■モザイクのあけぼの
サッポロライオン銀座7丁目が開業60周年を迎えるそうだ。60年前といえば昭和9年、僕が生まれる21年前のことだ。セピア色の渋い色調のタイルと美しいガラスモザイクで飾られたこの重厚で気品あるビアホールは銀座一の応接間だ。この素晴らしい建物は二年の歳月をかけて建てられたと聞くが、当時としては大変な困難と苦労があったことだろう。このライオンの開店二年後には17年の歳月を費やした国会議事堂が竣工している。日本人の手による最も古いモザイクは議事堂の床にあるという話を以前聞いた事があった。ということは、ライオンのモザイクもほぼ同時期に作られたものであるから最も古いモザイクの一つということになる。このような思いを巡らせながら、議事堂とライオンのモザイクについて、その関係を探ってみることにした。
モザイクはギリシャ文明の頃にはエーゲ海沿岸で広く作られていた。ローマ時代になると、その経済力と流通経路の発達により北アフリカからヨーロッパ各地にも作られる様になり、隆盛を極める。この時代にはすでに技法のバリエーションも確立していた。このように古い歴史を持つモザイクは、日本ではいったいいつ頃、誰の手によってもたらされたのであろうか。これを記録する資料は残念ながら、余り残っていない。
明治から大正、昭和の初めにかけて、欧米の建築家の設計によるものを含め、多くの石造建築物が造られた。そこには、西洋の装飾スタイル、たとえばステンドグラスや漆喰レリーフ等が取り入れられた。その一環としてモザイクもすでに作られていたのではないだろうか。それがどのような人々の手によってつくられたのかは判らないが。ともかくこのような時勢の中で、国会議事堂やライオンは建てられたわけだ。
議事堂のモザイクは、中央広間の床と二階の便殿(天皇陛下専用の休憩室)前の床にある。このモザイクを作るに当たって当時の政府は、国産の石材のみ使用し、しかも日本人の手によって完成させることを決定した。その準備として、20代の若手の有能な技官数名をモザイクの制作技術を学ばせる為に西欧へ派遣している。議事堂の床のために、これほどの時間とお金を費やすのだから、当時の思い込みのすごさがうかがえる。やがて帰国したこの若い技官達が中心となり、大勢の石工職人との協力で、この床モザイクは完成したのだろう。
同時代に作られた二つのモザイクであるが、材料について大きな違いがある。議事堂のモザイクは大理石と真鍮板を使っているのに対し、ライオンのモザイクは、ズマルト(モザイク用に製造した色ガラスの呼称)を使用している。これには必然的な理由がある。大理石は、大自然が造り上げた産物であるから、その質には、様々な表情の違いがあり、耐久性にも優れている。色彩は一般に柔らかく貴賓があるが、絵具のよう自由気ままに色を調達するわけにはいかない。その点、ズマルトは、色味によっては風化により劣化する欠点があるが、人工的に作るものであるから欲する色味、或はそれに近いものを得ることは可能だ。議事堂は床面であるから、丈夫な大理石を使用し、表面を平らに磨き上げた。一方、ライオンのモザイクは壁面であり、写実性の強い作品であるから色彩豊かなズマルトが使われたわけだ。その表面は、適度の凹凸があり、シャンデリアの光が乱反射し、きらきら輝いて美しい。大塚喜蔵は、ライオンのモザイクの為に自分で窯を造り、250色のズマルトを焼いたという。原画の色彩に従って必要な色味のズマルトを製造していく。これは大変な仕事だ。現代でこそズマルトは、国内でも工場生産され、場合によってはイタリアから航空便で取り寄せることもたやすい。ほしい時にすぐ手に入る。随分楽な時代になったものだ。
60年前、モザイクというものが今日ほど一般的に知られていなかった頃、情熱を傾け、研究を重ね、建築家と一緒になって素晴らしい作品を作り上げた先輩たちがいた。まさにこの時代は、日本のモザイクのあけぼのだった。
さてここで、モザイク表現の特色について述べてみたい。モザイクは離れて見ると一枚の絵のように見えるが、だんだん近づいていって見ると、その絵の表面は様々な色彩の小さなピースの集合体であることに気が付く。その一つ一つのピースは点描画のように綴られ、それが視覚上で混じり合い深みのある美しい色味を出すのだ。しかし、色彩の集合体だけではモザイクの面白みはまだ足りない。これらの小さなピースをいくつか並べていくと、その隙間が一本の線に見えてくる。この隙間を目地というのだが、この目地の流れがモザイク表現にとって重要な要素となるのだ。注意深くモザイクを見ると、様々な方向に線が流れていることに気が付くはずだ。制作者は、ある形を作る時、ピースをどのように並べていくかをあらかじめ頭の中に描きながら制作していかなければならない。西洋画では、デッサンを描く時、線を多用する。輪郭を決めるために線を引く。その線から派生したいくつかの線は、筋肉の流れを作る。更にそこへ何本もの線を重ねながら陰影をつけていく。初めは等間隔に量感の示す面の方向に引いていくが、より濃い調子にしたいならば、網の目のようにクロスする方向にも引いていく。この工程を繰り返すことによって自然な肉体の動きと量感が得られるのだ。この描画法をハッチングと言うが、モザイクの目地の流れも広義に解釈するとハッチングと同じような意味を持っているといえるだろう。
