大池寺・石塔寺・苗村神社

(臨済宗妙心寺派 大 池 寺(大池禅寺):滋賀県甲賀市水口町)
当山は天平年間(729〜784)に諸国行脚の高僧、行基菩薩がこの地を訪れた際、日照に悩む農民のため、灌漑用水として、「心」という字の形に4つの池を掘り、その中央に寺院を建立し、一彫りごとに三拝したという「一刀三礼の釈迦丈六坐像」を安置し、「邯鄲山青蓮寺」と称して国泰安民の祈願所とされた。 南北朝元享の頃、京都東福寺開山聖一国師の高弟当山中興の祖である無才智翁禅師によって、天台の寺院を禅刹と改められ七堂伽藍も整備されたという。 その後、天正5年の戦火により釈迦丈六坐像の仏像のみ焼失を免れ、これを寛文7年当山の再興門山である丈巌慈航禅師によって仏殿(本堂)、丈六(書院)、茶室(松涛庵)等が再建された。尚寺号も周囲の池に因み龍護山大池禅寺と改められた。近江湖南二十七名刹霊場第二番。
[蓬莱庭園]
この庭は江戸初期寛永年間に小堀遠州(1579〜1647、江戸時代初期の大名で茶道、建築、造園の巨匠、今の滋賀県長浜市で生れる)の作として伝えられ、枯山水の代表作です。蓬莱船(宝船)とその中に七つの石と小さな苅込みで七宝と七福神を連想させるサツキの刈込によって作られています。宝船の後ろにサツキの大刈込みが2段につくられ、あたかも大波、小波が打ち寄せるありさまをかたちづくっています。庭全体は白砂の海に浮かぶ宝船と波浪の姿をあらわしています。6月頃サツキの紅白の花が咲き乱れて友禅模様を見るような華やかなさまを見せてくれます。また「照り葉」と呼ばれるほど色艶の美しい常緑の葉にも魅力があります。秋は背景の紅葉に彩られ赤、緑、白、三色配合の美が最も美しく、冬は紫褐色に変じて閑雅静寂、茶人の好む庭園となります。まさに「静中の動」とも言うべく禅味豊かな作者の非凡さを窺うことが出来ます。

(大池寺ホームページ(http://www.sunalix.co.jp/daichiji/)および石碑より)

大池禅寺 大池禅寺(方向を変えて)
心池庭 廻遊式琵琶湖庭園
山 門 鐘 楼
仏殿(本堂) 本尊釈迦如来(木彫りの丈六坐像)
開山臥龍の松(庫裡から) 黒松、樹齢約530年(入口方向から)
蓬莱庭園 蓬莱庭園をアップ
「宝 船」を表現 「大波、小波」を表現
宝船の中に七宝と七福神を配置 書院からの蓬莱庭園
土蔵と蓬莱山の庭園 茶室用の井戸
「今 池」の睡蓮 「弁天池」の睡蓮と沈み鳥居(左)

天台宗派 石 塔 寺:滋賀県東近江市蒲生町)
飛鳥時代聖徳太子は、近江に四十八ヶ寺のお寺を建てられました。石塔寺(いしどうじ)は、四十八番目の満願のお寺で、元の名を本願成就寺と称しました。 平安時代に比叡山の寂照法師が、中国の五台山に留学しておりました。この寂照法師が、中国五台山の僧から、昔インドの阿育王が、世界中にばら撒いた八万四千の仏舎利塔の内日本にも二基が飛来しているという話を聞きます(琵琶湖中と琵琶湖東辺)。そして、この話を手紙にして、日本に送ったところ、播州の義観僧都が、これを入手し、一条天皇に奏上しました。一条天皇の命により塔の探索が行われておりました所、この辺りの武士(野谷光盛)が、このお寺の裏山に来てみますと、一つの大きな塚がありました。そして勅使(平恒昌)と共に掘りました所、この阿育王塔(あしょかおうとう、三重石塔)が、土の中から出現いたしました。 一条天皇は大変お喜びになり、七堂伽藍を新たに建立され、寺号も「阿育王山 石塔寺」と改められました(1006年)。一条天皇の勅願寺となり、その後、当山は隆盛を極め、寺領も広範囲に拡大しました(八十余坊の大伽藍を築く)。鎌倉時代になりますと、参拝の方々が、ご自身の極楽往生のため、または、ご先祖の菩薩を弔うために、仏舎利塔である阿育王塔の周りの霊域に、五輪塔や石仏を奉納されるようになり、その後、数百年の間に多くの数になりました。 織田信長の焼き討ちにより、七堂伽藍、木造建築物、寺宝の一切は焼失し、お寺は荒廃しましたが、江戸時代初期、天海大僧正が、弟子の行賢に指示し、一部、復興がはかられました。 五輪塔や石仏の一部はお寺が荒廃した時代に散乱、埋没しました。 昭和の初期に現在のように整備されましたが、五輪塔や石仏は、いまだに地中にあるものも多く、いくつあるのかは不明で、数は無数にあるという意味を込めて、八万四千とも表現されます。
(御本尊は「聖観世音菩薩(秘仏))、石塔寺パンフレットより)

