの中で述べているが、外国で事故が起きたときなどに、被害者の中に日本人が含まれていなかったという報道が繰り返しなされる。一人でも日本人が含まれていれば、重大な事件として受け止められ、そうでなければすぐに忘れられていく。(落合真司『中島みゆき・円環する癒し』32ページ)
落合真司と高野文生(=東京エイリアンアイズ創設理事)は、書かれた時期こそ異なるが、全く同じ歌(the Yellow Monkeyの"Jam")を想起し、同じことを述べている。
日本で外国人留学生の支援活動を続けている高野文生は、メールニュース(2004年4月14日[tae-info]タイトル「日本人はいませんでした」"No JAPANESE INCLUDED")の中で次のように語っている。やや長いが引用させてもらおう。
「さて、イラクでは多くの人が死んでいます。そして、中国やロシア、アメリカなど他の国の人質もいて、殺された人もいます。しかし、日本のテレビは『開放された人質の中に日本人はいませんでした』と残念そうにコメント。
日本人のロックバンド、ザ・イエローモンキーの名曲「Jam」を思い出すのはぼくだけでしょうか?
♪外国で飛行機が落ちました、ニュースキャスターはうれしそうに、日本人はいませんでした、いませんでした、ぼくは何を思えばいいのだろう?」
日本と名のついていないものにならば、多くの人の関心は向かない。それが現実である。
ペルーの日本大使館における人質立てこもり事件から7年経ったいま、残念ながら、みゆきが言ったとおり日本はイラクで再び同じ過ちを繰り返している。
2004年4月、計5人の日本の民間人がバグダッド近くで何者かに拘束された。
日本人が人質になってからの1週間は、すさまじいまでの過熱報道。新たな動きがあろうとなかろうと、連日トップニュースであり続けた。わずか2〜3日で、一般市民からなんと15万人分の署名が集められたという。私が登録しているさまざまなメーリングリストでも、とにかく3人の人質の命を救え、政府は何をしているんだ、といった趣旨のメールが盛んに飛び交った。
他方で、人質の家族への誹謗中傷もかなりひどかったようである。誹謗中傷は論外として、一般の人々の関心の高さを見せ付けられた。とにかく、日本中の関心の的であった。他にもイラク国内で拘束された外国人は数十人いたようだが、その人たちに対して同じように救出を求める動きは日本で存在したのだろうか。イタリア人の人質が殺されたとき、フランス人の人質が解放されたとき、憤ったり喜んだりした日本人は、果たしてどれほどいたのだろうか。フランス人人質へのインタビューの内容は、日本人人質に関する情報を得ようとする動機に基づくものにすぎなかった。
さいわい、人質となった3人は4月15日に、そして2人は17日に解放された。特に3人の解放が報じられた瞬間、テレビはもうすさまじいまでの熱狂的な報道を繰り返した。
ペルーの人質事件を思い出さずにはいられなかった。
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高野がメールニュースで書いているように、また人質となった渡辺氏が解放後に指摘していたように、イラクでは多くのイラク人が米英軍の攻撃によって殺され続けている。米英軍の兵士が殺されると、報道される。イラク人が何人殺されようが、ほとんど報道されない。イラク人が何人死んだのか、正確な統計が取られていないので分からない。「イラク・ボディ・カウント」<⇒紹介記事>というNGOが死者を数えているとのことだが、死者は1万人を超えるとの推計もあるくらいだ。1万人を超えると言われても、恐らくほとんどの日本人には全くピンと来ない数字であろう。3人の日本人の人質を救えと声高に叫んでいた人たちは、日本人以外の犠牲者に対してどれほど思いをはせていたのだろうか。
イラクへの自衛隊派兵反対を唱える人々。私自身も自衛隊の派兵は決して賛成できないが、ただ、どういう論理で反対するかということも重要だと思う。自衛隊の派兵を与党が無理やり決めてしまったわけだが、その際の国会論戦では、(日本人である)自衛隊員を危険な地域に送るべきではない、いや危険ではない、ということが焦点となっていた。結局のところ、イラク人ではなく日本人の安全だけが、与党も野党も唯一の判断基準となっていたのではないか。
米英軍の高圧的な占領政策にイラク人の不満が爆発し、イラク各地での武力衝突が収拾をつけられないまでになってしまった現在、自衛隊を引き上げたほうがいいのではないかという世論が高まってきているようだ。
どうも日本人の多くは、同胞(古い表現?) が具体的な危険にさらされて初めて騒ぎ出す(しかも被害者意識をむき出しにして過剰反応する)性質を持っているようだ。逆に言えば、背景の事情はともかくとして、人質が解放されさえすればいいという発想も見受けられる。
状況は多少異なるかもしれないが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)による日本人拉致問題もそのひとつである。
北朝鮮が全部で何人の日本人を拉致したのかははっきりしないが、北朝鮮から日本に返された拉致被害者は5名。現在、彼らの家族を日本に返すよう、日本政府は北朝鮮に繰り返し働きかけている。日本と北朝鮮の間の最大の懸案は、核兵器の開発凍結でもなく、日本による北朝鮮への戦後保障でもなく、ひたすら拉致問題一本槍である。拉致問題が解決しないので、拉致とは関係ないのに、今度は法律まで作って、北朝鮮の船の入港を規制しようとまでしている。
私は、北朝鮮による日本人の拉致を正当化するつもりはない。何の関係もない人を拘束して北朝鮮に連れて行く行為は、人道的に許されることではない。それは当然のことであり、北朝鮮は拉致問題の解決に対して誠実な姿勢が求められる。
だが、多くの日本人は、拉致問題が出てきた途端に、他のことが視界から消え去り、人質事件と同じように異常なまでの被害者意識、興奮状態、ないしは思考停止状態に陥ってしまうのではなかろうか。
日本は朝鮮に対する植民地支配を通して何百万人もの朝鮮人を苦しめ、日本に強制的に連れてきて、炭鉱などで重労働をさせ続けた。賃金さえ満足に支払われなかった。日本人はその自らの行為を「拉致」と呼ばない。パレスチナの武装闘争を「テロ」と呼び、イスラエル軍による自治区侵略を決して「テロ」と呼ばないのと同じではないか。「拉致」や「テロ」は言葉そのものに「悪いこと」という価値観が前提として織り込まれている。マスコミがこれらの言葉を使うとき、いつの間にか価値判断を与え、表面的には中立を装いながらも、紛争の一方の側を勝手に断罪しているのだ。 戦後、帰るべき国を失い日本に住み続けた在日朝鮮人を、多くの日本人はあからさまな差別と偏見の対象にしてきた。在日の人々に対する差別や偏見、憎しみは、決して過去のものではない。朝鮮学校に通う子どもたちへの襲撃事件をいまでも時折耳にする。戦後も、北朝鮮との国交がないことをいい口実にして、戦争加害の謝罪も反省も補償も何ひとつしないまま、今日に至っている。そして何かにつけ、北朝鮮に対しては「ならず者国家には制裁して当然だ」「毅然とした態度で臨め」などという高慢な態度をとる。特に近年、思想傾向の右翼化に伴い、「つくる会」などに象徴されるような、きわめて憂慮すべきナショナリズム(むしろファッショというべきか)が日本中でむくむくと台頭してきた。ごく少数の右翼だけにとどまらない。日本政府、日本企業、そして多くの日本人は、朝鮮人に対してこれまでどのような振る舞いをしてきたのか。このことを、今一度、冷静になって、よく思い出してみる必要がある。
北朝鮮による拉致問題と、戦時中の強制連行や朝鮮人への差別を同列に比較するつもりはない。しかし、さきの日朝ピョンヤン宣言では、拉致問題の解決と並んで、北朝鮮への戦後補償も盛り込まれていたのであり、日朝双方にとって歴史の清算が必要なのだ。
私たち日本人が、被害者の顔をして北朝鮮に対して拉致問題の解決を訴える際に、自分たちが加害者の面もあったこと(そして、加害者の面のほうが極めて大きかったこと)を忘れてはいけないだろう。
イラクの人質事件の場合も、何か共通する点があるように思えてならない。イラクで人質となった5人の日本人は、「自業自得」なのではない。要は、日本政府が自衛隊をイラクに派兵したことが、イラク人の反発を買い、自衛隊派兵に反対だった民間人が危険にさらされる羽目になったのである。建前では「自衛隊は人道復興支援だから」と言っても、イラク人から見れば、日本は米英を中心とする多国籍の占領軍の一員に加わったのであり、敵とみなされても仕方がない。日本人を拘束した「サラヤ・ムジャヒディン」も声明で自衛隊の撤兵を強く要求していた(日本人の専門家は、TVインタビューで、犯人グループは金目当てではないかなどとつまらない憶測をしていたが、的外れであった)。だが、日本政府と多くの日本人は、残念ながら人質が解放されることにしか、関心がなかった。日本政府は、人質事件が発生した直後に自衛隊の撤兵を拒否し、米政府高官からお褒めの言葉を頂戴した。
朝日新聞の緊急意識調査の結果(有効回答数820件)によれば、今回自衛隊を撤退させなかった政府の方針を「正しかった」と評価する人は全体の73%にのぼり、「正しくなかった」の16%、「その他・答えない」の11%を圧倒した(2004年4月17日朝刊1面)。こんなにも近視眼的な人が多いのか。記事を見て私はしばし唖然とした。
人質が解放されて、もう事件は終わった、やれやれと思っている人が大半だろう。しかし、根本的な問題解決という面から見れば、じつは何ひとつ終わってはいない。
「この国は危ない 何度でも同じ過ちを繰り返すだろう 平和を望むと言いながらも
日本と名のついていないものにならば いくらだって冷たくなれるのだろう」
「あの国の中で事件は終わり 私の中ではこの国への怖れが 黒い炎を噴きあげはじめた」
7年前に放たれたみゆきの警告が、こんにち圧倒的なリアリティをもって私の心に刺さってくる。
●和田堀公園を訪ねる
2004.3.28
天気がよく温かい休日は、行楽にもってこいの日和である。
部屋の中にじっとしているのはもったいない。
地図を眺めて、和田堀公園があるのを見つけた。
ちょうど今頃は、さくらも咲いていることだろう。カメラとサンドイッチと飲み物を片手に出かけた。
自転車で走ること十数分、思ったとおり大宮八幡神社は桜に包まれていた。
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「骨董民具市」の旗が何本もはためいていた。どんなものがあるのだろう? 参道の脇にワゴン車が一台止まっていて、一人のおじさんがワゴン車の前に売り物を並べているところだった。品数はかなり少ないようだったが、これから店開きなのだろう。
「梅木瓜盆栽展」の看板も出ていた。広場の脇のほうに盆栽が並び、和服姿のおばさんがお茶を点てていた。残念ながら私はお茶も盆栽もよく分からない。
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別のところには「さくらの植樹祭」の看板も。 看板によれば、「第20代さくらの女王 第30代ドイツさくらの女王 来宮! 御鎮座940年奉祝」と大仰に書かれている。「さくらの女王」なる存在は、私は寡聞にして知らなかった(しかもドイツにまで!?)。ドイツの女王まで呼んでの940周年記念事業は、午前10時45分に行われるとあったが、残念ながら私が神社を訪れたのはそれより30分ほど後だった。残念。
どこに植樹したのか探したところ、目立たない脇のほうに、ひょろっとした小さな木が植えてあった。もう記念事業はとっくに終わり、宮司らしき白い姿のお兄さんが莚を片付けているところだった。
私が訪れたとき、神社を訪れていた人の多くは、目的が盆栽でもお茶でも植樹でもなかった。赤ちゃんや小さい子を連れた親子連れがたくさんいた。実は、大宮八幡神社は「子育厄除八幡さま」なのだそうだ。なるほど。
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神社の裏手はひっそりとしていて、陽だまりに鳩が集っていた。
神社の隣にひろがる都営和田堀公園。こちらにも、桜が咲き誇っていた。
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ちょうどお昼時。家族連れがあたり一面にシートを広げ、ビールを飲んだり、バーベキューをしたり、おにぎりをかじったりして、くつろいでいる。子どもたちは走り回ったり、水辺で何かを捕まえたりしている。青空の下、ほほえましい、平和な光景が広がっていた。
ひとり身の寂しさが、胸にこたえた。
<大勢の人が>![]()
<子ども連れがたくさん>![]()
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<シートを広げて>
<犬もいっしょ>![]()
<バーベキューだ>
<水の中に何がいるのかな?>![]()
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<公園の池>![]()
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――シリーズ――●いじめの記憶(1)
2004.3.25
しばらく前になるが、昨年秋に日野市(東京都)で開かれた講演会に出かけた。
日野いじめ死を考える会主催のジェントルハートメッセージ展・「いじめで命をうばわれた子どもたちからのメッセージ」(2003年11月3日)。講師は、日野いじめ自殺の遺族であるBさんと、ジェントルハートプロジェクト理事の武田さち子さんであった(⇒右下写真参照)。
講演会の内容を、このエッセイで紹介したいとずっと思いながら、手付かずのままになっていた。いじめのテーマは、私にとってかなり重いものである。昔の出来事をどうしても思い出さずにはいられないのだ。
話がやや長くなりそうなので、何度かの連載に分けたいと思う。
まずは、上記の講演会の内容を簡単に紹介するところから。
<講演会の内容>
Bさんの息子さんであるK君は中学でいじめを受け、不登校になり、1999年4月に15歳で自ら命を絶った。
詳しい経緯については、武田さんのウェブサイト『日本の子どもたち』 の中の、「子どもたちは二度殺される」【事例】 に紹介されているので、ぜひそちらをご覧いただきたい。また、『日本の子どもたち』は、世界子ども通信『プラッサ』別冊として出版もされている(上記の事例は114ページに掲載)。BさんはK君の自殺の経緯を『サポーター通信』第11号で「息子の無念を受け止めて〜いじめ・不登校から自死した息子のこと〜」と題した手記を、実名で書いておられるが、今回の講演会はK君が自ら命を絶つまでの経緯と、その後の学校や教育委員会などの対応を淡々とお話しいただいた。
Bさんは講演の最初に、「弱肉強食。……大人は乗り越えられても、子どもは弱く、経験も積んでいない。集団で力をつけて、圧倒的に弱い子どもをいじめる。われわれの幼少期とは比べられない。」と切り出した。
ますます陰湿で巧妙になるいじめ。弱い子に対して、精神的/肉体的限界をはるかに超えた残酷な仕打ちを繰り返し、死の淵に追い詰めてしまういじめ。周りに大人がたくさんいるのに、ほとんど誰も気づかないままにエスカレートしていくいじめ。
「われわれの幼少期とは比べられない」という言葉が、現代のいじめの特徴を言い表していると思う。よく「いじめは昔からあった」などとおっしゃる方がいる。自分の幼少期を思い出して、それと同じことだと片付けてしまいがちだ。今、学校で起きているいじめは、「昔からあった」いじめとは違って、子どもを自殺に追い込むほど過激なものになっている。
子どもは、けっこう残酷な一面を持っている。子どもに対して「何の罪もない」とか「イノセント」「天真爛漫」というイメージを懐きがちだ。それが全く間違っているとは言わないが、自己中心的で相手の痛みに対する想像力が希薄な子ども、家庭で充分な愛情を受けられなかった子どもは、大人の想像以上に残酷な存在になりうる。
子どもたちだけで放任しておいたら、力の強い子が弱い子を虐げて支配する弱肉強食の世界が出現することは、目に見えている。ホッブズ的な世界である。
これに対して、やはり大人が弱肉強食的な世界、暴力による支配関係を改めさせ、理性的で民主的な人間関係を築くこと、相互の人権の尊重を教えるとともにいじめに対して毅然とした態度をとることが、求められているのだろう。
Bさんの淡々とした語りの中に、「息子を助けてやれなかった」という、親御さんとしての自責の念が強くにじんでいた。「助けられる面があったので、自分を責めている」。
結果としてBさんの息子さんは自ら命を絶ってしまった。それだけを見れば、「なぜそうなる前に親は気づかなかったのか」などと思うかもしれない。
しかし、息子さんがいじめを受けるようになってから、Bさんは父親として息子を守るために大変な努力を重ねたそうである。
いじめを苦にして不登校になったときには、家族で団結して息子さんを守ることにしたという。無理やり学校に送り出す親も少なくない中で、Bさんは不登校に対して理解があった。
さらに、不登校になって無気力になった息子さんを立ち直らせるため、スキーに連れて行ったり、生活環境を変えるために引越しまでした。息子さんの立ち居振る舞いを始終気にかけていた。
それでも、親の目の届かない隙をねらって、いじめの加害少年は息子さんをひそかに外に連れ出し、暴行されていたらしい。いくら親といっても、何から何まで監視し続けているわけにはいかない。
息子さんの自殺後は、真相を明らかにするために学校や市教委、警察、弁護士、法務省などあらゆるところに対応を求めた。
私から見れば、Bさんは父親として息子さんを守るために精一杯努力した。息子さんが亡くなった後も、絶望的な状況の中であきらめずにたたかい続けた。そこまで頑張れる人は少ないだろう。そんなに自分を責めないでほしい。でも親とすれば、いくら悔やんでも悔やみきれないのだろう。自責の念も、これでスッキリ済んだということにはならず、一生涯負い続けるのかもしれない。
いじめ自殺などの場合、問題は2つある。
ひとつは、子どもがどういういじめを受けていたか、学校や教師はどう対応したかという問題。
もうひとつは、子どもが亡くなった後、学校や教師、関係者はどう対応したかという問題。
いじめによって子どもが自ら命を絶つこと自体、重大な問題なのだが、それに劣らず重大なのは、学校をはじめとする関係者が遺族に対して一切誠実な対応をせず、いじめの事実を隠蔽し、保身に汲々とすることである。いじめ自殺がその後の教育になんら有意義な教訓をもたらさず、あたかも無かったかのように、うやむやにされてしまう。遺族は周囲から偏見の対象となり、孤立無援の状態に置かれる。こうして遺族は、子どもを亡くしたという悲しみ・怒りだけでなく、学校をはじめとする関係者の不誠実さや偏見にも苦しめられ、心無い人の言葉に傷つけられる。二重苦、三重苦を味わわされるのだ。これでは、死んだ子どもはとても浮かばれない。武田さち子さんはこのことを「子どもは二度殺される」と表現している。Bさんは「せめて市民運動で伝えていくしかない。これが私の使命だ」と語り、継続的に社会に訴えていく必要性を指摘して、講演を締めくくった。
Bさんは仲間とともに「日野いじめ死を考える会」、「ジェントルハートプロジェクト」などの市民運動を進めている。息子さんの生前の写真をパネルに貼り、「ジェントルハート」の展示に出展し(⇒右写真参照)、パネル展示を通して多くの子どもたちにいじめ自殺の問題を考えてもらうことを目指している。
(次号に続く)
●病との二人三脚
2004.2.29
――いまあなたがまぬかれている病気について考えよ。 ジュウベール
<身近なのに…>
小さい頃、病とは二人三脚のような人生であった。今では普通の人と同様に日常生活を送り、普通にスポーツジムに通って運動に汗を流しているから、一見そんなことは想像がつかないかもしれない。
病は自分にとって身近すぎるほど身近なことなのに、書こうとするとひどく気が重いテーマでもある。普通、自分はこういう病ですなどとペラペラしゃべる人はいない。もっとも近年はいわゆる闘病記の刊行が流行り、書店でもそのコーナーができているが、当人は闘病記を書くまでに想像を絶するような心の葛藤を克服し、長い長い時間をかけてようやく苦難と悲しみを対象化できるようになったのではないか。最もつらい時点からある程度時間が経たないと自分を冷静に振り返ることは難しい。私は闘病記を読むともらい泣きをしてしまうので、ほとんど手を出せない。やや大げさかもしれないが、私もこの文を書くまでに何年かかったのだろう。
<病気のデパート>
私は生まれてまもなくから、よく高熱を出しては近所の病院に運ばれ、「病気のデパート」と言われるほどいろいろと手を煩わせたようだ。はしかも肺炎も経験した。当時住んでいた家のお隣のお宅は大変親切で、夜中に私が熱を出すと、ご主人が病院まで車で送ってくれたものだ。そんなことが続いては申し訳ないと、母は自動車教習所に通って普通免許を取り、乗用車を買った。母には私の病のことで、言葉に尽くせぬ苦労をかけてきた。
残念ながら小さい頃、屋外で思いきり遊んだという記憶はあまりない。記憶に残っている情景は、雪が降り積もったある朝のこと、庭から取ってきてもらった少々の雪で雪だるま(というより雪だんご)を拵えたことである。
4歳の頃、タール便(=タールのように真っ黒い便のこと)が出て、腹に激痛が走った。胃のポリープが出血し、その血が便に混じって固まっていたのであった。
運ばれた先の大学病院では開腹手術しかないと告げられ、出血した部分を切り取られた。手術痕は今でもケロイド状に残っているが、手術後に抜糸されたときの苦しかったことは今でもよく覚えている。十数針縫った糸を、何日もかけて抜き取る作業のことだ。現在では、縫い糸がたんぱく質でできているとかで、身体に自然に吸収されていくらしい。当時行っていた抜糸は、大変だった。抜糸の時には当然麻酔が切れているわけだし、私はまだ小さい子どもだったから、痛くて泣いた。看護婦はそのたびに「おお強い子だもんねぇ、泣かないよね?」。
<院内感染>
問題はむしろその後だった。手術後、病院内で肝炎のウィルスに感染したのであった。私の隣のベッドに肝炎の患者がいたらしいが、どのように感染したのかという真相も、誰のせいだったのかという責任の所在も、結局うやむやにされてしまった。近年でこそ、病院内での病原菌感染(=院内感染)が広く社会的に認知されるようになったが、当時はあまり問題視されていなかったような気がする。
いずれにせよ、私は肝炎の患者になった。当時の医学水準では、肝炎にはA型とB型があることは分かっていたが、私はそのどちらでもなかったので「非A非B型」などと名づけられていた。C型肝炎というのがあるということが分かったのはずっと後になってから。いまでこそC型肝炎という言葉は広く知られ、感染者は中高年を中心として200万人はいると推計されている。C型の特徴は、感染力が弱くて血液や体液を通じてしか感染しない(空気中感染はない)こと、慢性化しやすいこと、黄疸などの症状が出にくいことだ。慢性肝炎のほとんどはC型肝炎で、完治しにくいとされている。
