脳と浮力


 浮力の話をするときは、普通どうしても広い流体空間に、物体が浮いているとか、浸っている、というイメージを持ちます。図1のような感じでしょうか。

 ですが、浮力は流体中で物体にかかる圧力の差が原因になっているということを考えると、物体の横方向に流体が厚く存在しても、薄く存在しても変わりはないのです。要するに、物体が流体で囲まれてさえいればよいのです。そうすると、図2のような状態でも一向に構わないことになるのです。

 

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 豆腐を鍋の中の水に入れておくのは、上の図1のような感じですが、豆腐のサイズから数mm程度しか大きくない容器に水と豆腐が入っている商品をスーパーなどで見かけます。下の図2のような状態ですね。これでも、立派に浮力が働き、豆腐は水の中に漂い、自重でつぶれることがなくなるわけです。

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 さて、話は飛躍しますが、人間の脳というものはまるで豆腐のようなものだといいます。とても軟らかいものです。しかも、骨のような密度の大きな構造を中に持っていませんから、脳自体の密度は水より少し大きい程度でしかありません。

 脳は頭蓋骨という硬い「容器」の中に納まっていますが、脳を取り囲む「クモ膜下腔」という狭い空間を満たす脳脊髄液という液体の中に浮いているのです。そのおかげで外部からの衝撃も弱められるのですが、浮力も働いて、まるで「無重力空間」に浮かんだようになっているのです。上の図2のような状態です。脳や脊髄のどこかが自重で圧迫されるとか、脳が自重で変形する、というようなことを防いでいるのですね。実際には、約1500g程度の脳が、浮力のおかげで、約50g程度の重さになってしまうそうです。

 

 宇宙飛行士の無重力状態に対する訓練の中に、プールの中に入って、浮力で浮きも沈みもしない状態をつくって訓練するというのがありますね。浮力によって自重が消えてしまうのです。同じことです。

 

 脳と脊髄は発生的に同じ組織で一体ですので、実際には脳と脊髄が「脳脊髄液」の中に浮いています。また、脳と脊髄は、構造を単純化して考えると「管」です。脳の内部空間は「脳室」といいますが、ここの血管から脳脊髄液が分泌され、脳や脊髄を浮かべて循環しています。

 脳脊髄液の全量は約140〜160mLで、そのうち20mL程度が脳室内にあり、残りはクモ膜下腔にあります。脳脊髄液は1日400mL以上も生産され、循環し、吸収されています。この生産と吸収のバランスが取れているので、脳脊髄液は一定の量と一定の圧力を保つことができるのです。

 

 大ざっぱな見積もりをして見ましょう。

 脳が体積1500cmの球だとしてみます。(本当はもう少し体積は小さいのでしょうが)。

 

 

 脳脊髄液160cmを足した状態を球として計算したら半径はどのくらいになるでしょう?

 

r’−r=0.2[cm]=2[mm]

 

 なんと、平均的に「水層の厚さ」は2mmしかありません。もちろんこれは実に大ざっぱな見積もりですが、桁として、脳と脊髄を包み込んで浮かせている脳脊髄液の液体層はミリメートル単位の厚さしかないということは確かです。それでも、ちゃんと浮力は働き、脳や脊髄が自重でつぶれたり、余分な圧力がかからないように守っているのです。

 

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/anatomy/shinkei/chap13.pdf から引用させていただきました。赤い点線の部分が脳脊髄液の入っているところです。

 

 脳脊髄液の生産と吸収のバランスが崩れたために起きる症状の一つに「水頭症」があります。頭蓋骨がまだ固まりきっていない時期に、脳脊髄液の容量が増加すると、脳の内圧が高まり、頭部が大きくなります。また、頭蓋骨が固まった大人では、脳の内圧が高まり神経組織を圧迫します。

 わたしは医者ではないので、対処法とか、治療法について軽々しいことはいうことができません。もしそのような症状の方がいらっしゃったら、ちゃんとした医療機関で相談してください。

 

★むち打ち症と脳脊髄液

 2005年11月20日付けの朝日新聞の生活面に、「むち打ち治療『保険適用を』」という記事が載りました。部分引用します。


「交通事故などで生じる首の痛みや頭痛、めまい・・・・・・。むち打ち症は、これまで原因が不明で有効な治療法もなかったが、脳脊髄(せきずい)液が漏れているケースが多いことがわかり、その治療法が普及しつつある。だが、健康保険は適用されず・・・」

 

「茨城県古河市の会社員Sさん(38)は昨年1月、乗用車で信号待ちをしていて、後ろから来た車に追突された。

 翌日から首や腰の痛みに苦しんだ。近くの整形外科で「打撲でしょう」と言われたが、治療を受けても、鍼灸(しんきゅう)や接骨医院に通ってもよくならない。やがて、激しい頭痛に襲われるようになり、立っていられなかったり、目がかすんだりするようにもなった。仕事もたびたび休んでしまった。

 「脳脊髄液減少症」と診断されたのは事故から8カ月後。インターネットで知った県内の病院で検査を受けたところ、腰椎(ようつい)から脳脊髄液が漏れていた。

 事前に採取した自分の血液を背中から注入して髄液漏れの穴をふさぐ「ブラッド・パッチ」とよばれる治療を3度受けると、うそのように頭痛が消えた。約5カ月の自宅療養をへて今春、職場復帰。現在は事故前とほぼ同じ仕事ができるまでに回復した。

 だが、事故の加害者が加入していた損保会社は「交通事故で脳脊髄液が漏れるとは考えにくい」として、Sさんの治療費と治療期間中の休業補償の支払いを拒んでいる。

 

 ○「ブラッド・パッチ」、7割に改善傾向

 むち打ち症患者の中に脳脊髄液が漏れている人がいることは約5年前、国際医療福祉大付属熱海病院の篠永正道教授(脳神経外科)が見つけた。

 脳脊髄液漏れは、腰椎麻酔の後などに起こる症状として知られ、ブラッド・パッチはその治療法だった。

 02年には、篠永教授の治療を受けた和歌山市のNさん(41)らがNPO法人「鞭(むち)打ち症患者支援協会」を設立。本を出したり、インターネットで情報を提供したり、患者の相談窓口を設けたり、治療法の普及活動に乗り出した。

 同協会によると、03年1月にむち打ち治療にブラッド・パッチを導入していたのは全国12病院。計619人が脳脊髄液減少症と診断され、治療を受けた。

 今年5月には、32病院、計2455人に増加。約7割の患者に改善傾向が見られたという。

 約350例を手がけてきた山王病院(東京・赤坂)の美馬達夫・脳神経外科部長は「症状が著しく改善するのは約3割で、4割は部分改善。ただし、事故後、半年以内に治療を受けた人はほぼ例外なく改善している」としている。


 

 繰り返しますが、わたしは医師ではないので、責任ある発言はできません。ただ、元理科教師としての知識からすると、脳・脊髄を浮かべて、衝撃を吸収し、浮力で無重量状態に近い状態を作り出している「脳脊髄液」が漏れたら、脳や脊髄には自重によって圧力が働くようになるだろうな、ということは言えます。

 薄い水の層で包まれるだけでも浮力が働くのだ、ということを理解してください。

 

 脳と脊髄に、脳脊髄液から浮力が働く、という知見については、下の本を参考にしました。

竹内修二 著「好きになる 解剖学 自分の体をさわって確かめよう」講談社サイエンティフィク、2003年刊

 

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