2009年1月の「整体生活のヒント」 of Seitai-Kumpusha

2009.1.11

それぞれのとんかつ

 先日、母親と話していて驚いた話です。

 あれはたしかもう8年くらい前になると思いますけれど、以前から血圧の薬を飲んでいた母が新しい薬に切り替わったとたんに、がくんと体調を崩した時期がありました。要するに薬が強すぎて血液が末端に回らなくなった状態と思われます。その時上京した母に会ったら、顔の上半分が真っ青になって、下半分と明らかに顔色が違っていました。

 医者に、

 「どうもおかしい」

 と伝えると、

 「じゃあ、薬を戻してみましょうか」

 と、簡単に言われたらしいけれども、危ないことです。

 さて、その会った時も少し元気がない感じはしたものの、いつものとおり明るい母でもありましたし、離れて暮らしていることもあっていつの間にか忘 れていたのですが、どうもその時期ノイローゼ状態にあったらしい。「死の予感」のようなものを感じたのかもしれません。何もする気が起らず悶々としていた らしいのです。

 そんな状態が続いたある日、ふと昔からその街にある洋食屋に入ってとんかつを食べたとたんにムーっと生きる気力が湧いてきたらしいです。本人もとても不思議がっていました。

 若い頃の勤め先で会議があるとよく出前を頼んでいたというそのお店のとんかつには母の元気を引っ張りだす何かがあったのでしょう。

 それぞれの人にこの「とんかつ」に当たるものがあるように思います。それは、食べ物に限らず、場所であったり、音楽であったり、何になるのかはわからないけれども、その日一日を精一杯生き抜くという中で知らず知らずに宝物として心の中に残されるもののように思います。

2009.1.8

体の自然

 去年の年末からずっと、このブログの記事を書いては消しということが数回。なぜかというと、毎回書いているうちに、本当に思っていること、伝えたいことと書いている内容がなんとなく離れていくのを感じたからなのです。

 たまに書いているうちに興に乗って自分でも面白がりながら書いていく…というのもブログの楽しみだと思うのですが、今書きたいことはどうもそういう内容ではないみたいです。

 それというのも、わが師から聞いた次の言葉がずっと気になっているからかもしれません。

 「心と体は一つです。分けて考えることが間違い。そして、一つである以上、心と体は一つのものとして動いていた方が自然であり、楽です」

 何度か同じようなことは聞いてはいるのになぜこれほどビンビンと私のアンテナに引っ掛かるのか。私の中にそれを要求するものがあるのかも知れません。

 楽しそうな体、屈託の無い体、寂しそうな体、手ごわそうな体というのは、やはりあるもので、それはだいたい心の状態を映していることが多いようです。ところが、それに当てはまらない人も実際にはいます。

 たとえば、

 「こういう大変な体の状態でよくこんなにも明るく暮らせるものだ」

 というような方がいらっしゃる。

 それは、今までの人生で得てきた徳のようなものがそうさせていたりするのでしょう。気持ちが一所懸命に体を引っ張っているようで、それも素晴らし いものです。でも、力が入っているだけに、ある種の「無理」も感じる。そして、もっと体が元気の方に向っていけば、そういう徳のようなものが数倍も、しか も楽に生かされていくのではないだろうか。

 逆に、

 「こういう良い体で、なぜこうあちらこちらと不調が出てくるのだろうか」

 という方もいらっしゃって、その場合は、「どこか見落としがあるのでは」と戒めつつじっくり見れば、それなりに誰にでもある程度の弱いところはあ るわけですが、それが今のあちこち痛い、つらいという状態にマッチしているかというと、どうもずれを感じる。体を心の中の何かが引きずって邪魔をしている ようにも思えます。とすれば、発揮されるのを邪魔されているその人の元気は、なにか鬱屈するものがあるはずです。

 私自身も含めて現代の人は情報が多いだけに、思い込み、それも無意識のうちにヒョイと心に入り込んだ思い込みが体を邪魔していることが多いようです。

 そんな体と心のずれが少しでも小さくなれば、その方の日々の生活はもっと楽に、楽しくなるはず。

 そのようなことを日々念じつつ、今年も整体に取り組んでまいります。

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