ライオンの入口を入って真正面にある大作、黄昏の空を背景に麦の収穫を描いた作品は、その豊かな色彩もさることながら四人の婦人像の中にこの目地による表現がよく発揮されている。たとえば、肩から腕にかけてのしなやかな流れ、麦穂の束を抱える背中のまるみ、豊かな乳房、身につけている衣のしわ等に的確な目地の流れを読むことができる。又ビヤホール左右の壁面を飾る花や果物をモチーフとした作品についても同様である。花びらや葉の繊細な表情。果物の持つ量感にも目地の線は生かされている。その中でも特に僕が感心した作品は、折り畳式の腰掛けの上に、パイナップルと梨、葡萄の置かれた作品である。そのバックの表現に注目してほしい。果物は華やかな色彩で描かれているのに対しバックはシンプルなベージュ色である。そこに際立つパイナップルの輪郭は、バックの奥深く幾重にもこだましている、その目地の流れは、単純な色彩の平面に抽象の新たな形を刻み込み、画面の中で響き合う。みごとな作品だと思う。このような特徴を持つモザイクを制作した先輩達は、きっと西洋画の表現に熟達した、しかもモザイクを知った人達ではなかっただろうか。
僕は、このサッポロライオンに来る度にイタリアの古都、ラヴェンナのモザイクを思い出す。西ローマ帝国最後の都として栄えたこの町には、今なおたくさんの素晴らしいモザイクが残っている。これらの作品は初期キリスト教美術と呼ばれ、その後現代まで続く西洋美術の歴史の幕開けとなったものである。このラヴェンナの美術を第一のルネッサンス、歴史上いうところのルネッサンスを第二のルネッサンスと呼ぶ学者さえいるくらいである。
であるから、日本ではあまり知られていないが、これらの芸術を心の拠り所として訪れる旅行者は多い。アドリア海に面した町ラヴェンナはその地の利を生かし、遠くヘレニズムやエジプトの影響を受けながら旧来のローマ美術と融合し、独特のスタイルを確立した。そこには、冬の眠りから覚めた新芽の如く、初々しく、のびのびとした表現がある。僕は、60年前新しい建築を目指し、理想に燃え、そして夢を叶えるために努力した人々のことを思う。
時は経ち、時代は変わった。しかし、彼らの作り上げた作品は、まるで昨日完成したかのような輝きを持っている。若輩ながら、同じ仕事に携わる自分にとってこのライオンのモザイクは大きな心の励みになっている。それはラヴェンナのモザイクを初めて見た時の新鮮な感動とダブるのである。素晴らしい芸術は、時も民族も宗教も関係なく人の心を動かすものだ。それは偶然に同じ結果をもたらすこともある。古い文明が新しい文化を引き出したり、古いと思っていた表現が実は新しかったり。1400年の長い時間を突き抜けて、ライオンのモザイクとラヴェンナのモザイクは、きっとどこかでつながっている。時のかけらの万華鏡が、突然美しい花模様を映し出すように。
「ビヤホールに乾杯」
サッポロライオン銀座7丁目店が還暦を迎えた
双思書房 (1994年 1月原稿) 工藤晴也
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■日本におけるズマルトの歴史
日本におけるズマルトの歴史は浅く、大塚喜蔵(おおつかきぞう:1890〜1968)が
1933年自ら作った窯で焼いたという記録がもっとも古いものである。
1867年、日本は江戸時代(将軍の政治)が終わり、開国した。新政府は先進国である欧米諸国の政治や文化、芸術を急進的に取り入れる政策を取った。と同時に都市部の再開発を行い、近代化を進めた。イギリス、ドイツ、アメリカから著名な建築家が来日し、彼らの立案した都市計画をもとに西洋スタイルの建築物が数多く造られた時代でもあった。これは私の推察だが、これらの建物の床や壁の装飾としてすでにモザイクが取り入れられていたのではないだろうか。しかし、関東大震災(1923年)、第二次世界大戦によるたび重なる災害で、建物はむろん、その図面までも焼失してしまった現在、それを証明するものはほとんど残っていない。このような歴史的背景から、日本人の手によるもっとも古いモザイクがいつ作られたのか、まだはっきりしたことはわからない。20世紀前半にかけて造られた建築物に、ズマルトを使用したモザイクの記録もあるが(*)、それはドイツから輸入したものである。又、現存する東京国立博物館の表慶館(ひょうけいかん)や、国会議事堂等、当時の建物に造られたモザイクは大理石を主体としたものが多く、これらの状況から判断して、前述した大塚喜蔵のズマルトが国産初ということは、まず間違いないことであろう。
