| 北野天満宮・・・菅原道真 (飛び梅伝説) |
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時は、平安初期。
この頃、藤原一族が政権を握っており、 宇多天皇は、そのことを快く思っていませんでした。 「なんとか藤原氏の勢力を削ぐことが出来ないだろうか」 宇多天皇は考えました。 そこで思いついたのが、藤原氏に対抗できる人物の起用でした。 その切り札として選ばれたのが、菅原道真です。 道真は、宇多天皇という後ろ盾もあり、政治の中枢で活躍します。 しかし当然のことながら、藤原氏の強い反発をかうのでした。 寛平6年(894)、菅原道真は遣唐使の廃止を上申します。 「遣唐使は、海難等による危険が多く無事戻ってくるのは、 半分にすぎません。 まして現在の唐は国力も衰えており、 派遣する価値は、もはやないでしょう。」 宇多天皇は、道真の進言を受け入れ、遣唐使を廃止したのでした。 このような道真の活躍に、藤原氏の反感は頂点に達します。 なかでも道真の政敵である藤原時平は、道真追い落としの機会を 窺い続けます。 寛閉9年(897)、宇多天皇が醍醐天皇に位を譲り出家しました。 藤原時平は一計を案じ、醍醐天皇に上申します。 「菅原道真は自らの野心のため、醍醐天皇に代わる天皇を立てようと 企てています。」 時平の策略は成功し、道真に突如の人事異動が発令されます。 それは、「菅原道真に九州大宰府権帥を命ず」 というものでした。 宇多法王は道真左遷を聞き、抗議しに内裏に駆けつけたのですが、 内裏の門は閉ざされたままで、中に入ることすら出来ませんでした。 道真は弁明する機会すら与えられず、妻子とは別離となり 大宰府へと下っていきました。 道真は都を去るにあたって、歌を詠みました。
好きだった庭の梅の花に、別れを告げたのです。 道真が都へ戻れることは二度とありませんでした。 都にいた妻の死をはるばる大宰府で聞き、濡れ衣を晴らせないまま 大宰府にきて2年後に、道真はその生涯を閉じました。 一説には、自分を陥れた者を怨みながら失意のうちに死んだとも、 一説には、天も人も怨まず、ひたすら国家の平和と天皇の無事を 祈りつづけていたともいわれています。 もとより、真偽のほどは知るよしもありません。 道真が好きだった庭の梅は、道真を慕い、はるばる大宰府まで 飛んできて根をおろしたと伝えられています。 嘘か本当か、この話には続きがあります。 「第二部・道真怨霊伝説へ」 |
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