和歌が刻まれた碑

容保公は二千首以上の和歌を残していますが、そのうち六首が碑に刻まれています。
白虎隊を悼む歌、若松の発展を願う歌、自然を歌った歌が選ばれているようです。
(手持ちの写真で、歌碑の正確な文字が確認出来てない部分があります。)

幾人いくたりの涙はいしにそそぐとも その名はよよに朽じとぞ思ふ

白虎隊慰霊歌碑 【所在地】会津若松市/飯盛山 白虎隊士の墓の左側

確か明治17年の墓前祭に際しての歌...だったと思います。
(一番有名なのに...(^^;) 写真の白い点は桜の花びらです。)

千代までとそだてし親のこころさへ 推しはかられてぬるる袖かな

白虎隊殉難詩碑の歌 【所在地】会津若松市/飯盛山 白虎隊士自刃の地への途中

「白虎隊殉難詩碑」(大正3年建立)の題字部分。高いところにあって見にくいのですが...
紀州邸に幽閉されていた頃(明治2年11月ー4年3月)、白虎隊自刃の絵を見て詠んだ歌。
(穂積朝春(一ノ瀬某)が明治2年謹慎中に描き、北原雅長が賛を添えた絵の事か?)
従っていた医師の馬島瑞園は漢詩を作る事を命じられ、その詩と共に瑞園の孫・馬島彰が建立した。
白虎隊殉難詩碑 碑の詞書は
  「たたかひ今を限り/とや思ひけん十あま/り五たりの男の子ども/
   飯盛山にて腹きりて/死したりけるをうつし/画にせしを見てあはれ/さのあまりに」
となっているようで、『芳山公御歌』のと少し違っています。

この歌は、上野の彰義隊のお墓の傍らに掲示されていた「会津白虎隊図」にも添えられていました。
(上野彰義隊資料室が2003年5月で残念ながら閉館したので、現在は掲示されているかどうかわかりません。)

花といふ花をあつめて此の塚の いしもさこそは世にかほるらめ

花塚 【所在地】会津若松市/飯盛山 広場からさざえ堂への途中(明治26年建立)

下の写真の左から「茶筅塚」「水塚」「花塚」で、この「花塚」に刻まれた歌。
傍らの説明板によると、茶は石州流・花は遠州流を学び、市内に多数の門人を指導していた山口儀平(一寿、会州一の祖)が、 当時会津一の学者であった宮城盛至と計って建立した碑。
なかでも花塚には、日本全国の特色のある243種の花を集めて収め、天地自然の恩恵に感謝したものだそうです。
同じく"花塚"の題で、『芳山公御歌』には
「すえ遠く石に残してかをるらん 花をめでつるみやび心は」という歌もあります。

茶筅塚/水塚/花塚

百年ももとせを三たびかさねし若松の さとはいくちよ栄え行らん

三百年祭記念歌碑 【所在地】会津若松市/興徳寺 (大正13年建立)

蒲生氏郷の城下町建設が始まったのが文禄元年(1592)。
その300年後の明治24年6月に行われた「若松開市三百年祭」に、寄せて詠まれた祝歌を刻んで有志が建てた碑。

風をのみいとひし庭のもみぢばを けふは雨にも散らしぬる哉

【所在地】会津若松市/攬勝亭(非公開)

攬勝亭は天元年間(10世紀)より景勝地とされた庭園に、保科正之が名づけ、三代正容が目黒浄庭に改築させた庭園。
御薬園・可月亭とともに会津三庭とされ、容敬を補佐して信任の篤かった丹羽能教が隠居後に住んでいた事もあったそうです。
現在は碑面が磨耗してしまっているということですが、「会津史談」20号(1926刊)に上記の歌が紹介されていました。
(その頃は読めたのでしょうね。)

世の人の心や深く染めぬらん うすずみ桜あかね色香に

【所在地】会津高田町/伊佐須美神社

"会津五桜"の一つとしても有名な薄墨桜を詠んだ歌。
神社の古い御神木でもあり気高い香りがするそうです。
開花は遅く4月下旬頃というので、いつか花の頃に尋ねてみたいです。
(大内宿から林道に迷い込んで高田へ出たとき、伊佐須美神社へ寄ったのですが、碑に気がつきませんでした。(--;)



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