肝臓は「沈黙の臓器」と言われ、本人にはっきりとした自覚症状がなく、血液検査をしてみて初めて具合の良し悪しが分かることも多い。
<ぜいたく病>
西洋医学による慢性肝炎の治療法は、当時これといってなかった。ただ毎日安静にして、栄養のあるものをたらふく食べる。それの繰り返しだった。小児病棟の同じ病室には、糖尿病や腎臓病の子が、味気のない食事にうんざりしていたが、それを横目に私ばかりは毎日食べきれないほどのご馳走が出てきて、周りからは「ぜいたく病だ」などとうらやましがられた。
小児病棟に入院していた4〜5歳は、本来は外で遊びまわり、走り回りたい盛りの年頃だ。その折も折、「安静」を命じられ、廊下を走ることは厳禁だった。だが、同じ病室の子と一緒に走り回ったり、ベッド上で跳ね回ったりして再三看護婦に叱られ、いつもお目玉を食らっていたらしい。
当時の写真を見ると、屋外で太陽に当たっていない為か色白で、ぶくぶくと豚のように太っていた。病院という空間は不思議なもので、そこにしばらくいるだけで次第に普段の精悍さが失われ、いかにも病人らしい風貌になっていくように感じられる。陽に当たらない狭い空間に閉じ込められて、運動しない、あまり食べずに点滴で栄養を補給する、外界での緊張感がない、といったもろもろの要因があるのかもしれない。
<匙を投げられる>
小児病棟で看護婦に叱られながらも病棟でドタバタ遊んだ幼児期を卒業したのは、小学校に上がるときだった。当時の西洋医学では、「安静」と「栄養」以外の手段としては副腎皮質ホルモン(ステロイド)の投与しかなかった。ご存知の方も多いだろうが、ステロイドは強い副作用を伴う。たまたま、隣のベッドに寝ていた腎臓病の子は、ステロイドのために顔が真ん丸くなり(ムーンフェイスという)、入学式の前日に亡くなった。ステロイドのせいで命を失ったのかどうかは知らないが、私たちはとにかく「ステロイドは怖い」と思ったものである。
ちょうどその頃、医師は私の親にも「治療法はステロイドしかない」と告げていた。たまたま隣の例を見ていた母はそれを断った。苦渋の決断だった。それならほかに方法はないと医師は言い、退院を促した。つまり、医師から匙を投げられたのであった。この決断は極めて正しかったと、私は考えている。
西洋医学に見放された、いや見限った母は、漢方医学に切り替えた。他に選択肢は残されていなかった。方々の漢方医を訪ねては漢方薬を飲み、鍼灸院に通った。肝臓によいとされる食物は片端から探し求めた。漢方生薬の一種で「サルノコシカケ」というキノコをご存知だろうか。名前のとおり、木の幹から横に伸びるこのキノコが、サルの腰掛ける椅子のような形をしている。このキノコをナイフで薄く削り、煎じて飲んでいた。
3年生まで、小学校に歩いて通った記憶がない。いつも車での送り迎えであった。毎日登校できたわけでもなく、"飛び石連休"ならぬ"飛び石登校"だった。体育の時間、空っぽの教室で、一人で粘土をこねて暇つぶしをしていた。粘土で作るのはいつもベッドだった。
学校の廊下で走るのは、かつての小児病棟と同じく厳禁だった。「病気が治って元気になったら使おうね」と、買ってもらった子供用のミニ鉄棒は、いつも洗濯物や鉢物が下がっていた。本来の目的で使われたことはいまだかつてない。
夜更かしは許されなかった。親から「勉強しなさい」と注意されたことはいまだかつてないが、「早く寝なさい」といつも言われていた。
<体育はいつも1か2>
こんな私が運動を始めて、徐々に元気を取り戻したのは小学校6年生の頃からだった。方針を「安静」「栄養」から「運動」「粗食」に180度切り替えたためであった。
風邪を引かぬようにと、近くのスイミングスクールに通いだした。以前なら想像もつかないことだ。当然、運動などしたことのない私は、いきなりプールに入ることが怖かったし、人前で水着姿になることも嫌だった。以前もこの話は紹介したが、もう二度とプールに行きたくないとごねたものである。
その後、水泳だけは今日に至るまで何とか続けられているが、学校の体育はクラスメイトにまったくついていけなかった。かけっこはいつもビリ。鉄棒の逆上がりはついにできず、サッカーではボールの来ないほうに避けて日向ぼっこするしかなかった。球技はてんで駄目だった。通信簿で体育の欄はいつも1か2をもらった。
それでも漢方薬のおかげで肝炎も何とか治まり、高校生の頃には服薬をやめて通常の日常生活を送れるようになった。そして現在に至っている。
ただ、完全に問題が解決したのかというと、必ずしもそうとは言い切れない点が残っている。肝臓の中にウィルスがまだ残っているためだ。このウィルスがムックリと起き出して肝細胞を攻撃しだすと、肝炎が再発する恐れがある。それでは、ウィルスはいつ目を覚ますのか? 明日? 1年後? 10年後? 一生眠ったままという可能性も大きい。もちろん、寝た子を起こす必要はないが、運悪くウィルスが目覚めてしまったら? いまの西洋医学で可能な対策は、インターフェロンの投与によってウィルスを殺すことである。
ただ、ウィルスを攻撃すると、正常な身体の細胞も一緒にダメイジを受けるため、高熱や脱毛、関節痛などの副作用が伴うという。加えて、インターフェロンが効く肝炎の型は、全体の3割程度にとどまる。近年、新種のインターフェロンが開発され、副作用も従来のものより小さく、あと3割の患者にも有効だと報道された。
<一見健康そうな人が>
私の周囲に、インターフェロン経験者が何人もいた。この人たちは幸運にも、インターフェロンが効いて肝炎が完治したとのこと。(ネット上でも経験談が多くある)
驚いた。一見、何でもないタフで健康そうな人。病などとは無縁な人生を歩んできたように見える人。でも、ちょっと話をしてみると、意外にもそうではないことが分かる。
ふとしたことで知り合った、まちづくり運動のあるリーダーは、自ら企業を経営しながら深夜にまちづくり運動関係のチラシを作り、休日も何もなく毎日精力的に飛び回っていた。しかし、まさにその人が、数万人に一人という原因不明の難病に冒されていて、いつも劇薬を手放せず、健康不安に襲われ続けている。そんなことを外見だけからどうして知りえよう。彼は「身体にいつも爆弾を抱えながら生きているようなものですよ」と軽く笑ったが、そう言えるまでにどれほどの苦しみ、悲しみを乗り越えてきたのだろう。
まちづくり運動の本題から離れて、病の話で盛り上がった。互いに異なる病の経験を持ちながら、どこか通じ合うものがあった。
肝炎のほかに私とともに歩んできた病はポリープである。医学用語ではポリツィエーガーというらしい。消化器の内壁にできる良性の突起物である。ちなみに悪性のものは癌だ。
私の場合は良性なのでそのポリープを切除してしまえば済む。しかし、一度それを取ってしまえばそれっきりで終わり、というわけにはいかない。キノコのように何度も内壁に生えてくる、しつこい代物である。あまり大きくなってしまうと、食物が通るたびにこすれて出血する恐れがある。
内視鏡(カメラ)の技術が発達した現在では、小さなポリープは開腹手術などしなくても比較的簡単に取れるようになった。
<私ごときが弱音を…>
これまで、小さい頃病とともに歩んだ生い立ちを簡単に振り返ってみたが、私にとって病はいったい何だったのだろうか。いや、まだ完全に過去のものとは言えないから、「何なのか」と問うべきだろう。
病のために不自由を強いられたことは事実だし、病を恨めしく思ったことも一度ならずある。健康でさえいられたら、屋外で思いきり遊ぶことができた。病院のベッドで毎日を過ごさなくても済んだだろう。毎日小学校に登校して、体育にも参加できただろう。学校でいじめられずに済んだかもしれない。食べるものに制限も要らないし、存分に酒も飲めるだろう。将来の健康不安を抱えながら長い人生を生きていく必要もないのだ。凡人である私は、「健康そのものよ!」という人をやはりうらやましく思ってしまう。
ただ、見方を変えれば、病は自分にマイナス面ばかりをもたらしたわけではない。
「どうして自分ばかりがこんな目にあわなければならないのか」などとつい思ってしまう日。私はある言葉を思い出す。
――いまあなたがまぬかれている病気について考えよ。 ジュウベール
(堀 秀彦編『格言の花束』(現代教養文庫221)社会思想社、1958年、152ページ)世に不治の病で苦しむ人は数え切れないほど多くいる。検査のために入院すると、病院内には実にさまざまな病を抱えながら、一生懸命に生きている人々を目の当たりにする。街頭では着飾った元気そうな人々がすました顔で歩いているが、病院という閉じた空間に一歩足を踏み入れれば、華やかな街頭とはまるで違う世界がそこには厳然としてあるのだということを、思い出させてくれる。
苦しんでいるのは私だけじゃない。彼らに比べれば、私などは健康人とほぼ同様に日常生活を送れている。通常は、病のことなどほとんど思い出さずに過ごすことができている。
それなのに、私ごときが弱音を吐いていられるだろうか?
中島みゆきは、次のようなメッセージを私たちに投げかけている。
――いつかひとりになった時に
この歌を思い出しなさい
どんななぐさめも追いつかない
ひとりの時に歌いなさい
おまえより多くあきらめた人の
吐息をつづって風よ吹け
お前より多く泣いた人の
涙をつづって雨よ降れ (後略) (『かもめの歌』より)
自分より惨めな人を見て「自分はまだマシなほうだ」と慰めようとか、優越感に浸ろうとか、そういうことを言いたいのではない。自分より大きなハンディを背負いながら希望を見失わずに努力している人を見て、自分も怠けていられない、大変なのは自分だけじゃないと、明日への励ましにしたいのだ。
<問われている存在>
病は確かにハンディであり、不自由ではある。しかしそれによって他人から同情を買いたくはないし、自分自身病に甘えたいとも思わない。「五体不満足」の乙武洋匡氏が「障害は不自由だが不幸ではない」「同情はいらない、私のような生き方があることを知ってほしいのだ」と繰り返し強調していたことを思い出す。
一定のハンディはありながら、そのなかでどれだけのことができるのか。また、何を学び得たのか。病を神から与えられたひとつの試練だと考えれば、その試練に対してどういう答えを出せるのだろうか。
アウシュビッツ強制収容所の絶望の淵から生還した故ヴィクトール・E.フランクル博士は私たちに静かに語りかける。
あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。それは男性と女性でした。二人は、声をそろえていいました、自分の人生には意味がない、「人生にもう何も期待できないから」。二人の言うことはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、二人を待っているものがあることが分かりました。その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。その女性を待っていたのは、子どもです。彼女の子どもは、当時遠く連絡のとれない外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を待ちこがれていたのです。そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。それは、ものごとの考え方を一八〇度転換することです。その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだ何を期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私に何を期待しているか」と問うだけです。(中略)
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることに他なりません。(後略)
(ヴィクトール・E.フランクル著、山田邦男・松田美佳訳『それでも人生にイエスと言う』春秋社、1993年、26〜27ページ)
生きる意味があるか否かという問題だけにとどまらない。病や障害など、何らかの避けがたい大きな苦難を背負った場合に、それに対してどのような態度・姿勢をとるかが問題なのだとフランクルは言い、「態度価値」という議論を展開している。
おそろしく壮大な問いのように聞こえる。すぐに答えが見つかるとも思えない。
が、病とともに歩んできて、何か得られたものがあるとすれば、やや気恥ずかしい言い方だが、人のやさしさやいたわりを感じる心、逆境にめげない不屈の闘志、かもしれない。
※お断り 本文中に用いた写真はいずれもイメージ写真であり、本文の内容と直接関係のあるものではありません。
●宗教とのつきあい
2004.2.29
――じぶんで消化できる以上のいろんな信仰を嚥下してはいけない。
ハヴェロック・エリス
<底知れぬ重圧の正体?>
自分にとって、宗教とは何なのか。
ある先祖供養の仏教教団に入って二十数年を経ていながら、この問いに確たる答えを見出せていないことを、正直に告白する。今回は、そのことを少し考えてみたい。
宗教について何かしらを語ること、話題に出すことは、私にとって実に大変な勇気を要するものだ。タブーであるかのような底知れぬ重圧を感じる。実際、私は関係者以外の人々に対して宗教関係の話をすることがほとんどなかった。私が仏教徒であることを知っている人は、周囲にほとんどいないといってよい。――別に、悪事をしているわけではない。他人に迷惑をかけたり、後ろ指を差されることをしているわけでもない。自信を持って堂々と公言してかまわないはずである。それなのに、なぜめったに口にしなかったのだろう。そして、底知れぬ重圧というのは、単に私の気のせいなのだろうか。
もうひとつ、仏教の教団に入って二十数年を経ていながら、仏教の教義についてほとんど何も知ってはいないということも、正直に告白する。
そんなことを言っても、一般の読者の方々には、なかなか理解していただけないかもしれない。いささか冗長かもしれないが、説明を試みてみよう。
<無宗教と形骸化>
宗教のことを口に出しにくいというのは、「日本人の多くは無宗教だ」という通説と関係あるのかもしれない。もちろん、無宗教化しているのは日本人だけではない。一昔前は、「西欧の国で『私は無宗教です』と言ったらそれは『私は人間じゃありません』と言っているのと同じことだ」と聞かされたものである。しかし実際、西欧諸国でも若年層を中心に宗教離れが進んでいると聞く。
無宗教だというのは、実質的には神仏を信じていないが社会的に慣習として残っている宗教的な行事を形だけ踏襲する、あるいは観光地としての神社仏閣に参拝する、という現象と矛盾しない。
宗教の形骸化の象徴としてよく挙げられるのは「葬式仏教」だが、特にさまざまな宗教行事を雑多に、しかも寛容に取り入れてきた日本人の行動様式は、一神教の伝統を守る西欧キリスト教の人々には奇異に映る。何しろ、クリスマスの1週間後には神社に初詣に行く。教会で結婚式を挙げた人が、葬式はお寺という"無節操さ"である。
オランダのジャーナリストとして日本でも名高いカレル・ヴァン・ウォルフレンは、次のように鋭く指摘する。
神道も仏教も、現代の日本人に、政治的原理や人生観あるいは道徳規範らしきものを提供できるほどの存在ではない。たいていの日本人が結婚するときは神式にのっとり、死ねば仏教のお経が読まれる。神社は地域の祭礼の中心になり、寺は、通夜、葬式、(通常は火葬の後におこなわれる)埋葬から法事まで、来世の産業のほうを受け持っている。
(中略)
もちろん、檀家の人々と人生の問題を話し合う仏僧も少しはいるが、大多数はそのようなことを主な仕事とは考えない。信者たちに深くかかわって話し合う機会を与えるのは、いわゆる新興宗教だけである。」(カレル・ヴァン・ウォルフレン著、篠原勝訳『日本/権力構造の謎』(下)早川書房、1990年、84ページ)
宗教の形骸化と実質的無宗教は現代日本社会にすっかり定着しているように見える。これが有力な多数派を占めているなかで、ほんとうに宗教を信じているというのは、マイノリティというだけでなくアブノーマルな、場合によってはファナティック(狂信的)で危険な人間、あまり深く係わり合いにならないほうがよい別世界の人間と見えてしまうのかもしれない。
日本社会は、異質な(大多数の人々と違う要素を持つ)人を排除する共同体的な残滓(いわゆる「ムラ社会」)をもっているから、なおさらのことだ。ウォルフレンは、政治的秩序を超えた真理に訴える伝統が、日本では根付かなかったと指摘している(前掲書88ページ)。
<マイナス・イメージの増幅>
もちろん、それだけではない。オウム真理教による一連の凶悪事件に代表されるように、狂信的で反社会的な集団が宗教の名をかたっていることから、宗教(特に新興宗教)は怖いというイメージが強固に定着したといえる。宗教に名を借りて多くのイノセントな人々、魂の救済を信じ期待した人々を騙し、高価な仏壇などを売りつけて暴利をむさぼっている団体。宗教団体として政界に進出し、信者が選挙運動に動員されるような団体。異様な姿で集団行動し、地域住民から気味悪がられる団体など、宗教に対する期待を裏切る例には事欠かない。
宗教関連で、マスコミが好んで取り上げる話題のほとんどは、宗教に対してマイナス・イメージを増幅させる内容であり、宗教などはいかがわしいものに過ぎない、いつまで宗教法人に非課税特権を与えているのかといった世論を形成するのに一役買っている。
<宗教が周辺に追いやられてきた>
近代になる以前は、宗教は絶対的な位置を占めてきたと思われる。僧は地域の知識人であり、社会的権威であった。寺や教会は仏道を極めるためだけでなく、子どもの教育の場であり、医療・福祉施設であり、住民の集会所であり、死者を弔う聖なる場でもあった。地域社会のなかで、人々の暮らしに不可欠の存在として存在していた。また、科学が未発達なため、合理的に理解できない自然現象は神仏の仕業であると考えていた。
しかし近代になり、人々は中世の暗黒から解放され、「神は死んだ」。雷が落ちるのは、神の怒りによるものではなく、高圧の電流が雲から地上に流れることによるものだということを人々は学んだ。「神の仕業」で説明しなければならない神秘の領域は限りなくしぼみ、人類の英知である科学はついに遺伝子を自由に操作しうるところまで進んだ。
寺や教会が持っていた地域社会での役割も、近代国家によって代替され、周辺に追いやられていった。
<超越的・霊的存在への漠然とした恐れ>
しかし、ほんとうに「神は死んだ」のだろうか。人々の生活にとって必要のない存在、あってもなくてもかまわないか、下手をすると害をもたらすような存在になってしまったのだろうか。科学の光によって闇が隅々まで照らしつくされてしまったのだろうか。
必ずしもそうではない。死後の世界があることを(漠然とでも)信じる人は少なくないだろう。心霊写真や人魂、座敷わらしや「あなたの知らない世界」の話に背筋が寒くなる人、運命、宿命、占いを信じる人も多いだろう。人間の力ではどうにもならない超越的な何かがこの人間世界に影響を及ぼしている。人間の理解できない、合理的な解釈を許さない何か霊的な存在があるらしい。…… こうした超越的な、霊的な存在への恐れが宗教と強く結びついている。オーエン・ヤングは、「無神論者も真夜中には半分ほど、神を信ずるものだ」という格言を残している。
ただ、霊的な存在や死後の世界を信じるとは言っても、通常それはお盆の季節に思い出される程度のもので、お墓参りが終わればまた日常世界に戻っていく。
行事化した宗教は、非日常の世界である。結婚式や告別式、元旦の初詣の時は何となく厳粛な思いにさせてくれるが、それも一瞬で過ぎていく出来事に過ぎない。
<求道者>
宗教には、行事化したもの以外に、大きく分けて2つのレーゾン・デートル(=存在意義、存在根拠)があるように私は思っている。
ひとつは、魂の救済、心の癒し、ないし求道といったものである。
シャカ族の王子だったゴータマ・シッダールタはその地位を捨てて山中に籠り、この世の人々を救う道を求め、菩提樹の下で悟りを開いたという。妙法蓮華経の提婆達多品(だいばだったほん)には、次のように記されている。
法の爲の故に國位を捨てて政を太子に委せ、鼓を撃って四方に宣令して法を求めき。誰か能く我が爲に大乘を説かん者なる。我當に身終るまで供給し走使すべし。時に仙人あり、來って王に曰して言さく、我大乘を有てり、妙法蓮華經と名けたてまつる。若し我に違わずんば、當に爲に宣説すべし。王、仙の言を聞いて歓喜踊躍し、即ち仙人に隨って所須を供給し、果を採り、水を汲み、薪を拾い、食を設け、乃至身を以て牀座と作せしに、身心倦きことなかりき。時に奉事すること千歳を經て、法の爲の故に精勤し給侍して、乏しき所なからしめき。
(『訓譯 妙法蓮華經 并 開結』平樂寺書店版)
ここに引用した部分は、王(=釈迦)が仙人(=提婆達多)の教えに導かれて、王の地位を別の者(=太子)に譲り、出家して仙人の下で苦行を重ねたという内容である。
ここには、世俗的な目標や欲望を捨てて、悟りを得たいという強い動機がある。
<神の御手に懐かれて>
苦しい修行によって自らを精神的に高め、神と一体化しようとする、あるいは少しでも神に近づこうとする者は昔から存在した。むろん、そうした求道ができる強靭な精神力を持った人は、社会全体から見ればごく小数である。多くの人にとっては、修行によって悟りの境地に達するというよりも、神が魂を救済してくれること、心の渇きを癒してくれて安堵できること、あたたかく護ってくれて安堵できることを、むしろ望むのではないか(求道とは次元が異なるが)。
神に護られているというのは、神の御手(みて)に懐かれ、包まれて護られているといったイメージに近い。
闇に燃えし かがり火は
炎 いまは静まりて
眠れやすく 憩えよと
誘うごとく 消えゆけば
やすき御手(みて)に懐かれて
いざや楽しき 夢を見ん (『遠き山に日は落ちて』より)
「やすき御手に懐かれて」は、別のテキストでは「深き森に包まれて」となっているが、「深き森」と「やすき御手」が相互に互換可能であるところにそのビジュアルなイメージが浮かんでくるではないか。
中島みゆきの歌には宗教的なモチーフが感じられると林晃三氏は指摘する(「誰も書かなかった中島みゆき論」 新刊出版により該当部分はウェブサイト上では現在非公開)が、神の御手に護られているイメージに合うのは「永久欠番」や「MEGAMI」「最後の女神」などだろう。
どんな記念碑(メモリアル)も 雨風にけずられて崩れ
人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう
だれか思い出すだろうか
ここに生きてた私を
100億の人々が
忘れても 見捨てても
宇宙(そら)の掌(てのひら)の中
人は永久欠番 (『永久欠番』より)
