9人兄弟、8番目
戦争のさなか、・・・・植木 保・ときの子ども9人兄弟8番目、次男として群馬県高崎市寄合町37に生まれる(1944年・昭和19年4月12日)。戦前は金物屋でしたが戦争が激しくなるにつれ金物を供出することになり廃業、戦後は金物屋の屋号「かまや」のまま、呉服の行商をしながら本店、分店を構えるまでになる。実家のある新潟県、柏崎市に長女が住んでいたので夏休みなどは柏崎で海水浴、セミとり、植物標本づくりなどで過ごすほうが多かったのを覚えています。
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エジソンにあこがれる少年
戦後の民主教育を受け、のびのびと育ち、高崎市立中央小学校、高崎市立第二中学校で学び、たびたびクラス委員を引き受ける。部活では理科部に所属し科学実験や鉱石ラジオの製作に夢中になり、電気の発明家・エジソンにあこがれる少年でした。自然が大好きで魚釣りや化石さがし、ガーデニングに夢中になってあそびあるく少年でもありました。また、自宅では、忙しいときにはお店番や手ぬぐいたたみを面白がって手伝いました。町内にあった教会にも行事のたびに参加するにわかクリスチャンも経験し、今考えれば、弱きを助けの精神をここで学んだように思えます。
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(1957年)・高崎市立中央小学校を卒業
(1960年)・高崎市立第二中学校を卒業
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青春を謳歌、成績はどんどん落ちる一方
高校生活(県立高崎高校・1963年3月卒業)では朝は美術部でデッサンを、昼は理科部や数学部で過ごし、夕方にはまた美術部で油絵にとりくむなど学業よりも青春を謳歌していました。特に美術部では先輩の別荘で製作や美術談議に花を咲かせ、展覧会も開くなど夢中になっていました。おかげで成績はどんどん落ちる一方、一浪してから発奮し国立千葉大に。
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うたごえは平和の力、社会に目ざめて
エジソンにあこがれて入学(国立千葉大学工学部電気科)したはずが悩める青春から、社会に目ざめて走り出しました。電気科の卒論はマイクロ波の実験をしましたが成果のほどは疑問でした。しかし、高校のとき街頭で行っていた原水爆実験反対の署名をしたことがきっかけで社会運動に関心を持つようになり、大学入学後、岩手や秋田の"へき地"の学校訪問や原水爆禁止運動、「平和のうたごえ」運動に参加、歌が苦手なはずなのに合唱団「ウボイコール」で運動の先頭に。
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(1969年)・国立千葉大学工学部電気科卒業
(1963年)・群馬県立高崎高校を卒業
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超音波探傷機の製作
日本電波工業株式会社に入社し研究部に所属、その後、電子機器部となる。
超音波のドップラー効果をつかって傷を発見する超音波探傷機やお腹の胎児の健康状態をはかる心音計の研究開発部門で働いていました。昼休みや夜は組合をつうじて平和運動に取り組んだり、労音運動にも夢中になるなど、仕事と活動の両立は実に大変でした。
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労音運動をつうじて結婚
職場の労音サークルで昼休みに屋上での「うたう会」、地域の労音ではミュージカル「青春」にとりくみ青年との交流をたえずおこなってきました。そんな中で、わたしはミュージカルの副委員長をしていましたが、実行委員長・中川アイ子と結婚(71年11月3日)、仲間による手づくり結婚式をあげ今日にいたっています。
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(1969年から72年)・日本電波工業株式会社に入社、研究部→電子機器部
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親兄弟から猛反対・日本共産党赤旗渋谷分局に
組合や労音運動に真剣にとりくむ私に、共産党の専従活動家にならないかとの要請があり、悩んだ結果、赤旗渋谷分局員になった。私は自分の人生の方向づけが決まり、政治革新のために尽くそうと意気込んでいましたが、親・兄弟は心配して家族会議を開くなどで大変な思いをしました。当時はなかなか理解されませんでした。今では良き理解者です。
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中野革新区長選対策事務局次長をきっかけに住民運動に
革新中野を守れと区長選挙の事務局次長(86年)を引き受け、寝ずの奮闘。「ともにつくろう人間のまち、中野」「憲法擁護・非核都市・中野」を合言葉に広範な市民との共同を広げ当選を勝ち取る。前後して「国鉄の分割民営化に反対する中野連絡会」に共産党を代表して参加。教育委員準公選の運動にも参加。
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三期十二年の議員活動、初心忘れまい
後藤マン都議会議員秘書、区議会議員選挙(落選)をへて89年7月、都議会議員選挙で当選、45歳。有楽町の歴史的な都庁舎で始めての議会を経験、見ること、なすことすべてびっくりでした。視察では一流ホテルに泊まり、黒塗りのハイヤーを特権であるかのように乗り回す議員がいる、「先生」と呼びあう不思議な世界に飛び込んだ気分でした。
そこで都議会の改革に取り組み、(飲み食い)懇談会の中止、豪華海外視察を改善・凍結させてきました。また、黒塗りのハイヤーは公務以外に乗らない、バスや地下鉄の無料パスを返上するなど徹底的に改善させてきました。つねに、庶民の心、初心を絶対に忘れまいと戒めて着ました。都民の声を生かすための質問づくりは実態調査から始まって、聞き取り、質問書き、チームでの検討と真剣勝負、準備が不充分なときはいつも胃が痛くなる思いです。問題点に突き刺さった質問ができたときは気分爽快です。特に、住民の声が生きた形で質問に反映でき、行政の姿勢を正したときはこんなにうれしいことはありません。「調査なくして質問なし」とはよくいったものと感心。都民の期待に応え切実な要求を反映させるため努力、努力。
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都議会第二党の重み
97年の選挙で26人に躍進、約20%の議席占有率、国会議員に比較すると100人の議員に匹敵。本来、副議長は第二党がなるのが通例ですが、自民党、公明党が阻むという異例の結果になった。しかし、第二党として住民の要求をとりあげ、水道料金など公共料金の一斉値上げを2度にわたってストップさせてきました。乳幼児医療費助成の年齢制限を入学前まで引き上げ、所得制限を緩和させてきました。また、日本共産党が独自の都議会情報公開条例案を提案し、各党をまきこんで都議会情報公開条例を策定しました。
この間、福祉手当のきりすての影響や介護保険の影響など多くの分野で実態調査を繰り返し行い、広く都民の切実な要求をとりあげてきました。そして都民要求を反映させた予算にするために予算組み替え案を提案し都議会第二党にふさわしい奮闘をしてきました。
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捲土重来にまい進、こんどこそ
2001年6月、都議選で落選、支援してくださった多くの住民の方々の姿は、忘れられません。捲土重来を期して全力投球しています。ぜひ力を貸してください。
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