道長の幸運
京都伝説へ
TOPへ





時は平安中期、長徳元年(995)のことです。

世の中は、疫病の大流行のため落ち着きをなくしていました。

大臣・公卿の多くが病死し、四位・五位程度の人で病死した者は、

数えきれないほどでした。

まずその年には、流行病というわけではなく寿命のためですが、

閑院大納言(藤原朝光)が3月28日に、

中関白殿(藤原道隆)が4月10日に亡くなりました。

流行病で亡くなった主な人では、

一条左大将(藤原済時)が4月23日に、

六条左大臣殿(源重信)、粟田右大臣殿(藤原道兼)及び

桃園中納言殿(源保光)の3人は、5月8日に一度に亡くなりました。

山井大納言(藤原道頼)は6月11日に亡くなりました。

このように大臣や公卿が3箇月ほどの間に7人も亡くなるとは、

本当に希有なことといえるでしょう。

それもただ、入道殿(藤原道長)の幸運が絶頂を極めるために

起こった事かもしれません。

もし亡くなった殿方が寿命をまっとうし、順序通りであったならば、

入道殿(藤原道長)が栄華を極めることはなかったでしょう。

道長の幸運は、そのことだけではありませんでした。

もし、帥殿(藤原伊周)が優れた人物であったならば、

帥殿(藤原伊周)が天下の政治を執り行ったことでしょう。

帥殿(藤原伊周)には、帥殿の父(藤原道隆)の病気の間、

天下執行の宣旨が下りました。

しかし、幼児のような帥殿(藤原伊周)に、天下の政治を執り行うことは

できまいということで、関白職は粟田殿(藤原道兼)に移りました。

「瓜(うり)を請いたければ、まず器を準備せよ」という諺がありますが、

本当にそのとおりでしょう。

粟田殿(藤原道兼)は、関白となるべき順序だったのですが、

その粟田殿(藤原道兼)も夢のようにあっという間に亡くなったしまいました。

その時、入道殿(藤原道長)は大納言中宮大夫と呼ばれており、

30歳で将来に大変期待のもてる年齢でした。

入道殿(藤原道長)は、5月11日に関白の宣旨を受け、

栄華の極める道を歩んで行くのです。


藤原済時 ふじわらのなりとき
師尹の二男
941〜995
藤原朝光 ふじわらのあさてる
兼通の三男
951〜995
藤原道隆 ふじわらのみちたか
兼家の長男
953〜995
藤原道兼 ふじわらのみちかね
兼家の三男
961〜995
藤原道長 ふじわらのみちなが
兼家の五男
966〜1027
藤原道頼 ふじわらのみちより
道隆の長男
971〜995
藤原伊周 ふじわらのこれちか
道隆の二男
973〜1010

摂関政治

平安年表



参照、 「大鏡」


京都伝説へ
TOPへ