テレビでも紹介された『チベット死者の書』が、もうすぐ死す者に対して「光と一体となるのだ」と呼びかけ、死の恐怖に怯える者を安堵させるのは、死によって無に帰してしまうのではなく光(=神)の元へ帰っていけるのだと指し示すことで魂を癒せるからではなかろうか。
<現代人の心の癒し>
ところで最近の報道で大変興味深かったのは、若者がお寺で写経や座禅をするのが一種の流行になっているという現象である。静寂で薄暗い寺の本堂に入ると、天井が高くガランとしている所為か、不思議と心が落ち着く。
ストレスの多い日常生活。日常とは異質な閑とした空間に身を置き、精神統一を図ることによって日常のストレスを解消し、心を癒すのだという。都心の寺の住職はTVのインタビューに答えて、現代人の心の癒しが都会の寺に求められている役割のひとつではないかと述べていたが、同じ「癒し」といってもアロマテラピーやアニマルセラピーなど多様なセラピーの一種(one of them)というよりは、むしろより高次な魂の救済を求める動機に、無意識にではあれ、つながっているのではないかと解したい。
だが、魂の救済、心の癒しは、単にストレスや多忙のせいで求められていると解するのはやや視野が狭いだろう。あるいは、ホスピスなどにおいて死の間際にある人を安堵させればよいという対症療法ないし手法(ツール)としてのみ理解することも、本質を歪める恐れがある。
より根源的には、人間の「実存」にかかわる問題だと思うからだ。故ヴィクトール・E.フランクル博士は、現代を「生きがい喪失の時代」だという。人生の意味を見出しがたい現代においては、時代にふさわしい魂の救済の手段が必要であると主張する。生きがい喪失の象徴的な症状である「精神因性神経症」とそれに対する独自の療法である「ロゴセラピー」(意味療法)は、フランクル精神医学の真髄をなすものだといえよう。
※「精神因性神経症」とは:「随意的な病因としての実存的欲求不満が、ある場合は事実的な病因となる。つまり、ある具体例で現実に実際に神経症的疾患をひきおこすとしたら、そのとき、私はかような神経症を精神因性神経症と呼びます」(フランクル著、宮本忠雄・小田晋訳『精神医学的人間像』みすず書房、1961年)。
<苦しみからの解放>
さて宗教のもうひとつのレーゾン・デートルは、この世で生きるうえでさまざまな不幸、苦しみ、悲しみから解放され、成功をかちとることを助けるものであろう。
宗教には「幸福の宗教」(=神から選ばれたある特定の人々だけが幸福になれると説く)と、「不幸の宗教」(=不幸に苦しむ人々を救済する)があり、世界三大宗教と呼ばれるキリスト教、イスラム教、仏教は「不幸の宗教」であるが故に世界宗教(=世界規模に広まった宗教)になりえたと言われている。仏僧は、釈迦の説いた教義を人々に伝えるだけでなく、病を治し、国の安泰を念じ、不幸を取り除きながら、人々の信頼をかちえてきたのだ。一般の人々にとって、苦しみから逃れ、成功を手に入れることこそが、神仏を信じ宗教にすがる最大の動機であり、目に見えるメリットである。それは「功徳(くどく)」とか「利益(りやく)」と呼ばれてきた。人口に膾炙した決まり文句を挙げれば、家内安全、商売繁盛、学業成就、交通安全などである。正月に大勢の人が神社やお寺で厄除けや交通安全のお札、破魔矢を買い求めるのも、あるいは商店や工務店の部屋の奥に、商売繁盛を祈る祠を祭ってあるのも、五穀豊穣を願って地元の神社に奉納祭をするのも、みな現世利益を求めてのことだ。それを良いとか悪いと言っているわけではない。
私の入っている教団は、先祖供養を旨とする小規模の団体だが、本質的には上記の動機と大きな変わりはない。従っておそらくほとんどの信者にとって、入信の動機は、例えば原因不明の難病で医師から見放されたとか、商売不振だとか、家庭不和、などの困難を何とかしたいというものだと推測される。
一見、何も問題ないごく普通の家庭。危機はあるとき不意に訪れる。原因不明の難病にかかる。交通事故にあう。勤め先の会社が倒産する。失業する。子どもが受験に失敗する。非行に走る。そうした危機が、家庭内に計り知れない波紋を投げかけて新たな危機をもたらすかもしれない。
危機に追い込まれた時、たまたま知人からある教団の存在を知らされ、藁にもすがる思いで入信し、それこそ救われたい一心で、無我夢中で活動する。こんな話をよく聞く。にこやかな顔をしている人が、その背後には想像を絶する苦しみ、悲しみを抱えているのだ。誰がその一途さを笑い飛ばせようか。
<信じられるか否か>
さて問題は、ズバリ信じるかどうか、である。
教団に入信し、夢中で活動した。毎日読経し、山の修行にも行った。その後、結果として病気が快方に向かったとしよう。それは果たして、「功徳」だったのだろうか。信じる人はそうだと言い、信じない人は薬のせいだと言うだろう。
教団に入信したのに、特に変わったこともなく毎日が過ぎていったとしよう。これを、何の効果(功徳)もなかったと見るのか、信心が足りなかったと見るのか、あるいは入信していたからこそ神仏の加護があり、毎日を平穏無事に過ごせたのだと解釈するのかは、その人の自由である。入信していなかったら、あなたはトラックにはねられて事故死していたかもしれない。それを護ってもらえたからこそ、いまこうして何事もなく生きていられるのだ。信じる人は、そう考えるだろう。
ちょっとした怪我をしてしまったとしよう。それは、もう功徳がなかった、宗教なんてやっていても無駄だったということになるのだろうか。いや、信仰を持っていなかったら、それこそ命取りになる大怪我だったのを、護ってもらえたおかげでちょっとした怪我で済んだのだ、と考えることもできる。
大学受験で何とか合格できたとしよう。「私の実力よ!」と鼻を高くする人もいるだろうし、「自分でも努力はしたが、ご先祖に護ってもらえたから合格できた」と先祖に感謝する人もいる。
こういう考え方を、まったく馬鹿馬鹿しいと一笑に付すこともできる。入信していたら/入信していなかったら、というIF(もし)は、誰にも検証しようがない。だからこそ、結局は信じるのか信じられないのか、というその一点に尽きるのである。宗教の指導者は当然のことながら、「信じる者は救われる」と説く。提婆達多品には、こんな一節がある。
佛諸の比丘に告げたまわく、未來世の中に若し善男子・善女人あって、妙法蓮華經の提婆達多品を聞いて、淨心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の佛前に生ぜん。所生の處には常に此の經を聞かん。(後略)
<トップダウンとパターナリズム>
宗教は第一義的に各々の教義を通して、神仏や先祖と自分とが個々に向き合うコミュニケーション行為なのだろう。が、多くの場合同じ宗教を信じる人々は教団を形成する。この教団が他ならぬ人間どうしの共同体であることから、さまざまな問題が派生するのだろう。集団内にはさまざまな摩擦や愛憎が生まれてしまう。ついでに言えば、教団というのは指導者を頂点とした垂直的な、トップダウン型の性格を強く持っている。みんなで話し合って決めましょうといった民主主義的な組織運営は、宗教団体に限って言えば、あまり似つかわしくないようだ。
このトップダウン型の組織性格は、教団トップが教義を最もよく体現しているからという点だけに原因が求められるのではない。困っている人を救ってあげよう(=これを私たちの教団では「慈悲をかける」と称している)というパターナリズム(温情主義)とも深く結びついているように思われる。教団内で、導いた人を「親」、導かれた人を「子」と呼び、そこに擬似的な親子関係を措定し、「親」が「子」に対して熱心に面倒を見ることが強く期待されている。通常、市民社会におけるボランティア活動は、支援する人と支援される人は対等な関係であることが強調される。むろん、レスター・M.サラモンが指摘する「非営利の失敗」のひとつにパターナリズムが含まれていることは承知している。このパターナリズムは、単に支援される人(ホームレスなど)が社会的に立場が弱いからというだけではなく、歴史的に宗教団体や上流階級の人々が「慈善事業」として社会的弱者の支援をしてきた、という経緯と無縁ではなかろう。ただ、少なくとも市民社会における非営利組織はパターナリズムを当為として否定する。しかし、教団は積極的に肯定する。また、教団においては、「親」が「子」の面倒を見ることによって、「親」は単に精神的満足(という報酬)を得るだけではなく、神から現実的な「功徳」をもらえる(ことを期待できる)とされており、こうした独特のインセンティブが働いて組織が展開していく点が、市民社会における非営利組織・ボランティア活動のモチベーション管理と根本的に異なる点であると言えよう。
<西には西だけの正しさ>
集団内だけでない。集団間でもライバル関係が発生する。どの教団も自分のところが最も正しいと主張する。「ウチよりも向こうの教団のほうが正しいかもしれない」などと言う教団には、信者はおよそ集まってこないだろう。指導者が絶対の自信を持って胸を張っているからこそ、信者は安心してついていくのだ。ライバル関係は似たような教団間で発生する(代替性が強いから)のではないかと思うが、客観的にどちらの教団がより正しいのか、より優れているのかを教義から判断するのは困難だろう。どの教団でも、信じた結果こんなに功徳がありましたといった成功体験を数多くパンフレットやニュースレターに掲載しているだろう。要するに、それぞれの団体にそれぞれの正しさが用意されているのだ。
中島みゆきは歌う。
西には西だけの正しさがあるという
東には東の正しさがあるという
なにも知らないのは さすらう者ばかり
日ごと夜ごと変わる風向きにまどうだけ (『旅人のうた』より)
教団内の人間関係や、教団間の対抗関係は、社会学の研究テーマとして興味をそそられるところではあるが、ここでは話を先に進めよう。
それぞれの教団がそれぞれの正しさを訴えながら信者の拡大・教義の普及に努めているなかで、何をよりどころに判断すれば良いのか。私たちがある教団を信頼するに至った最大の根拠は、非営利・非政治であった。
金のためでもなく、権力のためでもなく、信者のために献身的に働いてくれる教団であれば、信じる価値があるのではないか。私の両親は、当時まだ幼かった私の病を治すため、そう判断して入信を決めたのであった。
<教団と社会の狭間で>
以来二十数年。長いようでもあり短かったようでもあるが、冒頭に述べた二つの問題からはいまだに解放されていない。
ひとつは、教団が持っている本来的な使命(「正しい教義を広める」と「教団の勢力を拡大する」は本来別物だが、現実には両者が一心同体となっている)と、宗教に対する一般社会の警戒心との狭間に立たされるということである。一個人の目線から言い換えれば、そうした狭間に立たされて、周囲の強い警戒の眼差しをものともせず、友人関係を失うことをも恐れず、自分の信じた「教義」を他人に堂々と説くだけの勇気(あるいは覚悟)を、どれほど持ち合わせているのか?という問いかけである。
教団の側は、もちろんそうしたジレンマを知らないわけではない。教義の中には、「正しい」宗教だからこそ一般社会からの無理解や迫害、弾圧に苦しめられるものだ、そこを乗り越えて布教するところに高い価値があるという理論が組み込まれている。宗教指導者が時の権力者から迫害を受け(=「法難」と呼ばれる)ながら布教に粉骨砕身努めた、という「物語」が信者に繰り返し繰り返し語られ、布教の鑑として崇められることになる。
仏教は、現代を「末法」の世(仏法の通用しない、恐るべき時代のこと)だと規定している。そうした時代にあって、仏の教えを堅持し広める行いは実に難しく、またそれであるが故に尊いのだという。妙法蓮華経の見寶塔品(けんほうとうほん)には、その難しさが面白い比喩で譬えられている。例えば、足の指で大地を蹴って、土地を遠くに投げることは難しくないし、乾いた草を背負ったまま火中に入っても焼かれないでいることも、べつに難しいことではない。しかし、仏が亡くなった(=入滅)後に仏法を広めることはそういうことよりずっと難しいのだ、という。
若し足の指を以て 大千界を動かし遠く他國に擲んも 亦未だ難しとせず
若し有頂に立って 衆の爲に無量の餘經を演説せんも 亦未だ難しとせず
若し佛の滅度に 惡世の中に於て 能く此の經を説かん 是れ即ち難しとす
假使人あって 手に虚空を把って 以て遊行すとも 亦未だ難しとせず
我が滅後に於て 若しは自らも書き持ち
若しは人をしても書かしめん 是れ即ち難しとす
若し大地を以て 足の甲の上に置いて 梵天に昇らんも 亦未だ難しとせず
佛の滅度の後に 惡世の中に於て 暫くも此の經を讀まん 是れ即ち難しとす
假使劫燒に 乾ける草を擔い負うて 中に入って燒けざらんも 亦未だ難しとせず
我が滅度の後に 若し此の經を持って 一人の爲にも説かん 是れ即ち難しとす(後略)
また、ここには引用しないが、普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)には、仏が亡くなった後の時代(=「如来の滅後後の五百歳」)に仏法を堅持する者は、普賢菩薩がこの者を加護するとまで述べている。
もちろん、いまから二千数百年前に教えを説いたお釈迦様が現代日本の状況を具体的に指して述べているのかどうかは分からないが、宗教を広める営みは困難に満ちているという指摘そのものはかなり当てはまると思われる。
<相手の弱みに付け込むのか?>
しかし、問題はそうした一般論にとどまらない。もっと具体的に、どういう人に入信を勧めようとするかをイメージしてみれば分かる。魂の救済や心の癒しではなく、現世における現実的な功徳を目的にしていることから導き出されるように、病や怪我や商売不振や家庭不和などで苦しんでいる人、弱みを持っている人が主な対象となる。
私たちの場合のように、藁にもすがる思いで入信する人も少なくない。だが、そういう弱みを持った人には、いろいろな方面から宗教の誘いの手が既に伸びていることも多い。また、以前別の宗教に入って嫌な経験をして、もう宗教などはこりごりだ、と思っている人も少なくないだろう。誘う側の善意はともかく、苦しみや弱みを持っている人は、弱みに付け込んでくるのではないか、教団の勢力拡大のいいカモにされるのではないか、と警戒心をいだきがちだ。
私の乏しい経験でも、こちらが宗教の話をチラッと匂わせただけで、びしっと先手を打って断られたことが何度もある。それっきり、人間関係そのものが壊れてしまった。あの時に宗教の話をしたばかりに……。何度そう思ったことか。
私自身、相手の弱みに付け込もうとしているような、何となく後ろめたい気になってしまう。別に金品をたかろうというのではない。不純な動機など一切ないのに。相手のためになればと願っているのに。それなのに、この後ろめたさはいったい何なのか。
では、特に弱みのない人にならば、宗教を勧めても良いのではないか? 確かに後ろめたい気にならずに、誘いの言葉をかけられるのかもしれない。しかし、切実な悩みや苦しみのない人に、宗教への確たる動機などあるのだろうか? それよりもむしろ、宗教の誘いなどをしてせっかくの人間関係を台無しにするリスクを考えると、やはり臆してしまうのだ。単なる臆病者の言い訳にしか聞こえないかもしれないが。
自分自身が信じていないというわけでは全くない。しかし、他人にドンドン勧められないというのは、宗教へのアイデンティティが少なからず揺らぐことにつながる。冒頭に述べたように、自分にとって宗教とは何なのか、という問いに未だに自信を持って確たる答えを出せないでいるのは、そのためである。
<開かれたコミュニケーションの機会を>
もうひとつ感じる問題は、仏教の教義を深く学ぶことがないため、仏教とは言ってもその教義を他人に説明できるほど知ってはいないということである。それは恐らく、新興宗教が多くの人々を組織化するために、教団の教えを非常に簡素化していることと、深く結びついているのではないか。前述のカレル・ヴァン・ウォルフレンは次のように指摘する。
新興宗教のもっとも際立った特徴は、いとも簡単に蓄積したように見える巨富のほか、教義が極端に簡素化していることである。信者や会員が既に信じていること以上の信条が実質的にあるのだろうかと思わせる。どの教団もとり立てていうほどの価値ある教義を発達させず、信者、会員に対して哲学的な指導、ましてや政治哲学的な指導をおこなってはいない。(前掲書、86ページ)
あまりに簡単な教義と、「頭で理解しなくてよい(どうせできない)、まずもって(言われたとおり)行動すべし、そうすれば結果は後からついてくるよ」といった、信者の尻をバンバン叩くような姿勢が、新興宗教に対する一般社会の警戒心の一因になっている可能性も否定できない。
教団と一般社会の開かれたコミュニケーションの機会が、もっと必要だ。そうでない限り、教団と一般社会との軋轢の狭間に立たされた信者の悩みに終わりはない。
<自分が何をほんとうに信じるのか>
最後に付け加えて言えば、私は自分自身の宗教を持ちながらも、基本的に宗教に対してはどこまでもリベラリストでいたいと考えている。その宗教が明らかに反社会的でない限り、他の人はそれぞれ自らの信じる宗教を持てばよいし、意に反して無理に信じる必要など全くない。夫婦間あるいは親子間で異なる宗教を信じてもいっこうにかまわない。現に、そういう家庭も少なくない。信仰というのはすぐれて個人の内面の問題であり、他人に強制・強迫されて行うものでは全くない。
そして、場合によっては、宗教と教団とを切り離して考える必要もあるということだ。信仰を持つこと、ある宗教を信じることと、ある教団にロイヤリティを持つことは、必ずしもイコールではない。宗教を信じるが、教団のやり方に納得いかずに脱退し、個人単位で祈りを続けることももちろん可能である(もちろん実例もある)。
こんなことは、至極当たり前の基本と思われるかもしれないが、時として失念しがちな基本でもある、と自戒を込めて思う。そして、自分が何をほんとうに信じるのかという問いを、常に心の中にとどめておきたい。
※お断り 本文中に用いた写真はいずれもイメージ写真であり、本文の内容と直接関係のあるものではありません。
●出席をとる!
2004.1.12
私は、ある大学で教員をしている。これから大学は期末試験のシーズンに突入。いつも試験のシーズンになると、学生の成績をどのように評価すべきかを考えさせられる。
○「成績」って何?
成績のつけ方は、教員によってさまざまだ。試験。レポート。出席。小テスト。平常点(これが曖昧でよく分からないが、授業中の態度を指すのだろうか)。などなど。
手法はいろいろあるが、これらはいったい、どんな要素を評価しているのだろう。
試験というのは、知識や能力を測っているようにみえる。レポートや出席、平常点は、授業への参加や努力の程度(すなわち態度)を測っているようにみえる。でも、試験の際に、教員の執筆した教科書だけ持ち込んでいいとか、自筆のノートだけ(コピー不可!)持ち込んでいいというルールを設ける教員もいるようだが、これはいったい何を測っているのだろう。小テストを出席代わりのように抜き打ちで行うのは、純粋に知識や能力を測っているのだろうか?
成績をどのように評価するか?ということは、教員が学生に対して送る"メッセージ"なのではないか。学生の皆さんに対して「こうしてほしい」という要求が成績評価の方法に具体化されているのだと思う。
たとえば、試験で持込を認めるかどうか?ということもメッセージのひとつ。持込を認めないというのは、表面的には、試験前夜に重要事項を暗記して来いというメッセージ。短時間に暗記できる量には限りがあるから、学生はせっせと教科書のキーワードを頭に詰め込んでくるだろう。試験監督は、どこかにむなしさを感じながら、学生がカンニングしていないかどうかに注意深く目を光らせなければならない。そして試験終了直後、学生の記憶はリセットされてしまうのだろうか。学生に自分の頭で考えてほしいと願う私は、レポートで「(他人の意見の丸写しではなく)自分の意見を述べなさい」という課題を出す。丸暗記などは試験が終われば忘れてしまうが、自分で考えたという経験は、将来いつかきっと役に立つ。レポートの課題を通じて、私はそういうメッセージを送っているつもりだ。
○出席をとるべきか?
出席を取るというのは、とにもかくにも授業に出て来いという強烈なメッセージだ。どんなに知識があり、思考能力が抜群であっても、一定時間教室に身を置いていないと高い評価を与えない。逆に、授業の内容があまり理解できなくても、毎回きちんと出席していれば、比較的よい成績を得ることができる。
私自身が学生だったころ、体育や語学などいくつかの授業では出席を取っていた。しかし、教室に身を置いていたとしても、授業を聞いている保証はどこにもない。何か別のことを空想していたり、居眠りしていたり、ノートの端に落書きしたり、携帯のメールを打ったり、友達とおしゃべりしたり。
出席を取るとなると、当然のことながら、出席票を提出することを唯一の目的に、授業に出席する学生も出てくる。授業がつまらなかったら、机の上に突っ伏しているか、内職にいそしんでいればいいのだ。教室の中は、騒がしくなって落ち着かないかもしれない。
出席を取ることによって、多くの学生が教室に座っていて、まじめに勉強しているように見えるかもしれないが、それは見かけ上だけのこと。
学生を馬にたとえては失礼かもしれないが、「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」(You may take a horse to the water, but you can't make him drink.)ということわざが教えるとおりだ。
○出席を取るのは楽ではない
出席をとる作業は、教員にとっても決して楽ではない。一人一人に出席票を配る。束をまわすと、一人でゴソッと持ち帰り、他の授業で"流用"するかもしれないからだ。回収した出席票をチェックして、一覧表に丸をつける。大量にいると、丸付け作業だけでかなりの時間を要する。その上、「公欠」「病欠」がある。公欠とは、何らかのやむをえない事情で授業を欠席したため、出席扱いにする措置をいう。病欠は本人の病気や怪我による欠席で、これもやむをえないということで出席扱いにする。……体育会の試合がありました。結婚式、葬式、法事がありました。田舎のおばあさんが倒れて看病に行きました。風邪を引きました。腹痛で休みました。ゼミの合宿に行きました。工場見学に行きました。企業の就職説明会に参加しました……等々。
試合とかゼミ合宿などは、責任者がしたためた「公欠願い」を提出される。私がそういう文書を作る立場になることもある。そういう文書があればまだいいほうで、そういう証拠がない場合も多い。風邪を引いて自宅で寝ていたというのは、疑ってかかれば仮病かもしれないということになる。風邪といいながら本当はディズニーランドに友達と遊びに行ったのかもしれないとか、疑い始めるときりがない。私自身も、(架空の)叔父さんの法事があると偽ったことが過去にあった。
私は、学生が「公欠」「病欠」を申し出たときは基本的に信用しているが、出席の管理は実に面倒極まりない。できることなら出席管理など全部投げ出したい。
○出席を取らないと学生は勉強しないのか?
