菟裘賦 (ときゅうのふ)
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時は平安中期。

中納言源伊陟みなもとのこれただは、 兼明親王かねあきらしんのうという詩文に大変優れた人の子息でした。

ある日、村上天皇が側近の源伊陟に尋ねました。

「亡くなった故兼明親王は、日頃何をしておられたのか?」

伊陟は答えました。

うさぎかわごろもとか申すものを 常に手にしておりました。」

それを聞いた村上天皇は言いました。

「きっと、そなたが伝え持っているだろう。一度見せてもらいたい。」

伊陟は「たやすいことです」と言って、

封印されていた一巻の文を持参してきました。

村上天皇は、毛皮のようなものだと思っていたのですが、文の巻物でした。

巻物を開いてみると、次のようなことが書かれている部分がありました。

「君主は暗君で、臣下はへつらいばかり。

何かを訴えたくても、訴えるべき場所もない。」

伊陟は字が読めないので、文の中身も知らずに持参していたのです。

優れた才芸の持ち主の子息でも、このような人もいるのです。

「菟裘賦」という書物の名さえ知らなかったのでしょうか。



参照、 「十訓抄」 十ノ一


菟裘賦 ときゅうのふ
兼明親王が藤原氏の謀略によって、政権から遠ざけられた恨みを綴ったもの
後世に影響を与えた


源伊陟 みなもとのこれただ
938〜995
平安中期の貴族


兼明親王 かねあきらしんのう
醍醐天皇の皇子
詩文に優れ、左大臣になるが、藤原兼道の讒言により失脚
左大臣を追われたときに、菟裘賦を作る


村上天皇 兼明親王の弟
第62代天皇
醍醐帝と村上帝の時代を延喜・天暦の治と呼ぶ


十訓抄の教え




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