現在、商業ベースとしてズマルトを生産している企業は、ガラスモザイカ販売鰍ェ唯一である。企業生産としてのズマルトの歴史は、1957年岩城(いわき)ガラス鰍ェ建築家村野藤吾(むらのとうご)の依頼により大量生産できるズマルトの生産を開始したのが始まりである。その開発にあたっては、大塚喜蔵が技術指導をしている。当時、岩城ガラス工芸部長であり、ガラス工芸家としても著名であった小柴外一(こしばそといち)が、その後このズマルトの生産技術を引き継ぎ、子息の小柴浩一(こしばこういち)が設立した会社がガラスモザイカ販売鰍ナある。現在59色の色味を生産しているが、日本におけるズマルトの需要は限られており、企業の採算性を考えると現在以上の生産の拡大や開発は大変難しいように思われる。一方、他のモザイク材料に関して述べると、大理石は、建築材として輸入材を中心に豊富である。タイルも国産品を中心に陶質、磁器質ともに近年の嗜好の多様化にともない形状、色数は多岐にわたる。しかも国内で手軽に手に入るという利点があることから日本のモザイク作家は、必然的に、大理石やタイルを多く使用する傾向にあるようだ。とは言え、ズマルトの持つ色の美しさと何にも変え難い材質感は捨て難く、この魅力にとりつかれたモザイク作家は、その多くをイタリアからの輸入品でまかなっているのが現状である。モザイクの長い歴史を持つ西欧の国々に比べ、日本のモザイクを取り巻く環境は、このようにまだ発展途上なのである。
日本における今後のモザイクの発展と普及を考えると、ズマルトの品質の向上と作家の育成は同時に進めていくべきであろう。モザイクの美しさを語る上で、その材質感の持つ力は大きい。モザイクに限ったことではないが、表現と材料は表裏一体である。つまり、大きな意味で美術は、民族の持つ文化や思考と大きく関わっているものである。
日本独自のモザイク表現を育てるということは、その材料も独自の研究が必要であり、いつまでも輸入に頼っている状況は変えていかなければならないだろう。
すばらしいモザイクが建築物や公園を飾り、都市を美しくすることは、市民共有の財産である。すなわち、公共の利益として還元できると考えるならば、国や公的機関によるズマルトの研究に対する企業への助成や大学と企業の生産技術の共同開発等の試みも考えてよいのではないだろうか。
(*)新橋演舞場(菅原栄蔵設計)
MOSAIC・World & Vision 1998. 1月〜2月号(イタリア)掲載
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■イタリア二つのモザイク展を観て
昨夏、イタリアのラヴェンナとウディネにおいてモザイク展が開催された。
ラヴェンナでの展覧会のタイトルは、「欲望の対象:モザイクとデザイン」会場はロジェッタ・ロンバルデスカにおいて6月26日から9月28日まで、又ウディネでの展覧会のタイトルは「モザイク」副題が「新たな混成:モザイク・建築・美術・デザイン」会場はサン・フランチェスコ教会で7月12日から10月5日まで開催された。
この二つのモザイク展はいずれもモザイクとライフデサインにテーマを絞り込んだ点が共通であり、現代モザイクの多様な表現を垣間見ることができた。出品作品は平面作品、立体作品の他、床に絨毯のように置かれたモザイク(一部が捲り上がっていて実際には使えないが、)噴水、椅子、テーブル、ストーブ、柱、つい立て、鏡等、家具を中心に日常に存在するなじみ深い物をモチーフにしていた。実際にそれらの作品が実用的な物もあれば、眺めるだけの家具?なのであるが作家の意識の中に、建築、またはインテリアデザインの要素としての造形思考が強く感じられる。ギリシャ・ローマ時代の都市の床を飾った大理石モザイク、ビサンチンの教会の壁や天井を極彩色のズマルトと金で埋めつくした時代。モザイクの偉大な過去を誇るイタリアで、現代にその末裔達が作った物を見る時、あくまでも美術を愛し、造形する楽しみを大事にするという国民性を感じずにはいられない。偉大な過去は実際に生活に機能する物として、モザイクを応用したが、現代ではそれにプラスして、本来の機能を逸脱し、見て楽しむだけの椅子やテーブルという価値を我々はすでに手に入れている。過去も現代も生活をいかに豊かに快適に、という人類の変わらぬ欲求が美術を生み出す原動力の一つとなっているということをこの展覧会を観てあらためて知らされた。
一つ、ラヴェンナの会場で気になったのは、作家自らが材料を選び自らの手で作り上げた作品と、デサイナーが設計した図面を見ながら決められた材料を使って作った作品(これは工業的に低コスト大量生産のできる物をさすが)と二つのタイプを同居させて展示していた点である。この選定はちょっとナンセンスに思う。作家の作品は見る者がその芸術性を読み、考え、感動したりするものであるが、ある企画によって作り上げた製品としてのモザイクを、前者と同じ土台にのせて観賞することができるだろうか。ピカソのゲルニカとマッキントッシュの椅子を並べて、どちらが優れているかという問いかけに似ているように思うのだが。
モザイク会議会報誌「モザイク」第3号 1998 掲載
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