波多野誼余夫、稲垣佳代子共著『知的好奇心』の「はしがき」には、興味深いエピソードが記されている。やや長くなるが、引用をお許し願いたい。
「数年前のことだが、当時開設されてまもなかったD大学では、すべての授業で出欠をチェックすることになっていた。個々の教師に任せておいたのでは徹底しない恐れがある、というので、教務課の職員がいちいち教室にきて、出席カードをくばり、記入させる、という方法をとった。このくらい厳しくしないといまの学生は勉強しない、と考えたからである。
欠席が授業回数の3分の1をこえると受験資格を失うということだったから、大半の学生は確かによく教室に出てきていた。この『厳格な』方針は正しいように思われた。ところが、徐々に困った問題がおきてきた。
学生はどうも、勉強するためにではなく、ただ出席カードに名前を書くために登校している気になったらしい。それにあわせて遅れてくる。授業のはじめごろに出席を取ると、『脱走』する者が跡をたたない。教師が学生に背を向けて黒板に何か書いている間に、数人ずつ姿を消してしまう。もう授業に用はない、というわけである。
そこで、この大学では、『脱走者』をチェックしようということで、ときどき二度出席をとる、ということにした。授業をしている側からいえば、せっかくもりあがったところで二回も中断されるのは苦痛だが、大学の方針とあればやむをえない。
しかし、これもたいして効果はなかった。二回目の出席をとり終わった後では、もっと大勢がいなくなった。あるいは、二回の出席点検の間数十分間、『用を足して』くる学生もいた。
それでとうとう、外からカギをかけたら、という案まで出された。これはさすがに実行されなかったが、もしやったとしても、果たして学生に『勉強させる』うえで役立ったかは疑わしい。数十人、数百人も一教室につめこめば、一人一人がちゃんとノートを取っているかどうかさえわからない。私語を禁ずることもむずかしい。まして、彼らが真剣に『考えている』かどうか、ということになれば、もうお手上げだからである。(後略)」
(波多野誼余夫、稲垣佳代子共著『知的好奇心』(中公新書)中央公論社、1973年)
必要なことは出席などで無理やり学生の行動を縛り付けることではなく、むしろ授業の内容に対する知的好奇心を高めることであり、知的好奇心を刺激されれば、人間は強制されずとも自発的に学ぼうとするものである、と波多野と稲垣は主張する。
この本が書かれたのは30年以上も前だが、出席の問題は現在に至るもあまり進展が見られないのではないだろうか。
私が担当する授業の中で、出席を取らねばならない(あるいは出席を取ることが強く指導されている)授業と、そういう制限がない授業とがある。出席を取らなくてもよい授業については、私は一切出席をとらないことにしている。
出席を取らないと、学生は教室からいなくなってしまうのだろうか。実際には、そんなことはなかった。もちろん、履修登録している学生全員が出席するということはないが、毎回一定の人数の学生が出席している。それに、学生から提出されたレポートを見る限り、それぞれに関心を持って調べ、学んでいることもわかった。
社会学者の野村一夫氏はウェブサイトで、出席についてこう語っている。
「社会学者が暗黙のうちに作法の原理としているのは『反省』なのである。これを踏み外すと、高い評価は受けられないはずである。だから評価も出席や温情でなくことばによってのみなされる。出席はことばではない。出席をとろうとしない社会学者が多いのはこのためである(出席をとる社会学者も諸般の事情で仕方なくとっているものだ)。」(出典: 野村一夫「社会学の作法・初級編【改訂版】」 )
私自身も「出席をとろうとしない社会学者」の一人であろう。
○大学生はもはや子どもじゃない
出席で縛られるなんて、高校までで十分ではないか。大学生はもはや子どもではない。今この時間をどう有意義に使うかは、本人の自己責任に任されるべきものであって、授業に出るのは時間の無駄だと学生本人が判断すれば、出なくても別にかまわないし、それについて大学や教員がとやかく口を出すことでもないだろう。
大学生の多くは10歳代末から20歳代はじめにかけての多感な青春期を過ごしている。彼らにとって大学の4年間は、いろいろと思索にふけったり、友人と経験を共有したり、社会体験を積んだりして、社会への視野を広げ将来への基礎を築く貴重な時間だ。その貴重な時間を、興味のもてない授業に費やさざるを得ないのは不幸なことである。大学を卒業してから、あのときにもっとまじめに勉強しておくべきだったと後悔するかどうかは本人次第だが、基本的には本人の判断を尊重すべきではないか。
もちろん、毎回きちんと授業に出てくる学生は教員にとっては扱いやすい「良い子」で、ひいきにしたくなる気持ちも、分からないでもない。
学生にアンケートをとると、出席をとらないことに対して学生の評価は賛成・反対の2つに分かれる。まじめに出席している学生にとっては、「自分はこんなに努力しているんだから、それを評価してよ」「サボっている学生と一緒にされたくない」という気持ちなのだろう。そういう気持ちも、分からないでもない。
でも、大学生にもなって、なぜ態度を管理・評価されなくてはいけないのだろう。もっと自由でいいのではないか。
以前、出席一覧表についたインクのしみを学生が見つけて、不安を催したことがあった。
たまたまその学生の欄にインクのしみがついていたので、インクのしみを「授業中の態度が悪かったということで、ひそかにマイナス点をつけたのではないか」と誤解したようなのである。私は、教室にいる数十人の学生の名前を全員覚えているわけでもないし、ましてや授業中の態度をひそかにチェックしているような余裕もない。不安に駆られたその学生には、何かやましいところがあったのかもしれないが、私が問題だと思うのは、授業中の態度まで評価のまなざしにさらされていると学生が感じていることである。
小学校教育において「態度」が評価の対象に含まれることになったとき、社会問題としてマスコミにも取り上げられ、一部の良識ある人々から、内面の自由まで束縛し支配するものだという強い懸念が出された。それよりはむしろ、学力テストでのみ測ったほうがずっとましだと。
態度評価が大学教育にまで及びつつあるのか、学生の心性がそういう方向に向かっているのではないかと心配である。
○どうすれば知的好奇心を刺激できるのか
出席票に頼らずに、どうすれば学生が自主的に学ぼうとするのだろうか。波多野や稲垣が指摘するまでもなく、知的好奇心を刺激することだ。そのことに誰も依存はないはず。
ではどうやって?大学教育改革が叫ばれている。これまで大学教員は研究重視で、教育は片手間仕事、というのが常識だった。それが幸か不幸か、学生の数が減少し、大学間で学生の獲得競争がますます熾烈になる中で、教育面の見直しがようやくスポットライトを浴びるようになってきた。FD(Faculty Development)が流行り言葉になり、"FD"といえばいまやフロッピー・ディスクではなく授業内容の改善を意味するようになった。私が勤務する大学でも、学生に授業アンケートをとる試みを今年度始める。また、私が卒業した大学では昨年、学生自身が授業アンケートの結果をランキングにして学生新聞に公表し、マスコミにも大きく取り上げられた。教員を競わせるのはいかがなものかとか、学生に迎合するだけだという慎重論もある一方で、学生を顧客と捉えてサービス改善に努めるのは当然だという積極論も少なくない。またある私立大学では、アンケート結果を人事考課に反映させようとしているそうだ。私自身は、教員間のランキングや人事考課への反映はあまり良くないと考えるが、授業内容の改善に向けた取り組み自体は積極的に行われるべきだと思う。
基本的に大学教員の場合、授業内容の改善を集団的に試みることはなく、個々の教員が自己流に努力するだけである。教員間の経験交流や、先輩から後輩への指導・助言といったものもない(私の経験の範囲内では)。私の勤務する大学では昨年、FDの一環と称して、新人の教員を集めた講演が1回あったようだが、はたして偉いさんの演説を聞いて授業が改善されるのか、私は疑問が残る。
大学教育改革をテーマにした本が近年いくつか出版されているし、テレビ番組でも取り上げられている。
たとえば2001年11月15日(木)22:00〜22:45にNHK教育で放送した「ETV2001 こんな学校に行きたいC」は大学教育改革をテーマとし、教員と学生が毎週のように頻繁にレポートのやり取りをして双方向のコミュニケーションを図ったり、授業に小道具を持参してクイズをして興味をひきつけるという事例を紹介していた。誰もがこの真似をすればよいということではないだろうが、ひとつの方法として参考にはなる。
現場の生の声を聴きたいという学生の要望がある。外部からゲスト講師を招いて話してもらうのもひとつの方法だ。私も何度か試してみた。学生からは、面白かったというアンケートの回答も多かったが、授業のねらいとゲストの話がかみ合わないという批判も少なくなかった。もちろんゲストとは事前に打ち合わせをして、授業のねらいなどは説明するのだが、ゲストはあまり話し慣れていないことも多く、自分の所属する団体の宣伝に力を入れたり、関係ない話しに時間を費やしてしまうこともある。ゲストを呼ぶことは意外と難しいと痛感した。
学生に、いかに興味を持ってもらえるか。興味さえもてれば、後は自分で調べるだろう。試験で知識を丸暗記させる必要などない。出席票などに頼らずとも、「面白いからあの授業に出てみよう」と学生に思わせるような授業を、どのように組み立てたらよいのか。毎年試行錯誤の連続だが、経験を積む中でみずから答えを見つけ出していかねばならないのだろう。
中島みゆきの歌を聴き始めて、はや2年
2003.9.4思い起こせば、今から2年ほど前、厚木に向かう車中のカーラジオから、「ひとり上手」が流れてきたときに、なんとなく印象に残ったのがそもそものきっかけだったような気がする。
もちろん、ずっと前から、中島みゆきの名前は知っていたし、「時代」や「悪女」といった代表的な歌は聞いたことが何度もあった。だが、かくべつ興味を持ってはいなかった。中島みゆきは、私の頭の中でずっと「悪女」の歌のイメージとだぶっていた。
大学入学した直後に行った新入生合宿。無事に入学できた喜びと解放感で、夜の大部屋では相当ドンチャン騒ぎが盛り上がっていた。そのときクラスメイトのB君は、自分はみゆきファンだとみんなの前で宣言し、空き瓶をマイクに見立てて「悪女」を大声で歌った。そのときの私の印象は、「フーン、変わった人がいるもんだな」という程度だった。その程度ではあったが、不思議なことに、今でもそのときの光景が鮮明に思い出される。
ずっと時代は下り、カーラジオで聞いた「ひとり上手」が心に引っかかっていた私は、いつかCDを1枚くらい試しに買ってみようかな、という気になった。
だいぶ経ってから、ある日の気まぐれでCDショップに立ち寄り、そういえばと思い出してたまたま手にしたのが、ベストアルバム「大吟醸」だった。その中には、いつか聞いた「悪女」も、そして「ひとり上手」もあった。
その夜、「大吟醸」を聴いたときのあの感動は忘れられない。収められている14曲のうち、特に聴いて涙が止まらなかったのは「旅人のうた」だった。「旅人のうた」(Wanderer's Song)は、日本テレビ系ドラマ「家なき子2」の主題歌であり、チャート1位を記録したヒット曲であるということは、じつは後になってから知った。 ______
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「旅人のうた」に心をうばわれたのは、この歌で歌われている「旅人」を、自分自身に見ていたからかもしれない。「旅人」の英訳はtourist(観光客)ではなくwanderer(さまよい歩く者)だが、要するに自分の居場所、帰るべき巣が見つからずにさまよう"かもめ"のような存在である。じっさい、中島みゆきの歌には、あてどもなくさすらう者を"かもめ"にたとえた歌も少なくない。
いまでも、彼女の歌の中で一番お気に入りの曲は、ずっと変わらず「旅人のうた」である。
「大吟醸」のすべての曲が気に入ったわけではなかったが、「旅人のうた」や「誕生」に感動した私は、どうしてももう一枚CDを買ってみたくなった。それまで、CDではほとんどクラシック音楽ばかり聴いていた私としては、きわめて異例のことだった。意を決して2枚目に買ったのは「大銀幕」という、これもベストアルバムだった。気に入った歌は何十回と飽きることなく繰り返し聴いて、次から次へと歌詞を憶えた。
こうして、いつの間にかすっかり彼女の歌にひきつけられて、少しずつCDが増えていき、今では20数枚になった。まだ手に入れていないCDもかなりある。
一気に全部買ってしまうというのは、もったいない。楽しみは後に少しでも残しておきたいから。
1枚のCDアルバムにたいてい10曲前後が収められているが、それらすべてに感動できるかというと、実際はそんなことはない。中には、どうしても好きになれず、1回聞いたらもうたくさんだ、というのもある。本当にいいなあ、何度でも聴きたいなあと思える歌は、1枚のCDの中でせいぜい2〜3曲程度か。好きになれる歌が1曲もない場合だってある。
たった2〜3割なのでもったいないとか、買って損したとかは、思わないようにしている。1曲でも気に入った歌があれば、その歌と出会えたというただそれだけでじゅうぶん、元は取れている。
どこかの街角で、たまたま中島みゆきの歌を聞くことがある。先日、盛岡に行ったときに、土産物屋さんの店内で「浅い眠り」がBGMとしてかかっていた。私は思わず「おお」と声を上げていた。また、職場のすぐ近くの中華料理屋さんに、お昼を食べに行ったとき、「銀の龍の背に乗って」が聞こえた。あいにく、勘定を済ませて店を出ようとしていた時だったし、昼時で混んでいたので、残念ながら聞き続けることはできなかったが。
近所の商店街を歩いていると、時々「地上の星」がかかっている。ファンの端くれとしては、やっぱりうれしい。
普段はさっぱり見ない紅白歌合戦。でも昨年のだけは別だった。瞬間的に驚異的な視聴率を記録したとかいう、黒部ダムからの生中継「地上の星」は、もちろんしっかりと見た。歌詞間違いはご愛嬌のうち。なにしろ、テレビで見ることなどめったにできないから。このおかげで「地上の星」はオリコンのチャート1位になり、CDショップには「地上の星」「ヘッドライト・テールライト」の入ったCDが天高く積まれていた。中高年サラリーマンに受けているらしい。「わしらの応援歌じゃ!」といったところか。 ある人に「中島みゆき? ああ、最近『地上の星』で有名になった人でしょ?」と言われたことがあった(あのぉ、『地上の星』のはるか前から、ずっと有名だったんですけど……)。ちなみに私は、「地上の星」も好きだが、静かに語りかける「ヘッドライト・テールライト」(プロジェクトXのエンディングテーマ)のほうが好きだ。特に3番の「行く先を照らすのは まだ咲かぬ見果てぬ夢 はるか後ろを照らすのは あどけない夢」は感動的な歌詞だ。
今年から日本放送(ラジオ)で始まった10分番組「中島みゆき ほのぼのしちゃうのね」は、しばらくの間聞いていた。とはいっても、平日午前の10時に自宅にいることなどめったにない。夜に帰宅してから、MDに録音しておいたのを聞きながら、思わず笑ってしまった。いちいち録音するのが面倒なので、これは長続きしなかったが、歌っているときとまるで別人格のような話し方に衝撃を受けた。読者から来たお便りの読み方やコメントの仕方は、じつにうまかったが、それよりも歌のシリアスさと打って変わったひょうきんなおしゃべりに驚いた。まるで別人。なるほど、これがうわさには聞いていたDJの中島みゆきなのか!
私よりずっと上の年代のファンは、ニッポン放送「中島みゆきのオールナイトニッポン」(1979〜1987年)を知っている。だから、DJのときと、歌のときと、どちらが本当の中島みゆきなのかとか、中島みゆきは明るいのか暗いのか分からないとか、いまだにそういったことをいう人もあるようだ。 私はオールナイトニッポンを知らない世代だ。
筋金入りのみゆきファンのなかには、1日も欠かさずオールナイトニッポンを聞き続けた人もいるらしい。うーん、私はそこまではできない。
7月に始まったフジテレビ系の連続ドラマ「Dr.コトー診療所」は、始まるのがじつに待ち遠しかった。6月の初め頃に新聞記事で紹介されてからすぐに録画予約。ドラマの初回だけはとにかく夜の予定をすべてキャンセルして、5分前からテレビの前にしっかりと陣取っていた。自分の服にアイロンをかけながら、「いつ主題歌が始まるんだろう?」それだけに耳を傾けた。番組の最初に聞けるのかなと思っていたが、結局、"銀龍"はドラマの最後にようやくご登場。1ヶ月以上待ち望んだ歌をようやく聞けた。
"銀龍"こと「銀の龍の背に乗って」は、ドラマの製作者が「人物のスケールの大きさ」で中島みゆきに白羽の矢を立て、歌の書き下ろしを依頼したという。彼女の生家が産婦人科であったことや、実弟が勤務医であることなど、医者と縁の深いこともあってか、彼女は依頼を快諾し、久々に新曲を書き下ろして発表した。
録画しておいたので、最後の主題歌の部分だけは何十回も繰り返し再生。しかし、何度聞いても、よく聞き取れない歌詞が2〜3ヶ所ある。しばらくの間は、「何て言っているのだろう?」がずっと気になっていた。
疑問は、"銀龍"のCDが我が家に届いてようやく解消した。その代わりといっては何だが、その後、ドラマそのものはすっかり見なくなってしまった(視聴率の点では、民放のなかで堂々の1位を誇っている)。
@niftyのパソコン通信には、FMIYUKIという、ファンのためのフォーラムがある。そこの投稿をのぞいてみると、"銀龍"を聞くのを同じように待ち望んでいたファンが少なからずいることに気づき、思わず笑ってしまった。フォーラムのある会議室ではしばらくの間、「銀の龍」が何を意味しているのか?という話題が盛り上がっていた。ある人は「自転車だ」と推測した(ドラマの最後に主人公の五島が自転車を飛ばしている風景が映し出されるから)。またある人は、自転車が走っている島の一本道ではないかと言う。さらにある人は、島を囲む海のさざなみが龍のうろこに見えるといい、別の人は島と本土を結ぶ船こそが銀龍ではないかと感じた。真相は不明だが、なかなか想像たくましい人たちだ。
上記のフォーラムでやり取りする人たちはもとより、みゆきファン(みゆキスト)はかなり多いらしい。それも「筋金入り(!)」のファンが。
ファンのためのウェブサイトもいろいろある。ヤマハのオフィシャルサイト「でじなみ」、ファンクラブのサイト「なみふく」、「中島みゆき研究所」などなど。林氏の「独断的中島みゆきベスト200曲」は、好き嫌いの順位はともかくとして、今度どのCDを聞こうかと検討する際に大変参考になる。
中島みゆきにかんする評論や著名人との対談集、本人の執筆した童話や詩集、『夜会』の解説など、本も何冊も刊行されているが、いまでは大部分が絶版・品切れとなっているようで、手に入らない。落合真司氏の『中島みゆき・円環する癒し』(青弓社、2001年)が、私が唯一読んだ本だ。これを見ると、なるほどファンというのはこういうものなんだな、と改めて感心した。相当のファンだと、CDを全部そろえているのは言うに及ばず、コンサートや『夜会』は欠かさず見に行き、安くない会費を払ってファンクラブに加入し、フォーラムにせっせと投稿し、みゆきグッズを買い揃える、のかもしれない。
私などにはとても、まねできそうにない。
ただ、一度でいいから、コンサートや『夜会』を見に行きたいとは思う。CDやビデオも悪くないが、生演奏や芝居を間近で見聞きするのはやはり迫力が違うだろう。落合氏の前掲書によれば、『夜会』はずいぶん難しいらしい。こんなくだりがある。
「『夜会』は難解になりすぎている。言葉や表現にこだわりすぎているというより、きわめて伝わりにくい方法をとっているのだ。」
「『夜会vol.11ウィンター・ガーデン』で槲の樹影を演じた波吉雅之が、『果たしてお客様にそれが判るのかと思うほどのこだわり』というように、そのこだわりこそみゆきの魅力であり、同時に難解さという副作用でもあるのだ。その『夜会vol.11』では、筋金入りのみゆきファンから、難しくてわかりにくかったという感想を私は多数聞いた。」
多分、私などが見てもさっぱり理解できないかもしれない。が……
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どうしようもなく気持ちが落ち込んだとき。すっかり自信をなくしたとき。寂しさにくれているとき。疲れきっているとき。気が塞いでいるとき。泣きたいとき。誰かに励ましてほしいとき。そんなとき、中島みゆきの歌はいつも私を力づけてくれる。
私の友人は、「落ち込んでいるときに暗い歌を聞いたら、ますます落ち込んじゃうよ」と言う。人によって感じ方はさまざまなのかもしれないが、私の場合、落ち込んでいるときやさびしいときは、楽しく華やかな歌がそらぞらしく聞こえてしまう。落ち込んでいるときは、私といっしょにどこまでも落ち込んで、地の底まで付き合ってくれる歌がいい。それではじめて、歌に共感できるのかもしれない。
誤解のないよう付け加えておけば、中島みゆきの歌は単に暗い歌だと言っているわけではない(そういう俗説があることは承知しているが)。また、単なる「癒し系」に分類できるわけでもない。大所高所から説教したり、むやみに「がんばれ」と叫ぶこともない。
まずは、私の悲しみや傷つき、寂しさ、落ち込みに徹底して寄り添ってくれる。「そうだね、つらいよね」と分かってくれる。その上で、わずかに光が見える出口に向かって、暗いトンネルの中を、手をとって一緒に歩き出し、励ましてくれる。そう、「癒し」というよりも「励まし」といったほうが、私の感覚にはぴったりくるのだ。永遠の代表作とも称される「時代」をはじめ、デビュー作の「アザミ嬢のララバイ」、「歌をあなたに」、「泣きたい夜に」、「裸爪のライオン」、「ファイト!」、「誕生」、「瞬きもせず」、「永久欠番」、「Tell Me, Sister」、「私の子どもになりなさい」などなど、挙げればきりがないほどだ。
これからも、彼女の感動的な歌と出会えることを心から待ち望んでいる。
羽根木公園をぶらぶら
2003.7.27今年はなぜか、梅雨のあけるのが遅い。ここしばらくの間、太陽を見ていなかったような気がする。
今日は久しぶりに朝から晴れ間がのぞいた。なんとなく、心が弾む。久しぶりに、近くの公園を散歩した。
昼過ぎ、自宅近くの羽根木公園に足を伸ばす。ときどき、この公園をぶらぶらと散歩している。
予想通り、公園の東口付近は小さい子を連れた親子連れでにぎわっていた。アイスクリームを1個、公園内の小さな売店で買い求め、それをなめながらプレーパークをながめる。
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羽根木公園のプレーパークは、しばしばテレビでも取り上げられるなど、全国的に有名なところだが、別にそれほど広々としているわけではない。ただ、そのプレーパーク内では、いつも子どもたちが楽しそうに遊んでいる。
今日は、滑り台の着地点に池がしつらえてあって、滑り台の上には水が流されていた。子どもが滑り台を滑ると、最後に池にボチャン。このボチャンが気に入って、何度も何度も子どもたちがパンツひとつで滑り続けていた。
その他、樹の幹から吊り下げられた巨大ブランコも人気が高い。子どもがブランコに乗って、後ろからお父さんやお母さんが背中を押して勢いをつける。うーん、これは迫力あるなぁ。
プレーパークには、「自分の責任で自由に遊ぶ」という原則がある。禁止項目をたくさん設けて縛るのではなく、子どもの自主性を最大限尊重し、信頼する。もちろん、単なる野放しではなくて、プレーリーダーが火の取り扱いや遊具などをしっかり管理していることが前提となっているのだけれど。
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まだ本格的な夏の到来ではないが、プールにも親子連れがたくさん。泳ぐというよりもバチャバチャの水浴び。あちこちから黄色い歓声が上がる。いかにも涼しそうで、見ているだけで気持ちいい。
プールの隣の野球場では練習試合(?)。私は野球を見てもあまりよく分からないが、バックネット裏にも観客が5〜6人観戦。知り合いや親戚が選手になっているのだろうか?
