関東学院女子短期大学同窓会 香葉会事務局
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香葉 NO.10 記念号
昭和56年(1981年)発行

ここでは親子座談会の記事を読むことができます。
座談会


 編集部では親子二代で短大生活を過ごされた卒業生、または在学している方々にお集まり願って、座談会を計画しましたが、色々御都合もあって次の方々に御出席願うことになり、五十五年十月四日に会を持つことができました。出席者は、
青木千恵子(英文二十八年卒)
青木美恵子(国文五十四年卒)
藤田 功子(英文二十九年卒)
藤田 直美(英文一年)
西村 恵子(家政三十年卒)
西村 雅恵(家政二年卒)
です。司会は上市事務長にお願いいたしました。途中で楽しいお話に、ついつい聞いているだけではいられなくなり、編集委員もしゃしゃり出て、お仲間に入れていただきました。

編集委員
皆さん、お忙しい所をお集まりくださいましてありがとうございます。香葉の発行にあたっては、少ない予算の中でいろいろな問題がありながらも、卒業生の皆様のご協力で第十号まで発行するまでになりました。十年のひとくぎりを迎え、また今年(五十五年)は短大の創立三十周年ということで、歴史を感じさせられます。そこで、最近の短大と、創立当時の短大を、親子二代で過ごされた方々に、そのときおりの色々な思い出を含め、お話ししていただき歴史を振り返ってみたいと思います。それでは、どうぞよろしくお願いいたします。

上市
今年は短大が三十周年を迎えましたが、従来うちの学校には、校歌がなく、カレッジソングなど高等商業部時代のを使っていまして、今回初めてできました。今までは大学の校地内にあって、短期大学というものの存在が薄かったのですが、今度は、学校としての形体が整ってきて、対外的に独立してスタートしていく年になってきたわけです。それでどうでしょうね、最初はやはり、若い方よりも、おかあさん方に思い出を語ってもらったらいかがでしょうか。年代を追って行くと、二十八年卒が青木さん、二十九年卒が藤田さん、三十年卒が西村さんですね……。今だに新入生を迎えるにあたり、学院物語とスライドを見せて学校の歴史を話しているんですけど、その中にちょうど青木さん達が卒業した時の写真があるんですよ。

青木・母
なぜ見せていらっしゃるんですか?

上市
と言うのは、卒業式の時、洋服の人と和服の人とが入り混ざっているんですね。

青木・母
たしかにデクちゃんは着物で、袴をはいてましたね。

上市
そうそう。着物もいればワンピースというか、ずーっと長いくるぶしのところまであるような洋服で来ている人もある。かと思うと、スーツで来ていたりね。たいへん見づらいということで、ガウンになったんですよね。そうすれば平服で来てもガウンさえ着けてしまえば、卒業式をみんな揃ってできますからね。

青木・母
校風なんてものもはっきり定まっていませんでしたからね。卒業式の時のその服装ということも、たいへんそれぞれで心配しました。

上市
それから、二十六、七年は食糧事情も悪かったり、校舎なんかもひどかったのですが…。

西村・母
当時の私達は、こちら(六浦)へ移ってきた時の家政科ですが、追浜に駐留軍の飛行場がありまして、授業中に窓ガラスが揺れるんですよ。

上市
ヘリコプターがよく飛んできましたね。

西村・母
そうなんです、ヘリコプターの音がガラスに響きましてね。わずか三十二名の小さいお教室の中で、声が聞こえなくなってしまうんです。それから、私なんか体が小さいのに、よく廊下を踏み抜きまして、(笑い)またおけいちゃんが踏み抜いたって言われて、よく笑われましてね。

上市
次に、お嬢さん方に聞く前に、家庭ではどうですか?その、「学校ではこういう事があった。」「まあそう、私達の時にはこうだった。」というような会話は出ませんか?

西村・母
うちは、二人がそろって家政科ですから、まず礼拝堂の話が出て、それから調理室の話が出ますし、この間リトリートから帰って来て、「おかあさん校歌が出来たのよ。」って言うんですね。校歌の話がでますと、うちはみんなで歌うんですよね。そうすると、これも校歌ね、あれも校歌ね。でもこれは短大のカレッジソングだし、と言ってよくもめていましたのね。でも今度は、ちゃんと校歌が出来てほんとうにおめでたいと思います。歴史を感ずると共に、ただなつかしいだけじゃなくて学校としての体型がどんどん拡大して行くという意味ではとてもうれしく思いますね。

上市
なにしろカレッジソングというのは応援歌みたいなものだそうですからね。学院歌というのは、明治十七年のバプテスト神学校設立から数えてという、開学八十年記念式の折に作った学院全体の歌で、学院の諸学校全部で使うというのでしょ。西村さんの他に、藤田さんのご家庭ではどうですか?

