松尾芭蕉

松尾芭蕉は正保元年(1644年)伊賀上野の赤坂町(三重県上野市赤坂町)に、父松尾与左衛門の次男として生れる。長兄と一姉三妹の6人兄弟である。 十代の末、藤堂藩伊賀付大将藤堂新七郎家に召し抱えられた。 藤堂良忠の話し相手になったのが縁で俳諧を学び、松尾忠右衛門宗房と名乗る。23歳で藤堂家を辞し、京都で古典、俳諧、漢詩文を学ぶ。

松尾芭蕉は俳句年次が判明している中で、19歳で発句 「春や来し年や行きけん小晦日」 を成す。
21歳で初入集 「姥桜咲くや老後の思い出」 「月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿」 を発句。
31歳で北村季吟(江戸前期の歌学者、俳人)から連歌・俳諧の秘伝書「埋木」の伝授を受け、師弟関係になったともいわれ、いわばこれで大学の卒業免状を手にしたようなものといっていい。32歳で江戸へ。江戸では弟子を得て宗匠として活躍する。松尾芭蕉が生きた元禄時代は井原西鶴や近松門左衛門らが同時代人として活躍し、日本の文学史上紫式部や清少納言らを輩出した十世紀末から十一世紀初頭にかけての第一次黄金時代に対し、第二次黄金時代ともいわれている。

松尾芭蕉は生涯俳句の道を求めて、旅に明け暮れている。旅の詩人として数多くの傑作を残している。

年号 西暦(年) 年齢(歳) 俳句集
貞享元年 1684 41 野ざらし紀行
貞享四年 1687 44 鹿島・笈の小文の旅
貞享五年 1688 45 更科紀行
元禄二年 1689 46 おくのほそ道
元禄三年 1690 47 (幻住庵記)

注)上記の「幻住庵記」は句集でなく、文集(芭蕉の俳諧の道への思いなどを載せた文章)です。

有名な 「古池や蛙飛び込む水の音」 は松尾芭蕉が43歳の時の発句である。

上記の句集のなかで、「おくのほそ道」は松尾芭蕉の代表作である。奥羽地方から北陸地方を旅するという壮大なスケールの旅である。元禄二年(1689年)の3月27日江戸の先住を出る。主な行き先として日光(4月1日)、福島(5月1日)、仙台(5月4日)、松島(5月9日)、平泉(5月13日)、尾花沢(5月17日)、最上川を船下りして羽黒山(6月3日)、酒田(6月3日)、象潟(6月15日)、新潟(7月2日)、金沢(7月15日)、山中温泉(7月27日)、永平寺(8月11日)、敦賀(8月14日)、大垣(8月21日〜9月6日)、大垣で「おくのほそ道」は終る。
              (リンク集にある「俳聖松尾芭蕉」、「芭蕉DB」を参考にしています。)

「おくのほそ道」後、松尾芭蕉は「不易流行」、「軽み」の理念を説く。これが芭蕉の辿りついた理念といえる。
「不易流行」とは:不易とは詩の基本である永遠性、流行とはその時々の新風の体。共に風雅の誠から出るものである。つまり、真実を追究することによって絶えず自己脱皮をとげ変化してゆく所にこそ、俳諧という詩の不変の
本質があり、俳諧の永遠不変の価値は、そのような真実の追究をめざした絶えざる変化・自己脱皮の努力の中から生れるというのである。
「軽み」とは:俳句は五・七・五の最短小詩形である。それをもって人事や自然を過不足なくとらえ、人生に対する自己の思いを託そうとすれば、いきおい思い入れのみが先行し、表現はゴタゴタと晦渋・混濁を極めざるを得なくなる。論理を優先させた散文的説明は敵である。何とかして言葉を惜しんだ暗示的で平易な文体を確立できないものか。それが「おくのほそ道」の旅以降の芭蕉の最大の課題であった。そして紆余曲折の果て、最晩年にはいっさいの芸術的・身構えを捨て、淡々と日常的な言葉で、心のリズムがそのまま表現のリズムとなって定着するような、対象と詩と人生が一如となった境地へと抜け出してゆく。
(参考文献: 銀林晴生 「俳句入門」 (西東社)、 尾形 功編 「芭蕉 ハンドブック」 (三省堂) )


         

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