【所在地】猪苗代町/土津神社 下の境内の鳥居のそば
明治11年11月1日建立。容保公の題と撰文、南摩綱紀の書。
会津戦争の折、社地を汚されないようにと、"奥の日光廟"と称されていた土津神社は灰燼に帰し、御神体はやがて斗南へと移されました。
社地自体は、王政復古後、全国の社地が官有とされたため、わずかに土津公の墳墓周辺の百間余りだけとなりました。
ところが明治5年に土地・立ち木とも民間に払い下げとなり、元地方御家人の人が920両余りで落札しました。
それを聞いた有志が、買い戻して昔どおりの神社の社地とし、また松平家へ寄与したいと奮起しました。
その後3年かかって、旧会津藩領(預地の御蔵入りを除き、小川庄と呼ばれていた東蒲原郡は含む)全域から募金を募り、明治7年春頃、旧社地172円余り、立ち木11,214本分744円余り、流出していた銅燈籠二基245円等を買い戻しました。
(またその後、余金で神社を再建し、御薬園も買い戻したようです。)
碑文では明治7年、容保公が祖廟に詣でる機会があった時この話が準備されていたようで、「元来、此事は大神の後裔なる予が身のなすべき業なるに、心に任せず打過ぎしに、図らずも予に代れる人々の昔忘れぬ誠心をば大神もさこそ愛で給ふらめ」と率直に感謝の意が述べられています。
また明治11年に土地関係の改正があったようで地所が増え、子孫の教育の為に使うように、との碑文になっています。
(碑文の一面が"社地復故記"で、他の3面と台座まで寄附した人々の名前が刻まれています。)
左の写真で右側が社地復故記碑、左は保科正之公三百年祭碑。
土津神社の御神体は、明治7年9月16日に隣の磐梯神社に仮遷宮し、明治13年7月28日に再建された社殿に御遷宮しました。
「九世孫故会津領主従五位 源容保」という肩書きが泣けます。(;_;)
【参考】塩谷七重郎/著
『保科正之公と土津神社』
【所在地】日光/二荒山神社中宮祠 右の写真の石垣の上
表に"石垣寄進"と題され、裏に「明治廿五年十月建之」の後に、「宮司 松平容保」以下の名前が刻まれています。
あまり意味は無いかもしれませんが、旅先で探してみたら容保公の名前を刻んだ碑があったので一応...
(徳川家の祖廟を守る宮司職も、いろいろと大変だったのではないかと思います。)

【所在地】日光/東照宮周辺...に現存するのかしら?(--;)
「芳山公御歌」に"保晃園中の碑に"という詞書で、
此山のひかりをそへてもろ人の 心づくしもみゆる園かな
という御歌があるので気になっているのですが、この前東照宮へ行った時は、時間もあまりとれなかった上、ドシャ降りでよく探せませんでした。(その2000年秋以来、気になっている...(--;)
明治29年印刷の絵図では、現在"東照宮宝物殿"があるあたりは"日光公園"となっていて、明治25年11月・勝海舟撰並書の「保晃会碑」が描かれているから、これの事かしらん、と思いつつ確認出来ていません。
(いずれ確認に行こうと思っていますが、御存知の方がいらっしゃいましたら教えてくださいませ。m(..)m)
【所在地】桑名市 九華公園(旧桑名城址)天守台跡
主題とは違うのですが...(^^;)
容保公の実弟で桑名藩主の松平定敬の撰文と書による忠魂碑。
場所がよくわからなくて探し回り、天守台跡に青銅の剣の形の碑が雨天をついて屹立しているのを見たのはインパクトがありました。
("桑名"という文字の所の白い点は雨粒です。2枚を継いでヒドイ写真ですが、載せてしまいます。m(..)m)
「忠哉義哉桑名王民守節取義各殉其難郷党追慕建碑招魂/
嗚呼忠節永照千春明治二十年十二月 正四位松平定敬撰并書」
(忠なるかな義なるかな、桑名の王民。節を守り義を取り、おのおの其の難に
殉ず。郷党追慕し、碑を建て魂を招く/ああ忠節、千春を永照せん。
明治二十年十二月 正四位松平定敬撰并書)
