殺生禁制の令
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時は平安の世、白河院(1053〜1129)の御時のことです。

天下に殺生禁制の令が出されたので、国内には魚鳥の類は絶えてしまいました。

その頃、年老いた母を抱えた僧がいました。

その母は、魚がなければ食べ物を食べないので、日数が経つにつれて老い弱り、

いよいよ命も危うく見えていくのでした。

僧は、魚を尋ね探し回ったのですが、手に入れることはできません。

僧は思い余って、魚の取り方も知らないけれども、桂川の辺りに行き、

衣にたすきをかけ、鮠(はや)を1〜2尾捕らえました。

しかし僧は、殺生禁制令違反で役人に捕らえられ、院の御所に連れて行かれました。

「殺生禁制は世に知れ渡っているというのに、僧衣を着たままで禁制令を犯すのは、

罪多く逃れることの出来るものではない。」

そう役人に問われて、僧は涙を流しながら答えました。

「天下に殺生禁制の令が厳重に行われていることは、十分承知しています。

この殺生禁制の令がなかったとしても、僧の身でこのような行動をすることは、

許されるべきではありません。ただし私には、私一人を頼りとする老いた母がおり、

その母は、魚がないと食べ物を口にいたしません。

しかし、殺生禁制の令により魚鳥の類がなくなってしまったため、

母の身は弱りきっているのです。罪に処せられることは覚悟の上でのことです。」

さらに僧は続けて語りました。

「ただし、この捕った魚は今さら逃がしたとしても、生き返るとは思えません。

我が身をしばらく許していただけますなら、この魚を母の所へ届け、

美味しく味わってもらい、その後に如何なる罰にでも服したいと思います。」

これを聞いた人は涙を流しました。

白河院も、この話を聞いて孝養の深さに感じ入り、この僧を許しました。

そして様々な物を馬車に積んで与えてやり、

「足りない物があらば、さらに申し出るように」

と仰せられたのでした。



参照、 「十訓抄」 六ノ十九


桂川 桂川


白河院 1053〜1129
第72代天皇
院政を開始、強大な権力を保持した


殺生禁制の令 この禁令は大変厳しく、網8823帖を焼き、 鵜を放ち、鷹犬を逃したという
この禁令は、院が崩御するまで続いた


十訓抄の教え




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