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草津市体力づくり歩こう会第477回「早春観梅ウオーク:北野天満宮など」が平成20年3月9日(日)に行われ参加しました。晴天の上、春らしい気温の中、約200名の参加がありました。メインの「北野天満宮」は梅の名所でもありますが、その梅が咲き誇り多くの参拝者で賑わっていました。今回のコースは次の通りです。
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| (北野天満宮) 平安時代初期、九州の太宰府へ流刑となった学者の「菅原道真」が亡くなった後、京都では落雷、地震が続きました。これは道真のたたりのせいだと、その霊を慰めるため創建されたのが「北野天満宮」です。それがいつしか「天神さん」の愛称で親しまれ、全国の受験生の合格祈願で有名な神社として知られるようになりました。社殿は豊臣秀頼が寄進したもので、拝殿とともに国宝であり、八棟造りといわれる屋根は日光東照宮にも継承されています。表参道の松林は、豊臣秀吉が北野大茶会を催したところで有名です。境内のいたるところにある牛の像は、菅原道真が亡くなったのが丑の年、丑の日、丑の刻というところから奉納されたものです。この牛の頭をなでると頭が良くなると信じられているところから、いつも人の手で磨かれ、ピカピカに光っています。また梅の名所としても名高く、「梅花祭」(菅原道真の命日にあたる2月25日)には上七軒の芸妓・舞妓さんによるお茶会が行われます。それ以外に、毎月25日には「天神さん」と呼ばれる縁日があり、露店や骨董品店などで大変賑わいます。
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| (千本釈迦堂、白峯神宮) 千本釈迦堂〜吉田兼好の「徒然草」にも登場する大報恩寺は千本釈迦堂という名で親しまれている。鎌倉初期の安貞元年(1227)義空上人によって開創された真言宗智山派の寺院。本堂は応仁・文明の乱にも奇跡的に火災を免れて創建当時の姿をとどめ、国宝に指定されている。重要文化財として木造釈迦如来坐像など多数ある。おかめの物語や12月の風物詩である「大根焚き」で知られる。上京区今出川七本松上ル。 白峯神宮〜当神宮は崇徳天皇及び淳仁天皇を祀る。明治天皇は父孝明天皇の遺志を継ぎ、保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)讃岐の白峯陵より神霊を迎えて創建された。次いで明治6年(1873)には奈良時代に僧道鏡と克美押勝の争いにより、淡路島に配流の淳仁天皇の神霊を迎えて合祀された。
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| (京都御苑) 京都御苑は、京都御所、仙洞御所を囲む面積約63haの公園。東西約700m、南北約1300mの広大な敷地は、江戸時代には二百もの宮家や公家の邸宅が立ち並んでいた。明治に入り都が東京に移転後、皇宮付属地として整備。戦後、国民公園として開放された。外周を石積み土塁で囲まれ、9ヵ所の御門と6ヵ所の切り通しから入る苑内には、御所をはじめ閑院宮邸跡や拾翠亭などの歴史的遺構、母と子の森などの自然とのふれあいの場、グラウンドなどの運動施設などがある。約5万本といわれる樹木が生育し、御所周辺の由緒ある景観を維持する庭園としての機能と、散策や休養、自然と歴史とのふれあい、スポーツなど、古都京都の中心部に位置する広大な緑の空間として重要な役割を担っている。
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| (二 条 城) 桃山文化の粋が結集されている二条城は、慶長8年(1603)徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿所として造営したのが始まりです。寛永3年(1626)3代将軍家光が後水尾天皇を迎えるために大改修を行い、現在の体裁を整えました。 (二の丸御殿(国宝)) 桃山時代武家風書院造りの代表的なもので、城へ参上した大名の控室の「遠待」・参上した大名が老中職と挨拶を交した「式台」・将軍が外様大名に対面した部屋で、慶応3年(1867)には15代将軍慶喜が大政奉還を発表し、徳川幕府265年の幕を閉じた歴史的な部屋でもある「大広間」・「蘇鉄の間」・「黒書院」・将軍の居間と寝室の「白書院」の6棟が立ち並んでいます。部屋数は33、畳は800畳余り敷かれています。各部屋の襖絵は狩野派の手によるもので、部屋の目的に応じて描かれています。また欄間の彫刻、飾金具、長押に打たれた花熨斗形(はなのしがた)の釘隠しなどは、金飾あざやかに豪華を極めています。御殿内には当時の様子を模した人形などが置いてあり、テープで各部屋ごとの説明が聞けるようになっています。 (二の丸庭園(特別名勝)) 小堀遠州作の池泉回遊式庭園で、大広間から眺められるよう造られたものです。蓬莱島・鶴島・亀島の3島を置き、4つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は変化に富んで秀麗であり豪壮な趣があります。
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