犬と散歩している人、林の中のベンチで昼寝している人(とても気持ちよさそうだった)、ジョギングしている人、おしゃべりに興じている人、サッカーをする人など、それぞれ思い思いに日曜の午後を楽しんでいる。
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私自身は、うっそうとした林の中をぶらぶら歩くのが好き。空気がおいしいし、雑然としたものが視界から消えて、気持ちが落ち着くからだ。時間があれば、そこでいつまでも過ごしていたい。時間がなく焦っている時は、目の前の葉っぱに気づかない。
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3・8ピースパレードへの参加
2003.3.8<グリーンピース・ジャパンの全面広告をみて>
3月8日(土)は、 全日の雨がうそのように、穏やかに晴れわたった。風は強かったが、温かくアウトドアにはもってこいの日和である。
この日に日比谷公園で、イラク攻撃反対集会とデモ行進「ピースパレード」が予定されていることを知ったのは、3月3日の朝日新聞朝刊に載った全面広告によってである。
この全面広告はグリーンピース・ジャパンが出したもので、同じものがウェブサイトにも載っているが、これはなかなかよく考えられている。感心させられた。
どんなところがすごいかというと、第一に、全面広告がそのまま、デモ行進の際のプラカードになるように作られているのだ。「NO WAR」「わたしはせんそうに、はんたいです。」と大書してあるこの新聞紙プラカードに「ぬりえ」をしてくれと書いてある。参加者は思い思いの色を塗って、個性豊かなプラカードに仕上げる。
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プラカードの内容や文言は統一されつつ、参加者の個性もあふれているという点では、実によくできている。さらには、プラカードの作り方(マニュアル)が手取り足取り、実に丁寧に書かれている。実際、会場に行ってみると、傘を取手にするところまで、このマニュアルに忠実に作っている人が多いことに気づいた。第二に、これまでこうしたデモ行進とか集会に参加したことのない人々にも、気軽に参加できるようにという心配りが見られることだ。広告の冒頭には「3.8ピースパレード行ってみない? これ持って。」とあって、広告の下方には「ピースパレードに行こう〜はじめてのピースパレード入門〜」とある。これを見ると、それほど堅苦しく考えないで、気軽に参加してみようかな?という気にさせられる。実際、会場では、今回初めてこうした集会に足を運んだという人が少なくないようだった(周りでのおしゃべりから)。私自身も、何を隠そう、その一人である。
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第三に、戦争反対の理由を「せんそうは最大の環境破壊だ」と明確に述べながらも、多くの人が賛同できる最大公約数的な表現にとどめ、先鋭化を避けていることだ。あまり先鋭化してしまうと、「ついていけない」と感じたり、「過激派か?」と警戒心を抱いたりして、一般の人は引いてしまう。やはり「戦争は人が死ぬことだ」「戦争で環境が破壊される」という最もシンプルな訴えで多数の人々を糾合したほうが上策である。この集会とデモの案内はその後、新聞広告の他にも、メーリングリストを介してさまざまな団体から頻繁に流れてきた。もちろん、メーリングリストで知った人も多いだろうが、会場で新聞紙プラカードをもった参加者(私も含めて)が膨大な数に上っていたのを見ると、さすが新聞の底力は大したものだなと実感した。
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<World Peace Now 3.8>さて当日、13:30頃に日比谷公園に着く。紅梅と白梅がきれいに咲いている。親子連れが鳩にお菓子を投げている。何ともほほえましい光景で、カメラを向けた。
既に公園内は参加者で大混雑していた。新聞紙プラカードだけでなく、それぞれ手作りのプラカードをもった人、ノボリ旗を掲げた人、周りの参加者に熱心にビラを配っている人、太鼓などの楽器を鳴らしている人、子どもの手を牽いて歩いている若い母親、露店のお好み焼きを買って食べている人、など実にさまざまだった。
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実は約1ヶ月前に、別の用事で日比谷公園に来たが、そのときはほとんど人がおらず、だだっ広い広場が寒々としていた。それが今日はがらりと様相を変え、公園のいたるところで熱気があふれかえっている。何という違いだろう。
集会自体は公園内の野外音楽堂で行うことになっていたが、既に野外音楽堂は満杯で、とても中に入れない。何とかして入ろうとする参加者と、「もういっぱいだから入れません」とアナウンスする主催者側のスタッフ。私も、野外音楽堂には入れずじまいだったが、ここでは喜納昌吉、イーデス・ハンソン、吉岡忍、辛淑玉など著名人がスピーチをしていたので、できれば聴きたかった。
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音楽堂の周囲も、人、人、人で埋め尽くされている。お年よりもいれば若者もいるし、乳児をおんぶしたりベビーカーに乗せたりしている人もいる。日本人だけでなく、外国人も少なくない。中にはアメリカ人もいる。ある人は、プラカードに"I'm AMERICAN and I DON'T WANT WAR"と書いていた。労働組合のノボリ旗を掲げている一団もあれば、「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」などのノボリ旗を掲げた宗教者団体もある。国際協力NGOもあれば、過激派といわれる団体もみられる。そうした団体での参加も多いが、それにもまして多いと感じたのは、特にどの団体に属しているわけでもない個人の参加者である。
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個人とはいえ、これまでに何らかの市民活動(たとえば生協に入っていたなど)を経験している人が少なくないだろう。しかし、今回の集会には少なくとも、組織動員としてではなく個人としての自発的意思によって参加していると思われる。一昨年の年末、やはり一時期、国内で反戦運動の機運が盛り上がったことがある。米軍のアフガニスタン攻撃が間近に迫っているときで、今回と状況は似ているが、私も代々木公園で開かれた反戦集会に参加したけれども、圧倒的多数は労働組合などの組織動員で、参加者数も今回に比べれば格段に少なかったように記憶している。
反戦集会・デモなどに行って一番不愉快なのは、そうした集会が政治的党派によって分断していることである。民主党系の集会と、共産党系の集会。まるで水と油のように交わらず、互いに参加者数を競っている。反戦平和という点では大同小異であり、党派にこだわらず一緒に運動できないものかと思うが、党派色を前面に押し出すとそれだけ、一般の人々の気持ちからは乖離していくのではないか。
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街宣車は全部で13台。しかし、街宣車がいるのかいないのか、長蛇の列に埋もれている一人としては、皆目見当がつかない。街宣車は普通、スピーカーの大音響で「戦争、ハンターイ」「アメリカは、イラクを、攻撃するなー!」などとシュプレヒコールを挙げ、それに合わせて参加者も真似たり、こぶしを上げたりする。しかし、今回はそういうのが一切なく、街宣者の存在感が感じられないなかで、長蛇の列は静かに進んだ。私は主催者ではないので、その理由は分からないけれども(もしかしたらすべての街宣車のスピーカーが突如故障した、警察から騒音公害を出さないようにと指導された……)、もしかしたらこれがデモ行進の新しい姿なのかもしれないという気がした。
というのは、最初デモ隊の列が声もなく歩き出したのだが、そのうち一人が「皆さん、声を上げて行きましょうよ」と大声で言い、それをきっかけに、参加者がマイクもスピーカーも一切使わずに、「NO WAR」とか「せんそう、はんたーい」などと連呼し始めたのだ。その連呼は、デモ行進が終わるまで延々と続いた。
長い長い列が続く。いったいどのくらいの人数が参加しているのだろうか。
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それにしても、これだけ多くの人が、戦争に反対するために、見たことも会ったこともないイラクの人々の身を案じて、正義感や使命感に駆られて、止むに止まれぬ思いで、貴重な時間を惜しまずに、ここに集い、声を上げている。ただ、戦争に反対し、平和を望むというその一事のために。いかなる理由があろうと、もう二度と戦争をしてはいけない。アメリカに従属して独自性を打ち出せない日本政府には、なんとか考え直してほしい。その強烈な思いが、この無数の人々を動かしている。これだけ多くの人が、平和の問題を真剣に考え、自分の問題として受け止め、行動を起こし、他の人々にも呼びかけている。実に尊い営みではないか。私は、感激した。ぐっとこみ上げるものがあった。そして、そうした人々と、思いや行動を共にしていることを、嬉しく思った。 グリーンピースのウェブサイトでは、小泉首相、川口外相へのメッセージを募っている。これらの一部がウェブサイトにも紹介されている。私もメッセージを書いて送ったが、ここには数千件のメッセージが既に寄せられている。とても全部読みきれるものではないが、ざっと目を通してみると、一人一人の言葉に重みが感じられる。まさに魂の叫びである。 こうした思いの人々がここに集まっているのだなあと感動したのである。___
これまでは街宣車の大音響頼みだったのが、今度は参加者の自発的な、しかも等身大のアピールになったのである。ボリュームの大きいのがいいこととは限らない。静かに訴えかける。私には、そのほうがずっと自然な感じがして好感が持てた。デモ行進の最中は、歩道にいる応援部隊が手を振ってくれたり、バンドがにぎやかに場を盛り上げてくれたりして、それほど飽きずに、日比谷公園から東京駅近くまで1時間弱の行程を楽しく歩くことができた。
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プレス関係者も数多く取材に来ていた。テレビ局や新聞社のカメラマンがデモ隊の列にカメラを向け、上空では取材用ヘリコプターが旋回。列で私よりちょっと前の列に並んでいるひとが取材でマイクを向けられていた。帰宅してから、テレビをつけると午後6時のNHKニュースで、今回の集会のことを報じた。ニュースによれば主催者発表で、40あまりの団体が主催し、参加者は4万人だったという。以前、労働組合の連合が主催した集会は5千人、全労連系の主催した集会は2万6千人だったそうだ。
それに比べれば多いが、外国での数十万人規模と比べれば、まだまだ見劣りのする人数かもしれない。
いろいろと発見の多いイベントで楽しかった。
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●W杯にみるナショナリズムの危険な影
2002.6.10
サッカーのワールドカップ(W杯)が日本と韓国で初めて開催されるというので、開催前から日本各地でお祭り騒ぎだったが、ゲームが始まってみるといっそう騒ぎがひどくなるばかりである。特に、日本のチームがロシアのチームに勝ったというので日本中が沸き立ち、老若男女が勝利に酔いしれているようだ。
サッカーのゲームを楽しむのが悪いことだとは思わない。ちょっと騒ぎすぎだとは思うが。どうもテレビや新聞を見ていると、マスコミが煽り立てているようにも感じる。
もちろん、こうした騒ぎは日本だけでなく、特にW杯に選手団を送り込んでいる国の国民にも共通しているようだ。どちらのチームが点数を入れたかで、テレビの画面にしがみつきながら一喜一憂している姿は、滑稽でさえあるが、まあそれはよしとしよう。
私はもともと、スポーツの観戦に全く興味がない人間だから冷ややかな姿勢なのかもしれない。野球であろうが、サッカーであろうが、たいていのスポーツの場合、観戦したいと思わない。スポーツは誰か別の人がやっているのを見るものではなく、自分でやるものだと考えている。
その上、自分と関係のない人々が対戦していても、どちらのチームを応援したいという気にならない。選手の中に自分の知人・友人や親戚がいるのなら話は別だが、たまたま同じ出身地だとか、たまたま同じ日本人だからという理由で、そのチームを応援したくなる、という心情を私は持ち合わせていないのである。だから、甲子園の高校野球も、全く観戦する気にならないし、どのチームが優勝しようが、私にとっては正直言ってどうでもいいことなのだ。ある優勝したチームと私は、たまたま同じ国籍(或いは出身地)であったというだけのことであって、それが何だというのだ? もし、外国人の選手で私の友人がいたとしたら、外国チームを応援するかもしれない。
W杯の報道を見聞きしてとりわけ不愉快に感じるのは、W杯のイベントがナショナリズムに塗り固められていることである。それをいみじくも象徴しているのが、サポーターと称するファンの顔や頭などにかかれた国旗の絵である。国旗の色に塗りたくられたファンの顔を見ると、実に暗澹たる思いに襲われる。
チームの選手はその国の名誉を背負って闘い、ゲームに勝つとその国の国民が熱狂して国民であることに誇りを感じるとともに、誇りを感じさせてくれた選手に感謝する。その逆にゲームに負ければ、誇りを失って自暴自棄になり、物に八つ当たりする。
普段は理性を持ち、冷静に物事を考えて行動する人々が、こうした非日常的な国別対抗ゲームを見たとたんに理性を見失い、熱狂の渦に巻き込まれる、これはなんと愚かしい光景ではないか?
こういうイベントにおいて多くの国民が急にアイデンティティを思い出し、愛着を持ち、帰属意識を高める「国」(その象徴として国旗のマーク)とはいったい何なのか、もう少し冷静に考えてみる必要があるのではないか。「国」や「国旗」にそんなに夢中になる必要があるのか。あなたにとって、いったい「国」や「国旗」は何なのか。
近代国家は、民族や言語を単位として形成されているわけではない。改めて指摘するまでもなく、日本も多民族・多言語国家であるから、純粋な意味での「民族国家」ではない。国家の基準となるのは国土(領土)であり、原則として国境線の枠内に居住し、国家権力の支配に従属する者が国民である。もちろん、民主主義制度が国家権力に支配の正統性を付与しているわけだが。そして、国民を国家権力に統合するための精神的な装置が象徴としての国旗・国歌、あるいは皇室・王家などである。
日本人の選手は、私と同じ民族で、同じ言語を話し地理的に近い所に住み、文化習慣を共有しているから、他国の選手に比べて多少の近しさや親しみを感じる。それは確かだ。だが、それは国家(日本国)や、国旗(日章旗)とはあくまで異なる次元である。
国家権力は、国旗を掲げながら、しばしば戦争を起こし、他国の人々を犠牲にして領土(=勢力)を維持・拡張してきた。新たに得られた領土に国旗を打ち立て、人々には国旗への敬意を強制してきた。多くの国や国旗は国家の支配者による血塗られた過去をいやおうなく背負っているといえる。日本もその例外ではない。いやむしろ、太平洋戦争の戦争責任・戦後責任をいまだにきちんと果たしていない日本こそ、国や国旗が背負っている暗い過去に敏感であるべきではないのか。
国旗国歌法が制定されて以降、学校現場では入学式、卒業式で日の丸の掲揚と君が代の斉唱が義務化され、君が代を歌わない教師が排斥されるというとんでもない事件が跡を絶たない。日本において、国旗・国歌が普遍的にも歴史的にもいかなる重大な意味を持っているかに思いを馳せるとき、また国旗・国歌が学校現場などで言論・思想の自由を奪う暴力装置として猛威を振るっている現状を想像するとき、無邪気に日の丸の絵を顔に描いて大騒ぎするファンの姿に、危ういものを感じるのである。折りしも、いま日本では有事法案が審議されており、有事法案が制定されれば日本が海外の戦争に自動的に巻き込まれる恐れが高く、国民の人権は相当制約を受けると言われている。
あるファンいわく、顔に国旗の絵を描いているのは、ただ楽しむためだ、という。それほど深く考えずに、ただ楽しんでいるだけだから、別に問題ないじゃないか、と。
だが、多くの人が国家や国旗の意味を考えずに、無邪気に楽しみ、知らず知らずのうちに国家に対するアイデンティティを植えつけられてゆくことに、むしろナショナリズム増大、右傾化の危険性が隠されているのではないか。
サッカーのスタジアムで繰り広げられる国別対抗ゲームは、国別対抗であるからナショナリズムの高揚にとってきわめて都合がよい。誰にとっても分かりやすく、勝ち負けが明確で、ナショナリズムに加担するのに敷居が低いからである。いわゆる「極右」の政治家が台頭して「移民排斥」を訴え大統領の立候補者になると、さすがに良識派を自認する人々は警戒感を強めるが、ゲームならそれほど抵抗感がない。
こうした問題は、サッカーのW杯に限らず、オリンピックなども同様である。基本的に国別対抗の形式をとる限り、同様の問題を指摘できる。
ナチスを率いたヒットラーはオリンピックを政治に活用した最初の人物だが、国別対抗ゲームは容易に、かつ急速に熱狂的なナショナリズムを高めることができる。
私は問いたい。なぜ、国別対抗ゲームでなければならないのか、と。国別対抗ゲームにするからこそ、ナショナリズムを煽り立て、サッカーのファンでもなかった一般の人々がゲームの勝ち負けに一喜一憂するようになり、フーリガンが愚かな破壊行為を繰り返すのではないか。ナショナリズムに酔いたい人々にとって、つまり自国のチームの勝利によって誇りを感じたい人々にとって、スポーツの内容自体は二の次であり、自国の勝ち負けこそが最も重要な点である。本当にスポーツとしてのサッカーを楽しみたい人にとっては、その優先順位は逆になるはずである。
国別対抗チームはもういい加減やめて、多国籍混合チームを編成することを提案する。一つのチームの中に、日本人も中国人も韓国人も、アメリカ人もイギリス人もフランス人も、国籍に関係なくさまざまなメンバーが集まって、チームを組めばよい。共通言語を見つけるのに苦労するかもしれないが、日本人選手が続々と外国のチームに移籍している現在、大した問題ではない。
多国籍チームであれば、危険なナショナリズムが台頭する恐れはあまりない。そのかわり、ナショナリズムに酔いたい人々にとってはあまり魅力のないゲームになるとともに、本来そのスポーツを愛する人々が楽しむだろう。声を枯らして自国のチームを応援することがないからである。そうすれば、オリンピックのIOCにしても、サッカーのFIFAにしても、過度の商業化に走って金権腐敗体質になる可能性が薄くなる。それに、チーム内で多様な国籍の選手が混じることになり、国別の「対抗」ではなく「交流」が深まるだろう。
他方で、外国人選手を温かく迎え入れるなど、「交流」を深めた事例が数多くあることも承知しており、その点では評価できる。そうした「交流」の面をもっと多くする必要がありそうだ。
●『ファストフードが世界を食いつくす』を読む
たまたま書店の店頭に平積みされていた本を見つけ、なんとなく読む気になった。それが、表題に掲げた本である。
エリック・シュローサー著、楡井浩一訳『ファストフードが世界を食いつくす』草思社、2001年8月、1600円+税(原著:Eric Schlosser, "Fast Food Nation", Houghton Mifflin Company, New York, 2001.)。この本を既に読んだ方も少なくないだろう。本の帯には「マクドナルド方式が、経済・社会、産業構造の根幹を崩壊させる!」と刺激的な文字が躍っている。
本表紙裏には、次のような紹介文が載せられている。 『拡大と成長を続けるファストフード産業。その成功を可能にしたマクドナルド方式が、いまアメリカで経済、社会、文化の荒廃をもたらしているという。綱領まみれのハンバーガーやフライドポテトで味と匂いを刷り込まれる子どもたち。フランチャイズによって起業家がつぶされ、専属契約で、農地や牧場も荒廃に追い込まれているのだ。日本とて例外ではない。いまや世界中で産業構造の崩壊が進んでいる。本書は、牧場の牛が肉となり、ハンバーガーとして市場に出るまでに仕掛けられた巧妙な戦術を精査することで、自由市場経済を悪用し肥え太るファストフード界の実態を暴き出す。
経済、社会の根幹を揺るがし、国家の動向まで左右する巨大企業の暗部を、緻密な取材と圧倒的筆力で描き出す。』
この本は11の章からなっており、マクドナルドをはじめとするファストフード産業にさまざまな角度から迫っている。
第1章「創始者たち」は、ファストフード企業の創始者がカリフォルニアで創業し、モータリゼーションの波の中で屋台売りから一気に大企業にのし上がっていく経緯をドラマタッチで描いており、ファストフード産業の歴史を垣間見たようでとても興味深い。
第2章「信頼に足る友」では、アメリカの学校とそこに通う子どもが、ファストフード産業のターゲットになっている。政府からの援助が減らされた学校は、企業から資金調達することを迫られ、ファストフード(ハンバーガーや清涼飲料水)を学校に導入し、子どもにも勧めている。学校は教育の場ではなく、大企業による広告宣伝の場になってしまったのである。「学校にコカコーラを呼ぼうデー(Coke in Education)」などのイベントを企画して企業からの賞金を手に入れる高校もあるとか。ぞっとする。
第3章「効率優先の代償」では、コスト削減のために人件費を最低レベルに抑えるという話で、人件費抑制のために社会的弱者を最低賃金レベルで雇用し、従業員に対する職業訓練を限りなくゼロにしたり、残業代を払わないように小細工したり、店員に強要して時間外労働をさせるなどあらゆる方法をとっている。また労働組合の結成に対しては強く反対し、場合によっては閉店してでも組合の結成を妨害し続けてきた。
日本でもマクドナルドが組合の結成を妨害していたが、昨年(2001年)アルバイトが東京一般労組に加盟し、有給の取得に関して本社に改善策を約束させた(『赤旗』2001年9月5日)という。アルバイトが有給休暇をとれたという画期的なニュースである。
第4章「フランチャイズという名の甘い誘惑」は、フランチャイジー(店のオーナー)がフランチャイザー(ファストフード企業)のもとで、一方的に不利な契約条件を結ばされているという話が紹介されている。たとえば次のように書かれている。「アメリカフランチャイズ協会の会長スーザン・ケザイオスによると、ファストフード・チェーンが出してくる契約書では、週報に基づいて訴えを起こす権利を放棄するよう、加盟店に求めることが多いという。その結果、値段が高くても指定業者からしか購入できず、店を売却する場合は会社が認めた相手にしか売れず、会社の判断によっては、どんな理由であれ一方的に契約を打ち切られることになる。契約が打ち切られると、店主は納めたフランチャイズ料をすべて失う場合もある。店主は、会社側を公に批判することを恐れる。店を増やすのを認可してもらえなかったり、二〇年ごとのフランチャイズ契約を更新してもらえなかったり、現在の契約を即座に打ち切られたりするのが怖いからだ。」(138ページ)
これは日本でも同じような状況が起きている。本間重紀編『コンビニの光と影』(花伝社、1999年8月)には、コンビニをはじめとするフランチャイズが、いかに不平等な契約によって成り立っているひどいシステムであるかが詳細に暴露されている。
第5章「フライドポテトはなぜうまい」。ジャガイモの生産農家が供給過剰と市況の低水準に苦しんでいるという。一握りの多国籍企業が市場を独占し、農家を支配している。他方、香料のことも紹介されている。驚くべき技術の進歩によって、原材料とはまったく無関係の化学物質の組み合わせですばらしい香りが生成され、フライドポテトに振りかけられているという。またそうした風味が子どものうちに記憶に刻み込まれると、ファストフードのフライドポテトを生涯食べ続けるようになる。つまりリピーターの獲得である。
第6章「専属契約が破壊したもの」は、牛や鶏の畜産農家が、ファストフード企業に食肉を納める「専属契約」の話題である。先ほどのフランチャイズと同様、畜産農家は価格の低迷に苦しみ、またファストフード企業との不平等契約に自由を奪われて、危機的な状況に陥っているという。
第7章「巨大な機械の歯車」と第8章「最も危険な職業」は、牛肉の精肉工場の実態が暴露されている。特に第8章では、あまりのむごさに目を背けたくなるようなひどい労働実態が克明に描かれている。第9章にも関連するが、工場は実に非衛生的である。
第9章「肉の中身」。ハンバーガーに挟まれる肉は、決して衛生的ではなく、食中毒を起こす病原体が詰まっており、子どもたちにとって危険であるという。いくつも食中毒事件が起きているにもかかわらず、ファストフード業界は共和党議員や政府機関に圧力をかけて、企業への公的規制を阻止してきた。さらには、ハンバーガー店のキッチンでも店員が食品をかなり非衛生的に扱っているという。
第10章「世界的現実」は、旧共産主義諸国でマクドナルドが急速に店舗展開していること、ファストフードのおかげでアメリカ人は急速に肥満化していること、肥満による死亡率が死亡原因の2位に上昇したこと、そして最後に、ファストフードに反対する人々の活動が述べられている。なかでもマック名誉毀損裁判の話は圧巻だ。
終章「お好きなように」では、ファストフード的な生産・販売のあり方を拒否し、オルターナティブを追及する人々のさまざまな取り組みを紹介し、脱ファストフードへの展望を与えている。
実にすばらしい本だ。よくここまでファストフード産業の実態を暴露できたものだと感心する。暴露したというだけでなく、現代社会のさまざまな問題を抉り出している。
まず、教育現場に企業が侵入することによる悪影響、大量生産システムによって生じる労働疎外、労働安全衛生、社会的弱者の雇用・賃金、労働組合を認めない原生的労使関係、フランチャイズ特有の不平等契約、独占多国籍企業の農家支配、化学薬品で人工的に作られた風味、食品の安全・衛生、資本主義企業の旧共産主義への展開過程、食生活を原因とした病気・死亡、そしてファストフード企業に対する消費者のねばりづよい闘いと、農家のオルターナティブ追求の取り組みなどなど。それらのどれをとっても、現代社会が抱える大きな矛盾であり、それらの矛盾の多くが営利目的の大資本によって引き起こされていることが、この本から読み取れる。
また、この本は最後の2つの章で、ファストフードを非難するにとどまらず、消費者に対し、ファストフード企業に立ち向かうことを訴えている。「われわれは誰一人、ファストフードを買うことを強制されては居ない。意味ある変革への第一歩は、あまりにたやすい。ただ買うのをやめればいいのだ。…もしわれわれ消費者が要求すれば、放し飼い・草育ちの有機牛肉を使って、ハンバーガーを作ってくれるだろう。利益を得られるなら、彼らは何でも売る。市場と言うものの効用、手段としての有効性は、諸刃の刃だ。消費者のもつ本当の力は、まだ発揮されていない。」(376ページ)
私はもともと、マクドナルドやコカコーラを利用しない人間だが、この本を読んでますます利用する気にならなくなった。この本の内容はあくまでもアメリカの話であって、日本はまた事情が異なるかもしれない。しかし、かなりの程度共通している面があるのではないか。一人でも多くの人がこの本を読むことを願う。
この本で提起している問題に加えて、食生活、食文化のあり方に視野を広げてみたい。ファストフードが食生活や食文化を大きく変えてしまったことに危機感を抱き、イタリアを発祥の地として「スローフード運動」を提唱している人がいる。食文化研究家で(株)彩食絢美代表取締役の手島麻記子氏によれば、
「1986年5月ローマのスペイン広場にマクドナルドが回転し、ファストフード反対運動がたけなわでした。スローフードという言葉は、この問題を議論したカルロ・ペトリーニ氏をはじめとするジャーナリストたちの食事の席で生まれたのです。ファストフードは時間を節約する、安くあげるという点では便利かもしれません。しかし、スピード優先社会に送れまいと齷齪働いて人生を送ることが幸せでしょうか。日本は20〜30台では3人に1人が昼食を20分以内で済ませています。また、同じ屋根の下に暮らしながら親子がバラバラに食べることが多くなっています。おいしいものを楽しく語り合いながら食べることが文化だと思います。イタリアやフランスの人たちは、食事をゆっくりとり、仲間や家族との会話・コミュニケーションを非常に大切にしています。また私は、世界中同じ味になってしまったらその土地・国の文化はなくなってしまうと思うんです。しかし、マクドナルドは日本でもイタリアでも味は同じです。スローフード運動の具体的な考え方は、@消えていきつつある郷土料理や質の良い食品、ワインを守ること、A質のよい素材を提供してくれる小生産者を守っていくこと、B子どもたちを含めた消費者全体に味の教育を進めて行くことで、私はこの考え方に感銘しイタリアに何度も取材に行きました。」(生協労連発行『生協のなかま』第362号、2001年2月)
地方独自の食文化を大事にするイタリアならではの発想とも言えるが、日本でも地方独自の食文化がある。しかし、地方独自の食文化は、次第にファストフードに置き換えられ、忘れ去られようとしているのではないか。
地方の独自性がマスコミで話題に上るのは、大晦日から元日にかけてのごくわずかな期間に限られている。多くの人が民族大移動的に大都市部から郷里に帰って正月を過ごす。その郷里では年老いた両親が、昔懐かしい味のおせち料理を作って待っている。大晦日から元日にかけて、テレビやラジオで流される風景はだいたいそんなイメージだが、このときだけ地方の独自性が大きく喧伝される。しかし、それは長続きしない。正月の3が日を過ぎると、都心へのUターンラッシュが始まり、元の平準化された食生活へと戻っていく。おせち料理はこれまで、地方や各家庭の独自性を象徴する料理であった。今でも部分的にはそうだが、次第に既製品にとって代わりつつある。今回はおせち料理の売り上げが史上最高を記録したというが、要するにおせち料理は、各家庭でこしらえるものから、スーパーで購入するものとなったのであり、言ってみればおせち料理でさえ、ファストフード化現象の波に呑まれつつあるのだ。
2002.1.13
●同時多発テロ報道を考える
前回からだいぶ日にちが空いてしまったが、今回は毎日新聞編集綱領制定記念の集いのことをぜひ書きとめておきたいと思っていた。
「毎日新聞編集綱領制定記念の集い」とは、毎日新聞社が一時経営破綻し、1977年12月に新会社として発足した際に、労働組合がイニシアチブをとって、格調高い「編集綱領」を制定した。その綱領は、次のような前文で始まる。
「われわれは、憲法が国民に保障する表現の自由の意義を深く認識し、真実、公正な報道、評論によって国民の知る権利に応え、社会の公器としての使命を果たす。このため、あらゆる権力から独立し、いかなる不当な干渉も排除する。
われわれは、開かれた新聞を志向する。新聞のよって立つ基盤が広範な読者、国民の信頼と協力にあることを自覚し、積極的にその参加を求めていく。
この自由にして責任ある基本姿勢を堅持することは、われわれの責務である。このため、編集の責任体制を確立するとともに、民主的な運営をはかる。(後略)」
以後、毎日新聞労働組合は編集綱領にうたわれている「開かれた新聞」をめざし、編集綱領を風化させず、新聞作りにこの精神を積極的に生かすため、毎年12月初めに記念の集いとして、一般市民・読者とともに新聞のあり方を批判的に検討する集会を開いている。詳しくは、私の論文に紹介させてもらったので、そちらをご覧いただきたい。私もこの集会にこれまで3〜4回ほど参加している。
ところで、今回のつどいのテーマは、「同時多発テロ報道〜新聞は何を伝え、伝えなかったか〜」。主催者の予想をはるかに超える140名余の参加者が集まり、大盛況となった。
テロ報道に関しては、新聞に限らずマスコミの報道全体が、あまりにもアメリカ政府や日本政府の側に偏り、それと対立するアフガニスタンやタリバン、あるいはイスラムの立場からの報道が少なく、中立報道から逸れているとの印象を持っていた。テロ事件のアメリカ人犠牲者については詳しく報道しても、テロ報復戦争で犠牲になったアフガニスタン人や、テロ事件が起きた背景であるパレスティナでの犠牲者についてはほとんど報道されなかった。また、テロ報復戦争に対して肯定的な報道が多く、そもそもアフガニスタンを空爆することの是非や、日本が参戦することへの疑問や警告はあまりなかったように感じられる。私自身、テロ報道に対して問題意識を持っていたので、この集会には大きな期待を寄せていた。
この集いは、毎回一流のゲストをそろえる。今回の役者は、次の4名である。
・田島 泰彦氏(上智大学教授、憲法・メディア法専攻。放送と人権等権利に関する委員会委員)
・辻元 清美氏(衆議院議員、社会民主党政策審議会長)
・芝生 瑞和氏(国際ジャーナリスト、国際問題研究家)
・伊藤 芳明氏(毎日新聞外信部長、今回のテロ報道の陣頭指揮を執った)
冒頭、シンポジストの問題提起として、各氏はそれぞれ次のように発言した。
・芝生氏:最近のアメリカの記事はとにかく異常だ。ヨーロッパの論調(戦争批判的)を変えるべしという記事も、今日(12月5日――小関注)出ていて驚いた。パレスティナ問題は、クリントン(アメリカ元大統領――小関注)が努力して改善したが、テロ事件を契機にアメリカは手のひらを返したような態度になった。一方、日本では何も論議されずに重要な法案(いわゆるテロ対策支援法のこと――小関注)が決まってしまった。政治家、マスメディア、官僚の各々に責任がある。アフガニスタンにいま軍隊を送り出すことは何の解決にもならない。
・辻元氏:全ての人が、理念を持って発言する勇気が問われている。自分はパレスティナやカンボジアのNGOに関わっていた。NGOのネットワークから情報が来るので、ブッシュ政権成立後に"きな臭い"と感じていた。テロ事件という"現象"だけでなく、その背後にある中東問題(特にパレスティナ問題――小関注)に目を向けないと方向を見誤ってしまう。日本全体が同じ方向に向かっている時に、反対を唱える人が必要だ。そうでないと大政翼賛的になる。
・伊藤氏:今回のアフガン報道で特徴的なのは、アフガン内に西側のジャーナリストがいない、行けないことだ。それが、全快の湾岸戦争報道と異なる点だ。結局アメリカからの圧倒的な情報ばかりで偏ってしまう。読者に公正な判断材料を与えられるのか不安だ。流されないようにはしているが……
・田島氏:表現の自由の規制の動きが進行している。首相・知事による統制、特に防衛機密を自衛隊法改正によってあっという間に国会を通してしまった。かつて、自民党が提案したスパイ防止法案(後に国家機密法)は、市民運動の反対によって葬り去られた。しかし今回はほとんど議論されていない。来年はきっと、有事法制が出てくるだろう。これから日本はいったいどこに行ってしまうのか?
