【所在地】白河市松並 (未到達)
明治17年建立。
白河で戦死した304名の会津藩士の名前が刻まれているという。
銷魂は"魂が消えるほどの悲しみ”といった意味か。
【所在地】会津若松市/飯盛山 白虎隊士墓壇下の右側
碑文の撰文は山川浩、書は南摩綱紀。
(明治23年9月建立、写真の白い部分はコケ)
この二十三回忌の際に、白虎隊十九士銘々の墓石も建立された。
銘にかえて刻まれた和歌
「久母里奈幾都伎比波天良世久爾乃多女
佐良志志加婆年久知八波都登毛」
(曇りなき月日は照らせ国のため さらししかばね朽ちは果つとも)は山川浩の作。
【所在地】新潟市西大畑町 新潟大神宮(明治23年建立) (未到達)
戊辰二十三回忌に旧藩士らによって建立された慰霊碑。
撰文は南摩綱紀。
昭和63年に新潟県護国神社に「戊辰役東軍慰霊碑」(綱淵謙錠撰文)を建立する話が起こった時、改めて発見。
その後"殉節之碑祀裔会"が組織され、毎年祭祀が行われるようになったそうです。
【参考】会津武家屋敷『となりの侍たち:越後と会津』
【所在地】日野市 高幡不動
新選組の近藤勇・土方歳三を記念した碑。
撰文は仙台藩儒・大槻磐渓、書は松本順。
はじめ静岡の徳川慶喜に題を依頼したが、側の者が問うてもただ"御落涙"で
返答が無かったという。
そのため松本から容保公に依頼して書されたそうです。
この経過があったのは明治9年だったが、建立が成ったのは明治21年7月。
関連して...↓
【所在地】会津若松市 天寧寺
慶応4年に建てられた近藤勇の会津の墓。
この立派な戒名は、容保公の筆によるとの説もあるという。
【所在地】(台東区 谷中霊園)
明治7年2月、佐賀の乱に殉職した小出光照の碑とお墓について『紙碑・東京の中の會津』(1980刊)に書かれてあったので訪ねてみたのですが、所定の場所をいくら探してもみつからない...斜め前が馬島瑞謙の墓所、とも書かれていたので、振り返って見ると空き地になった場所がありました。で、事務所で尋ねてみると、"無縁"ということで平成5年に千葉県松戸市の八柱霊園へ合葬されてしまったそうです。(泣)
容保公篆額、広沢安任撰文という事だったのに...訪ねるのが遅かったです。(何かに碑文が採録されてないかしら...)
次の水島義の碑と同じような自然石の形の碑だったようです。
【所在地】台東区 谷中霊園
撰文は渡邊洪基、書は松本順。明治16年4月建立。
明治15年7月23日、朝鮮京城で反日反乱が起こり、日本公使館が包囲されます。(壬午事変)
この時、花房公使以下、囲みを突破して脱出する際、殿
(...歴史は繰り返す、という言葉どおり、上の小出光照と同じような殉死で、そのため対のような碑が建てられたのでしょうか?)

水嶋義は会津戦争の時には13歳で幼年隊に参加。兄の水島辨治(のち純)は、日光口の参謀の一人。
(他の本では"水島"となっていますが、碑の文字は全て"水嶋"。傍らの墓碑銘は"水島家奥津城"。)
戦後、藩の将来のため英才を見込まれて学問を命じられた少年の一人。
明治6年、京都府が牧畜場を開く事を知ると、牛の乳搾りをして学資を稼ぎながら3年間勉強。
その後各地で牧畜について教えたりしていましたが、明治15年4月朝鮮国の風土物産を審らかにして、両国の利を図りたいと志して公使館付きとして渡り、この事件に遭遇したそうです。