藤田・母
私共は、まず子供が幼稚園に入るころに、主人が男の子はぼくが学校を選ぶ、じゃ、娘はおかあさんが、ということで、もう関東学院へ入れるつもりでおりました。高校のころに、柳生先生を新聞などで見まして、「ママの先生が出てるわよ。」などという事で、親子ですごく新聞を見るのが楽しみで、父親は父親で息子と見るのが楽しみというような。

上市
なるほどねえ。おもしろいねえ、そういう家庭もね。三春台だとやはり『いんまぬえる』などが家庭に運ばれるわけですね。青木さんのところはどうですか?

青木・母
うちは、私が役員をずうっとやっている関係で、学校の状態を常に私が知っているんですね。だもんですから特にあまり話しあいをしなくて、でも私が感じた事は、私達のころにあった礼拝が今はあまりないという事ですね。私がそういう礼拝で育っているもんですから、なんかパッと鼻歌まじりに出てくる歌はわりと、讃美歌が多いんですが、子供達にはそういうのがないんですね。

青木・子
礼拝は毎週金曜日で、昼休みかなんかでしたけど、次の時間との兼ね合いもありまして、なかなか出られないという感じで、たとえば授業前にやってくれた方がいいですよね。

青木・母
私達の時には、朝の一時限目と二時限目の間にありましたね。だからほとんど出ないわけには行かなかったし……。強制じゃなかったんですけど、やはり一応義務みたいな感覚でちょっとはいやでも出ていると、それが時にはハッと思いがけなく先生のお話が心に残りました。それが後日になってしみじみと、「ああ、そうか。」と分かっていって、そういう過程を経て一種の人間性が形成されていくようなところが、他の学校にないミッションスクールの良さじゃないかなというふうに私共は思っていますけどね。

藤田・母
ほんとうに、礼拝があって讃美歌をやる雰囲気というのはいいですよね。

上市
だからそれで天城山荘はぜったに欠かすことのできないということなんです。

青木・母
あの、リトリートで天城山荘を使うようになったのは、私達よりずっと後なんですよね。私達の時はそういうきちっとしたのがなくて、箱根などの旅館を借りて行っていましたので、どちらかというと宗教的な雰囲気からちょっと離れていましたけど、それでもやはり方々から集まってきた生徒がその機械に親しくなるって事が別にありましたね。

編集委員
あの、お嬢さん方はリトリートに行ってみてどんなことが心に残っていますか?

西村・子
みんなプリントを見た時から、礼拝ばかり多くて行きたくないっていう人が多かったんですよ。(笑い)せっかく天城に行くから、どこかいろんな所へ行けるとみんな想像していたら、礼拝に釘付けみたいになってしまって、それに『奇蹟』という題は、とてもむずかしい題でした。私、アドバイザーの先生にもお話ししたんですが、私はずうっと小学校からキリスト教の教育を受けてきてもむずかしいのに、みんななんか初めてキリスト教を受けて、『奇蹟』というのを、ただ「偶然にあった事」としか思ってなくて宗教的に考えてないんですね。だから、『奇蹟』というのは、あると思いますとか、ないと思いますとか、「偶然にあった事」は『奇蹟』とどう違うとか、そういう事にしか話が発展しないんですね。ですから、もうちょっと簡単な題で、先生がたくさんいらっしゃるのですから、いろいろな先生方のお話を聞けたら良かったのじゃないかなと思います。

編集委員
では、アドバイザーグループの事はどうですか?

青木・母
子供と話していると、子供なんかがうそだと思うくらい私達は先生方と密接だったんですよね。ですから、先生と生徒の間が兄妹みたいで、「おい千恵子」って言ったような調子で……。だから柳生先生にも授業ではなく、個人的に何かする時には、「おちょこ!」って呼んだんですよ。

上市
直行と書くからね。

青木・母
それでも先生はおこらなかったし、でも、授業の時は先生の事を先生として、言葉づかいのけじめはつけていましたよ。

青木・子
アドバイザーグループの先生も、今は、学生の人数が多いという事で、面倒見きれないと思います。私はアドバイザーの先生というよりも、むしろ千葉先生がスポーツの趣味がおありになって、私が二年の時に、個人的に取らなくても体育を取っていて、テニスの合宿にいっしょに行ってすごく楽しかった。それが一番の思い出なんですね。