その後、シンポジストから、いくつかの論点が出された。それぞれの発言を要約してみる。
<パレスティナ問題について>
・芝生氏:パレスティナ問題はテロの根源にある。イスラエルがヨルダン川西岸に再侵入すると、さらなるテロが起き、中東政策はガタガタになるだろう。現在は重大な局面にある。日本はアメリカに比べてバランスの取れたパレスティナ報道をしてきたが、今はそのバランスが崩れてきている。
・伊藤氏:報道する際に、9月11日(同時多発テロ事件のこと――小関注)から物語が始まったのか、それより半世紀も前から物語が続いていたのかで、全く話は違ってくる。
<国会での対応とテロ対策支援法について>
・辻元氏:国会はチェック機能を果たせていない。どっちつかずの国会議員がとても多く、あたふたしている。国会の中でパレスティナ問題への関心がとても低い。首相もオスロ和平合意(イスラエルがPLOを公認し、相互に和解した画期的な合意のこと――小関注)を(名前だけしか)知らない。
・辻元氏:法律名に「人道支援」とついていると、国会を通りやすい。しかし外国の軍隊方の主権国家に行って人道支援をするなど無理な話だ。政治部の記者は、中東問題などをよく知らずに記事を書いているのではないか。
<アメリカによる戦争の正当性について>
・芝生氏:私はニューヨークでテロ事件を目撃したが、だからといって自衛隊を派遣してもやむを得ない、とはとても思えなかった。アメリカ人の命と、アメリカの兵器で殺された人々(イラクやパレスティナ、アフガニスタンを指している――小関注)の命の重さがあまりにも違う(差別して扱われているという意味――小関注)。Noam Chomskyは、アメリカには報復する資格はないと主張しているが、私もそれに基本的に賛成する(参照:ノーム・チョムスキー著、山崎淳訳『9.11 アメリカに報復する資格はない!』文藝春秋、2001年11月刊――小関注)。
・伊藤氏:アルカイダは、テロ組織と言われているが、誰がテロ組織と決めたのか? テロリストというと必ず悪者になるが、もしかしたら自由の戦士かもしれない。報道においても、安易な言葉の使い方が問題ではないか。たとえばロイター通信は、今回の事件でテロリストという言葉を使わない方針だ。
・伊藤氏:アメリカが起こした今回の戦争は、国際法上はたして正当なものだったのか。また、アフガニスタンというひとつの国をつぶして、新しい政権を作ることまで、集団的自衛行使として許されるのか。早い時点で問うべきだったと反省している。
<自由への統制について>
・芝生氏:アメリカ国内では、反戦の声を上げられない状況になっている。当初戦争に反対したバーバラ・リー民主党議員は数々の非難を受けて、その後は賛成に票を投じた。安置・グローバリゼーションの運動も、何も言えない状況に追い込まれている。帆船の生命をした大学教師が職を追われた。マスメディアは政府を批判しない。もっとも言論が自由なはずのアメリカでさえ、こういう状況である。情報が政府によって統制されているので、真実が出てくる代わりに、さまざまな憶測が飛び交っている。マスコミは常に、テロリストや政治家に、宣伝のために利用される恐れが強い。
・田島氏:さまざまな情報操作が行われている。マスメディアは、疑わしい事実を一つ一つ検証する役割がある。「テロリストへの戦い」など、美しい言葉で表現の自由を規制してくることには、警戒しなければならない。
上記のほか、参加者から数多くの質問が出され、熱気に満ちた議論が続いた。
★この集会に参加して思ったことは、テロ事件やその後のテロ報復戦争、日本の参戦(テロ対策支援法の制定とその後の自衛隊派遣)、およびそれらに関するマスコミ報道に対し、批判的に受け止め、疑問を持つ人が決して少なくない、という確信であった。
このあと、シンポジストの芝生瑞和氏の著作(『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』毎日新聞社、2001年11月)と、芝生氏が紹介していたノーム・チョムスキーの『9.11 アメリカに報復する資格はない!』を読んだ。ニューヨークのテロ事件に居合わせ、また以前からパレスティナ問題にかかわり、精力的に取材をしてきた芝生氏の著作だけあって、実に説得力のある内容だった。 まさに題名が示すように、「テロリスト」がアメリカを憎む理由を正しく知らずして、単に「テロはよくない」「テロリストがこの世からいなくなればいいのに」と言ってみてもナンセンスである。
ノーム・チョムスキーは、言語学者であるが日本の反戦運動家の間で著名な活動家でもあり、よくその筋のメーリングリストに、チョムスキーの見解が流れてきていたので、チョムスキーの本は一度読んでみたいと、前から思っていた。上記の『9.11』は、9月下旬から10月はじめにかけて、世界各地のジャーナリストから受けたインタビューの問答を出版したものだが、パレスティナ問題にとどまらず、アメリカが世界各地で「国際的テロ」を続けていること、特にニカラグアでは1980年代にアメリカからの致命的な攻撃を受け、国際司法裁判所はアメリカを有罪と宣告したこと、などが書かれていて衝撃的だ。
★集会に参加してもう一つ思ったことは、自由への統制という問題である。これは言論の自由、表現の自由、そして思想の自由を意味するが、テロ事件や戦争が起きると、こうした自由が半ば当然のように規制される。テロ報復戦争が、「自由を守るための戦い」であるかのようにアメリカ政府は言うが、本当にそうだろうか。
自由への統制で、ひとつ象徴的な事件だと思われるのは、アメリカ・ウェストバージニア州で「戦争反対」を訴えるTシャツを着て登校、反戦クラブの設立を呼びかけて10月中旬に3日間の停学処分を受けた郡立高校2年ケイティ・シエラさん(15)が11月27日までに、同校を退学した、というニュースである(AP通信)。この高校生の勇気ある行動には感服するが、反面、こうした言論の自由、思想の自由を受け入れられないというのは非常に重大な、危機的状況ではないかと思う。11月28日の毎日新聞によれば、「何人かの生徒がエイミーさん(母親)の車につばを吐きかけたほか、ケイティさんの友人の良心は学校帰りにケイティさんを車に乗せることを拒否。パナマ生まれのケイティさんに向かって『出身地へ帰れ』と書いたTシャツを着て嫌がらせをする生徒まで現れ、このTシャツには多くの生徒が署名したという。ケイティさんは『国難の時期に非常識な行動』と停学処分を受けた後、州地方裁判所に『憲法に保障する表現の自由を侵害された』と不服を申し立てたが、11月1日に却下された。その後、上訴したものの州最高裁は27日に訴えを退けた。(ワシントン共同)」。なぜ、裁判所さえも公正な判断ができなかったのか?
東京新聞の記事によれば、ケイティさんは、祖父がベトナム戦争に出征し、おじが湾岸戦争に従軍したという軍人家庭に育ちながら、「どんな理由であろうと、戦争は反対。殺人は殺人でしかないのよ」と主張し、ビンラディン氏については「首謀者かもしれないけど、すべてが彼の責任でしょうか。アメリカがこのテロの原因を作ったのよ」と訴えているという。さらに、高校中退後は「爆弾ではなく食糧」というグループを作り、会報の発行に取り組んでいるとのこと。弱冠15歳の少女が、しかも軍人家庭に育ちながら、世の中の大勢に流されず、何としっかりした考えと冷静な観察眼をもち、行動力にあふれている。感情的なアメリカの世論とまさに対照的だ。年齢や身分にかかわりなく、この少女の考えや行動は実に偉大だと、私は深く感じ入った。
2001.12.26
"戦争と平和"という重苦しく硬い話題が続いたので、思い切って別の話をしよう。
表題に掲げた「パティ」と「羊」と「中島みゆき」がどう結びつくのか、見てすぐに分かる人はほとんどいないだろう。
それでは一つヒントを。「パティ」と「羊」は私の誕生日と深いかかわりがある……といえば、なんとなくピンと来る人もいるのでは?
要するに「パティ」も「羊」も、生年月日をもとにした占いの話である。動物占いは、15種類の動物キャラクターから、生年月日によって私の性格に合った動物を特定するもので、私の場合は「羊」になる。普通、占いというのは将来の姿や出来事を予知するものだが、この動物占いは将来のことというよりも、性格診断であり、その性格に応じたアドバイスである。お知りになりたい方は、小学館が動物占いの文庫本を出版しているし、ノラコムのホームページでも簡単に知ることができるので、お試しあれ。
他方、これと同じ趣旨の占いで、動物占いのあとに登場したのが「般若心経占い」で、こちらも小学館から文庫本が出版されている(小学館文庫編集部編「みるみる幸せになれる般若心経占い」)。といっても別に般若心経を読むわけではなく、お釈迦様の12人の弟子を(動物占いの場合と同様に)キャラクター化して、生年月日によって12人の弟子キャラのどれかに当てはめるというものだ。私の場合は、「パティ」。パティとは、マハーパジャーパティ(摩訶波)をモチーフにしたキャラクターで、女性で初めて弟子になった人だという。
どちらも同じような占いのためか、動物でもお釈迦様の弟子でも、結局は同じような結論にたどり着いた。「羊」のキャラクターと、「パティ」のキャラクターはかなり共通していたからだ。以下、それぞれの占いから少し引用してみる。
<羊の性格>
・羊の性格:いつも群れをなして行動する羊のように、さびしがりやで人懐っこく、いつでも周りに人がいます。輪を大切にするので人脈作り・情報集めが得意。また、羊毛の下に本音を隠しているため、表面的には客観的かつクールに見えます。恋は、シャイだけど持ち前の人脈の広さから友人の紹介などで素敵な恋人をゲット。クールな性格から落ち着いた大人の恋愛を楽しめます。
・羊の徹底分析:羊は、群れを作るさびしがり屋です。仲間外れが大の苦手で、人から相談されるのが好きです。情報やお金を集めるのが得意で、客観的に物事を判断できます。約束はきちんと守り、羊の毛は「世のため、人のため」に使われます。 (以下略)
<パティの総合的性格>
・人の喜ぶ姿が何よりも好き:何よりも人の「和」を大切にする人です。それは仲間だけに限ったことではなく、どんな人に対しても、助け合いの精神が旺盛で、世のため、人のためになることを自分から進んで行い、またそれが少しも苦になりません。他人の喜ぶ姿を見るだけで満足し、それをエネルギーにがんばるタイプです。
・さびしがり屋で、仲間が大好き:さびしがり屋で一人ぼっちが大嫌い。集団でいることが多く、みんなと仲良くワイワイしていることを好みます。だから、仲間外れにされようものなら、深く傷つき、落ち込みます。また、仲間の「和」を乱すような人は絶対に許さず、その人に面と向かって文句の言える気の強さを持っています。
・相談されると的確なアドバイスをする:相談を持ちかけられると思わずニンマリ。人に頼られると、嬉しくてたまりません。しかも、親身なアドバイスはかなり的確で信頼を得ています。感情的になることが少なく、冷静で客観的な大人タイプ。
・几帳面すぎて融通が利かない:几帳面でまじめな常識人だから、約束は必ず守るタイプ。もちろん、時間にだって遅れない。でも、それを他人にも強制するところがあり、窮屈に思う人も意外と多く、陰口を言われることもあります。
・内面は芯が強く、とても勝気:何をするにも抜群の集中力で慎重に行い、一つ一つものにしていく堅実さがあります。外見は柔和でおとなしく弱そうですが、内面は芯が強く、忍耐力に優れていて、とても勝気な性格。また用心深く、他人を完全に信用しないところがあるのでなかなか本音を言いません。 (以下略)
これらの性格診断を見ると、自分でもかなり当たっているなと思うところがある。たとえば、さびしがり屋だという点、人に頼られると嬉しくなるという点、几帳面で融通が利かない点、他人を完全に信用しないという点などは、まさにその通りだ。
ただ、友達が多いとか、大勢でワイワイするのが好き、というのは私にはあまり当てはまらない。大勢でいるととにかく気疲れするし、友達だと自信を持っていえる人はあまりいないのが本当のところだ。お付き合いのある人は、仕事や勉強の関係でいろいろといるし、大変世話になっているが、仕事や勉強という枠を超えて純粋に友情でつながっているというのは、ごく一握りしかいない。
もちろん、占いとか性格診断は、100%当たるわけがない。100人いれば100通りの性格があるわけで、それを12通りのキャラクターに当てはめようとするのだから、多少無理があるのは当然のことだ。
ただ、「動物占い」も「般若心経占い」も、生年月日だけからある程度私の性格をきちんと言い当てていることには感心させられた(もちろん、性格診断が自分に当てはまるという一種の期待や先入観によって心理的に左右されやすいことや、人間の性格は複雑で、さまざまに変化しうることなどを考えれば、科学的に厳密に当てはまると断言することは難しいが、ここではそういう難しい話は抜きにする)。
「般若心経占い」の「パティ」の項には、次のようなアドバイスが載っている。
「友達は数多くいますが、本音を喋れる人が限定されていて、どこか寂しい思いが心の中に常に渦巻いています。でも、本音を言える相手が少ない原因は、あなた自身にあります。人をシビアで客観的に観察してマイナス、プラスの判断ばかりしているから、それを基準に自分から殻を作っているのです。殻を破るには、正直な自分をさらけ出すことです。そして、損得勘定を捨てたとき、あなたは本当の意味での「優しい人」になれるでしょう。」
そう、仰せの通り、私は「寂しい思いが心の中に常に渦巻いて」いる人間である。そして、硬い殻に閉じこもり、自分をさらけ出そうとしない。何とか、殻を破らないといけないとは思っているのだが……。
ようやくここで3つめのキーワード「中島みゆき」が登場する。
中島みゆきを知らない人はあまりいないだろう。改めて私などが説明する必要もない。ファンの方も多いし、ファンクラブも、あるいはオフィシャルサイト「でじなみ」をはじめ中島みゆきを扱ったWebsiteもある(たとえば http://www.ponycanyon.co.jp/arts/nakajima/)。最近ではNHKの人気シリーズ番組「プロジェクトX」のオープニングテーマ「地上の星」、エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を歌っている。
昔から中島みゆきの曲が好きだったわけではない。もともと、ほとんど関心はなかった。「悪女」のイメージしかなかった。しかし、確か昨年(2000年春ごろ)だったか、たまたまカーラジオから流れてきた「ひとり上手」が心に引っかかっていて、CDショップで何か彼女の曲を聞いてみようかな、という気になり、初めて「大吟醸」というタイトルのCDを買った。感動した。
すべての曲が気に入ったわけではなかったが、最も感動したのは、「旅人のうた」と「誕生」の2曲だった。
その後、「大銀幕」や「10 WINGS」など数枚CDを買い、時々聴いている。いくつかの歌については、歌詞を覚えた。
彼女の作った曲は、すべて聴いたわけではないが、基本的に明るく楽しいハッピーな曲ではなく、寂しかったり、悲しかったり、つらかったりする。心に傷を持ち、寂しさをかみしめている人、社会的に認められず周辺に追いやられている人、失恋して孤独に打ちひしがれている人の気持ちを歌っている。こうした人々に共感と限りない愛情を持ち、どこまでも寄り添い、あるいは力強く励ましをおくっている。いささか雑駁な総括かもしれないが、一言で言えば、そんな歌が多いように思う。
私は、明るく楽しくハッピーな曲というのが苦手だ。常に寂しさが心の中に渦巻いているからかもしれない。彼女の歌に出てくるさびしい登場人物に多少とも自分を重ね合わせられるからかもしれない。
日本テレビ系ドラマ「家なき子2」の主題歌として95年5月にリリースされた「旅人のうた」の中で、彼女は次のように歌っている。ご存知の方も多いと思う。
私はここで言う「さすらう者」のひとりではないか?と感じられることがある。
西には西だけの 正しさがあるという
東には東の 正しさがあるという
何も知らないのは さすらう者ばかり
日ごと夜ごと変わる 風向きに惑うだけ
風に追われて 消えかける歌を僕は聞く
風をくぐって 僕は応える
あの日々は消えても まだ夢は消えない
君よ歌ってくれ 僕に歌ってくれ
忘れない忘れないものも ここにあるよと
あの愛は消えても まだ夢は消えない
君よ歌ってくれ 僕に歌ってくれ
忘れない忘れないものも ここにあるよと (2番目の歌詞)
歌詞を見ただけではあまり感動しないかもしれない……
お前は暗いやつだな、もう少し明るくパッとできないのか?と思われるかもしれないが、どうしてそうなのか?と訊かれても、私にもいまのところ、答えは出せそうにない。
2001.12.4
●ある反戦集会で感じたこと
11月27日、東京の代々木公園でアフガニスタン戦争に反対する大規模な集会とデモ行進が行われ、私も参加した。「アフガンに平和を! いますぐ停戦を求める11.27集会」である。集会とデモで約1時間半、寒風が吹き代々木公園は寒かったが、公園には熱気があった(単なる「人いきれ」かも)。NHKのカメラマンやAP通信が取材に来ていたので、もしかしたらテレビニュースで放映されたかもしれない。
代々木公園の野外音楽堂にて。集会の開会直前の様子
集会のオープニングで演奏した楽団「ウリパラム」 これまでも全労連や日本消費者連盟などさまざまな団体がアフガニスタン戦争関係で反戦集会を開いてきた。上記の集会もその一つである。
主催は「11.27集会実行委員会」で、連絡先は「平和フォーラム」「テロにも報復戦争にも反対!!市民緊急行動」「日本消費者連盟」の3団体、「週刊金曜日」が協賛している。これらの名前だけを見てもどういう団体か、いまひとつピンと来ないかもしれないが、政治的な党派でいえば、旧社会党系である。集会に駆けつけた国会議員と、大量動員された労働組合を見れば一目瞭然だ。
社民党の土井たか子党首、福島瑞穂衆院議員、辻元清美衆院議員、川田悦子衆院議員らが舞台に勢ぞろいした。
壇上であいさつする民主党の金田誠一議員
社民党の土井たか子委員長
川田悦子衆院議員(ちょっと暗くて分かりにくいが)。息子の龍平さんとともに薬害エイズ裁判に立ち上がるまでの苦しい胸のうちを明かした
この11月27日は、衆議院でテロ支援特措法による自衛隊派遣の国会承認を採決し、民主党の賛成を得て承認となったが、民主党のうち21名の議員が党議拘束に反して反対または棄権した。民主党幹部はこの「造反議員」を処分すると語っているが、集会では「造反議員」の一人である金田誠一議員が壇上であいさつした。もともと、民主党の横路孝弘副代表が来るはずだったが、党幹部の立場では集会に来にくいので急遽金田議員に代わったという。
集会に参加した労働組合は、大部分が非共産の官公労系の組合である。自治労、全水道、日教組、都市交、国公総連(ほとんどは全農林)、私鉄総連(小田急、東急など)、JR労組、国労、その他という構成になっている。
反戦ポスターを展示しているところ。この後に行われたデモでポスターをかざしながら歩いた
私鉄総連という公共産業的な立場の労組を除いて、民間企業主体の労働組合(たとえば自動車、電機、電力、化学など)はここに一切登場しない。先ほどの金田議員は、あいさつの中で「私が労働組合の役員だった頃は、当然のごとく労働組合というのは戦争に反対するものだと思っていたが、いま日本最大のナショナルセンターは戦争反対を掲げていない」と、連合(日本労働組合総連合会)を批判した。
確かに、連合のWebsite http://www.jtuc-rengo.or.jp/ を見ても、アフガニスタン戦争の話題は見当たらないのである。おそらく、連合の内部で官公労系の組合と、全民労協系の組合の意見が対立し、連合として一つの政策を打ち出せないのであろう。 もっとも、連合は民主党への一党支持を表明したにもかかわらず、民主党に対する統制力は下がり続けていると聞くし、最近の鳩山代表の発言からもそれは感じられる。渡辺治一橋大学教授は、次のように述べている。「いままで民主党は旧社会党右派議員とそれを支える「連合」勢力と旧保守政党の出身者の二つの構成部分のバランスの上に成り立っていたのですが、2000年総選挙でそのバランスが大きく保守政党のほうに傾いたのです。その選挙で、新自由主義改革を主張する議員たちが選挙前よりも多くなり、いままで民主党議員の3分の1程度を占めていた旧社会党系、労働組合出身議員は激減しました。ですから、民主党は選挙後には新自由主義改革をいっそう強力に主張する党に純化していきました。」渡辺治『「構造改革」で日本は幸せになるのか?』萌文社、2001年7月、74ページ)
連合がアフガニスタン戦争に関して態度表明しないのと対照的に、もう一方のナショナルセンターである全労連は、繰り返し戦争反対の声明を出し、早い段階から大規模な集会を開いている。たとえば、10月11日には「報復戦争反対、自衛隊の参戦許すな、テロ根絶」緊急集会http://www.zenroren.gr.jp/jp/topics/2001/1011.html を、また10月23日には日本共産党とともに「テロ糾弾!報復戦争やめろ!小泉『改革』に異議あり!10.23国民大集会」http://www.zenroren.gr.jp/jp/topics/2001/1023.html を開き、また声明文は次の更新履歴に並んでいる。http://www.zenroren.gr.jp/jp/rireki.html
私はたまたま今回、全労連主催の集会には参加していないが、この種の集会について感じることは、アフガニスタン戦争反対という同じ思想と目的を持ちながら、依然として従来の政治党派の対立と峻別を厳然と持ち込んでいることだ。旧社会党系は旧社会党系で固まり、共産党系は共産党系で固まり、同じテーマで別々に集会をやっている。
ちなみに私は今回、旧社会党系の集会に参加したけれども、だからといって私が旧社会党系の立場だと勝手に色分けしないでほしい。こうした場合に、いまさらどちらの系列かを厳しく峻別することにエネルギーを注ぐほうがむしろおかしいのではないか?
