野 狂  (やきょう)
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時は平安初期、小野篁おののたかむらという人物がいました。

彼は、仏心、孝養、友情にあつく、学問の才に大変優れていました。

また、反骨精神の持ち主であり、己の信念のまま発言し、行動しました。

そのため世に受け入れられない面があり、世の人々からはこう呼ばれていました。

「野狂」 (野は、姓である小野の略)。

承和元年(834)のこと、小野篁は遣唐副使に任命されました。

1度目と2度目の渡航は大風のため失敗。

3度目の準備をしていた838年のことです。

同じく遣唐使として渡航の準備をしていた藤原常嗣ふじわらのつねつぐの乗る 船が破損したため、

その破損した船と篁の乗る予定の船を取り替えよ、との勅命が出されたのです。

篁は、この勅命に反発し、破損した船での渡航を拒否したのです。

さらに「西道謡」を作って、疑問を感じていた遣唐使制度を批判したのです。

そのため篁は隠岐遠流の勅をうけ、隠岐に流されることになりました。

篁は、難波(なにわ)より、隠岐へ向かう船に乗り出で立ちた時、

都の知り合いのことを思いながら、一首詠みました。

「わたの原八十島やそしまかけて漕ぎいでぬと人には告げよあまの釣り船」

大海の多くの島々を目がけて、今、船出して行ったと、
都の知り合いに知らせておくれ、釣り船にいる人よ、
という意味


途中、明石で一泊したとき、沖行く船が島に隠れるのを見て、一首詠みました。

「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれ行く舟をしぞ思ふ」

ほのぼのと夜が明けてゆく明石の浦の朝霧の中を、
今にも島陰に隠れようとする舟の心細さを今日は感じることだろう、
という意味


このようにして篁は、隠岐へと流されて行きました。

しかし約1年余りで、篁は召喚されたのです。

その後、篁は、蔵人頭、参議、左大弁を歴任し、不正を正し、

風俗を矯正するなど、手腕を振るったのです。




参照、「今昔物語」
小野篁、隠岐の国に流される時和歌を読む語


小野篁 おののたかむら
802〜852
博識、学才、詩才ともに群を抜いて優れていたと言われている
直情径行、反骨精神の強さから「野狂」と呼ばれた
わたの原・・・の歌は、百人一首にも採られている

百人一首11番  参議篁
わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人には告げよあまの釣り船

百人一首

小野篁の世界





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