西村・子
機会さえあれば、天城に行った時なんかも、先生と仲良くなれたのだから、学校で計画したり、アドバイザーの委員を決めて計画してくれれば行くけども、そういう機会がないから、あまりまとまらないのじゃないかと思います。

西村・母
私達は学校から計画してくださったものというのは、それほど数はないですね。

青木・母
私なんかの時はね、レコードコンサートをしましょう、ソーシャルダンスの会をしましょうなんて言うと集まるんですよね。場所って言ったら地下室の薄暗いつまんない所ですよね。でも積極的にやって来たから後になって楽しかったのかなと考えるんですけど。

西村・母
ボランティア活動でも、そういうのは、私達の時は宗教部が主催になって、人形劇やっていたんですが、人形を持って孤児院、戦争孤児のですね、そういう施設に慰問に行ったり、養老院へ行って雑巾をぬってあげたり、おむつを洗ってあげたり、お掃除したり肩をたたいたりしました。

藤田・母
宗教部に入ってなくても、慰問に、各家庭に行ったのを覚えております。カリエスなどで寝ている方に……。

西村・母
課外活動でね。

西村・子
授業が終わってから?

上市
そうそう。放課後ね。今みたいに五時半までってのはないからね。

編集委員
では、今放課後はどんな事をしていますか?

藤田・子
友達といっしょに雑談したりしてます。おいしい食べ物屋さんの事や洋服の事とか情報交換しています。あと、まだ一年生なんですが、就職の事を話す時もあります。私は高校が三春台だったので、三春台からの友達が多いのだけど、短大でまた今までとは違った人達と話しあえる事も楽しいですね。あと、旅行へ行ったり、千葉へ夏休みに友達と二泊三日で泳ぎに行きました。夏休みには、お料理もしたり……。

藤田・母
お料理のレパートリーが増えたわね。

西村・子
結局、今と昔は環境が違うから、関心が違うし、昔はあまり遊ぶ所がなかったけど、今は余暇があって、レジャーとかスポーツなどがのびてきているから、どうしてもそちらの方に関心が行くのだと思います。

編集委員
そうですね。あと服装の事などに話を向けますと……。

青木・母
そのころは、駐留軍の人達がたくさんいまして、みんなフレヤーのペェーラ、ペェーラした長いスカートを揺らしながら歩いていましてね、私達も真似して着てた事もありましたね。

西村・母
私は、戦災をまぬがれた、横浜に何台きりしかないという、シンガーミシンをちょうど母が持っていましてね。私の家にお友達が何人も集まって、スカートを縫ったりして、それも白い生地しかなくて、それに自分で刺しゅうしたり、絵具で描いたらどうかと思って、でも今みたいにすばらしい顔料がなかったから、にじんでしまって、ベソかいたりした事もありました。ですから今の学生さんを見るとカラフルで、ほんとうに楽しんで学生生活をして学んでいるので、そういう点ではとてもいいなあと思います。

編集委員
今はどうですか?

藤田・子
ちょっとカラフルなのを着ると「そんな派手な格好をして」と言うんだけど、でもね学校へ行けばもっと派手な人もいるんだし……。(笑い)

上市
夏の場合ね、海辺で着るようなのを着てくる人がいて……。

編集委員
タンク・トップみたいのですか?

上市
ちょっと僕らが見てもひどいなあって思うね。

西村・母
いつの時代も親が言う事は同じですね。遊びとけじめをつけるという事ですね。

上市
では、今度は夢を語るという面では、六浦から大船へ行く道に朝比奈峠がありますね。あそこの右手の山を、二年がかりで交渉しています。今の六浦の校地が十二万平米あるんですが、今度買う所は十六万平米もあり、短大と大学でつかうのです。そこが手に入りますとテニスコートだけでも四面ぐらいできます。ですから、管理さえうまくやれれば、日曜日などは卒業生も使用できるようになると思いますよ。それから、今くすぶっている話では、公開講座を来年あたりからやりたいと言うことですが……。

青木・母
是非ともお願いしたいですね。

上市
そうやって地域社会に貢献していく面でも卒業生の還元をしたいということですね。

(四時五分のチャイムが鳴る)

編集委員
では、チャイムも鳴りましたので、この辺で。今日はおかあ様方の学生時代の積極性にとても感心させられました。楽しい思い出話をどうもありがとうございました。