山 門 本 堂
本堂入口 本堂内部
本堂前庭 「阿育王塔」への石段(158段)
阿育王塔(三重石塔)(重文) 宝塔(重文、左)、五輪塔(重文、右二基)
阿育王塔付近の石仏群 八十八ヶ所への石仏群
鐘 楼 石塔石仏群

(苗村神社:滋賀県竜王町)
ここ竜王町は東に雪野山、西に鏡山の二つの龍王山に囲まれ、万葉の昔から多くの歌人が訪れた自然豊かな地。この鏡山の東麓に大きな鎮守の森があり、これが苗村(なむら)神社の境内である。近郷一帯33ヵ村の産土神(氏神)として信仰を集める当社は、「延喜式」神名帳に名を連ねる式内社で社殿の多くが国宝や重要文化財に指定されている。苗村神社楼門(国重文)は茅葺屋根で、背後の森とあいまって如何にも荘厳さを感じさせる佇まいで、その威容に圧倒される。建立年代は明らかでないが、蟇股の輪郭部などから応永年間(1394〜1427)の造営と考えられている。構造は三間社一戸楼門入母屋造の茅葺で、この地方では最大規模の和様を基調とした遺構である。創建以来朝廷の恩顧を受けてきたが、天文5年(1536)後奈良天皇は当社に「正一位苗村大明神」の勅願を下賜された。その勅願は現在楼門正面に掲げられている。
主神・祭神は西本殿(国宝)が那牟羅姫神(なむらひめのかみ)・国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、東本殿が那牟羅彦神(なむらひこのかみ)・大国主神(おおくにぬしのかみ)・素盞鳴尊(すさのをのみこと)である。
楼門をくぐると正面にどっしりと落ち着いた拝殿が南向きに配置され、その奥に西本殿(国宝)が鎮座している。西本殿は社蔵の棟札(国宝)から徳治3年(1308)に再建されたと考えられている。構造は三間社流造で前面は一段低い床張り、菱格子を入れて前室を作り、更に一間の向拝を出し屋根を桧皮葺とした形式は総体的に鎌倉時代後期の特質を現している。特に左右相称の透彫りを施した正面二個の蟇股は美しい。また殿内の厨子(国宝)は小規模で簡素ながら手法は優れたものと言われる。なお境内社として、西本殿に向かって左に八幡社本殿(国重文)、右に十禅師社本殿(国重文)がある。いずれも一間社流造で屋根は桧皮葺、室町時代の建立と考えられている。当社由緒略記によると、西本殿は平安時代の969年、大和国芳野金峯山に鎮座していた国狭槌尊がこの神域の西の方に遷座されることになり、社殿を造営しここに鎮座されたものとされている。
楼門を入ったすぐ右側に神輿庫(国重文)がある。桁行4間、梁間2間、切妻造りの軽快な建物で、正面と北側面に各一箇所の出入口があるほかは板壁の簡素な外観である。社蔵の文書によると天文5年(1536)に正一位の神位を受けた時、勅使の装束着替え用の仮殿として建立され、のちに神輿庫に用いたものとされている。全国的には類例のない貴重な遺構である。
神仏混合時代の名残からか境内南側の隅に不動堂があり、堂内には不動明王立像(国重文)が安置されている。一木彫で像高96.9p、一般の不動明王は直立不動の姿勢であるが、この像は太い眉の間にシワを寄せた顔を左に向け、更に上体をひねった動きのある像になっている。
楼門を一旦出て前を通る県道を渡った所が東本殿境内である。鬱蒼と生い茂る樹木の中、参道を進む厳かな雰囲気の中に東本殿(国重文)が鎮座している。簡素な社殿であるが、向拝の蟇股の彫刻は優れた物で室町時代のものと考えられている。
苗村神社では、かっては毎年9月5日に氏子33ヵ村列座の大祭が行われていたが、1599年にこれを改め、現在は33年に一度の式年祭(33年祭)になっている。前回は1982年(昭和57年)10月に行なわれ、次回は2014年(平成26年)の開催となっている。(「琵琶湖の風物詩」より)

楼 門(重文) 拝 殿
西本殿(国宝)、右は十禅師社本殿(重文) 東本殿(重文)
左からの西本殿、左は八幡社本殿(重文) 拝殿と楼門
神輿庫(重文) 不動堂(木造不動明王立像は重文)


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