集会呼びかけ人の一人である天野礼子氏(公共事業チェックを求めるNGOの会代表)が、あいさつの中でいいことを言っていた。「私たちの合言葉は、『小異を捨てずに大同団結しよう』です」。さまざまな団体がそれぞれの主張を抱えている。それぞれの違いを尊重しながら、連帯できるところは連帯していこう、という意味だ。
社会党系も共産党系も、それぞれ主張には隔たりがある。それを無視しろというわけではないが、アフガニスタン反戦問題に関しては、天野氏の言葉を借りれば「小異を捨てずに大同団結」できないものか、と感じた。
2001.12.1
●忸怩たる思い
これまでに幾度となく、戦争の悲惨な姿をさまざまなメディアで学んできた。戦争に正義などはなく、最も弱い立場の人々が犠牲になることも、数多くの事例で私たちは知らされてきた。二度と戦争をしてはならないという教訓を知るのに、もう充分過ぎるほどの犠牲を払ってきたはずだ。
それにもかかわらず、いま再び戦争がアフガニスタンで続けられている。アメリカをはじめとする先進国の精鋭部隊が、テロ封じ込めの名の下に、国土が荒廃した最貧国を容赦なく爆撃し、大量の避難民を発生させ、生命の危機に追いやっている。果たして、こんなことが許されていいのか。
私は1971年の生まれだから、太平洋戦争や朝鮮戦争を体験していない。私の生まれた頃はまだベトナム戦争が続いていたはずだが、もちろん記憶にはない。最近では湾岸戦争が記憶に新しいが、戦争は遠い国の出来事、という意識をぬぐえなかった。
しかし、今回のアフガニスタン戦争は様相が違う。この戦争のもつ不公正と欺瞞に憤慨し、自分も何か発言し行動したい、しなければと強く思いながら、それでいて、これと言った戦争反対の意思表明の思い切った行動ができずに、忸怩たる思いを抱き続けている。
世の中の大多数は、戦争を支持しているように見える。アメリカではブッシュ大統領の支持率が9割近くを、日本では小泉首相の支持率が8割近くを維持し、アメリカを中心とした先進国の首脳はこぞってアメリカへの全面的な支持を表明している。戦争になると、ナショナリズムをかきたてられるので指導者への支持率が急増するのだろうが、どうしてこんなに冷静さを欠いた判断に偏ってしまうのか、不思議でならない。
だが、他方では戦争に反対し、社会に訴える人々が存在していることに、私は勇気づけられる。世の中の大勢に逆らって何かしら反対を唱える人間は、変わり者とか過激派だと眉をひそめられてしまいがちだが、それでもなお正しいことを正しいと言い続けるのは勇気ある行動である。
たとえば、まず挙げるべきは岩波書店の雑誌『世界』2001年12月号の特集「アフガニスタン戦争」である。さすが岩波は良識の府だと改めて感心したが、この特集ではアフガニスタン戦争は何が問題なのかを、多くの識者がさまざまな角度から論証している。
また、[us-japan-nowar]というメーリングリストは、戦争反対の立場から、知識人のコメントや集会の案内など数々の情報が寄せられている。市民運動にインターネットが大きく貢献していると言われるが、まさにその通りだと実感する。この他にも、
JCA-NET のAntiwarのページ
アメリカ同時多発テロへの武力報復に反対するホームページリンク集
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Asagao/7440/
アメリカの「報復戦争」と日本の参戦に反対する署名運動
http://www5b.biglobe.ne.jp/~onbuzpa/
レイバーネット 反戦・平和アクション
http://peaceact.jca.apc.org/actions/20011127.html
などさまざまなWebsiteがある。私も、いくつかのWebsiteでオンライン署名を行ったり、集会に出かけたりした。
たいしたことは何もできていないが、自分はこのまま何もしなくていいのか?あとで後悔することになりはしないか?という思い(これは良心の疼きなのだろうか)が常に心から消えない。
おそらく、私と同じ思いの人が他にも数多くいるのだろう。先に紹介した『世界』に、Chance!のピースウォーク(デモ行進)の話が紹介されている。私は参加したことがないのだが、記事によれば、「10月21日までに4回実施し、述べ2000人位階参加者が渋谷・原宿の町を歩いた。各種の人数と比較したらたかが知れた数かもしれないが、新しいうねりを感じさせるウォークなのである。組織動員によらず、所属に関わりなくインターネットとフライヤー(チラシ)、新聞での告知だけで毎回400人を越える参加者が集まっている。その多くは一度もデモに参加したことがないという方たちである。……」
先日、シャプラニールの企画した「モスクへ行こう!」イベントに出かけた。シャプラニールは、バングラデシュとネパールで約30年間援助活動を続けてきたNGOである。
代々木上原駅から徒歩5分の都心に、瀟洒なモスク「東京ジャーミィ」は建っている。モスクを訪れることは初めての経験であったが、内部はとてもきれいに装飾されていた。トルコ政府の出資によるもので、トルコ風の建築様式、インテリアで統一され、礼拝堂のカリグラフィー(窓のステンドグラス)なども実に美しかった。……テロ事件やアフガニスタン戦争が起きなければ、それほどイスラームに関心を持つこともなかったであろうし、ましてやモスクを訪れることなど夢にも思わなかった。
このイベントに集まったのは60人余りで、学生、主婦、教員、その他、年齢層も若者から老人まで実に多様な人々で、いずれも、イスラームをもっとよく理解したい、アメリカ発の価値観だけでなくイスラームの側からも考えてみよう、という真摯な思いが結集したのではないかと思う。
シャプラニールのチラシには、次のように書かれてある。
「私たちは、昨今の米国におけるテロ事件及びその後の軍事行動に関する報道において、イスラム教やその信者に対する差別を助長するような表現のあることを深く憂慮しています。シャプラニールでは、この事態を重く見、9月29日に出した「アメリカにおける9月11日の無差別テロ事件とその後の情勢に関する声明」の中で、あらゆる暴力的な紛争解決に反対すると同時に、いち早くアラブ系あるいはイスラム教を信じる人々への暴力や差別を許さないと表明しました。
そこでシャプラニールは、国内における多文化共存を推進するためのアクションが必要と考え、東京ジャーミィ・文化センターの協力を得て、ラマダン(断食)中の1日を使ってこうした文化に直接触れることや、話をすることでイスラム教を理解し、同じ平和を祈る気持ちを共有できる場所を作りました。……」
3時間のプログラムの中で、モスクの内部を見学し、イスラームについての簡単なお話を聞き、イフタール(断食明けのスナック)を試食した。時間の制約はあるが、それでも少しは宗教・文化に触れることができて良かった。こうした地道な交流の積み重ねによってしか、イスラームに対する根強い偏見を取り除くことはできないのだろう。私自身、仏教徒だが、イスラームに対してまったく何の偏見もないかといえば、残念ながらNOと答えられる自信はない。
モスク2階の多目的ホール
モスク2階の多目的ホール柱に書かれたコーラン
「国王の間」
「国王の間」の床にある噴水
礼拝堂の上にそびえるタワー
礼拝堂の外側。トルコ調の建築様式
礼拝堂の入り口から内部をのぞく。
礼拝堂の中央に下がるシャンデリア。シャンデリアの周囲がアラビア文字で飾られている
礼拝堂上部の丸いドーム
礼拝堂の正面。メッカを向いている。左はガイド役のセリムさん
礼拝堂はカーペットが敷かれ、靴を脱いで上がる。女性はスカーフをかぶる。スカーフをかぶった姿は意外とチャーミングだ。
礼拝堂の後方に設けられた2階席。女性は2階に上がって礼拝する
イフタールで出された軽食。バナナ、りんごのほか、ドライフルーツ、牛乳で作った甘いお菓子など。
モスク地下1階の集会室で、解説を聞きながらイフタールを試食する参加者たち
モスクを案内してくれたセリムさんは、「(アフガニスタン戦争は)イスラーム対キリスト教の宗教戦争とか『文明の衝突』であるかのように言う人が多いが、決してそうではない。宗教の教義上、他の宗教を攻撃すべしと説いたものはない。宗教の名をかたった政治的な対立に過ぎない」と指摘した。この指摘はきわめて正しいと私は思う。アフガニスタンの戦争は、本来宗教上の対立などではなく、アメリカと中東諸国の政治的な対立なのだが、「イスラム原理主義」「十字軍」など宗教的な装いがかけられ、本質が見えにくくなっているのではないか。
9月11日に、飛行機が世界貿易センタービルやペンタゴンに突っ込んだ事件は、一部では「911事件」などと呼ばれているが、この事件が起きた当初、飛行機が突っ込む衝撃的な映像に茫然とするばかりで、この事件が後に全面的な戦争につながるとはまったく予想できなかった。この事件から2ヶ月余が過ぎたが、このわずかな間に事態は予想外の展開を見せ、日本も含めて世界は激動に飲み込まれた。
好戦的なアメリカの大統領は、テロ事件の首謀者を勝手に断定し、証拠も提示しないまま首謀者の引渡しを強要。それが容れられないことを口実として、タリバン政権をテロ支援国家と決め付け、イギリスやオーストラリアなどの先進国とともにアフガニスタンを空爆し、多くのアフガニスタン人を殺していった。戦争が長引くにつれて、テロ以外に新たな戦争の口実を見出す。いわく、タリバン政権は人権を抑圧している、女性の教育を禁止し、女性に被り物を強制し、映画や音楽などの娯楽を禁止している、ということが意図的に宣伝され、タリバン政権を崩壊させることの正当性を証明しようとしている。
タリバン政権は風前の灯である。タリバン政権崩壊後の新政権作りとして、アメリカやパキスタン、国連安保理や日本など、アフガニスタン以外の国や機関が重要な意思決定を大急ぎで行おうとしている。みなそれぞれ、新政権ににらみを利かせられるようにとの思惑で動いているのだ。これらの国や機関に、アフガニスタンの将来を決める資格はあるのだろうか。
タリバン政権が崩壊しても、おそらく問題は根本的に解決しないだろう。テロ集団は神出鬼没の多国籍集団だから、どこに潜んで、どんな手を使って次のテロ攻撃を行うか分からない。どんなに最新鋭の武器を使っても、テロを完全に防ぐことはできないだろう。
多くの識者が指摘するように、症状としてのテロを封じ込めようとしても根本的に問題が解決することはない。なぜテロが起きているのか、その原因を追及し、正面から向き合う努力がいままさに求められているのだ。
2001.11.26
●呉軍港・大久野島見学記
11月4〜6日の3日間、生協労連の全国生協研究会に参加してきた。といっても、私は生協労組員ではなく、生協研究会という活動に深く関心を寄せる一研究者として、毎年の研究会を傍聴させてもらっているのだ。
全国生協研究会のオープニング。根本隆書記長のあいさつ 今年は広島湾に臨む広島プリンスホテルを会場として、さまざまな講演や報告、分科会が催されたが、その一つに「動く分科会 呉・大久野島見学」というのがあり、私はそちらに参加させてもらった。これは平和学習の一環である。
今回見学に連れて行っていただいたのは、ひろしま生協労組、おかやま生協労組、全法務労組の役員の方々である。彼らはこれまでに何度も現地に足を運んでいるようで、事情に通じており、参加者の質問にも丁寧に応えてくれた。この場を借りて、厚くお礼を申し上げたい。
呉は瀬戸内海に臨む広島県内の市で、戦前から日本海軍の大きな軍港があり、現在も自衛隊の呉基地がある。呉港はつまり軍港である。また、大久野島は瀬戸内海に浮かぶ、広島と愛媛の県境にある小さな島で、戦時中は毒ガスの製造工場があったところとして知られている。
広島というと、原爆資料館、原爆ドームはあまりにも有名で、すっかり観光地化されているが、呉軍港や大久野島は観光コースから外れ、あまり知られていないと思われる。そこでこの度はせっかくの機会なので、ぜひ一度見学したいと期待していた。
ホテルは海に面していて、裏手がすぐ船着場になっている。ここから小さな船に乗り込み、舳先を南東に向けて瀬戸内海を十数分走ると、海上自衛隊や米軍の弾薬庫や燃料タンク、火薬の製造工場に改造された小さな島々がいくつも見えてくる。
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瀬戸内海に浮かぶ弾薬庫・燃料タンク化した島々 「吉浦貯油所」「秋月弾薬庫」「広弾薬庫」「大麗女島(おおうるめじま)」「江田島」などが地図に載っている。
被爆地・広島をとりまく米軍基地、自衛隊、軍需産業一覧図。図をクリックすると大きな図が現れます。 地図を見ると、広島が海上自衛隊と米軍の一大拠点となっていることがわかる。
島の側面をくりぬいて内部を弾薬倉庫にしたり、燃料タンクやパイプラインを設置したり、TNT火薬の製造工場にしたりしているらしい。これらの軍事施設の主な役割は後方支援(最近この言葉をマスコミでよく聞かされる)、すなわち弾薬や燃料の補給だという。軍艦に燃料や弾薬を補給しやすいし、仮に引火爆発しても周囲に被害が少ないためだという。遠くから瀬戸内の景色を眺めると美しいが、実はその中の小島が軍需に改造されていたとは知らなかった。
それらの小島をぬけて、呉軍港に着く。
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港内には数多くの海上自衛隊の艦船が並んでいる。私のような素人には、いずれも同じグレーの色をした軍艦だということしか分からないが、護衛艦、潜水艦、掃海艇、聴音艦などが配備されているという。
ガイドをしてくれた方の説明によれば、潜水艦は全国に16隻配備されていて(自衛隊法の規定による)、毎年1隻ずつ更新のため発注と廃棄を繰り返しているが、1隻の価格はなんと470億円もするのだという。この日は、6隻の潜水艦が港に停泊していたが、資料によると呉基地には潜水艦隊として「ちはや」「はやせ」「おきしお」「なだしお」など13隻が所属している。
潜水艦が頭だけを海面から出している 聴音艦(音響測定艦「ひびき」)というのは、敵の潜水艦のスクリュー音を聞き分け、どの国のなんという潜水艦が通っているかを分析するもので、居並ぶ艦船のうち最も高価な船だという(具体的にいくらかは知らない)。
補給艦「とわだ」は、今回のアフガニスタン戦争でインド洋に派遣されたが、これは燃料や食料の補給船で、武器は積んでいないという。
軍港の一角に、日新製鋼の大きな工場がある。これは軍艦を製造するための原料を提供する工場で、戦前からあり、太平洋戦争下では米軍の爆撃対象になったという。
呉軍港を出て、船は1時間以上東に走る。やがて、大久野島という周囲4kmの小さな島にたどりつく。行政区は広島県竹原市忠海町。人口はゼロ。
ウサギはたくさんいて、人が近づいても物怖じしないのにはちょっとびっくり。
1929〜1945年、日本軍はひそかに毒ガス(主にイペリット、ルイサイトの糜爛(びらん)性ガス)を大量に製造していた。現在は国民休暇村として観光地化され、毒ガス向上の歴史をとどめるものはわずかに資料館、毒ガス貯蔵庫跡、慰霊碑のみとなっている。
大久野島の古い地図。クリックすると大きな画像が現れます。 以前、島の中でも毒ガス製造工場が集積していた島の西海岸(長浦と呼ばれている)は現在、テニスコートとして整備されている。だが現在でも島内で砒素が検出されており、まだ安全宣言が出されていないという。
大久野島の西海岸(長浦)を歩く。
ガイドをしてくれた方の説明によれば、明治期の1900年、瀬戸内海を敵艦から守るために日本軍は大久野島に3ヶ所の砲台を設けた。島の北部、中部、南部に1つずつ砲台をおき、北部砲台は今でもその跡が残されている。
北部砲台の跡。島の北端にあって瀬戸内海を臨む。大砲の弾は山なりに越えて、目標に到達するようにできていたという。 大久野島の対岸の忠海町は軍人の色街として栄えていたが、砲台が1921年に廃止され、大久野島から駐留部隊が撤退すると、忠海町の住民は再び町の活気を取り戻そうと、大久野島に軍の毒ガス工場を誘致したのだという。だが、住民は毒ガス工場の本当の恐ろしさを何も知らされていなかった。
大久野島にはかつて4〜7件の民家があったが、毒ガス工場建設時(1929年)にはすでに人口はなく、工場の従業員はすべて対岸の忠海町から通勤船で連れて来られた。およそ7千人の従業員が働いていたが、その多くの人が毒ガスによって命を落としたり、いまだに後遺症に苦しんでいるという。
島の南部に「殉職碑」がある。ここには3名の従業員が眠っているが、3名だけが犠牲者だったのではない。工場の医務室には毎日数百人の従業員が押し寄せていたが、労働不能になった従業員は「医務解雇」され、自宅に帰らされた。解雇された後に亡くなった従業員は、全くカウントされていない。
毒ガス資料館には、当時の従業員が来た防毒マスクや防毒服が展示されている。真夏でも防毒服を着なければならないので、相当過酷だったという。しかしそれでも、防毒服のすきまからガスが漏れ入り、身体を確実に蝕んでいったのだ。
毒ガス貯蔵庫跡を見る。
島の西海岸(長浦)に立つ巨大な毒ガス貯蔵庫跡。 貯蔵庫跡は頑丈なコンクリート壁に守られて、岩の谷間に立っている。残っているのはコンクリート壁と、ガスタンクの台座のみだ。
島の南側に立つやや小さい毒ガス貯蔵庫跡。 敗戦直後、日本軍は進駐軍にこの毒ガス工場を発見されるのを恐れ、進駐軍が来る直前にガスタンクを破壊し、火炎放射器で貯蔵庫を焼き、証拠物をことごとく焼き捨てて逃亡した。その後、進駐軍が毒ガスを海洋投棄したり、地下に埋め立てたり、償却するなどして処理したという。
毒ガスは満州で実践に使われ、中国東北部には今でも未処理弾が大量に放置されたままだ。化学兵器禁止条約の規定により日本はそれらの未処理弾から火薬と毒ガスを抜き取って処理することが義務付けられているが、処理するには少なくとも8000億円が必要といわれ、難航しているとのことである。
戦争は決して過去のものではないし、対岸の火事ではない。いま、アフガニスタンへの軍事攻撃が「テロリズムの撲滅」という大義名分の下に行われている。最近ではタリバン政権が人権抑圧をしているからという新たな大義名分が持ち出されているが、欺瞞もはなはだしい。結局、戦争によって被害を受けるのはいつも弱い立場の人間である。毒ガスの場合、誰が被害を受けたかといえば、毒ガスの恐ろしさを知らされずに工場で働かされた忠海町の住民であり、毒ガスで攻撃された満州の人々である。戦争によって社会の底辺の人々が益を得ることはないと言っていいだろう。しかし現在でも、大久野島の教訓が十分に生かされているとはいいがたい状況にある。最近ではイラクがクルド人に対して毒ガス弾で攻撃している。
今回は戦争と平和を改めて考えるよい機会となった。
2001.11.23
●愛犬チャオは日時計・季節時計?
