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2009.4.24
身体に訊け
ここのところさすがにいつもはたくさん食べる私も食事の量が目に見えて減ってきています。やはり暖かいからでしょうね。食べれば食べられるけれども、欲しくない感じ。
ウチに遊びに来るノラネコも餌はそっちのけですぐにでも外で遊びたいらしく、家に来ても落ち着きがないことはなはだしい。
さて先日、蔵前に散歩に行った時に買った昭和50年代の料理雑誌の中に、
「一日三食はいつ始まったか」
というようなことを大真面目に研究した記事がありました。それによると、中国は古くから三食が定着していたが、日本では中世から戦国時代(但し平時)くらいは一日二食が一般的であったらしいです。それと、僧侶は建前として釈迦にならって一日一食ということだったらしいのですが、「点心」などといって陰で二食食べていたらしい。
そんな時代でも良く動く大工などの職人衆は、二食どころか三食、四食と食べていたらしいですね。上流階級と呼ばれるような動かない人は二食。
そういえば、イギリスの沢山ものを食べるハイ・ティーなんかも労働者階級の習慣だとどこかに書いてあったような気がします。
この記事の筆者は「実行の人」で、戦後間もなく、
「一日三食などと言うものは戦前の古き悪習、固定観念である」
と思って一日二食にしてみたら、腹が減って動けなくなったのでキッパリやめた、と書いてありました。戦後すぐだからロクなものを食べてはいなかったのでしょうね。
要するに、
「そもそも食べるものがあるのか、ないのか」
「何を主に食べるか」(いわゆる「腹もち))
「生活でどれくらいエネルギーを消費しているか」
「味覚を楽しむ、というような余裕が世の中にあるのか、ないのか」
ということによって決まるというような結論でした。
動かないから食べなくていいかと思うと、頭を使うとやはり甘いものが欲しくなるように、ある程度カロリーを消費するようです。考え出すときりがない。そういう時にはカラダに訊いてみる。
「お腹がすいたら、食べたいだけ食べる」
というようなシンプルなカラダの原理に沿ってやってみると、現代日本人は二食で済む人も多いのかもしれませんね。
2009.4.14
抗う
友人である磯谷整体の磯谷氏の記事を見て考えました。
生き物というのは退化の大きな流れの中で泳ぐ魚のようなもので、進化するのはその力に抗って遡ることなのかなあ。
必死に動いていないと流されちゃうんですよ、きっと。
2009.4.7
心の軸
先日書いた「中野好夫」(薫風おぼえがき)で採り上げられていたマーク・トウェインに関連して書きます。
彼は晩年、たとえば(引用は不正確ですが)、
「この世のものは全て幻想であって、唯一つ確かなものといえば「自己」であるようでもあるが、その自己さえ結局のところは虚空に浮かぶ思惟のようなものでしかない」
という般若心経みたいな心境に達したようで、別の本で読んだところでは親族は彼の没後発見された晩年の作品を「悪魔にとりつかれた」ものとして発表をためらったらしいです。しかし、日本人の我々にとっては悪魔どころかとても入りやすい考え方のようにも思えるのですが、いかがでしょう。
でも、私も含めて日本人、どころかたぶん全世界のほとんど全ての人が、
「○○は××である」(例「地面は普通突然抜け落ちることはない」など)
という幾つもの信念、信仰を「確かなもの」として持って日常は生活しているわけで、何事もすべてを疑うというのでは忙しすぎて、もし徹底すればたぶん狂ってしまうでしょう。
いや、なぜこのようなことを書くかというとこんな考えが浮かんだからです。
「信念」といい、「信仰」といい、ある意味「心の硬直」とも言えますが、いわば拠って立つ地面のようなもので、この確かな「硬直」がなければ人は身動きできなくなってしまうのではないかと。
整体で体を観るときに、少しくらい悪いところがないとかえって危ない、ほんの少しの悪いところをカバーするように他の箇所が発奮して元気が出る、という考え方があります。
また、ひとつの動きには必ず動かない「軸」となるものがあって、軸がうまく作れない体は動きが悪いという見方もあります。
そういう意味では、「固定観念」「思いこみ」「偏見」といわれるようなものでも、周りへの影響はさておき、一個人が元気に生きるという面においては、むやみに否定しない方が良いのではないかと思ったわけです。
もちろん、体でも心でも、その時の状況に合わせて、色々と自由に軸を作れるというのが理想的とは思うのですが……。
こんなことを書くのも、そろそろ思い込みを否定されたくない心と体に近づいているのでしょうか。
でも、水前寺清子の「ありがとう」は、名曲……だと…思います…よ。

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