我が家には犬が1匹。名前はチャオ。8歳になるオスの柴犬だ。
そもそも我が家に犬がやってきたのは、ちょっとした偶然の結果だが、つまりこういうことだ……ある日、母が自宅近くの動物病院のそばを通りかかると、動物病院で「誰か引き取ってください」という子犬を3匹ほど玄関近くに置いていた。別の家で犬が子犬を何匹か産み、処理に困って動物病院に預けたものだという。たまたまその犬が目にとまり、犬を飼おうかという話になった。動物病院が預かっていた3匹の犬のうち、どの犬を引き取って飼うか?家族で犬と"集団お見合い"をして、3匹のうち白くておとなしい犬がいいね、と"満場一致"できまり、白い柴犬が我が家にもらわれてきたという次第。無料でもらってきたのだから、最初はまったくお金がかかっていない。もちろん、雑種だから血統書などとは無縁の存在。
もらってきてから、さてどんな名前にするか、考えあぐねた。当初は、昔自宅にあった犬のぬいぐるみの名前を取って"チビタン"にするかという説もあったが、結局はあいさつ言葉の"チャオ"にすることにした。後から気づいたことだが、"チャオ"という名前は発音しやすく、どなりつけるときにとても便利だ(?)。
※チャオ=〔感動〕(イタリアciao)親しい者どうしが会った時、別れる時などに交わす挨拶(あいさつ)のことば。(出典:Microsoft/Shogakukan, Bookshelf Basic 3.0)
飼い始めてから半年ほどは家の中で飼っていたが、その後は家の外に出した。もともと柴犬は屋外犬だし、犬の毛や糞尿が家の中に振りまかれるのはたまらないので、屋外のほうがいい。半年ほど家の中で飼っていたときは、とにかく犬のウンコ・オシッコに家族が振り回されていた。とにかく早くしつけをしないと手遅れになる、という焦りがあった。
まず、決まった場所でウンコ・オシッコをさせることは、そんなに容易いことではなかった。マニュアルによれば、決まった場所でしたときには頭をなでて褒め、それ以外の時には糞尿に犬の鼻先を押し付けて、尻をたたいて叱るというので、それを繰り返したのだが、四六時中人間がついているわけにはいかない。結局いくら繰り返しても、決まった場所でするようにはならなかった。
それから、ご飯のときに、決まった場所に呼びつけることを試みた。人間の言うことにちゃんと従わせるつもりだったが、「おいで」と言ってもなかなかこちらに来ない。こちらはしびれを切らして、実力行使で犬を捕まえに行く。捕り物ごっこのように部屋の中を追いかけ回し、人間のほうが疲れてしまう。ようやく捕まえてご飯のところに連れて行き、食べろ食べろと半ば無理強いする。小さかった頃は、ドッグフードと野菜を軟らかく煮て、雑炊のようなものを食べさせていた。こちらがせっかく作ってやったのに、なかなか食べようとしない。
半年ほどして屋外に犬を飼うようになった。それからは、近くの川の土手に連れて行ってトイレを済ませるようにしたので、糞尿の問題は幸いにしてクリアした。ご飯も、乾いたドッグフードをやっておけばそのうち勝手に食べるから、こちらも問題をクリアした。
屋外で飼うようになって一番困ったことは、吠えることだ。知らない人が来ると、とにかく吠える。特に電気ガスなどの制服組や、犬の嫌いな人、犬にいたずらをする近所の子どもに吠える。不思議なことに、犬は自分を嫌う人を直感的に見分ける力を持っている。犬を「ワンちゃん」と呼ぶが、つくづくその通りだと思う。まさに吠えるから犬なのであって、それをなくしてしまうのは犬のアイデンティティを奪うことに等しい。今にして思えば、犬だから吠えるのはしごく当たり前なのだが、屋外に出してしばらくの間は、そう割り切れなかった。一番心配だったのは、近所迷惑ということだ。近所の皆さんは、さぞ迷惑に思っていることだろう。犬の飼い方を書いたマニュアル本には、吠えさせないためのしつけ方が書いてある。吠えたらすぐに叱るようにしていたが、それも人間が四六時中ついているわけにはいかない。
いくら叱ってもたたいても、吠えるのをやめさせることはついにできなかった。一時は動物病院の獣医さんに相談して、声帯除去手術も考えたが、それでは犬がかわいそうだということで止めた。また、吠えると電流が流れる装置がついた首輪を買って試したこともある。のどのところに小さい装置がついていて、吠えるとセンサーが働いてビビッと電流が流れ、ちょっとした電気ショックを犬に与えるものだ。ちょっと高価だったが、これで吠えるのが止むのならと、思い切って投資した。しかし、うちの臆病なチャオは、電流にショックを受けてもっとギャーギャーとすさまじく吠えた。逆効果だった。
犬が吠えることに神経過敏になり、私のイライラが募る。そのイライラをぶつけるように、チャオが吠えやまないと棒でたたいたりしていた。今にして思えば、動物虐待に近いことをして、かわいそうなことをした。最近、母親による児童虐待が深刻な社会問題になっている。泣きやまない子どもに腹を立てて殴る蹴るという事件を聞くと、その母親の気持ちが、なんとなく分かるような気がする。もちろん犬と人間の子どもとでは、レベルが違うけれども。
しばらくすると、人間が根負けした。たたいても叱っても効果がなかったので、もう叱る気力が失せてしまったのだ。よく「叱られているうちが華」ということわざがある。
尤も、チャオも年をとり、以前ほど吠えなくなったというのが本当のところかもしれない。
我が家で犬を飼うことにした主な動機は、実は散歩のためだ。人間が散歩をするのに、何の目的もないのではやりにくい。そこで、犬の散歩を口実にして人間が運動しようという下心があった。
チャオを屋外で飼い始めてから、家族の誰かが交代で散歩をするようになった。近所を散歩するようになって、とても良かったことがある。近所の地理に詳しくなったことだ。いま住んでいるところに引っ越してから既に20年以上経つが、いくら近所であっても用事のないところにわざわざ足を運んだりしないから、特に裏道はほとんど知らなかった。それが、犬の散歩であちこちをぶらぶら歩くようになってから、近所の地理ににわかに興味を持つようになった。この道を行くとどこにたどり着くのだろうか? ここは何町に入るのだろうか? おっ、ここにこんな店がオープンしたのか! 今日はおもしろい近道を見つけた! ここから見た夕焼けはきれいだな! この畑では何を作っているのかな? といったことをぼんやり考えながら。
今ではすっかり、散歩が生活の一部になってしまっている。
チャオについて書き出すときりがないが、標題の日時計、季節時計のことを書いてひとまず終わりにしよう。 犬がなんで時計なの?と不審に思われるかもしれない。日時計は、説明するまでもなく、太陽が東から西に動いていくとそれに従って影が移動し、時刻を知ることができる装置だ。我が家の場合、天気がよければ、庭の中でチャオの居場所が時間によって変わっていくのだ。冬であれば、移ろいゆく陽だまりの場所を追いかけて日向ぼっこをする。夏であれば、太陽がじりじり照り付けない木陰を選んで涼んでいる。さながら日時計のようだ。
季節時計というのは、……こんな言葉はないと思うが、チャオの行動によって季節の変化を感じることができるという意味だ。夏は、庭の砂利を掘って、砂利の下の土で自分の体を冷やしている。少し歩くと、いかにも暑そうに舌を出してヘロヘロしている。秋になると、日向ぼっこをするようになる。冬になると、濡れ縁の上で体を丸くしてうずくまり、なかなか動こうとしない。最近はめっきり寒くなったので、丸まったチャオをよく見かける。
ちなみにチャオは、雪が降ると小屋の中でじっとして動こうとしない。「ほらほら、犬は雪が降ると喜んで庭を駆け回るもんだぞ。丸くなっていると猫になっちゃうよ。童謡にもそう歌っているんだから」…しかし、チャオには「雪やこんこん」の歌などまったく通用しない。チャオは本当に犬なのか?と疑ってしまう。
2001.11.15
●唯一続けている水泳
私は飽きっぽい人間だが、考えてみればそんな私でも、長く続けていることがひとつある。ずっと息をしているといった類のことではない。12歳から始めて、もうすぐ30歳だから、約18年間水泳を続けていることになる。ずいぶん長続きしたものだ。
水泳をしていて、良かったと思うことが二つある。ひとつは、他人から「あなたはどんなスポーツをしていますか?」と聞かれたときに、「水泳をやっています」と答えられることだ。何もしていないと、なんとなく肩身が狭い思いをしなくてはならないが、「水泳をやっています」と答えると、相手は「ほほう、水泳は全身を動かすから体にいいんですってね」などと言ってくれる。自己紹介のときに、話のタネになる。
もうひとつは、いうまでもなく健康の維持である。水泳をやるようになって、風邪を引きにくくなった、あまり太らない、肺活量が大きい、ストレス解消ができて気分爽快、夜は快眠できるなど、いいことが多い。私に限らず、多くの人が指摘することだ。
そもそも、私は水泳の選手になるためにではなく、健康の維持のために水泳を始めた。
幼い時に肝臓を患った私は、当初西洋医学で肝臓病の治療を受け、栄養のあるものをたらふく食べて、安静にしているようにと厳しく指導された。運動などは一切厳禁で、小学生のころは体育の授業に参加できなかった。だった。病気の話はいずれしようと思うが、たらふく食べて安静にしていれば、当然のことながらブクブク太ってしまう。しかしその後、西洋医学から見放された私は、東洋医学に頼るしかなくなった。東洋医学の先生は、西洋医学とは180度違うことを指示した。つまり、どんどん運動しろというのである。こうして初めて運動を許可されたのは、12歳になってからだった。
それでも最初に、近所のスイミングスクールに行ったときには、「もう二度と水泳に行きたくない」と駄々をこねたものだった。人前で着替えて裸になるというのも初めてだったし、プールの水に入るのが怖かったというのもあった。いま思えば笑い話だが、12歳の私は、スイミングスクールの最も初級のクラスに入り、私より何歳も若い子どもたちに混じって、半ベソ状態になりながら練習をしていた。プールの岸に腰掛けてバタ足をしたり、岸からプールにボチャンと飛び込んだり、10秒間顔を水につけたり、・・・特にプールにボチャンと飛び込むのが怖くて苦手だったことを良く憶えている。
小学校6年生から始まったスイミングスクール通いは、高校1年まで続いた。この頃までには、4泳法をマスターして、水泳が好きになっていた。その代わり、他のスポーツは一切ダメで、ぜんぜんやる気が起きなかった。かけっこはもちろんビリ。体も硬いので、柔軟体操をしても上体が前に曲がらない。球技もさっぱりで、体育の授業でサッカーの時間は、グラウンドでわざとボールの来ないほうに移動して、日向ぼっこをしていた。バレーボールでも、私が受けたボールはたいてい、あらぬほうに飛んで行き、周囲のひんしゅくを買った。
水泳が得意だといっても、学校の体育の時間の中で、水泳の占める割合はごくわずかで、多くは陸上や球技に時間が割かれている。自慢ではないが、中学校も高校も、通信簿の体育の評価はいつも5段階評価の1か2だった。3以上になったことは一度もない。
私の行った高校は、生徒の人数が少なかったせいもあって、部活動を組織するまでにはいたらず、「同好会」(サークル)しかなかったが、私は高校1〜2年生の2年間、水泳同好会に入って、学校のプールで水泳を続けた。高校の時期で一番印象に残っているのは、「潜水10本」だ。「潜水10本」というのは、同好会の先輩が指示した練習メニューのひとつだったが、要するに25mプールの端から端まで水にもぐりながら移動するのを、10回繰り返すという意味である。やれと言われたときには、25mの潜水を1回やるだけでもキツイのに、それを10回もやるなど、信じられなかった。しかし、どうも先輩は冗談ではなく本当にやらせようとしていることが伝わってきたので、私などはやらざるを得なかった。その同好会にいて、「潜水10本」などというのはそのとき1回きりで、後にも先にもなかったが、その経験は「自分にもこんなことができるんだ」という自信につながったように思う。
今では週2回、近所のスイミングスクールに通い、おじさん・おばさんに混じってノンビリと泳いでいる。高校3年生のときに入って、それ以来もう12年以上経った。スイミングスクールの会員証には高校生のときの丸刈り頭の顔写真が今でもそのまま貼ってある。過ぎてみると早いものだ。
12年以上経って、自分自身だいぶ変わったなと思うことがある。それは、足が衰えたことだ。スクールに通いだしてしばらくの間は、腕よりも足で、しかも力任せに泳いでいた。若いうちは体力があるから、どちらかというと技よりも力で泳ぐ(ことができる)。しかし、「老いは足から来る」という言葉どおり、次第に足の力が弱ってきて、腕の力を中心に泳ぐようになってきた。まだ20歳代で「老いは足から」なんて冗談じゃない、そんなことを口にするのは20年も早い、と思われるかもしれないが、泳いでいると実感する。
水泳では、足だけを動かして泳ぐことを「キック」、腕だけを動かして泳ぐことを「プル」、腕と足の両方を動かして普通に泳ぐことを「スイム」と呼んでいるが、20歳代前半ぐらいまでは、「キック」のほうが得意で、「プル」ではあまり進まなかった。今はその正反対で、「キック」だとすぐに足が疲れてだるくなってしまう。自分だけ、足の筋肉がなくなってしまったのかと思っていたら、一緒に泳いでいる他の人たちも、共通しているらしい。
今日も1500mほど泳ぎ、ストレス発散をしてきた。・・・といっても、もともとあまりストレスがないのだが(あるいは鈍感なのでストレスを感じない?)。
2001.11.7
そんなわけで、私の問題意識は根底のところでは一貫しているつもりだが、実際の研究対象はいろいろと移り変わってきた。
●あいまいな鵺(ぬえ)の私(3) 自分の専攻を尋ねられて、協同組合を研究していると答えたこともあるし、労働組合運動だと言ったこともある。今では、NPO(非営利組織)だと答えている。いま日本ではNPOがブームになっていることもあって、NPOだと言うと分かってくれることが多い。以前に比べて多少とも自分の専攻を説明しやすくなったのはありがたいことだ。
しかし、自分のアイデンティティを完全にNPOという組織形態に一致させることができるかどうか、疑問が残る。
多くの研究者は、協同組合なら協同組合に、労働組合なら労働組合に、NPOならNPOに、社会教育なら公民館に、自らを特化させて、その枠内で一定の理論枠組みに沿って研究を行う。自分もそうしなければと思いながら、根無し草のようにフラフラとさまよい、いずれのグループにも自分のアイデンティティを見出せずにいる。まるで、鵺(ぬえ)のように。
私のことを「鵺(ぬえ)」だと指摘したのは、他でもない、私の敬慕する元指導教官、藤岡貞彦先生(一橋大学名誉教授、平成帝京大学教授)である。この先生は、実に人の性格を眼光鋭く見抜いてしまう。
「鵺(ぬえ)」とは、広辞苑第5版によれば次のとおりである。
「ぬえ【 ・鵺】
(1)トラツグミの異称。 夏 。古事記上「青山に―は鳴きぬ」
(2)源頼政が紫宸殿上で射取ったという伝説上の怪獣。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に、声はトラツグミに似ていたという。平家物語などに見え、世阿弥作の能(鬼物)にも脚色。転じて、正体不明の人物やあいまいな態度にいう。」
今ではよく「ぬえ的な存在」という言い方をするが、要するに「正体不明の人物、あいまいな態度」という意味で使われる。もちろん、自慢できることではない。
世の中では、「この道一筋に生きてきた人」が高く評価され、○授褒章をもらっているが、あちこちフラフラしてきた人はヒンシュクを買うだけで、何のご褒美ももらえない。加えて、私の性格はきわめて飽きっぽいときている。私はそういうご褒美の対象から真っ先にはずされるタイプの人間であること、請け合いだ。
2001.11.3
自分の専門としていることを一言でスパッと表現できる人を、私はうらやましく思う。私の場合、一言でうまく説明できる表現を見出すのは難しい。他人に自分のことを説明しようとするたびに、自分っていったい何者なんだろう?と思ってしまう。
●あいまいな鵺(ぬえ)の私(2) 以前、私は専攻を「教育学です」と言っていた。しかし一般に教育というと、学校教育を意味する。しかし私の場合は、成人を対象とする社会教育(あるいは生涯学習)だ。
日本社会教育学会という組織があって、私もその一会員であるが、私のように労働者の教育・学習(しかも職業訓練ではない)に関心を持つ人は、いまやほとんどいない。学会の中に、はっきり言って私の居場所などはないと言っていい。教育学や、社会教育に関心がないわけではないが、しかしそれを自分のアイデンティティと位置づけられるのか?
また、私の専攻を「協同組合運動」と答えたこともあった。しかし、協同組合研究の中で、協同組合の労働組合活動はほとんど研究する人もいない。日本協同組合学会などを見ていると分かる。
あるときは専攻を「労働組合運動」と言ったこともある。しかし、伝統的な労働組合研究では、組合の組織論や労使関係などに関心が集中し、労働の質(喜びや満足、生きがい)に関する組合活動はほとんど着目されていない。社会政策学会や、労務理論学会などを見ていると分かる。
私が研究の対象としたのは、学部のころは中小企業やゼミのOBなどで、修士課程のころは労働者協同組合や労働者自主管理企業で、博士課程のころは生協の労働組合を中心としていくつかの労働組合の活動だった。さらにその後は、建設業の労働組合の調査なども行った。そして現在では、非営利組織(NPO)のマネジメントを専門にすることとなった。
研究対象の移りかわりを見ると、あまり一貫性がなく、いろいろなところをフラフラとしていたように見える。まあ、事実そのとおりで、ひとつの対象にじっと腰を落ち着けてねばりづよく研究し続ける根性が欠けているのかもしれない。
確かに研究対象はさまざまに移り変わったが、自分の中では根幹の問題意識が一貫していたと思う。では、どんな問題意識だというのか。
多くの人は労働に喜び、満足、生きがいを見出したいと願っているが、多くの矛盾を抱えた現実の社会の中で、人はなかなか労働に喜びや満足を見出せずにいる。原因はいろいろある――反動的な国の政策であったり、市場競争であったり、トップダウンの組織運営であったり――単に個々人に責任を帰することのできない社会矛盾が。
ただ、労働の喜びや満足と言っても多様な内容を持っている。私は、なかでも「労働の社会的意義」を重要と考えた。自分のやっている労働に社会的な存在意義を見出すこと、社会の中で自分の労働がどのように役立っているかを明らかにすることが、労働の喜びや満足をもたらすのだ。反対に、自分の労働の意味をなかなか見出せなかったり、「なぜこんなことをしなければならないのか?」などと矛盾を感じたりすると、喜びや満足はずっと小さくなってしまう。
そうしたなかで、労働に喜びや満足を再び見出すために、誰によっていかなる努力が営まれているのか、あるいは営まれるべきか、を明らかにしたいというのが私の問題意識であった。
その具体的な事例として労働者協同組合や自主管理企業、生活協同組合、労働組合、さらには非営利組織を調査研究してきた。こうした組織は、喜びや満足の得られる労働をめざして日々活動し、成果を挙げているが、それぞれに困難も抱えている。激しい市場競争であったり、政策の厚い壁であったり、人材や資金の不足であったり、非民主的な組織運営であったりと、それぞれの組織によって困難の種類は異なるが、いずれにせよ困難を乗り越えるために、集団的・組織的な努力を重ねなければならないことははっきりしている。
とはいっても、すぐに答えの出るような甘いものではないのだが・・・・・・。
(次に続く)2001.10.30
●●あいまいな鵺(ぬえ)の私(1)
自己紹介で、私は大学に行っていますと言うと、ほとんどの場合、相手が反射的に質問してくる。
「ご専門は何ですか?」「学部はどちらですか?」
私は以前から、こういった質問が大の苦手だった。何と答えればいいのか、正直言って分からない。
大学や研究機関などではなく、一般の企業に勤めていれば、職業は「会社員です」の一言で済むし、たいていの場合、相手はそれ以上詳しい情報を求めたりはしない。何というか、日本には「会社員」という妙な職業が存在していて、これが意外と平気で通用しているのだ。私が思うに、「会社員」というのは単に会社に雇用されていますというだけの意味で、職業の種類とは何の関係もないはずである。しかしそれなら、「会社員」ではなく何と言えばいいのだろう。・・・それはさておき、自分も普通の「会社員」なら、面倒な思いをしなくてすむのになぁ、と何度思ったことか。
大学の学部生だった頃。社会学部にいた。一般に、経済学部や法学部、経営学部などは専門的な知識がなくても、比較的イメージしやすいと言える。だから、そういう学部の名前を挙げれば、相手もなんとなく納得したような顔つきになって、それ以上追及してこない。しかし、「社会学部」というのはいったい何をやるところなのか、イメージしにくい。特に印象的だったのは、健康診断で病院を訪れたときに、ある看護婦さんから「シャカイガクブってどんなことやるの?時事問題とか?」と聞かれた。私はそのとき、「ハァ」と笑ってごまかすしかなかったが、おそらくその看護婦さんは、新聞の社会面に載っている、いわゆる「三面記事」を連想したのだろう。
私だって、大学に入るまでは、実際のところよく分からなかった。進研ゼミの付録に、それぞれの学問分野についての簡単な説明が書いてあって、それを読むと、経済学は経済のことだけを研究し、法学は法律だけを研究するが、社会学はあらゆる学問分野にまたがって独自の視点から研究する、といったようなことが書いてある。そういう理解が果たして学問的に正しいかどうかは別として、高校3年生だった当時の私は、社会学というものに興味を持ち、その結果社会学部に入った。といっても、社会学については付録に書いてあること以上の知識は何一つ持ち合わせてはいなかった。今でこそ、大手予備校が大学の講義や教師陣について詳しいデータを市販しているが、私が大学受験した当時は、大学選びの基準はほぼ偏差値しかなかったように思う。
私の入った一橋大学の社会学部は、狭い意味の社会学(sociology)に限らず、社会科学全般(social sciences)を扱うもので、英語名は確か、the faculty of social sciences である。社会科学全般といっても、大学には他に商業、経済、法の3学部があるので、それ以外の分野全般である。より具体的には、哲学、社会思想、文学、教育社会学、政治学、体育学、地理学、歴史学、文化人類学など、実に多様な専攻に分かれている。
私が属していた専攻は、教育社会学である。教育社会学という学問はあまり世間では知られていないと思われるが、要するに社会学の一領域で、教育の営みが社会の中でいかなる役割を果たしているかを客観的に観察・分析するものである。
たいていの場合、正面から厳密に説明をしていこうとすると、相手はこのあたりから次第に私の説明にウンザリしてくる。しかし、厄介なのはここからだ。
教育社会学の分野には、4人の教授・助教授がいて、それぞれ専攻が異なっている。しかもその専攻は、教育政策、社会教育(生涯学習)、比較教育、歴史、そして教育社会学と、バラエティに富んでいる。看板に掲げてある「教育社会学」の範疇にはとても収まらない。そこで、この教育社会学講座では、「教育社会学」の定義を狭い意味の教育社会学にとどめず、「教育と社会の関係を研究する学問」という、もっと広い意味に定義しなおした。
私はこの中で、社会教育(生涯学習)を専攻に選んだ。「教育社会学」と「社会教育」は、「教育」と「社会」の語がひっくり返っているので、それだけで混乱してしまう人もいる。念のために言うと、社会教育とは、学校教育・家庭教育以外のところで行われる教育を意味している(場所的な概念)。ちなみに生涯学習は、学齢期の子どもに限らず、成人も生涯にわたって学習し続ける存在であるという考え方(時間的な概念)で、1970年代後半以降世界的に提唱されるようになった。
社会教育研究が主に対象としてきたのは、公民館を舞台とした成人の学習活動である。もちろん、公民館だけでなく図書館、博物館、児童館といった社会教育施設、労働組合による教育なども広く範疇に入るのだが、一般には公民館をイメージすることが多い。しかし私の場合は、公民館にはさほど興味を覚えず、労働者による学習活動に興味を引かれた。
労働組合運動が盛んだった1950〜70年頃までは、労働組合による学習活動も、またそれの研究も盛んに行われていた。しかし1970年代以降労働組合運動が下火になると、研究もほとんど見られなくなってしまった。いまでは、社会教育研究の分野で労働者・労働組合を扱う人はあまりおらず、非常にマイナーな領域に押し込められて肩身の狭い思いをしている。・・・これまた、自分の専攻を説明するのにやたらと骨が折れる。
(次に続く)
2001.10.28
●"ひとりごと"を始めたワケ
先日、久々に旧友に会った。
夜10時過ぎ、ようやく自宅の最寄り駅にたどり着いた私は、疲れた足を引きずるように帰途につこうとしていた。
その駅のホームで、旧友によく似た人物を見つけたのだ。もしや人違い・・・なんてことはなく、間違いなくK君であった。うれしかった。
K君とは、小学校6年生から高校3年生までの7年間、同じ学校に通った、私の数少ない親友の一人である。自宅も互いに1km弱しか離れていない。
だが、大学を卒業してからK君は遠方の企業に就職し、下宿したこともあって、年賀状のやり取り以外はほとんど連絡が途絶えていた。その彼が転職のため戻ってきて、もとの家から職場に通うようになり、最寄り駅で私と会えた、という次第である。
その後、夜も10時を過ぎているというのに(しかも外で!)立ち話が盛り上がり、1時間以上も話し込んだ。
K君は、時々私のWebサイトを見てくれていたという。えっと驚いた。そうか、見てくれていたのだ。・・・でも、私の個人Webサイトは、最近ずっと更新をサボっているし、内容的にもあまり面白いとはいえない。せっかく見てくれたのに、多分つまらないと思っただろう、申し訳ないことをした。
K君は、何か日記とかエッセイのようなものを載せたら、と提案してくれた。なるほど。それはいいアイディアかもしれない。今までは論文だとか書評だとか、硬いものばかりで、ほとんど誰もが読む気にならないような代物ばかりであった(書いた本人でさえ見る気にならないのだから?)。そういうものとは別に、肩ひじ張らず、自分の思ったままにおしゃべりするのもいいかもしれない。
ウン、親友はなかなかいいヒントを与えてくれた。
・・・とまあ、そんないきさつで、Webサイトの冒頭に、「ひとりごと」というコーナーを設けることにした。面白い内容になる自信はさっぱりないが、とりあえず思いつくことをこれから書いてみたい。
新聞などには、すでに功成り名を遂げた著名人が、エッセイを書いている。それなりの仕事をしてきた人の言葉には、ずっしりと重みが感じられる。他方、自分のように、これといって実績もなく、立派な活動に従事しているのでもなく、特に秀でた才能があるわけでもない、要するにボンクラな人間は、果たして人様に語れるような内容を持っているのだろうか?
語るべきことは、もはや何も残されていないようにも思える。・・・まあ、そんなに堅苦しく考えると何も書けなくなってしまうじゃないか!。小関隆志という人間がいったいどんな人物で、何を考えているのか、ということを、この小文からいくぶんでも感じ取ってもらえればいいかなとも思っている。
・・・それがどうした、って言われれば、それまでのことですけど、ハイ。
--アクセス数19876回突破を記念して--
2001.10.27